いってらっしゃい

Caution!!
いわゆる死にネタです。お迎えはロベリアです。無理! という方はお戻りなられることを推奨いたします。ただ、管理人は精一杯に生きた教官を出迎えてくれるのは、やはりロベリアだと思うのです。読後の苦情は一切お受けいたしかねます。

 

 

 さくり、さくり。
 短い草が生える大地を、ゆっくりと踏みしめるように歩いていく。
 空は白く、太陽と思しきものはないのに、とても明るい。
 地平線の向こうまで覆うかのような花畑。だが不思議なことに、満開に咲き誇る花々は、彼の行く先がわかっているかのようにその道を譲ってくれる。足をだすたびに、す、とその場所をあけてくれるのだ。
 おかげで、一輪も踏まずに済んでいることが、嬉しく思えた。だって、花が好きなあの子は、そのほうが喜ぶだろうから。
 やがて、小さな小川がみえてきた。
 さらさらと、透明な水を転がし続ける綺麗な川だ。色とりどりの丸い小石が敷き詰められた水底がみえる。美しい。
 その向こう岸、白く明るいこの世界の中、淡い色の花をつけた花木が一本。その傍らに、女が一人立っている。
 肩よりも上で切りそろえられた金の髪、ほっそりとした首筋、しなやかな後姿。身にまとうのは、雪のように白いドレス。その周囲に揺れる花々が、ほのかに光をはじいて輝いている。
「よお」
 すこし枯れた音で、気さくに声をかけてみる。それに応えるように、女が振り返った。
 甘く香る淡紫の花の下、困ったように女が笑った。そして、ゆっくりと頭を振る。こちらにくることを押し留めるように持ちあがる、ほっそりとした手。
 ぱくぱくと、動く唇。
 だが、そこから発せられるべき声はきこえない。透明な壁に隔たれているように、届いてこない。こんなにも、近いのに。
 ただ、その仕草と唇の動きで何を伝えようとしているのかは、察しが付いた。
 だけど。
 ひょい、と互いの間に細く流れていた小川を、軽々と飛び越えた。
 そうするな、と。女が言っていたことを、知りながら。
 ひどくびっくりした顔をみせる女の目の前に立ち、にやりと笑いかける。
 ざあ、と身を洗うように強く吹く風。それは、いままで重ねてきたものを、拭って遠くへ連れて行く。体が、軽くなる。いつのまにか、こんなにも背負っていたものがあったのだと、ようやく気付いた。
 ことり、女が首を傾ける。持ち上がっていた手は、組み合わされて腹の前に落ち着いた。
「マリクってば、もうきちゃったの?」
 どれだけ耳を済ませても聞こえなかった涼しげな声でそういいながら、女が目を細くした。仕様のないひと、とそんな言葉が聞こえてきそうな仕草だった。
「ああ、もうそろそろいいかと思ってな」
 さきほど女に声をかけた時とは違う、張りのある声でそう言って、マリクは笑った。彼女から、名を呼ばれるのは久しぶりのことで、たったそれだけのことなのに、胸の奥が震えた。
「心残りはないの?」
 その言葉に、ひょい、と肩をすくめる。
「そんなもの、たくさんあるさ」
 目を閉じれば、思い浮かぶのは、自分自身が導いてきた若い子ら。
 出会った頃からもう幾年も月日は流れ、彼らはすっかりと大人になった。
 そして、愛するものをみつけ、大切な子をなして、またその子らが子をなした。
 あとは、次代へと託すべきものばかりを抱えるようになった、大切な教え子たちの顔が次々と脳裏を過ぎった。
 彼らを導くためといいながら、実際のところそうあることで自分を保ち続けていたマリクにとって、まさに生きる標だった者たち。決して忘れることのない、仲間たち。自分をほんとうの意味で、救ってくれたのは彼らだった。
 彼らが最後に実らせるだろうものを、目にしたかった。見守りたかった。だが、それは叶わぬ願いだとも知っていた。
 自分に与えられた時間は、彼らほどに多くはなかったのだから。
「だが、これ以上君を待たせると、浮気されそうだからな」
 おどけるようにそういえば、女は心外だといわんばかりに細い腕を組んだ。むう、と潜められる形のよい眉。
「あら、私そんなことしないわよ」
「そうか?」
 自分でいっておきながら、そんなことがないことぐらい、わかっている。ただ、なんとなく、こんな言葉遊びがしたかった。久しぶりに会ったのだから。
 きっと女もわかっている。その証拠に、ふいに表情を崩したと思ったら、得意げ微笑んでくる。
「ええ。だって、あんな風にお願いされちゃね」
 きかないわけにはいかないじゃない? と、あまりにも嬉しそうに、嬉しそうに笑うものだから、マリクも同じように笑った。
「きいていて、くれたのか」
 静謐な青い氷に包まれた、自分たちの希望に一番近い場所で眠る彼女に再会したときに、願ったこと。届けばいいと、思っていた。それと同じくらい、無理だろうとも、思っていた。
「もちろんよ」
 そう、笑って大きく頷く女に、マリクは手を伸ばした。無言で引き寄せる。その体は、ひどく軽い。有無を言わせず、抱きしめる。
 春の陽射しのような金の髪に鼻先をうずめれば、ふわりとリラの花の香りがした。
「――ずっと、こうしたかった。君を、抱きしめたかった」
 マリクの胸に顔をうずめた女が、小さく頷く。
 その細い体を深くかき抱いて、マリクは眉根を寄せた。
 胸が、苦しかった。ようやく言えるという喜びに、全身が震えた。

「ロベリア」

 精一杯に、その名を呼ぶ。
 美しい花の名を持つ、恋しいたったひとりの君よ。

「愛している」

 そう告げたとき、背に回っていたロベリアの手が、ぎゅっとマリクを抱きしめた。
 あのとき、こうしてこの心の全てを伝えていたら。こんなにも、遠回りすることはなかっただろう。
 もしかしたら、彼女と一緒に国を出ていたかもしれない。生まれた国ではない国で、小さい家に住んで、子をなして、幸せにくらしていたかもしれない。
 もしかしたら、彼女と一緒に国を改革に導くことができていたかもしれない。国を変え、人々の生活を少しでも豊かにするため奔走していたかもしれない。
 だが、それは実際にはありえなかったこと。生きているうちに、かなうことなんて決してなかった、ゆめまぼろし。
 だからこそ。
「これからは、オレとずっと一緒にいてほしい」
 そう願うことの大切さと、伝えることの意味を知った。
 小さな了承の言葉が、マリクだけにきこえるように、ロベリアから返される。
 ありがとう、と同じようにロベリアだけに伝えたマリクは、顔を上げた。
 ふと、ふりかえれば、背後には大きな川が横たわっていた。
 それは、さきほどマリクがなんなく飛び越えた、小川だったもの。越えれば、こうなるとなんとなくはわかっていた、あの世とこの世の境目たるもの。
 静かに眺めていれば、川幅は少しずつ開いていく。
 遠ざかるその向こう岸に、杖をついた白髪の老人が一人で立っている。
 満足そうな笑顔を浮かべて、ただ静かに立ち尽くすそれは、さきほどまでの自分だ。あの世ではないこの世で、精一杯に、マリクが生きた証を刻んだ姿。
「じゃあな」
 手をあげて、短く別れを告げる。遠い向こうで、かすかに頷いたように見えたのは、気のせいだろうか。
 やがて、大河となった川は、その先が見通せなくなった。
 もう、戻ることなどできようはずもない。戻るつもりも、ない。
 ロベリアの側を離れるつもりは、毛頭ないのだから。
「よし、いくか」
 己の胸に頬を寄せている愛しい女を見下ろして、ロベリアとであった頃の若々しい姿で、マリクは笑ってそういった。
「ええ」
 美しく微笑んで頷いたロベリアと、ゆっくりと歩き出す。
 どこにいけばいいのかわからないけれど、足は行くべき場所を知っているように進んでいく。
「そうそう、あっちにカーツが待っているわよ」
「なに」
 可憐な唇から飛び出した親友の名に、マリクはロベリアをみつめる。ロベリアは、口元に手を当てて、くすくすと悪戯っ子のように笑っている。
 あの雪舞う鉄色の街で、死と隣り合わせに活動をしていたころには、みられなかった柔らかなもの。
「いいたいことが、たくさんあるんですって」
 たくさん、の部分がやけに強調されているような気がして、マリクは天を仰いだ。
「それはまいったな。何を言われるかわかったもんじゃない」
 がしがしと頭をかく。あの堅物のことだ、温水配給装置の工事のことや政府での仕事のこと、あれやこれやといってくるに違いない。
 でも、よくやったと、最後にはそういってくれそうな――そんな気もした。
「あいかわらずか?」
「そうね……、ほんの少し丸くなったかしら?」
 んー、と口元に指先をあてて、ロベリアがいう。
「少しか」
 つまり、あまり変わっていないということだろう。眉間に皺を寄せた親友の顔が、脳裏を過ぎった。
「ふふふ、覚悟しておいたほうがいいんじゃないかしらね」
「そうしておこうか。なあ、そのときにはそばにいてくれるんだろう?」
 ロベリアがいれば、そこまで手酷くお小言をいわれることもないだろう。そんなマリクの心情を見透かしたように、ロベリアがつんと澄ました横顔をみせる。
「あら、どうしようかしら」
「冷たいな」
 わざとらしく嘆いてみれば、ロベリアがふいに真剣な顔をしてマリクのほうを向いた。
「だって、私もマリクに言いたいことはたくさんあるのよ?」
「ほう、なんだ?」
 長い間待たせたのだ。それくらいは当然だと、マリクは耳を傾けようとする。
「そうね。まずは一番に伝えたいことがあるの」
 ひらり、ドレスの裾を翻して、ロベリアが数歩前にでる。そうして振り返ったロベリアの顔に浮かぶ、幸せそうな笑みに、マリクは足を止めた。

「愛しているわ、マリク」

 視線が絡んだその瞬間、ロベリアはそういった。
 当たり前のことだけれど、と。そういわんばかりの輝かんばかりの笑顔をもって、差し伸べられる白い手。
 告げられた言葉にわずかに目を見開いたマリクは、ゆっくりと表情を崩しながら、そっと手を伸ばした。
「きみはずるいな」
「マリクほどじゃないわよ」
 ぎゅ、と手を結び合う。
 そのまま、ころころと笑いあいながら。他愛もないことを話しながら。
 恋を知ったばかりの、結ばれたばかりの恋人同士のように、手を繋いだまま歩き出す。
 白く眩いその先にある場所を、目指して。

 

 

「――教官?」
 そよと吹く風に吹かれたまま、ラント領主邸の中庭のベンチに腰掛ける老人に、淡い紫水晶の髪を揺らした女性が、声をかける。
 とことこと、一緒に花壇の手入れをしていた幼子が、そのあとを着いてくる。
「ソフィおねえちゃん」
「おねえちゃん!」
 対照的な赤と青の髪をもつ二人の子供を足に纏わり付かせたまま、ソフィは教官ことマリクを見下ろした。
 フェンデルの発展に尽くした人は、金の髪を白に変え、口元には髭をたくわえ、顔には年月という皺を刻んではいるが、相変わらず洒落た出で立ちをしている。
 療養のためにラントに滞在している今も、マリクを慕う騎士たちやフェンデル軍関係者の見舞いに加え、あらゆる年齢層の女性たちにもてはやされている。
 ただ、いつのまに、こんなに小さな人になったのだろうと、ソフィは少しだけ思う。
 出会った頃はとても大きくて、楽しいお話もたくさんしてくれて。知らないことをいっぱい教えてくれた、いろんな意味で大きな人だったのに。
「きょーかんおねむ?」
「おひるね?」
 しゃがみこみ、俯いたままの老人の顔を覗き込む子供二人と同じようにしゃがみ――ソフィは、そっと二人の肩を抱いた。
「ねちゃったの?」
「ねー?」
 子供たちの問いに答えることはなく、きゅ、とソフィは唇をひとつ噛み締めた。
「ううん、教官はね、会いにいったんだよ」
「「?」」
 そろって不思議そうな顔をする子供たちの頭を、ソフィはそっと撫でた。まだわからぬだろう幼子たちに、微笑みかける。
「ね、道具屋さんにおつかいをお願いしてもいいかな? お手伝いしてくれる?」
「おつかい?!」
「いく! いく!」
 大人に頼りにされることを嬉しく思う年頃なのか、二人は大きな瞳を煌かせ、こぞって手をあげた。ありがとう、とお礼をいってソフィは二人の瞳を交互に見つめた。
「道具屋さんにね、お花の種をお願いしているの。ソフィが頼んだもの、っていえばわかってくれるから、それをもらってきてくれるかな」
「わかった!」
「あ、まってー!」
 聞くや否や飛び出していく赤髪の子のあとを、出遅れた青髪の子が追いかけていく。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「はぁい!」
「いこっ!」
 子供たちは、きゃーっと歓声をあげながら、そのまま中庭を飛び出していった。
 賑やかな声が遠ざかっていくのを聞きながら、ソフィは視線をもどした。
 マリクは、それはそれは幸せそうに、陽だまりの中で眠っている。
 永の眠りに包まれた人は、なんて穏やかな顔をしているのだろう。
 もう動かぬその手に、ソフィはそっと触れた。まだ少し温かい。でも、少しずつ、失われていっている。
 もうソフィは知っている。これがなにであるか。
 悲しいけれど、寂しいけれど。
 マリクが繋いでいきたいと願ったことも、ソフィの胸のうちに、確かにあるから。それを遠い未来へと運ぶと約束をしたから。
 ソフィは、ふわりと微笑んだ。
「――いってらっしゃい、教官」
 別れの言葉はそぐわない。そんな気がした。
 慈悲深い女神からの許しのような、やわらかな声でそう囁いたソフィは、ゆっくりと立ち上がった。
 屋敷にいる父を、呼びに行かなければ。
 ひらり、白いドレスの裾が風に翻った。