雪の夜

 冬の到来を告げるような嵐の従者は、秋から遣わされた天駆ける雷だった。

「……すごい風」
 寝巻きに着替え、さあそろそろ眠ろうかという宵の頃、窓から外を垣間見たティアは、ぽつりと呟いた。
 ざわざわと木々の影が生き物のように蠢き、弓が放たれるような風の音はやむことなく奏でられている。
 質素な家ではあるが、それなりに頑丈な造りである我が家に感謝しつつ、ティアはランプの明かりを消して床に入ろうと、ベッドの傍らに手を伸ばした。
 その瞬間。
 夜の闇に沈んだ室内が、一瞬にして目映く照らしだされた。
 目に光が飛び込み、ティアがその身を固まらせる前に、耳をつんざく天の音が轟く。

「――!!!――」

 耳に手をあて、ティアはきつく目を閉じ、音なき悲鳴をあげた。
 そのまま、ベッドの上にうずくまる。
 次の雷がないかと、恐る恐る顔を上げた瞬間に、もう一度。今度はもっと近い。
「~~っ!」
 このまましばらく嵐と雷の共演は続くだろうとこれまでの経験から知っているティアは、毛布をひっかぶって少しでも音と光を防ぎたい衝動に駆られる。
 だが、せめてランプは消さなければと思い、のろのろと手を伸ばす。だが、思った以上に身体は緊張してしまったらしく、目的の場所までがひどく遠かった。
 もう、ちょっと。
 そう思ったそのとき、己の手がそっと握り返されて、ティアはびくりと身体を跳ねさせた。
「大丈夫ですか、ティア」
 優しく労わるように響く声に、ティアはゆっくりと顔をあげた。
 端正な顔を縁取る金の髪、尖った耳、左右で色の違う瞳が、しっかりと目をあわせてくる。
「……ウル……」
 いつの間に預言書から姿を現していたのか。それとも声を掛けられたことにさえ気づかなかったのかは、わからない。
 しかし、震える指先が握り締められた瞬間に、ティアの身体にどっと安堵がこみあげたのは事実だった。さらにその顔をみて、なんだかティアは泣きたくなった。
 少しだけ下がった眉に、ランプの明かりに照らされて揺らめく青と赤の視線の中に、自分への心配と気遣いの色が確かにある。
 無意識のうちに、ティアは指先に力をこめていた。
「あなたの悲鳴が聞こえたような気がしたので、就寝前に失礼かとは思ったのですが様子を見に来ました」
「すごい、ウル……よくわかったね」
 驚いてティアは瞼を上下させた。
 大きな声をだしてはいないはずだ。それなのに、どうして。
「ティアのことですから」
 そういって、ウルは笑う。
 青年然とした顔が、ふいに幼げな笑い顔に変化する。それに、ティアもつられて笑おうとする。が。
「~~~!!!」
 ずどん、と響いた音と容赦ない光にまたもや言葉にならない悲鳴を上げた。
 ウルの手を振り払い、思わずティアは自分を抱きしめるようにして身体の震えを抑える。
 と、慰めるようにふわりと頭からかけられた柔らかく暖かな心地に、ティアは涙の浮かんだ瞳を開ける。ゆるゆると顔をあげると、ウルが小さく微笑みながら覗き込んでいた。
 ベッドに腰掛け、毛布ごしに頭を撫でてくる。
「ティアは、雷が苦手だったのですか?」
「っ! あ、あの、そんなこと!」
 ない、と続けようとした言葉は雷鳴に掻き消された。
 またもや息をのむティアを、抱きしめ引き寄せる腕がある。稲光よりは遅く、それでもわずかな一時の後、ティアはウルの胸に落ちていた。
「ウ、ウル……あの、私っ」
「無理しなくていいんですよ」
 ぽんぽん、と背を優しく数度叩かれて、ティアは強張る体から長く深い息を吐き出した。
「あの、ごめんなさい。実は私、雷がちょっと、その……嫌い……なの」
 尻すぼみになっていくおずおずとしたティアの告白に、ウルは小さな声で囁く。
「ですが、マステマの天空槍では私の力を奪った竜が雷を操り降らせていたでしょう? あの時は大丈夫だったのでは?」
「だって、あの時は皆を助けることだけで頭いっぱいだったもの」
「では、私の魔法は? 精霊魔法をかなりの頻度で使用していたと記憶しているのですが」
「それは……その」
 耳元に唇を寄せ、己の声をじっくり聞かせるようなウルの近さに、ティアは身じろいだ。
「どうしてです?」
「う~……」
 逃がさないというように、ウルにさらに引き寄せられながらティアは見た目よりずっとしっかりとしたその胸に手を添えた。そのまま、力に流されたように頬をくっつける。
 わずかな迷いのあと、ティアはその小さな唇を開いた。
「魔法を使ってるウルって、格好いいんだもん……ずるいよ……」
 それは、あの光と音と引き換えにしても、幾度でも目にしたいと思わせるほど。
 ティアは真っ赤な顔をして、俯いた。
 そんな少女の愛らしい様子に笑いがこらえられないのか、くすくすと声を零しながらウルはティアをさらに抱きしめた。
「ずるい、ですか?」
「……うん、ずるいの」
 同じ言葉を繰り返す合間に、二度三度と雷は世を照らす。その共を務める大音も確かに轟く。
 しかし、ティアはもう不思議と恐いとは思わなかった。だって、雷を司る存在がこんなにも優しく包み込んでいてくれるというのに、何を怖れる必要があるのだろう。
 自分たちの言い合いに、さらに笑みを深くしたウルがいう。
「そうですか、それはすみませんでした」
 ティアはうっとりと目を閉じて、恋人である精霊の凛々しい姿を思い浮かべる。
「だけど、ティアもずるい」
「?」
 毛布越しに頭の上に落とされる口付けを感じながら、ティアは首をかしげた。
 そんなこと、この心をいつの間にか攫っていったウルにはいわれる筋合いがないような気がした。
「こんなにも、私の心を捕らえて離さない。いつも、どんなときも可愛いらしい。その髪が、目が、声が、笑顔が――愛しくて堪らない。これ以上、私の心を縛ってどうしようというのですか?」
「そ、そんなこと。私だって、そうなのに。どうするつもりって訊かれても……」
 もごもごと口ごもるティアの背を撫でて、ウルが熱い溜息をついた。
「では、お互い様、ということでしょうか」
「うん、そうだね」
 お互い様ということは、同じということだ。なんだかそれが嬉しく思えて、ティアはほんのりと笑った。
「では、ひとつだけ約束してください」
 するり、とかぶっていた毛布が引き落とされて顔が曝け出される。わずかに驚いて、ティアは目を開けた。
 闇の合間から伸びてきた指が頬を辿り、顎をそっと摘む。
 ぐい、と引き寄せられ、真剣な表情のウルの顔が近づいてくる。
「未来永劫、私があなたのものであるように。ティア、あなたも私のものであってください」
 お互いに恋して、お互いを愛した。ならば、それは当然のことのように思えた。
 だから、固定された顔を縦に動かすことのできないティアは、小さく肯定の言葉を返して瞳を閉じる。
「いい返事です」
 子供に言い聞かせるようなウルの満足げな台詞に、ちょっとだけこみあげるものがあるけれど、それもあっという間に消えていく。
「愛していますよ、ティア」
 甘い甘い、蕩けるようなウルの声が耳に染みいった瞬間に、唇を覆った熱にすべてを奪われる錯覚に陥る。
 全てを暴き、隅から隅まで探るような口付けは、子供には決して与えられないものなのだと、ティアはもう知っている。
 だが、今日のはちょっと激しすぎやしないでしょうか。
 口付けの合間に、酸素を求めてあえごうとしてもそれすらも飲み込むように、ウルは求めてくる。思わずのけぞり逃げようとするが、腰に回った手がそれを許さない。
「っ~~~!」
 ぽかぽかとその肩を叩くと、ウルがようやく離してくれた。
 ぜー、はー、と全身で息をしているティアとは対照的にウルはとても楽しそうに、微笑む。
「すみません、調子に乗りすぎました」
 浮かんだ涙もそのままに、ティアが下からわずかに睨み付けても飄々とそれを流して笑っている。
 何か言わねばと口を開こうとしたら、ティアの視界が回った。
「!?」
 ころり、とベッドの上に優しく押し倒されて、ティアは真上にあるウルの顔を呆然と見上げた。
「さて、まだ雷は去りそうにありませんし。いまのお詫びにずっと傍にいますから、ティアはゆっくり休んでください」
「ちょ、あの、もう大丈夫! 大丈夫だから!」
「遠慮しないでください」
 慌てふためくティアをよそに、ウルは手際よくランプを消して、さっさとベッドに横になるとティアを抱き寄せた。
 そのまま最初に抱きしめたときのように、ウルはティアの背を一定の調子で優しく叩く。
「誰かがいたほうが心強いのでしょう? 安心しておやすみなさい」
「……っ」
 ウルのおかげで雷のことを半ば忘れていたのも事実。誰かにいてほしいのも本当。
 すべてわかった上で、にっこりと笑うウルの顔を真正面からみていられなくて、ティアはその腕の中にもぐりこんだ。
 どうせ離してはくれないのだ。だって、こんな風に笑っているときのウルは決して譲歩してくれないことは当の昔に学習している。よって、ティアは諦めた。
「……おやすみなさい」
「ええ。よい夢を」
 か細い声に、ウルは律儀に応えてくれた。
 恥ずかしくてティアの全身が火照っている。
 だけど。
 視界を、ウルの胸と毛布に遮られたティアに、慄くような光はもう届かない。
 高鳴る自分の鼓動しか、もう耳には響かない。
 とくん、とくん、と目の前の恋する精霊へのありったけの想いの歌を奏でるような自分の心臓に誘われ、なんだかんだでティアはゆっくりと眠りに落ちていった。

 抱きしめてしばらくの後。
 くぅ、すぅと寝息をたてはじめたティアの顔を静かに覗き込み、ウルは笑う。
「精霊との約束は、世界との約束です。もう、絶対に離しませんよ、ティア」
 前から決めていたことですけどね。
 そんな言葉は口にせず、ウルもまた愛する少女の後を追うように夢の世界に旅立った。