豪華ではあるが決していやらしくない、品のよい一級品のソファは、抜群のすわり心地である。さすが領主の家の調度品、とアルヴィンは感心する。
以前以上にこういった類に目がいくようになってしまったのは、商売を始めたがゆえの職業病というものかもしれない。
幼い頃にはこの場所と似た環境を当然のように享受していた身であったため、目利きの基礎ができているのはありがたいことである。思えば、ずいぶんと贅沢な暮らしをしていたように思う。
しかし、いまはそんな遠い過去の遺産に思いを馳せるよりも、小鳥が囀るように喋る少女の話を聞くことが肝要だ。
なにせ、ちゃんと身を入れてきかなければ、すぐに膨れてしまう。くるくると美しく変わりゆく万華鏡のように、彼女は感情を表すようになったのだから。
アルヴィンは、ゆっくりと視線をめぐらせる。
自分と同じく、二人掛けのソファの端でちょこんと座った美しい少女を、頭の先からつま先まで、流れるように目を動かして追いかける。
くしけずられて艶やかな金色を揺らし、翠の瞳を細めながら、感極まったように胸の前で手を組んでいるさまは、人形のように可愛らしい。
「すごく、すごく綺麗だったんです! アルヴィンにもみてもらいたかったです!」
「そうか、そりゃいいもんみたな。よかったなエリーゼ」
「はいっ」
頬を薔薇色に染めて、はしゃぐエリーゼをみつめながら、アルヴィンもまた瞳を細める。
ちらりと視線を送れば、綺麗に磨かれたテーブルの向こうにいる領主も微笑んでいた。ちなみに、商売の都合でこの街を訪れたアルヴィンを、たまたま見かけたからと半ば強引につれてきたのはこの人物である。
ドロッセル・K・シャール。亡き兄の地位と意志を継いだ彼女の評判は、リーゼ・マクシアに名高い。
そんな彼女が後見人となったエリーゼは、どこか陰のある幼子だった面影は薄れ、ずいぶんと年頃の女の子らしくなった。
そう。
先日、街角でみかけた結婚式の様子を、アルヴィンに楽しげに語るくらいに。
「それで、真っ白なドレスを着たお嫁さん、すごく幸せそうに笑ってて……!」
学校からの帰りに、学友とともにその光景に魅入っていたのだろう。きらきらとした思い出を語る少女が眩しい。
「純白のウエディングドレスが、青空に映えていてとっても素敵でした!」
く、とアルヴィンは笑いながら、引き寄せられるように、手を伸ばす。そして、金色の髪に指をとおすようにして、エリーゼの頭を撫でた。
「アルヴィン?」
急に触れられたというのに、身を竦めて嫌がるそぶりもない。裏切り続けていた頃に向けられた、こちらのすべてを訝しむような瞳もない。エリーゼはただ、不思議そうにしている。
アルヴィンの行動には、とくに理由がない。つまり無意識にやってしまったということで、だからこそ性質が悪いといわれても仕方ないものだ。
「ああ、いや。なんていうかさ、いつか、エリーゼもそんな風に結婚して、誰かと家族になって……幸せになるんだろうと思ってな」
妙な後ろめたさを覚えつつ、エリーゼのくるべき未来を予想する。それは、自分の意思で言葉にしたもののはずだが、寂寥感が胸を満たす。きっとこれは、可愛がっていた妹が嫁にいくときの兄の心境というものなのだろう。
「え?」
一方、エリーゼはどうやらそこまでは考えていなかったらしい。ただ単に、綺麗なものに憧れていただけだったのだろうか。
だが、こういわれて悪い気がする女はいるまい。にや、とアルヴィンは笑った。
「きっとすっげぇ綺麗だろうぜー。なにせ姫様は美人だからな。いまから楽しみだ。お相手の男が羨ましいねえ」
「そうね、そのときには一緒にドレスの生地とレースを選びましょうね。もちろんベールもブーケも、シャール家の威信にかけて素晴らしいものを用意するわ!」
ドロッセルもまた乗り気である。可愛い妹分であるエリーゼの幸せを、願ってくれているとわかる楽しげな口調。買い物好きの性分も騒いだろう。
が、当のエリーゼには、いまいちピンときていない。何かを思い浮かべるように目を上へと彷徨わせている。
そして少しずつ、その顔が強張っていく。顔色が変わっていく。
華奢な全身から滲み始める負の気配に、アルヴィンは焦り始めた。
「エリーゼ?」
なにかまずいこといったか俺?
思い返してみても心当たりがない。とりあえず、これが悪かったのだろうかと、あわてて手を引っ込める。む、と眉がよけいに寄せられたような気がして息を飲む。
エリーゼが、淡い紅色の小さな唇が動かすのを、まるで死刑宣告を待つ罪人のような気持ちで、アルヴィンは見つめた。
「……結婚したら、お嫁さんになるってことですよね。お嫁にいくってことですよね……『誰か』のところに」
「そ、そうだな。どこにいくのかは知らないが、もしかしたらここじゃないところに嫁にいく可能性だってあるだろうな」
なあ、と助けを求めるようにドロッセルに話を振る。
「そうね。そうなったら寂しくなるけれど……。でも、エリーの幸せのためですもの。仕方ないわよね」
「だよな」
上品に微笑んで、優雅にティーカップを傾ける女領主に同意するように、アルヴィンは頭を上下に振った。
ほら、やはり自分の考えは世間一般的にも問題ない。なのにどうして、エリーゼの機嫌は悪くなる一方なのだ。
長い睫毛を伏せたエリーゼが、ぎゅと近くにあったクッションを掴み、引き寄せる。
「わたしが、お嫁さんにいったら――アルヴィン、寂しいですよね?」
「は?」
念押すように尋ねてくるエリーゼは、どこか必死にみえる。
一瞬意味がわからなかったが、アルヴィンの脳裏に、忘れられない一夜の出来事がよみがえる。
それを思い出して やれやれとアルヴィンは肩を竦めた。なにを言い出すかと思えば。こういうところは、まだまだお子様思考である。
かつての「仲良くしてあげます」宣言に、エリーゼは誠実すぎるのだ。友情と恋情を天秤にかけることに、躊躇い、戸惑っているのだろうと、アルヴィンは推測した。
そんなこと、気にしなくてもいい。というか、さすがの自分でも、既婚相手と遊び歩くのは気が引ける。
「それはそうかもしんねえけど、それはエリーゼのお相手に悪いだろ。結婚すればいまほどには遊べなくなる。子供でもできれば、てきめんだ。寂しいなんていってらんねーよ」
「――」
エリーゼが、むっつりと黙り込む。イブニングエメラルドの瞳が翳る。
「そうなったら手紙だって、今ほど頻繁にはしづらくなるだろうな。なにせこんなにいい男と、可愛い奥様が文通しているなんて知れたら、旦那様に怒られちまう」
ははは、と明るく茶化すように笑い、なんとかうやむやのうちにこの話を終えて、次の話題にうつろうと考えるアルヴィンの前で、エリーゼがそっぽをむいた。
「……私、結婚しません」
「はあ?」
「まあ」
いきなりな言葉に、アルヴィンは口をあけ、ドロッセルは驚きに口元へと手を添えた。
「だってジュードやレイアやローエンや――アルヴィンに、会えなくなるのは、いや、です。お手紙もできないなんていやです」
かつて常に傍にいた相棒のぬいぐるみにしていたようにクッションを抱きしめ、ふくれっ面のエリーゼが言う。
「いやいやいや」
顔半ばまで、柔らかなクッションに埋もれさせ、こちらを睨みつけるエリーゼに、アルヴィンは身を乗り出した。
「エリーゼ、前に将来はお嫁さんになるのが夢とかいってなかったか? それはどうしたんだよ」
「いいんです! お嫁になんていきません!」
意固地になっているようにしかみえないエリーゼが、ぐす、と鼻を鳴らす。じんわりと滲む涙に、アルヴィンは困り果てた。
「おい、よーく考えろ、姫様。好きな男ができたら結婚して、ずっと一緒にいて、家族ができて……その居場所が、一番大事になる。そういうもんだろ」
アルヴィンにとっては、母と父と自分が笑っていたころの記憶が基準であるが、それは幸せの理想像で間違いないはずだ。人の幸せはさまざまだけれど、できればエリーゼにはそんな家庭を築いてほしい。
「アルヴィンに、わかるんですか」
じっとりとした視線がクッション越しに投げかけられる。アルヴィンは呻いた。確かに、三十路手前でいまだ独り身の自分にいわれても説得力はあまりないだろう。
「いや、俺は……よく、わかんねぇけど」
そもそも、自分は男である。女の立場からの気持ちはわかるわけもない。しかし世間一般ではそういうものではないのか? いままでいろんなことをしてきたが、常識といわれる類のことはおおむね理解しているつもりなのだが。
「……嫌、です」
ぷい、とエリーゼが頬を膨らませる。
「わたし、みんなが大好きです」
「いやね、そういう好きと惚れたってのは違うんだって」
「どう違うんですか?」
「え……いやー……それは……」
むむ、とアルヴィンは眉を寄せた。
そういえば、どう違うのだろう。なんと応えるべきなのだろう。
というか、いつのまにこんな話になってしまった? エリーゼの他愛ないおしゃべりに付き合っていただけだったのに、なんでこんなに追い詰められてんの、俺。
言いたいことはあるはずなのに、言葉という形に定められず、アルヴィンは腕を組む。
そのとき、くすくすと堪えきれないといわんばかりの、軽やかな声が周囲に花開いた。
思わず顔をそちらに向けると、ドロッセルが笑っていた。
エリーゼもついつられたらしく、同じように笑う彼女をみて怪訝そうな顔をする。
そうしてドロッセルが、目じりに浮かんだ涙を細い指で拭いながら、言う。
「エリーは、アルヴィンと結婚したいのよね?」
笑いすぎて引きつった声が紡いだのは、予想だにしないものであった。静寂が、一瞬だけ場を支配する。
「ド、ドロッセル!」
我を取り戻したらしいエリーゼが、勢いよくたちあがる。
おいおい、と口元をひきつらせながらエリーゼのほうを向く。きっと怒っていると思った。
「とんでもねーこというお嬢様だな。まさかそんなこと、あるわけ……」
「……」
ねーよなエリーゼ、と続けたかった声は、喉を通る前に焼け焦げるようにして消えた。
視界に、耳まで真っ赤になって黙り込むエリーゼが映ったせいだ。
その様子は、親に自分の秘密を暴露され、身動きできなくなった子供のよう。
えーと、つまり。
「つまり、エリーってばお嫁にいくことにアルヴィンがなにもいわないから寂しくて拗ねちゃったのよ。エリーが『誰か』のところにいってもいいのかーって。そういうことよね?」
「ドロッセル!」
アルヴィンがよく考えるまでもなく、どことなくティポを彷彿とさせる口調で、ドロッセルがエリーゼの心境を披露した。
それが間違いないということは、慌てふためき、抱えていたクッションを床へと落としたエリーゼをみれば、わかるというもの。
「ちがったかしら?」
「~~~!」
ドロッセルのおっとりとした確認に、エリーゼが唇をわななかせて俯いた。ぎゅう、とスカートを握りしめている。
やがて絞り出される、か細い声。
「だって……アルヴィン、五年後にっていってました……」
あ、とアルヴィンは間の抜けた声を漏らした。
ハ・ミルで初めてエリーゼと出会って、そのあとそんな会話をミラとジュードも交えて、したような気がしないでもない。というか、した。
だからといって、それが結婚にどうして結びつく? 真剣に受け取るような内容でもあるまい。
「……そ、それに、それならジュードだってレイアだってローエンだって、いつだって遊びにきてくれます。だってみんな、友達、ですから」
だから、と口ごもるエリーゼに、アルヴィンは呆然とするしかない。
ああ、ここは『冗談だったんだ本気にするなよ』で済ますべきなのか、それとも真剣に向きあって考え直せというべきなのか? とりあえず、冗談だったといったならば、二人がかりでフルボッコにされそうな予感がした。
「よかったわね、エリー。そうすれば、なにもかも解決するものね」
「……はい」
華やかに笑いながら、ぽんと両の手を重ねあうドロッセルに対して頷いたエリーゼが、ちらちらとアルヴィンに視線を送ってくる。
「アルヴィンもそれでいいでしょう?」
「いやいや、なにいってんの、この領主様は……!」
なにこれ、誰か説明して。っていうか、助けて。つーか、俺の意見はきいてくんねーの?
女二人に包囲されたアルヴィンは、頭を抱えた。
と。
静かなノックが響いた。びく、とアルヴィンは肩を震わせる。部屋の前まで人がきていることに気付かなかったとは、元傭兵として不覚である。
すい、と音もなく扉が開き、ローエンのあとを継いだという執事が姿をあらわす。皺ひとつない執事服に身を包み、胸に手を置き会釈する。
「ドロッセル様。そろそろ執務にお戻りになっていただく時間です」
「あら、もうそんな時間? 楽しいと時間が流れるのは早いって、ほんとうね」
目を丸くしたドロッセルが、次いで残念そうに肩を落とす。
「ごめんなさい。これで失礼しますけど、どうぞゆっくりしていってくださいね」
「あ、ああ」
「お仕事頑張ってくださいね」
「ありがとう、エリー。いってくるわね」
手を振るエリーゼに笑顔を返し、二人分の視線に見送られたドロッセルは、執事を引き連れて優雅に部屋をあとにした。
そういえば、このカラハ・シャールの政務はあの細い肩に重く圧し掛かっている。いつまでもここでのんびりしているわけにはいかないのだろう。
そして残されたのは、いまだに顔の赤いエリーゼと、少し頭痛のしてきたアルヴィンの二人だけ。
「えっと、あの……」
じ、とエリーゼがアルヴィンをみつめてくる。期待しているような、怖がっているような、そんな瞳に心がざわつく。
アルヴィンは頬をひっかき、そのまま手を伸ばした。ちょっと、この夢見がちなところに現実を突きつけるべきだろう。
逃げればそれでよし、逃げなければ――さて、どうする?
一度唇をきつく引き結び、なるようになれと腹をくくる。
「あのさ、わかってんの? 俺と結婚するっていうことは、さ」
「きゃっ」
掴んだ細い腕をひく。倒れこむように自分の膝の上に落ちてくるエリーゼの、なんと軽いことか。アルヴィンは、エリーゼの耳を隠す髪を優しくかき分けると、低く囁く。
「こういうことを、俺とするってことなんだけど?」
そっと、体温を重ねるというには幼すぎる行為で、そっと唇を耳たぶに触れさせてみる。
「えっと……お付き合いってこと、ですよね……?」
ぴくん、と身体を震わせても、エリーゼは逃げない。
「んー、まあ……そゆこと」
ちょっと言いたい事とは違うけれど、あながち間違いではない。ゆっくりと顔を覗き込む。ほう、と蕩けた顔をしたエリーゼのそよ風のような吐息が、アルヴィンの頬に触れて溶けた。
たったそれだけのことなのに、抑え込まなければどうにかなりそうな衝動が、腹の底からこみ上げる。
どうやら、思い知らせてやろうと思ったはずなのに、むしろアルヴィンのほうがエリーゼという存在を思い知らされてしまったようだ。
離すのは惜しいぬくもりと、やわらかさ、しなやかさ。
ああ、出会ったときにいったとおり、エリーゼは美人になっていく。それはもう、アルヴィンの好みど真ん中へとまっしぐらである。
当のエリーゼは、そんなことを思われているとは、まったくもって気づいていないだろう。
「わかって、ます」
いろんなことを考えられるほどの間をおいて、こくん、と恥ずかしげにエリーゼが頷く。その行動の意味を都合よく解釈しそうになるのを堪えるアルヴィンの目の前で、長い睫を泳がせたあと、そっとエリーゼが瞳を閉じる。
「っ……!」
ぶわ、とアルヴィンの体温があがり汗が噴き出す。
わずかに震えながら、頬を薔薇色に染めて。自分を待っているエリーゼはそりゃもう、可愛い。たまらなく、可愛い。抗えない魅力がそこにはあった。
このませガキめ。無防備な顔しやがって、どうなってもしらねえぞ――!
意識せずに喉を鳴らしたあと。そろそろと、まるではじめての口づけをする少年のように、アルヴィンは唇をよせていき――あとわずかなところで、踏みとどまる。
これ以上先に、進みたいような進みたくないような。進むべきのような進まざるべきのような。
悩んだ数秒を訝しんだのか、薄く瞼をあげたエリーゼが、不満そうに唇を尖らせる。
「しないんです、か?」
「……してもいいわけ?」
かつてはこの言い方で、ジュードを煙に巻いたこともあったというのに、エリーゼには通用しないらしい。
「女の子にそんなこときくなんて、デリカシーがない、です」
そうかもしれない。でも、やはり――。
はー、とアルヴィンは息をはきだし、ぱっとエリーゼを離した。
「やっぱやめやめ」
「……!」
細い身体を掴んでいた手を、降参、といわんばかりに顔の両側にあげて言う。
「絶対あとで後悔する。そういうのは、心底惚れた相手にしとけ。ただ『大好き』っていうんじゃ、だめだろ」
どの口でそんなこといってるんだ、とアルヴィンを知る者がこの場にいたら、盛大につっこまれそうな台詞である。
アルヴィン自身も、自分がこんなことを言うなどとは夢にも思っていなかった。
と、次の瞬間、さらに予想だにしない事態が起きた。
「!」
ドフ、とみぞおちにめり込む小さな手。
「いてっ」
鍛えた体躯のアルヴィンにとってみれば、ささいな衝撃だ。だが、エリーゼに殴られたという事実に対する痛みは確かなものである。
なにするんだ、と顔を顰めて怒鳴りつける前に、もう一度、小さな手がめりこんだ。
「意気地なし!」
「うっ」
「アルヴィンの弱虫泣き虫、甲斐性なし!」
ぼす、ぼす、と華奢な手とともに容赦のない言葉が繰り出されては、部屋の中に溶けて消える。
エリーゼが憤っているからこその言動だと理解はできるが、かといってそんな台詞を言い出すような女の子ではなかったはずで、その点が不可解すぎる。
「おまえっ、どこでそんな言葉覚えたんだよ?!」
「レイアがいってました!」
交互にアルヴィンの腹を叩き続ける手を抑え込み、叫ぶように問いかけると、あっさりと元凶の名が知れた。
「レイア、今度あったら覚えとけよ……」
ル・ロンドにいる、あの快活な少女の顔を脳裏に浮かべ、仕事であの島にいったなら絶対説教食らわしてやると心に誓う。まったく、いたいけなエリーゼになにを教えているのか。
「アルヴィンのうそつき……!」
と。
ふわ、と髪をなびかせて、エリーゼがアルヴィンの胸に全身で落ちてくる。
「っ、エリ――」
多少驚いたが、しっかりと受け止めれば、甘い花のような香りが包み込んできた。たったそれだけなのに、いい年をした男の心臓が、ずきりと痛くなった。
子猫が親猫にするように、アルヴィンの胸元でエリーゼが身じろぎする。
「……わたし、ウエディングドレスが着たいです。アルヴィンの隣で、笑いたいです。いつか、って思ってたのに……うそつき……!」
静かな、だが確かな情熱をはらむ訴えを聞きながら、ばったりと後ろに倒れこみたくなった。
どうやらエリーゼの中では、あれはアルヴィンなりのプロポーズ的なものとして解釈されていて、あの言葉をいままで信じてきたということらしい。
なんということか。それは、そう信じるだけの恋心をエリーゼが育てていたということにほかならない。
一体、いつからだろう。
いや、ほんとうはわかっていたのではないか。
アルヴィンはわずかに唇をかみしめた。
仕事の合間に会うたびに、笑顔で出迎えてくれるエリーゼの、その瞳の奥にあるものに、人の顔色をうかがいながら生きていた自分が気づかぬわけがない。違うと、そんなはずがないと、無意識に切り捨てていただけではないのか。
そっと、エリーゼの手首を解放し、そのまま手を細い体へと回す。
こんな男に健気なことを言うエリーゼの気持ちと、それを嬉しく思ってしまう自分自身の気持ちも一緒くたに抱きこんで、アルヴィンは息を吐き出した。
「……姫がもうすこし大きくなったら、な。そのときにもう一回考えさせてくんない?」
エリーゼの気持ちが、ずっとそのままでいたなら。否、いまよりもっと育っていたなら。そして、なによりもアルヴィンが、目をそらさずにその気持ちと向き合うことができるようになっていたなら。そのときに、また考える。
これは完全な逃げ口上。いっときの時間稼ぎ。
だが、それでも嬉しいのか、顔をわずかにあげたエリーゼが微笑む。
ふんわりと上気した顔、柔らかに細くなる瞳、小さな唇がついと笑みを刻む。
ああ、いつのまに、こんな大人の女を思わせるような表情を覚えたのだろう。いや、そうさせているのは自分か。
「考えて考えて、いいお返事きかせてくれるんですよね?」
アルヴィンは言葉に詰まる。色よい返事以外は受け取らないと、可愛らしく高慢にいってのけるエリーゼに、今日はやられてばかりのような気がする。
「……末恐ろしいねえ、まったく――いまはこれで、勘弁してくれよ」
そっと額に口付ければ、男をたぶらかす愛くるしい妖精はころころと笑って、もう一度身を預けてくる。
ゆっくりと、瞳を閉じる。閉ざした瞼に浮かぶのは、青空に映えていたという純白の幻。
それはきっと、エリーゼの故郷に静かに降り積もる雪にも似て、この腕に抱いたあたたかな存在を美しく包み込むだろう。
もし、その光景を世界で一番近い場所でみられるとしたならば、それは幸福というほかない。
ああ、永遠を誓う色につかまってしまったのは、エリーゼなのか自分だったのか。
まあどっちでもいい。至る結末に変わりはあるまい。
アルヴィンは苦笑して、エリーゼから抗議の声があがるほど、きつく腕に力をこめた。