ヒューバートは、ゆっくりと息をついた。手にしていた羽ペンを下ろして、正面の壁にかけられた時計を見遣る。
長針短針ともに、真上を指すときをいまかいまかと待ち構えている。あと一時間もない。この時間帯、己に与えられた執務室でただ一人書類と向き合っていることのなんと虚しいことか。
だがこの書類は、明日の朝一番に大統領閣下へと提出しなければならないもの。手を抜くわけにもいかない。
もうすぐだと、ヒューバートは再びペンを走らせる。そして集中して残りを一息に書ききった。
「ふむ、これでいいでしょう」
書きあがったものを最初から最後まで素早く目を通し、ヒューバートは頷いた。
執務机の鍵付きの引き出しにそれをしまい、椅子から立ち上がる。ゆっくりと近づいた窓辺から空を見上げる。
空の海に滲む星々、そしてこの世界を囲う羅針帯の影。ほのかに青いその空間は、窓越しにみても美しい。
同じように、あの人も空を見上げているだろうかとふと思う。
だがすぐに思い直す。そんなこと、あの雪深い国では難しいだろうから。
ふ、と息をついて窓ガラスに額を押し付ける。外の冷えた空気を伝えるように、じんわりと肌の熱が奪われていく。
「会いたいのはいつもぼくばかりだ……」
閉じた瞼の裏に、ひとりの女性の姿が浮かべながらそう一人ごちる。
いつも明るく朗らかに笑っていて、特徴的な銀と赤の髪の色、興味を示したものに向けられるたびに色をくるくる変える大きな瞳。自分を呼ぶ声を思い出し、ヒューバートは肩を震わせた。
「パスカルさん、どうしているでしょうか……」
ここ最近、忙しくて会えていない。だから近況もわからない。本当なら、今日会いに行くつもりだったのに。
恋をしていると自覚して、その想いを素直に認められるようになってから、パスカルへの恋慕は強くなるばかりだ。自分ばかりがこうで、みっともなくて恥ずかしくもあるが、心は止められない。
深く息をついて、窓辺から離れる。近寄った自分の執務机の一番下にある大きな引き出しに手をかける。わずかな軋む音すらたてず、それは容易く開いた。
その中にあるものは、色とりどりに飾られた箱たちだ。中身なんて、今日という日がどんな日か考えれば、想像することは難しくない。
「まったく、どうしてぼくに渡そうとするのか……」
小さく呟きながら、部下が荷物の多さに配慮して渡してくれた紙袋へと、それらをつめていく。このままにしておくわけにはいかないし、そこに込められた想いを知っている以上、無下にはできなかった。
昨年まではくだらないとひとつとして受け取らなかったが、今なら彼女たちの気持ちがわかるから受け取らざるを得なかったというのもある。
気持ちには応えられないと告げたとき、もらってくれるだけでいいのだと、そういってヒューバートのもとに可愛らしい箱をそっと置いていった彼女たちの顔を思い出す。想ってくれて、有難いとは思う。
だが、たった一人からの贈り物を得られれば、ヒューバートはそれだけで満たされる。
とはいえ、想いを寄せる相手はそんなこと考えもしないだろう。そもそも研究に夢中で今日という日の行事自体を、知らないということもありえる。
そこまで考えて、あまりの虚しさにヒューバートは乾いた笑いを浮かべた。
「まあ、期待なんて最初からしていませんでしたけれど、ね」
パスカルが自分を訪ねてくれること、パスカルがチョコレートをくれること。そんなこと淡く儚い夢だ。恋をして愚かになってしまった男の幻想だ。
机の引き出しの一番奥底にある、パスカルが好きだという黄色を中心としたラッピングがされた箱を手に取る。それは、ヒューバートが密かに用意していたもの。
フェンデルではどうかしらないが、ストラタでは男が贈ってもおかしくはないとされている。だから、パスカルのために用意した。好きだという言葉は添えられずとも、心からの想いだけは込めて渡したかった。だがこれも、今日中に渡せることなんてない。
いつか、渡すことにしましょう――
空っぽになりそうな心をそう持ち上げて、それは袋ではなく上着のポケットにしまう。ヒューバートはゆっくりと立ち上がった。明日には朝一番に会議がはいっている。そろそろオズウェル家邸宅に戻って休もう。
提出書類はできているし、あとは会議前の事前打ち合わせをもう一度行って――そんなことを考えながら執務室の出口へ向かう。大きな扉は滑るように開き、ヒューバートは夜色の廊下に足をふみ出した。南出口へと向かう。靴音をあたりに響かせ、丁度通りかかった見回りのストラタ兵たちに、帰宅する旨を告げる。
「了解いたしました。ごゆっくりとお休みください。オズウェル少佐」
「ええ、あとは頼みます」
「あ、お待ちください」
コートの裾を翻し、建物出口に向かおうとしていたヒューバートを兵士の一人が引きとめた。
「何か?」
振り返った先で、兵士がヒューバートの視線を受けて俯いた。
「実は……その、執務中の少佐にお客様がこられまして」
「そうですか」
おずおずと、本当に申し訳なさそうに告げられたことに、ヒューバートは頷いた。書類作成のために執務室につめていたのだから、仕方がない。せっかく来てもらって申し訳ないことをしたが、帰ったのならば緊急の用事でもなかったのだろう。
「どこのどなたですか? 後日、ぼくが改めて伺います」
その客人がこの時間帯まで残っていることなどありえないという前提のもとで、ヒューバートは相手の素性を尋ねた。
「いえそれが、その……まだ待っておられまして」
「は?」
兵士の言葉に眉を顰める。
「私どもはオズウェル少佐の現状と、いつ終わるかわからないことを、何度も申しあげたのですが……客人は、待っているからとの一点張りで」
なんという。
ヒューバートは額に手を当てた。どこの誰かは知らないが、なんとも気の長い話だ。
「わかりました。すぐに向かいましょう。その方はどちらに?」
「は、客人用の控え室にお通ししてあります」
それだけ聞ければ十分だ。身を翻そうとして、ヒューバートは動きを止めた。
「その方の名は?」
肝心なことを聞き忘れるところだった。疲れているのかもしれない。そう思いながら、いつもの癖で眼鏡のブリッジに指先を添える。
「は、パスカル、と名乗る女性の方です」
眼鏡を押し上げようとしたまま、ヒューバートは固まった。
「……え?」
われながら間の抜けた反応だと、ヒューバートは思ったがそれどころではない。一瞬止まった心臓が、ばくばくと高鳴り始めていた。
「ご友人だといっておられたのですが、心当たりはありませんでしたでしょうか」
問い返されたことに、兵士が僅かな動揺をみせる。違う、心当たりならありすぎるほどにある。長時間待ち続けるというマイペースさも、彼女ならありえることだ。
にぱ、と笑うパスカルが脳裏にはじけた。
ヒューバートは駆け出した。
背後で「少佐?!」と驚いた声があがるのを振り切って走る。
廊下を抜け、角を曲がり――そうしてたどり着いた部屋の前で、ヒューバートはわずかに上がった息を整えた。
ごくりと喉を鳴らしながらドアノブに手をかける。慎重に扉を開く。
しんと静まり返った部屋の中、人の気配がする。繰り返される穏やかな吐息。
そっとヒューバートは室内に足を踏み入れた。部屋の中央に設えてあるソファへ向かう。気をつけながらそこを覗きこみ――ヒューバートはほのかな笑みを浮かべた。
「パスカルさん……」
待ち疲れたのだろう。
ヒューバートが会いたいと願った人が、ソファで丸くなって眠っていた。幻だろうかとぼんやり不安を覚えながら、回りこんでソファの側に膝を付く。手を伸ばす。柔らかな銀と赤の髪、滑らかな白い肌、淡く色づく唇。そっと辿れば、指先に移るパスカルの熱。本物だった。
ほう、とヒューバートは息をついた。触れていた手が気恥ずかしくなって、慌てて引っ込める。こんな近くに来ているのに、起きないパスカルが不思議だった。
す、と狭く苦しくなっていた胸に空気をいれる。
「パスカルさん、起きてください。パスカルさんっ」
名を呼ぶと、ぴくりと肩が震えた。
「ぅ、んん~……? あと五分……」
「そういうお約束はいいんですよ、ほら起きてください!」
ソファに顔を押し付けて、予想通りのセリフを吐くパスカルに、ヒューバートは根気強く声をかけた。
「ぅ、ぇ~……?」
目をこすりこすり、パスカルが上半身を持ち上げる。そして。
「あ、弟くんっ」
大きな瞳にヒューバートを映し出したとたん、ぱあっとパスカルは顔を輝かせた。
「っ、」
そのあまりにも鮮やかな表情の変化を間近で目撃してしまったヒューバートは、頬を染めた。
「お仕事終わったんだね! おつかれさま~! あ、」
にこにこと労いの言葉を口にしたパスカルが口元に手を当てた。どうかしたのかとヒューバートが首を傾げると。
「ちょ、ちょ、今って何時?!」
「時計ならあそこですよ」
きょろきょろとあたりを見回すパスカルに、壁に掛かった時計を指差す。
二人そろってその時計に視線を送った瞬間、かちりと音をたてて長針と短針が重なった。
「あ、ああああ!」
しまったー! といわんばかりに、パスカルが頭を抱えた。
なにがどうしたのかわからずに、ヒューバートがその様子を見守っていると、やがてパスカルは肩を落とした。
「あー……せっかく持ってきたのになぁ」
「持ってきたって……、」
まさか。
「うん、あのね」
パスカルが、近くに置いてあった鞄を引き寄せて中を漁る。
どきどきと高鳴る胸を抑えて待つヒューバートの前に、それは現れた。中が見える透明な袋にいれられ、鮮やかなブルーのリボンがちょこんと可愛らしく結ばれた――チョコバナナ。
「バレンタインデーだからね~、っていっても日付変わっちゃったけど……。弟くん、はいどうぞっ」
「ぼ、ぼくにですか」
「ここに他の誰がいるの~?」
変な弟くん、そういいながらパスカルはヒューバートにチョコバナナを押し付けた。
「ありがとう、ございます……」
ぎゅとヒューバートはそれを受け取った指先に、力を込めた。間違いないパスカルからの贈り物。
想像していたとおり、胸の奥から沸きあがる温かな感情で、身体の隅々までもが満たされる。自分がこの人に恋をしているから、そうなるのだとヒューバートはもう素直に認めることができる。だから、その感覚に酔いしれる。
「いやぁ~、これで一安心!」
そんなヒューバートの状態などわかっていないのか、けたけたとパスカルが笑う。
「お姉ちゃんとシェリアに怒られなくてすむよ~」
その一言に、ヒューバートはぴしりと凍りついた。
「……は?」
ぎ、ぎ、ぎ、と俯かせていた顔を持ち上げる。
「いやさ~、お姉ちゃんとこの前たまたまきてくれたシェリアにさ、『ちゃんとバレンタインのチョコぐらい用意しなさいっ!』っていわれてさあ。せっかくだからチョコバナナつくったんだけどね」
ぱくぱくと口を動かしている間に、パスカルは饒舌に続けていく。
「弟くんがこっちにくるってきいてたから渡すのにちょうどいいや、って思ってたのに、急に無理だって連絡してくるんだもん。あせっちゃったよ~」
「つまり、パスカルさんがこれを持ってきたのは……その、フーリエさんやシェリアに怒られるのを恐れて、ということですか……?」
「うん! ぜーったい渡せっていわれてたんだ!」
元気いっぱいパスカルが頷く。
がらがらと足元が崩れていく感覚に、ヒューバートは頬を引きつらせた。持ち上げるだけ持ち上げておいてこの仕打ち。
フーリエもシェリアも、ヒューバートを応援しているのだろうけど、その心遣いが今はとても痛い。
泣いてない泣いてない――そもそもこの人にそんなものを期待するほうが間違いだったのだ――
ぐ、と唇を噛み締める。
「どったの、弟くん?」
「なんでもありません!」
ひょい、と顔を覗き込んでくるパスカルから顔をそらした。こんなことになっているのに、それでも胸に抱くチョコバナナが一番嬉しいなんて、自分はどうかしている。ヒューバートは知られぬように鼻を啜った。
「わぉ! 弟くんってばもてるんだねぇ!」
「はっ!? ちょ、ちょっとパスカルさん、何を勝手に……!」
いつの間にか、側においてあった紙袋をパスカルが覗き込んでいた。慌てて止めようとするものの、にやにやとされるだけで話にならない。
「照れない照れない~、もてるってのはいいことだよ、うん! 目指せ教官っ」
「目指しません! ええと、なんというか、これは、そのっ……」
焦っているせいか、うまく言葉がでてこない。それに、それらの贈り物は間違いなく恋心が詰まっているのだ。どういえばいいのか。
「う~ん、でもこんなにたくさん貰ってるなら、あたしのチョコバナナなんていらなかったよね~!」
けたけたと腹を抱えてパスカルがいう。
そのあっけらかんとした様子に、ぷつりと何かが切れた。
自分はパスカルからのチョコレートがこんなにも欲しかったのに。どうしてそんなことをいうのだろう!
激情のまま、ヒューバートはパスカルの肩を掴んだ。その大きな瞳を鋭く見つめる。
「そんなことはありません! ぼくは、あなたからのものが一番嬉しいです! こうして待っていてくださったのも、とても嬉しいです! だから……!」
ぐあっと叫ぶようにそう言い切って――はた、と我に返る。
限界まで大きく見開かれたパスカルの瞳に、羞恥が込み上げる。力いっぱい掴む細い肩に食い込む指を自覚して、慌てて離れて顔を逸らした。気まずく落ちてきた沈黙に、嫌な汗が噴出す。
女性に乱暴を働くなんてあるまじきことだ。しかもなんと恥ずかしいことを口走ったのか。
怯えただろうか、呆れただろうか。それとも――。
何の反応もないことに恐怖を感じながら、おずおずと視線をあげて。今度はヒューバートがきょとんとする番だった。
なんとか視界にうつしたパスカルは、熟れ落ちる寸前の果実のような真っ赤な顔をして、ぽかんと口を開けていた。
「パ、パスカル、さん……?」
予想外の状態に、ただ名前を呼ぶことしか出来ない。はっとパスカルが肩を揺らした。
「や、やっだなー、弟くんってばうまいんだからー! あは、あははっ」
手を左右に振りながら、軽やかにパスカルは笑うものの。まじまじと見つめていると、やがて恥ずかしげにしぼんでいった。もじ、と胸の前ですりあわされる手。
「パスカルさん」
「っ、」
す、と顔を寄せるとわずかに後退していく。一定の距離を保とうとしている。
これは……照れている、のだろうか。
あまりというか、これまでになかったその反応ぶりに、ヒューバートはシェリアの言葉をふと思い出す。
パスカルみたいな子は、案外と押しに弱いんだから――
これはつまり、シェリアの言葉は正しかったということか。
「えっと、あ、な、なんでだろーねー? あは、あははっ……な、なんかすっごくはずかしー……」
耳まで赤いパスカルなんて、はじめてみた。自分の言葉に、いつものペースが乱されているパスカルが、可愛い。抱きしめたくなるのを、なんとか堪える。さすがにそんなことをしたら、自分が恥ずかしさで死ねる。そこまで手をだす勇気はまだない。教官には、鼻で笑われるだろうが。
きゅ、とヒューバートは唇を引き結んで上着のポケットに手を突っ込んだ。そして取り出したのは、パスカルのために用意したあの黄色い箱。
「パスカルさん」
「な、なにっ、弟くん」
声をかけると、びくっとパスカルが跳ねた。
「これを」
そんなパスカルの手をとって引き寄せて、そこに優しく贈り物を置いた。
「ぼくもあなたに、昨日渡したかったものです」
「あたし、に?」
好きな人にあげたかった、想いをこめたチョコレート。
「この場にはあなたしかいないでしょう?」
さっきのパスカルの言葉をなぞってやる。
パスカルがゆっくりとその箱を口元まで持ち上げていく。口付けを落とすような近さで、それを眺めたパスカルの顔が、くしゃりと笑みに崩れた。
「ありがとねっ、弟くん」
「いいえ」
そういって、笑いあう。
きっと今の自分の顔も、パスカルと同じような色合いなのだろう。好きな色も違う、年も違う、住む場所も、生き方も違うのに、今そこだけ一緒なことがなんだか嬉しいと思った。
「さ、いきましょう、パスカルさん。今日はもう遅い。オズウェルの家に泊まっていってください。すぐに部屋を用意させますから」
「わわっ」
ぐい、とパスカルの手をとって立たせる。足元の紙袋とパスカルの鞄をもう片方の手にとって、ヒューバートは歩き出す。扉を開けて部屋をあとにする。ずんずんと建物の出入り口に向かうヒューバートの背後で、パスカルが声をあげる。
「お、弟くん、手……!」
「なにか問題でも?」
振り返ることなく、問い返す。いつもならこんな強引なことはしない。手を繋ぐことさえできはしない。今だって心臓が壊れてしまいそうなくらいだ。でも、こういうのが効果的と分かった以上実行しなければ軍人ではない。ただ、振り返ってパスカルの顔をみることはできそうにないけれど。
「ん、ううん……」
きゅ、とヒューバートの手に絡むパスカルの指に、心臓がさらなる悲鳴をあげる。知られないようにと願いながら、必死に歩く。
「ね、弟くん」
「なんですか」
建物の玄関ホールに達したとき、パスカルがそっと囁くように声をかけてきた。それに応えながら、出口を一直線に目指す。
「あたしね、」
「はい」
噛み締めるような、いい含めるような、とても優しいパスカルの言葉が響く。
「あたし、ヒューバートに会いに来てよかったよ」
「……そうですか」
その顔をみずとも、きっとパスカルは笑っているのだろうと感じた。そしてまた自分も、名を呼ばれただけで、こんなにも嬉しくて微笑んでいる。
ぎゅ、ともう少し力を込めると、応えるようにパスカルの指先が動いた。
「うん。だからね、また会いに来てもいい?」
「ええ。いつでも、お待ちしていますよ」
でもきっと。
自分のほうが会いたくてたまらなくなって、あなたのもとを訪れるでしょう――そんな言葉は飲み込んで、ヒューバートは大きな扉を開け放つ。
そうして、二人が肩を並べて足をふみ出した先。
宙を踊る噴水に、星の光が地に降ったがごとく、二人を包み込むような輝きが無数に煌いていた。
互いの間で鮮やかに、恋が小さくとも確かに瞬きはじめるのは――きっと、もうすぐ。