深い森の中、風で倒れたのかそれとも寿命だったのか、ごろりと大地に横たわる木に腰掛けて、ティアは預言書と向き合っていた。
「ウル」
「呼びましたか、ティア」
ふわり、と預言書から湧き上がった力が形を成していく。長い手足、雷を模した衣装と顔を覆う枷が特徴的な雷の精霊は、預言書の上に浮かび上がって目の前の少女を見上げた。
「あのね、ちょっと教えて欲しいことがあるの」
「はい、私がなんでも教えてさしあげますよ」
己の胸の上に上品に手をあてて、ウルは出来のよい自慢の生徒に微笑んだ。彼女にこうして教えを請われるのはウルにとっては嬉しいことだ。
「あのね、このコードを外したいんだけど……」
「では、まずスキャンした情報を確認してみましょうか」
どうやら、さきほど手痛い思いをしたモンスターに対抗するため、無敵とついたコードを取り外したいらしい。かつては、森の入り口ではじめて出くわした無敵のホブゴブリンに対処できずに追い掛け回されたこともあったというが、いまならば大丈夫。
情報を確認し、必要なコードを探し、貼り付けて――そんな手順を確認し、言われたとおりに黙々と作業をこなしているティアが、ぽつんとつぶやいた。
「そういえば、ウルは目に封印具してるよね」
「ええ、そうですね」
砂漠の遺跡で初めて出会った頃からずっと、ウルの顔半分近くをいかめしい枷が当たり前のように覆っている。
「じゃあ、どうして私のほうを必ず見られるの? どうして何をしてるかわかるの? さっきも、逃げる方向を正確に教えてくれたよね」
「預言書の持ち主がわからなかったり、助けられなかったりしたら、預言書の精霊としては失格でしょう」
精霊は預言書との契約を通じ、持ち主を感じることができる。それは互いの間に、本を介した一本の線が繋がっているようなもの。ウルの場合は特にそれが顕著だ。
預言書に記録された地図内であれば、ティアの大まかな位置もわかる。預言書のどのページを開いているか、何を探しているのか、もだ。
ウル以外の精霊たちは視覚を閉ざされていないから、ここまでティアの行動に敏感ではないが、同じような感覚をもっている。
「んー、そういうものなの?」
「そういうものなのです」
「そっか」
ふむと頷いてはみたものの、納得したようなしていないような、微妙な面持ちでティアは預言書のコードを書き換える。
その仕草はもはや手馴れたもので、ウルはティアの成長を嬉しく思った。
「じゃあ、どうやって物を判別してるの? 壁とか、何かにぶつかったところもみたことないよ?」
壁にぶつかる精霊なんていやでしょう。
そんな素直な感想は心の奥に閉じ込めて、ウルはあいまいに微笑んだ。
「そうですね。そのモノがもつ気配、とでもいいましょうか」
「気配……」
「この世界のものはほとんどが微弱な電流を帯びているんです。それを感じ取っておおむねの形などを推測しています。まあ、無機物は多少判別し辛いですが、ほんの少し雷を作用させれば、概ねわかります」
それに、とウルは続けた。
「目に見えぬからこそ、気付きやすいこともあるのですよ」
「そうなの?」
「ええ、たとえば……ほら、ティアの腰掛けている倒木の根元をみてください」
「?」
素直なティアは、ウルに言われるままに顔をめぐらせて覗きこんだ。
その瞬間、そよと吹いた風が清々しく優しい香りを運ぶ。
「あ、お花! 可愛い!」
大地を離れ、その姿を晒している複雑にくねった根の合間に、小さな花が咲いている。清楚可憐にその花弁を揺らしてひっそりとある様は、どこかいじらしささえ感じる。
「ね? 目が見えているはずなのに、ティアは私に言われるまでその存在に気付いていなかったでしょう?」
「うん。ウルってすごいね!」
「視覚以外の感覚で、いろいろと掴めるものもあるのですよ」
こくこくと、今度はよくわかりましたといったように、ティアは何度も頷く。
「じゃあ、枷があっても、ウルはあんまり困ってないんだね?」
「慣れというのもありますが、そういうことですね。ですが……」
ウルは唇を引き結び、顎に手を当てた。
「ここ最近は、目が見えたらどんなにか素晴らしいだろうと、常々思うようになりました」
「どうして?」
何気なくティアは問い返す。ウルは、後退してティアから距離をとって答える。
「ティア。あなたです。私は、あなたをみてみたいのです」
「私?」
「ええ」
ふ、とウルを形作っていた輪郭がにじみ、次の瞬間にはその姿はティアを見下ろすほどの大きさになっていた。
「ウル……?」
自在に姿を操れる精霊とはいえ、特に何もなければいつもは小さな姿をしているウルの突然の行動に、ティアは目を瞬かせた。
大地に膝をついて、ウルは手を伸ばす。騎士が、姫に対して誓いを述べるような、そんな真摯さをこめて。
「この髪がどんな色をしているのか」
さらり、と指でティアの耳元の髪を梳く。ティアはぴくりと肩を震わせた。
「この瞳がどんな輝きを宿しているのか」
まるで本当は見えているかのように、ウルは正確にティアをなぞりながら囁く。眦に触れると、僅かに睫が伏せられる。
つ、と柔らかな頬を撫でる。ふんわりとした感触が心地よくて、ウルは微笑む。
「この頬が美しく染まるさまをみてみたい」
壊れやすいなにかを慈しむように、傷つけぬように人差し指でティアの唇に触れる。
「ここから可愛らしい声が生まれる瞬間を目にしたい」
そっと、両の手でティアの頬を包み込む。
「そう、思ってやまないのです」
だけれどどんなに願っても、覗き込もうと努めても、すべて封印具に覆い隠されている。ウルの視界は常に闇。自身は、眩く煌く雷であるというのに。
なんだか無性に切なくてなって、小さく息をつく。こんな感情を、ウルは知らない。
だがそれは、ティアの顔をこの記憶に刻み付けたいと、強く思わせるのだ。
どうして自分はこんなにも、ティアという存在を求めてしまうのだろう。
「……私も、ウルの瞳がみてみたいな。絶対、綺麗だと思うの」
ウルの手に、小さな手が重なる。
にこり、と少女が笑うのがわかる。手の平から伝わるティアの微笑みが、とても大切なものに思える。それは、素晴らしいもののはずなのに、そうわかっているのに、ウルには見ることはできない。
永い時間の中、これほどまで不満を覚えたことはない。
「ありがとう、ティア。今、私は初めて思います。この目が見えないことが口惜しいと」
吐息が交わるような近さで吐露した言葉を受けてか、ティアがウルの手に頬をすり寄せた。それはまるで、慰めるような優しさだった。
空を駆ける稲妻のように、ウルの心の内がざわめく。
その向こうで瞬く想いは、一体なんだろう。
「ティア……私は――」
それが何なのか確かめたくて、ウルは顔を寄せる。
「私は――」
あとすこし前にでたならば、触れ合うかというところで。
「――!!!」
みつけたといわんばかりに、ティアの背後の茂みから魔物が雄叫びをあげて飛び出してきた!
「危ないっ」
「ひゃあっ」
慌ててその場を飛び退いた二人と入れ替わるように、魔物の爪が空気を裂いた。もう少し遅れていたら、ただではすまなかっただろう。
「び、びっくりしたぁ!」
ティアは心底驚いたというように目を白黒させながらも、預言書から愛用の剣を取り出して構える。
「……」
対して、ウルは身の内に沸きあがった妙な苛立ちを隠すことができずに、ぐっと拳を握った。
邪魔をされた。もう少しで、わかりそうな気がしたのに。
ウルは、そんな気持ちでいっぱいになる。
それに、こんな近くまで魔物に迫られながら気付かなかった己の不甲斐なさに眩暈がする。ぱりぱりと、金色の雷がその身を駆けた。
「ティア。精霊魔法を使いましょう。と、いいますか、私に使わせて欲しいのですが。ええ、是非とも」
「ウ、ウル……?」
いつになく強い調子で進言してくるウルの様子に戸惑っているのか、ティアが口ごもる。
「ね?」
静かな声音でもう一押しすると、ティアは小さく頷いた。
「うん……わ、わかった。お願い、ウル!」
「お任せください」
ティアが魔法の発動を求めると、ぐんと力が増すのがわかる。だが、足りない。もっと、力が必要だ。この魔物にその身の程を思い知らせることができるほどに、ティアを害そうとしたことへの厳罰を与えるために。何より、邪魔をしてくれたことへの怒りを味わってもらわねば。
小さな流れは、やがて大きな束となり。それは天の怒りのごとく槍となって降り注ぐ。
「雷よ――!」
そうして森の片隅で轟いた雷鳴は、いつもよりもずっと激しく荒々しかった。
「うーん、残念だったね。ウル」
魔物を黒焦げにして満足したウルが預言書に戻ると、ミエリが意味深な言葉で出迎えた。
「なんのことです?」
「わかってないのー?」
「(やっぱり……あたまでっかち……)」
くすくすと笑うミエリの横で、さめた表情のネアキが自分の言葉は正しかったのだと確信を得たように頷いている。
「……」
その向こうでは、むすっとした様子でレンポがこちらに背を向けている。
「一体、なんなんですか」
「ううん、べっつにー! これからが楽しみだなぁってこと! ね、ネアキ」
「(……)」
べつに、というわりには、ネアキはやたらじっとりとウルを見詰めている。その視線は妙に居心地を悪くさせる。
「レンポ、どういうことですか」
「!」
女二人の言いたいことがわからずに、静かであることが不気味に思える炎の精霊に尋ねる。その途端、レンポはくあっと目を吊り上げた。
「うっせー! 馬鹿! べたべたしやがってよー!!」
「は? いや、何をそんなに怒っているのですか」
いきなりの激昂に、彼の激しい気性を知っているとはいえ、流石のウルも戸惑う。しかし、レンポはとまらない。うっせーうっせーと駄々をこねる子供のように、じたばたともがいている。
「まあ、ティアにもウルにもまだちょっとはやかったのかしら。あの子もよくわかってないみたいだったし」
ミエリだけが、やたらと楽しそうだ。その見透かしたような台詞に、精霊たちの中でもっとも知識を持つと自負するウルは、眉をひそめて腕を組む。
どうしてこんな対応をされねばならないのか。思い当たる節がない。しかし、何かしら理由はあるはず。では、それは何だろう。
そして、この心にともった想いの意味は、自分のなそうとした行動が求めたものとは何なのか。
もう一度よく、考えてみる必要がありそうだ。
黙って思考の海へと沈んでいくウルをみて、ミエリは優しく微笑んだ。
少女に対する想いが、恋なのだとウルが気付くのはもう少しあとのこと。
そして、それが愛に変わるのも、そう遠くはない未来のこと。