あなたのことなら

 赤々と燃える暖炉の火から発せられる、柔らかな温度に満たされた小さな家。
 そこに軽やかに響くのは、愛しい少女のささやかな歌声。
 ふわりと漂う、彼女の好きな紅茶の香り。飲み物にこれといって思い入れはないが、いつのまにか自分も柑橘系のこの匂いを好ましく思うようになってしまった。
 そんな自分がここにいることが不思議でならないうえに、こんな穏やかなさにまだ慣れていなくて、レクスは居心地悪そうにテーブルの表面を指先で叩いた。
 つい先日まで荒れていて、ティアにはたくさんの迷惑をかけて。親友といっていたくせに、女の子として好きになってしまって――堪えきれずに告白したら、思いもかけず受け入れてもらえて。そして、こうして恋人同士として二人、同じ空間で同じ時を過ごしている。

 これ、夢なんじゃねぇの?

 機嫌よくお茶を淹れているティアの後姿を、ぼんやりと眺めながらレクスはそんなことを思う。
 ついつい、ぎゅっと自分の頬を抓ってみる。痛い。
 現実だとわかっているくせに、確かめずにはいられない自分がつくづく馬鹿だと思う。しかし、ぱちんと眠りから覚めるときのように、すべてはじけて壊れてしまったら。たまったものではない。きっと、立ち直れないだろう。
 火傷したときのような鈍い感覚を訴える頬を撫でながら、じーっとティアをみつめる。さらさらとした明るい色の髪も、細くすらりとした少女らしい手足も、この可憐な声も。自分だけに向けられる、彼女の想いも。
 これからさきの自分に与えられた時間がどれだけあるかは知らないが、その終わりまで決して失いたくないくらいに――好きだ。
 ふと湧き上がる、自分でない誰かを愛おしく尊ぶ、そんな気持ち。ちゃんと理解している事実であるというに、それでも「さらに思い知れ」といわんばかりに滾々と泉のごとく胸の奥から溢れてくる。
 その透明さに眩暈がする。
 なんの見返りも求めず、ただ純粋に相手を想うなんてありえないと、馬鹿にさえしていたのに。まさか自分がそうなることなど、レクスはティアに恋するまで想像もしなかった。
 なんとなく。音にはせず、ぱくぱくと唇を想いの形に動かしてみる。

 ――好きだぜ、ティア。

 読唇術でも得ていなければ、決して届くはずがないもの。それは他愛のない児戯に等しい。そして、ティアはレクスに対し背を向けている。みられる心配はない。だからこそ、レクスは安心して幾度もそれを繰り返す。
 レクスが満足し、口を閉じたのを見計らったように、くるりとティアがこちらを振り返る。どうやらお茶を淹れ終わったらしい。
 そのタイミングの良さに、びくりとレクスはわずかに肩を跳ねさせる。しかし、声に出していないはず、聞かれてはいないはず、だから大丈夫だと、己に言い聞かせて胸を宥めた。
 そんな動揺で、身の内をざわめかせるレクスと目があったティアが、にこりと微笑む。その可愛らしさに、驚いて走り出していた心臓の鼓動が甘いものに変化する。
 レクスは、じんわりと頬が熱くなるのを感じた。先ほど自分で抓ったものときとは違う、その感覚に呻く。
 恋することは素晴らしいが、同時にひどくみっともない想いをすることもある。そんなことをいっていたのは誰だったか。今の自分がまさにそれ。恋人に笑いかけられただけで、頬を染めるなんて格好悪いような気がした。
 お茶を注いだティーカップを手に、ティアが上機嫌に近づいてくる。レクスの前に、専用のカップを置いて、ティアが嬉しそうに口を開く。

「私も大好きだよ、レクス」

「……っ」
 いわれたことを理解して一瞬の後。レクスは、顔全体をはっきりとわかるほどの朱色に染めた。レクスがついさきほどまで想い、口を動かしていた事に対する答えのようなその言葉に、頭の中が一瞬にして沸騰する。血液のめぐりが加速する。
「はぁ!? な、な、なにを急に、い、い、いってんだよ!」
 思わず席を立ちかけるのをかろうじて堪え、レクスは声を上げた。ばん、とテーブルを叩いたせいで、わずかに跳ねたカップの中の紅茶が、ゆるりとたゆたう。
 大きな声にも、叩いた音にも、とくに驚いたりひるんだりすることもなく。レクスの傍らに立ったまま、ティアがきょとんと首を傾げる。
「え? だって、レクス『好きだ』っていってくれたから」
 お返しの告白です。
 あっけらかんとしたティアの顔には、そう書いてあるようにみえた。
「……オレ、声にしてたか……?」
 素直な疑問を掠れた声でレクスは落とした。それは、ティアのいうとおりだということを自ら肯定するものであるのだが――レクスはそれに気付かず、拳を握り締めた。
 そんなはずはない、そんなはずはない。
 深い皺を眉間に刻み、ぶつぶつと繰り返しながら己の行動を振り返る。  記憶を大急ぎでひっくり返してみても、言ってはいない。ならば、どうしてティアはそんなことをいうのだろう。
 疑問や羞恥、不可思議さにレクスがぐちゃぐちゃになった思考を放棄したくなる前に、ティアがゆるりと頭を振った。さらさらと、髪がそれにあわせて踊る。
「ううん」
 声にはしてないよ、と暢気な声ティアがいう。それは、レクスの記憶を裏付けるもの。だが、それでは余計に疑問が深くなる。

 わけがわからねぇ。

 レクスは、まともに機能しなくなった頭を抱えた。
「ふふ、私ちゃんとレクスの恋人だもん」
 えっへんと薄い胸を張り、ティアは誇らしげにそういってのけた。だがそれは、理由になっているようで、根本的な回答にはなっていない。
 しかし、その言葉には、そうだな、と頷きたくなるような力強さが宿っている。レクスは、腹の底から息をつくことしかできなかった。
「……女ってよくわかんねぇ」
 レクスが感心したような呆れたような、そんな声でようやく吐き出した言葉に、ティアが笑う。
「あのね、恋する女の子ってね、凄いんだよ?」
「なんだそりゃ。誰の受け売りだよ」
 どうせ誰かに吹き込まれたに違いないというレクスの考えどおり、よくわかったね、とティアがなぜか嬉しそうに目を細めた。
「ファナがそういってたの」
 そんなとこだろうと思った。ティアの幼馴染であるという少女の姿を、レクスは脳裏に浮かべた。いかにも夢見がちな少女たち同士の会話らしいではないか。
 ティアが、何かを迎え入れるように両の腕を広げた。にこにことしながら、いう。
「恋をしたら大好きな人がいればなんだってできるし、大好きな人のことはすぐにわかるようになるんだって」
 大好き大好きと臆面もなく繰り返して、ティアは恥ずかしくないのだろうか。
「だから、私はレクスが『好き』っていってくれたのが、わかったんだよ。ファナにきいたときは、ちょっとだけね、ほんとかな? って思ってたんだけど……」
 でも今体験したから間違いないよ、と。晴れ晴れとした顔で自信満々にそういわれてしまえば悪い気はしない。どうしてそうなるかという理屈は、説明されてもいまいちよくわからないが――なんにせよ、自分の気持ちはどうあっても、ティアに届くらしい。
「……そうかよ」
 得意げに腰に手を当てて頷くティアの表情に、ついつい頬が緩む。
 預言書の持ち主なんだから、なんでもできて当たり前だろ、といいたかったけれど。からからに乾いた喉が、それを阻む。それにきっと、預言書がなくてもティアは自分のことをわかってくれるだろうからとも思う。
 ああ、ちくしょう。ほんとなんでこんなに……好きになっちまったんだ?
 レクスは堪えきれない想いに突き上げられるように立ち上がり、手を伸ばした。そのまま、近くにいるティアを引き寄せ抱きしめる。
 きゃ、と小さな悲鳴のような歓声のような声があがる。そしてくすくすと笑いだしたティアを、力一杯抱きしめる。
 思いっきり力を込めた後、そっとその顔を覗き込む。
 ふんわりと色づいた表情のまま、ティアが幸せそうに身を預けてくる。やわらかな空気を振りまきながら、可憐な唇が動く。
 音のない仕草だけ。ティアほどわかるようにはまだかかるのかもしれないが、目の前にいるレクスには、ちゃんとその唇が伝えようとするものは届いた。

 だいすき――オレもだ

 応えて小さく唇を動かしたレクスもまた、笑った。
 ティアがきゅうと目を細め、レクスの背へと回した小さな手に力を込めてくる。
 お金がなくても、質素な家でも。こうして音にせずとも通じる相手がいる。わかってくれる。想ってくれる。
 そんなティアがいてくれる自分は、世界で一番の幸せ者なのだと。レクスは、つくづくそう思った。