むかしがたり?

 預言書の精霊は幾度も幾度も、世界の創造に立ち会ってきたという。
 そうして生まれ成長し、やがて滅んだ世界たちの中には、この世界とはまったく違う姿になったものもあったという。ティアは、そんな過去の世界の話を聞くのが大好きだった。
 なぜならそれは、今いるこの世界の礎になったものたちだからだ。そうした積み重ねの上に、自分は生きている。心から大切にしたいと願う存在に出会えたのも、古の世界があればこそ。
 ともにベッドに横になり、眠りに落ちるほんのひとときの間、ウルの優しい声で紡がれるいろんなことに耳を傾ける。知識深いウルの話は楽しくて、ティアはいつも夢中になる。
 そして、次の日を心待ちにしながら、二人抱きしめあって穏やかな夢の世界へと旅立つ。それはティアとウルが恋人同士になってからの、日課であった。

「すごいね、樹上の都かぁ」
 ほう、とティアは息をつく。
「ええ、かの世界は地表がなく、ほとんどが海でした。浅瀬に根付いた巨木の上に、たくさんの命が暮らしていたのですよ」
「ねぇ、他にはどんな世界があったの? どんなことがあったの?」
「――そうですね」
 わずかに思案するように、口元に拳をあてて目を伏せたウルは何事か思い出したのか、楽しそうに左右色の違う瞳を細めた。
「では、精霊の話などいかがでしょう」
「精霊……ウルたちみたいな?」
「ええ」
「うん! 聞かせて!」
 預言書に選ばれたティアは四人の精霊たちをみることはできるものの、他の精霊はみたことも感じたこともない。ぜひ教えてほしいとティアは思う。
 純粋な光を宿したティアの瞳を満足気に見下ろして、ウルは子守唄を歌うように語りだす。
「世界の片隅に、ある精霊が在りました。精霊は永い長い時を、過ごしていました」
 ウルの指が、優しく慈しむようにティアの髪を撫でつける。その心地よさに目を細めながら、ティアは話の続きをじっと待つ。
「彼には仲間と呼べるものたちもいましたが、顔を合わせることはほとんどなく、いつも一人でした」
「みんなもそうだよね。精霊って大変なんだね……。一人ぼっちは、寂しくなかったのかな」
 自分がもしそうだったなら、きっと寂しくて悲しいだろう。眉を下げたティアの問いに、ウルは小さく笑った。
「そうですね、彼にはそれが当たり前だったのですよ。だから、何の疑問も持つことなく、精霊はずっと一人だったんです」
 気付かなければ、寂しく感じることもない。そう言うウルの言葉はもっともなのかもしれないが、やはりティアは納得いかずに唸った。
 むむむ、と悩む可愛らしい様子にさらに笑みを深くして、ウルは続ける。
「そんなあるとき、とある場所で眠りについていた精霊のもとへ、人間の少女がやってきました。まっすぐに見上げられていることを感じながら、役目を果たすときがきたのだと精霊は悟りました」
 切れ長の瞳がティアを覗き込んでくる。最初は見られることさえ恥ずかしくて戸惑ったが、今はその視線をしっかりと受け止めることができる。こんな宝石のような瞳から目を逸らすなんて、もったいない。
 もしかしたら、その少女はウルのように綺麗な瞳だったのかもしれない。
 じっとティアが見返せば、ウルが肩を揺らして深い息を零した。
「そして、精霊はその少女に力を貸すことにしました。それは、彼がこれまで幾度も幾度も繰り返したこと。そこに特別なものなどなにもない。成すべきことを成すだけだと――そう、精霊は思っていました」
「違ったの?」
 髪を撫でていた指が、ティアの頬に滑り落ちてくる。その柔らかさを確かめるように蠢く感触がくすぐったい。思わず笑うと、ウルが額に口付けをひとつ贈ってくれた。
「ええ。精霊は自分の異変が起こっていることに気付いたのです。少女のそばにいると楽しい。役に立てることが何よりも嬉しい。いつの間にか、そう感じるようになっていたのです」
 鼻先が触れ合うほどの近くで、ウルはどこかうっとりとした色を乗せて、言葉をつむぐ。
「これまで彼が過ごしてきた時間のうちで、そんなことは一度もなく、精霊は戸惑いました。身体の内を焦がすような感情も、身体の芯を震わせるような感情も、知識深いと自負する彼は知らなかった」
「精霊はずっと一人だったからわからなかったのかな?」
「そうですね。それは、相手がいなければ成り立つことのないものですからね」
 少しだけその口調に苦いものが混じったような気がして、ティアは首を傾げた。視界いっぱいにうつるウルの表情は、どこか自嘲気味にみえた。
「精霊は、どうして彼女にだけそんな感情を抱くのかわかりません。なぜならば、精霊と人ではあまりにも違うからです」
「そんなに違う……?」
「その存在の成り立ちも、その存在する意味も、流れる時間の速さも違いますよ」
 そんな風にいわれると、自分たちはどうなのかと思ってしまう。誰よりも何よりも一番近くに互いがいるというのに。ウルと自分のようにわかりあえる結末を思い描きながら、ティアはウルを促した。
「でも、精霊はそれでも傍にいたい。自分だけを見つめて欲しい――そう願ってやまなかった。そんな己に気付いたとき、その感情に名前があることに、精霊はようやく思い至ったのです」
 一呼吸置いたウルの瞳が、やけに愛しげな視線を向けてくる。むかしがたりをされているだけだというのに、ティアの背筋が震えた。
「精霊は少女に恋をしたのだと、そのとき悟ったのです」
 どこか懐かしむような響きの声に、ティアは目を伏せた。なんだか頬が熱い。まるで、告白されているような錯覚に陥った自分がちょっと恥ずかしくなる。
 ウルはそんな様子に気付いているのかいないのか。まるで睦言を囁くように、ティアへ言葉を落とし続ける。
「その優しさに、ひたむきさに、豊かな感情に、輝く魂に。閉ざされた暗闇の中にある精霊にさえ感じ取れるほど眩く存在するその少女に、恋焦がれた」
 こんな風に、感情をこめて語ることなんて今までなかったのに。よほど思い入れがあるのかな、などとなんだか照れくさい気分のティアは考える。
「それはやがて愛となり、ただ求めるだけでなく精霊は少女の存在すべてを慈しむようになりました。どれだけ告げても足りないくらいに、精霊は彼女を愛するようになったのです。そして、彼女と永久にともにあることが精霊の望みとなるのに、そう時間はかからなかった」
 でも、なんだろう。この話には身に覚えがあるような気がしてならない。ティアは心の中で首を傾げる。
「そんな想いを秘めたまま、精霊と少女は数々の苦難を乗り越えて深い信頼で結ばれていきました。離れ離れになったときも、精霊は少女を想わぬことはなかった。そして、価値あるものを記すための試練が終わる頃――」

 あれ? とティアは目を瞬かせた。思い当たるところが多すぎる、ような?

「精霊は、小高い丘の上で彼女にその想いを告げました。封印が解け、はじめて目に映す少女はとても愛らしく、精霊はその幸福に感謝した」

 だって、これは。

「奇跡が起きたように、そんな精霊の想いに少女は応えてくれました。そして、」

 まるで自分たちのことのよう、で。

「このように二人は、幸せに今を過ごすようになったのです」

 真っ赤になって黙り込むティアをぎゅうと抱きしめ、ウルは微笑んだ。それは自分が今とても満ち足りていると語っているような笑顔だった。
「あの、そ、それって、むかしがたりじゃないよ、ね……?」
 落ち着かなくて、もぞもぞとウルの腕の中で身じろぎしつつティアがそういえば、どこか悪戯っぽく口の端をあげたお話の主人公が覗き込んでくる。
「そうですね、でも確かに精霊のお話だったでしょう?」
「それは……そうだけどっ」
 でもこれは、単なる惚気話ではなかろうか。
 しかも、それを恋人であるティアにするなんてウルは何を考えているのだろう。
 ティアが頭の天辺から湯気をだしそうなほど顔を真っ赤にして唸れば、そんな心情を察したのかウルは言う。
「知っていて欲しかったのです。私がどんな風にティアを想うようになったのか、どんなに想っているのかを、ね」
「む~……でも、いつも伝わってるよ?」
 そう。ふとしたとき気付く熱い視線に、優しい仕草の指先に、落とされる甘い言葉に、あますところなくウルの感情はこめられている。いくら鈍いといわれるティアでも、さすがにわかるほどだ。それは想い交し合ったあの日から、惜しげもなく与えられ続けている。
「もっとですよ。もっと、もっと……この胸のうちを伝えたい。そうしなければ、自分の感情に私は焼き切れてしまいそうになるんです」
「ウル……?」
 覆いかぶさってきたウルの背に細い腕をまわせば、力強く抱きしめられた。思わず、ティアは熱い息を零して目を閉じた。
 落ち着いた物腰、知的な光を宿した左右色の違う瞳。夜空をかける雷色の髪、高価な磁器のように白い肌。
 ティアが愛する精霊の姿は、瞼の裏にいつでも思い浮かべられる。名工の手で作り上げられたようなその美しさの裏に、こんな激しさが隠されていたなんて、恋人同士になるまでは思いもしなかった。
 じんわりと胸に広がる甘い疼きが心地よい。ウルの首筋に頬を摺り寄せてティアは小さく微笑んだ。
 好きという感情をもてあましたウルが可愛いなんていったら、どんな顔をするだろう。いつか、いってみようか。そんな自分の想像に、くすくすとティアは声を転がした。
 目を開けて、その金の髪のきらめきを記憶に焼き付けながら、告げる。
「じゃあ、たくさんたくさん教えて? ウルがどんなに、私のことを好きなのか」
 それでウルが満足するのなら、どれほどのものでも受け止めてみせる。そんなティアの言葉に、ウルが動いた。ティアを見下ろして艶めいた笑みを浮かべながら、ウルはその小さな手をベッドに縫い付ける。
「もちろんです。ティアが溺れるほどに……教えて差し上げますよ」
 そういいながら、ウルは頭を下げてゆく。こぼれ落ちた髪の合間、影の底できらめく瞳がみえた。互いの視線が絡まると、ぼうっとティアの頭の芯が痺れていく。この色づいた視線は、だめだ。何にも考えられなくなる。ウルの押し殺した笑い声が聞こえてくる。
「ティアは私のことだけ、考えていてください」
 そうして、心臓に口付けるようにウルの唇が胸もとに落ちてきて――ティアは大きく身を震わせた。
 ウル以外のこと考える余裕なんてないよ。
 そういおうとしても、身体をなぞる唇の感触にティアは喉を逸らすことしかできなかった。

 こうして、今宵のむかしがたりは、静かに幕が引かれていく。
 帳が落ちた舞台に残るは、ただ微かに漏れ重なるふたつの吐息だけ。
 それは優しく甘く、静かに夜の闇に響いて溶けた。