「まったく、わかっているんですかパスカルさん!」
「うん、わかってるって~。ごめんごめん~」
本当に悪いと思っているのか。輝くような満面の笑みでそんなことをいわれても、説得力がない。苛々とした様子で、ヒューバートは痛みを訴えるこめかみに指先をあてた。
フェンデルの首都ザヴェートからのストラタ行きの直行船便が、悪天候のため当分出航できないとわかったヒューバートは、致し方ないので闘技場経由でストラタに帰ることにした。
ところが。
「あたし送っていく!」というパスカルの言葉が嬉しくて――ついつい、その申し出を受けてしまった。
パスカルが、よく寝坊をするということをすっかり忘れて。
そうして、ザヴェートの宿前でパスカルがくるのを今か今かと待っていたら、出発の時間をとうに過ぎた頃、いかにも寝起きですといわんばかりの風体でパスカルが現れた。
半分落ちかけた瞼。妙な方向に癖のついた髪。皺のついた衣服。あの姿は、今思い出しても頭痛がする。
「本当なら、今日連絡港から闘技島へ到着しているはずだったのに……」
深く、深くため息をつく。
結局、パスカルを待っていたぶんだけ行程は遅れ、山岳トンネルを抜けた時には、連絡港からの船便がすべて出航し終わった時刻だった。
もうどうしようもないということで、二人は顔なじみであるベラニックの宿に今日の寝床を求めた。
今は、パスカルの温水供給装置のおかげですっかり温かくなっている宿一階の食堂で、顔をつきあわせて夕食をとっているところである。
なんであのとき申し出を受けてしまったのかと、ヒューバートは振り返る。
しかしながら、答えはひとつだ。わかっている。
それはつまり、自分がパスカルと少しでも一緒に居たかったからに他ならない。
恋は判断を鈍らせる恐ろしいものだと、眉をしかめて考えていると、それを吹き飛ばすようにパスカルが笑う。
「いや~、ごめんごめん。夜になってからさ、いいアイディア浮かんじゃって! 書き留めてて、気付いたら朝になっちゃってたんだよね~。不思議!」
不思議でもなんでもない。
「おおかた机に突っ伏して、涎をたらして寝ていたんでしょう?」
「え、ヒューくんなんでわかったの?!」
お姉ちゃんみたい! と驚くパスカルに、ヒューバートは肩をすくめた。
「そんなことを繰り返していると風邪をひいてしまいます。以後気をつけてください」
はぁーい、と返事だけはよいパスカルが、ふと、なにか思い出したような顔をする。
「そういやさ、ここ懐かしいよね~」
ぐるり、体を捻るようにしてパスカルが後ろを向く。つられたようにそこに目をやると、明かりの落とされた舞台が見える。
「そうですね。確かに、懐かしい思い出も……ありますね」
パスカルが言いたいことを察したヒューバートは、引き締めていた顔を緩めた。
皆でこの舞台で劇を繰り広げたことが、懐かしく思い起こされる。旅の途中でこんなことをしている暇はあるのかとか。自分の配役に疑問と不満はあったけれど、思い出となってしまえば、それはもう懐かしさしかない。
そういえば、兄であるアスベルや、主人公だったシェリア、ソフィはどうしているだろう。
昨日、教官には会えたから、他の者たちのことがついつい気になる。手紙では元気にやっているといっていたが、近々顔でも見に行こうか――、そんなことを考えていると。
「だよねだよね~、ヒューくんも楽しそうだったもんね!」
「……は?」
思わず、ヒューバートは手にしたフォークを落としかけた。
楽しそうだった? 誰が、何を、いつ楽しんでいたと?
何を言っているのですか、と引き攣った顔でパスカルをみると、あれ? と首を傾げられる。そこはおかしいと思うところではない。
「おーほっほっほ! 鏡よ鏡よ! ……って、ノリノリで王妃様やってたじゃん! あれ、楽しかったんでしょ?」
「!?!!」
口元にわざとらしく手を添えて、あの時の台詞回しを大声で真似るパスカルに、ヒューバートは肩を跳ねさせた。
ぎゃあ! とみっともない悲鳴が飛び出しそうになる。あのときの王妃役が、自分だと知られたら。いくら国同士の和平が進んだ今とはいえ、恥ずかしいことこのうえもない。
素早くあたりに視線を送る。なんだなんだ、と周囲の客が視線を送っている。まずい。
「え~、思い出せない? じゃあ、もっかい……」
「わーわー!」
ヒューバートは慌てて席を立つと、身を乗り出してパスカルの口を塞いだ。
伸ばした手の平の下、パスカルがもがもがと不明瞭な言葉を繰り返す。
「だっ、な……な、そ、そ、そのことはいわないでくださいッ」
恥ずかしい過去だ。できれば思い出したくない。
声量を抑えつつそう訴える。ぱしぱしと、ヒューバートの腕を、パスカルが叩きながら何回か頷く。わかってもらえたと判断したヒューバートは、ゆっくりとパスカルを解放した。
「ぷはっ! もお、死ぬかと思ったじゃん!」
とたん、空気を求めて大きな呼吸を繰り返すパスカルに、目尻を吊り上げる。
「パスカルさんがへんなことをいうからです!」
「そうかな~。ヒューくんってば演技上手だったし、楽しそうにみえたのに」
ヒューバートの願いを受けてか、パスカルがぽそぽそとそんなことをいう。
「そこが問題じゃないんですよ……」
あれを自分がやっていた。ということを知られたくないのだ。パスカルにはこんな気持ち通じないだろうけど。
ゆっくりと椅子に座りなおし、ヒューバートはずれかけた眼鏡をなおす。
「まあ――そういうあなたも、上手だったと思いますよ」
あんなにあっけらかんとした明るい魔法の鏡なんて、ないような気がするけど、決して下手ではなかった。
褒められて悪い気はしないのか、パスカルが笑顔を花開かせる。
「えっへへー、ありがとね。あ、そうそう、そういえばさー」
さらりと、もうそのことに触れることなくパスカルは話題を変えてくる。
はい、とその内容に頷きながら、そうしてくれるその気遣いを、ヒューバートは嬉しく思った。
「はあ……まったく。ほら、つきましたよ、パスカルさん」
宿の二階にある部屋の前まで戻ってきたヒューバートは、眉間に皺を寄せつつ、軟体動物になりかけているパスカルを揺すった。ここまで肩を貸して歩いてきたものの、さすがに女性の部屋には入れない。
「うっひ、ふえっく~~、うひひ、」
赤ら顔で、酒の匂いを漂わせたパスカルは、にやにやと笑っている。ため息をつかざるをえない。最初は未成年のヒューバートに配慮していたらしいが、ここまで酔っていれば世話はない。
「ほら、立って!」
「はいっ! ――ふ、あははは!」
勢いよく返事をして、しゃっきり立ったと思ったら、けらけらと笑いながら揺れだした。その動きはローパーのようだ。
もうだめだ。
そんな気はするものの、ほうっておくわけにもいかない。
「パスカルさん、部屋の鍵はどこですか?」
「ポケット~」
「……」
ポケットといっても、パスカルの衣服にそれは多い。仕方ないとため息をついて、適当にあたりをつけながら、ごそごそと探っていく。
「ねーねー、ひゅーく~ん」
「なんですか?」
ここも違う、ここも違う。そうぶつぶつと呟きながら、ヒューバートは手を休めることなく問い返す。
「もっかい王妃さまになってよ~」
「……なんですか、急に」
五個目のポケットで、鍵をみつけることのできたヒューバートは、意味がわからず目を細めた。
「いいからぁ!」
言え言えと、うわごとのように繰り返していることから察するに、あの舞台での台詞を言えということなのだろう。
かちゃり、と小さく金属音を響かせて扉をあけたヒューバートは、もとのポケットに鍵を戻しつつ、パスカルの顔を覗き込んだ。
「鏡よ鏡よ。世界で一番美しいのは誰? ……これでいいですか?」
棒読みかつ早口で言った後、満足しましたか、と視線で伝える。
にこーっと自分の願いが叶えられたパスカルは、手を勢いよくあげた。
「はいは~い、お答えしましょー!」
元気一杯、酔っ払いは言う。いや、今は魔法の鏡か。
「世界で一番美しいのはね~、シェリ雪姫だよ~!」
思ったとおりの言葉に、何がしたかったんだとヒューバートが思った次の瞬間。
「けどね、」
けらけらと相変わらず笑いながら。
「世界で一番格好いいのはヒューくんだと、魔法の鏡は思うよ~! うひひっ」
どこか甘い声で、酔いの回った赤ら顔で、パスカルはそう言った。
驚いて、目を見開き固まったヒューバートの横を、ふらりとパスカルが通っていく。
「にひひ! じゃ、おやすみぃ~」
どうやらそれが言いたかったらしい。満足満足、という顔をしてパスカルが扉を開く。
すうっと開いた暗闇に、細い身体が吸い込まれていく前に、ヒューバートは反射的に手を伸ばした。
「……ずるいですよ」
「?」
手首をつかまれ、引き止められた格好になったパスカルに、ぐいと顔を近づける。
まったくずるい。
自分はいいたいことをいって、こちらにはなにも言わせてくれない。
悔しかった。だから、言ってやりたくなった。
きっと次の日には、こんな状態のパスカルなら、忘れているに違いないだろうし。
「ぼくは、魔法の鏡じゃないですけど――世界で一番可愛いのは、パスカルさんだと思っています」
ヒューバートは大きく鼓動する心臓をなんとか抑えて、そう言った。頬が熱い。恥ずかしいことを言っている自覚があるから、仕方ない。
パスカルが、さきほどのヒューバートと同じように、目を見開く。その琥珀色の瞳に、間の抜けた顔をした自分がいる。恋の熱に浮かされた、哀れな男の顔だ。
「――お、おやすみなさい! ちゃんと肩まで毛布かけて寝てください!」
それをみて急に気恥ずかしくなったヒューバートは、パスカルを部屋の中へ、ぐいと押し込んだ。
「ヒューく……」
ぱたり、と扉を閉じて、パスカルの言葉を遮る。ドアノブを握り締めたまま、思う。
ずるいのは、もしかしたら自分かもしれない。こんなときでもないと、素直になれない自分は、きっと――ずるい。
「精進しないといけませんね……」
はあ、とため息をつきつつ。だけど、そうして笑いつつ。
ヒューバートは、なんだかひどくいい気分で、ゆっくりと隣にある自分の部屋へとはいっていった。
「おっはよー!」
「おはようございます」
今度は遅れることなく宿の前に現れたパスカルは、朝からやたらと機嫌がいい。いや、いつもこんな感じといわれれば、そんな気もするが。
「パスカルさん、寝癖がついていますよ」
「いいじゃんこれくらい」
ぴょこん、と跳ねた髪をおさえることもなく、パスカルは言う。
「年頃の女性が、身なりに気を遣うのは当然です」
「えー」
ぷう、とパスカルが頬を膨らませる。自覚が足りないと、お小言を追加しようとした瞬間、パスカルがくしゃりと笑った。
「だって、あたしってば世界で一番可愛いんでしょ? だったこれくらいいじゃん! ぜんぜん大丈夫だよ!」
「っ?!」
びきっとヒューバートは体を強張らせた。
パスカルは、今なんと言った?
そんなヒューバートの動きなどまったく気にしないパスカルが、そうだ! と叫ぶ。
「教官に自慢しなきゃ!」
普段から、女らしくしろだのなんだの煩いもん! とかなんとか、そんなことをいいながら、パスカルが駆け出す。向かう先は、ザヴェートに続く山岳トンネル方面だ。
「ちょ、ちょっと……! やめてくださいっ! ちょ、パスカルさんっ!? ぼくを見送ってくれるのではなかったのですか?!」
悲鳴に近い声でそういえば、ざざざ、と雪を舞い上がらせながらパスカルが急停止した。
「おおっ! そうだった、そうだった!」
いやー、ごめんごめんと、笑いながらパスカルが戻ってくる。
ああ、もう。なにがなにやら。
「昨日はありがとね」
「……いいえ」
戻ってきたパスカルの様子から、自分たちのやり取りすべてを覚えているのだということを、想像するのは簡単だった。
迂闊だった。あれだけ酔っていれば、覚えてないだろうと思っていたのに!
あの言葉に嘘偽りはないけれど、恥ずかしくて死にそうだ。
ああ、いつまで自分はこの人に振り回されるのだろう。
しかも、いくら口止めしても、昨夜自分が言った言葉を、パスカルは教官やその他親しい人たちに言うのだろう。そんな彼らと次に顔を合わせるのが、怖い。空恐ろしい。
とくに教官。にやにやとあの人をくったような笑みで、からかってくるに違いない。
雪舞うベラニックの街のど真ん中で、ヒューバートが自分の未来を悲観しかけたとき、やわらかな感触が手にかかる。
「じゃ、そろそろいこっか、ヒューくん」
「パ、パスカル、さ……」
歩き出すパスカルにつられて、ヒューバートもまた一歩踏み出した。
「ん? どうかした?」
まるで、こうすることが当たり前のことであるようなその態度。ヒューバートは、視線を下げた。
「……やっぱり、あなたはずるいですね」
自分が嬉しいことを自然としてくれる。与えてくれる。いつか、それに報いることが出来る日はくるのだろうか。
んー、とパスカルが顎先に指先をあてる。
「ああいうときしかいえないヒューくんには、言われたくないなあ」
その言葉に、かっとヒューバートは白い頬を赤らめた。
「ほっといてください!」
「あはははっ!」
してやられてばかりでなるものか、と数歩足早に歩いたヒューバートが、今度はパスカルをひっぱる。重ねられた手が離れないように、握り返しながら。
「ねーねー、そのうちまた言ってね!」
きゃらきゃらと笑いながら、背後でそんなことをいうパスカルは、きっと楽しそうな顔をしていることだろう。そんな想像をすれば、ふとヒューバートの顔も緩んだ。
ふわり、唇が動く。温かな心に突き動かされる。
「……はい。そのうちに……かならず」
フェンデルに吹く冷たい風に、かき消されて届かないだろうと思った小さな約束は、ぎゅっと力のこもったパスカルの手が、伝わったことを教えてくれた。