ねことさかな

 本日も晴天なり、晴天なり。
 そんなことを思いながら、ティアは歴史の連なりを色濃く残すローアンの街並みを横目に、石畳を軽やかに歩いていく。
 青い空には白い雲。西に傾いた太陽からは、気持ちのよい光が降り注ぐ。時折吹く風はすでに夏の匂いをはらみ、木々の梢や花々や、ティアの髪を悪戯にくすぐっては去っていく。
 心地よい季節になった街の片隅、とんとん、と占い横丁への階段をおりていたティアの横手から、黒い影が飛び出した。
「きゃ……!」
 つい足をとめると。

 ――にゃー

 目の前で、細くしなやかな黒猫が、金色の瞳でティアをみあげてひとつ鳴いた。
 長い髭をそよと揺らした、野良にしては美しい毛並みをしている。ティアを値踏みするように、すうと猫の目が三日月のように細くなる。艶美さを身にまとう美女のごとき仕草だ。そのくせ、その口から漏れるのは、可愛らしい声。
 いきなりのことで驚かされたものの、その差にティアはついつい微笑んだ。
「こんにちは、ネコさん。どこにいくの?」
 ティアの言葉に応えるように、にゃ、と小さく声を漏らした後、猫は歩き出す。
 足音をたてることなく、身軽に階段を駆け下りて、猫はティアが行こうとしていた方向とおなじ場所をめざすように歩いていく。
 ティアは、靴音を鳴らしながらそのあとをついていく。まるで猫に案内されているような気分になってくる。
 ティアがそんなことを考えていると、かすかに振り返った猫が、「なにか?」というようにまた鳴いた。
 まるで人間の心がわかるみたいな賢さを垣間見せる猫に、ティアは感心して小さく笑った。
 やがて一人と一匹は街の西の端へとたどり着いた。そこには作りかけの橋と、その向こうを流れる小川がある。静かに流れる川の水面には、きらきらと宝石を撒いたように光が踊っていた。
 工事半ばで放置されている木造の橋の上に、青い髪をそよがせた少年がひとり釣り糸をたらしている。
 それは、ティアが会いにきた人物だった。
 降り注ぐ日光と、それを反射する川の眩しさを、長いまつげでさえぎるようにしながら、足を止める。
 視界にうつるその見慣れた後姿に、なんとなくほっとする。今日はとくに用事があるわけではなかったが、顔がみたいとふと思ったのだ。
 そんなレクスの後ろ。ティアの位置よりももっと近く。でもレクスよりはいくばか離れたところで、黒猫がよく訓練された犬のように、お行儀よくお座りをする。
 もぞもぞと足を動かし、きちんと揃える。長い尻尾は、くるりと後ろから前へと足に沿うように巻きつけて。

 ――にゃあ

 そうして大きくひとつ鳴いて。ぴんと三角の耳を立たせ、きりりと前を見据える。
「???」
 なにをしているのだろう。
 じいっと何かを待つような猫の後姿と、レクスの背中を交互に見遣る。
 と。
 少しして、レクスがひょいと竿をふりあげた。
 小さな魚が水面を突き破って飛び出してくる。
 細かな水しぶきを撒き散らし、陸にあげらえた魚からレクスはちょいちょいと、手馴れた仕草で釣り針をはずし――ぽい、と振り返ることなく後ろにほうりなげる。
 それを待ち構えていたように、猫がそれに素早く飛びつく。
 あ、とティアは声を出しそうになった。
 人間にしては小さいと思うような魚でも、小柄な猫にとっては大物だ。
 口いっぱいにそれをくわえ、猫は上機嫌をあらわしているように尻尾を立てて、颯爽と占い横丁に立ち並ぶ家々の間へと消えていった。
 魚のご相伴に預かるために、猫はやってきたのだろう。
 これから獲物をとられないように、どこかで食べるのだろうか。それとも仲間と一緒に食べたりするのだろうか。
 当たり前に行われた目の前の光景に、ティアは目を瞬かせ、そして声を漏らさぬように気をつけて笑った。
 そして、ととと、とティアは猫がいた場所にいき。
「にゃあ」
 と、それらしく鳴いてみせた。
 ぴく、とレクスの肩が動く。
 おかしいと思ったのだろう。
「なんだよ、いま魚やっただろうが――」
 気だるげな様子で振り返り――にこにこと微笑むティアをみて、レクスは一息で真っ赤になった。
「ティ、ティア!?」
 いつからそこに……!? と、引き攣った声をあげるレクスに、ティアは今度こそ声をあげて笑った。
「えへへー、レクスってばやさしいんだねー!」
 スキップするようにして近づくと、ぷいっとそっぽを向かれた。どうやら機嫌を損ねたらしい。
 だけど。
「ちげーよ! ばかっ! あんまり後ろで鳴かれてもうるせぇから、たまたま情けをかけてやっただけだ!」
 耳まで真っ赤になっていると、説得力がまるでない。
 それにレクスは気付いているのかいないのか。まあ、気付いていたところでこの意地っ張りな少年は、つっけんどんな物言いしかしないのだろうけど。
 大体、あの猫の様子から、たまたまなんてことはありえない。猫もレクスも慣れきっていたではないか。
 でもそこを指摘すると、きっとレクスはますますへそを曲げるだろう。
「ふふっ、じゃあそういうことにしておくね」
「そういうことにしておくじゃねぇよ! そういうことなんだよ!」
 ティアが一歩引いた形で話しをおさめようとしても、レクスは納得いかないらしく声を荒げている。
 まったく素直じゃないんだから。そう思いながら、ティアはレクスの近くにおいてあるバケツを、ひょいと覗き込んだ。
 そこには丸々とした魚がはいっている。あとは小さめのが数匹。
「あ、大きいの釣れてるね」
 感心したように頷くと、は、とレクスが鼻で笑った。
「おまえと一緒にすんなっつーの」
「うん、そうだねー、さすがレクス!」
 ティアは満面の笑みで大きく頷く。まったくもってそのとおりだ。自分などレクスの倍の時間をかけたところで、小魚が一匹連れればいいところである。
 手放しに賞賛すれば、う、とレクスが口を引き結んだ。
 傍から見れば、むすっとした不機嫌極まりない顔だけれど、ティアにはわかる。
 レクスが、照れているのだということが。
 首筋まで赤くしつつあるレクスをみながら、ティアはころころと笑った。
 見透かされていることは、きっとわかっているのだろう。
 前を向き、ぶちぶちと聞き取れないくらいの小声で何かいっていたレクスが、竿を引き戻す。
 そうして、釣り糸が絡まぬよう、釣り針がどこかへひっかからぬように片付ける。
 もう終わりなのかな、と思っていると。
「今日、うちで飯くってけ」
 立ち上がったレクスからの急な言葉に、ティアはすぐに反応ができなかった。数秒の間があく。
「え?」
「なんだよ、いやなのかよ」
 あの猫のように、すう、と目を細めるレクスに、ティアは大きく首を振った。
「ううん! そんなことないよっ」
 考えてみれば、もう夕刻間近である。そろそろ一般の家庭でも、夕食の支度を始めるお母さんたちが、市場に買出しにいったり、下ごしらえを始めるであろう頃合だ。
 今日の食事のことを考えていなかったティアにとっては、この申し出は渡りに船。
 レクスからの夕食の誘いに、ティアは嬉しくて微笑んだ。ここ最近は、ティアの家にレクスが入り浸っていることが多いから、レクスの手料理なんて久しぶりだ。
「でもめずらしいね、どうしたの?」
 レクスをみあげて問いかけると、にやりともちあがる口の端。
 ぞわわ、と嫌な予感がティアの背を這いずり回った。
「魚、食いたいんだろ?」
「……ふぇ?」
 きょとん、とティアは首を傾げる。
 確かに、ティアは魚が好きだけれど。今日食べたいとはいっていないはずだ。
「さっき鳴き声がきこえたからな~」
 赤い瞳が、楽しげに揺らぐ。
「???」
 意味がわからず、さらに疑問符を浮かべたティアに対し。
「腹空かせてる猫に餌やるなんて、オレってばやさしー」
 にやりと意地悪そうに笑ったレクスに、わざとらしい口調でそういわれ――はた、とティアは固まった。
 さきほど、魚のお零れに預かっていた猫と同じ場所で、同じように声あげたのは誰だったか。
 自分、だ。
 つまり、レクスは「お腹がへった猫=ティア」といいたいのだろう。
 子供じみた意趣返しに、かあああ、と今度はティアのほうがさきほどのレクスのように頬に朱を散らす番だった。
「……もぉおおお!」
 ティアは真っ赤な顔をしてレクスに詰め寄った。
「ち、ちがうもん! さっきのは、ちょっと猫さんの真似をしただけであって……! 私のことじゃないもん!」
 レクスと猫のやりとりが微笑ましかったから、やってみただけなのに。
「それじゃあ、まるで私が食いしん坊みたいじゃないっ」
 そう抗議するも、レクスはひょいと肩をすくめ、わざとらしく目を逸らすだけだ。
「へぇへぇ、猫は魚が好きだもんなぁ。ほら、大好きな飯のもとがはいったバケツ、もってこいよ」
 そういって、レクスは釣竿を片手に歩き出す。
「だから違うんだってばー!」
 そういいながらも、ティアはちゃんといわれたとおりにバケツを手に取った。水と魚が入っていて重い。
 よろよろとしながら追いかけると、先に歩いているレクスがニヤニヤと振り返った。
「よかったな、オレが釣りの名人で。たくさん食べられそうじゃねーか」
「こ、こんなに食べないもん!」
 ちゃぷ、と水の中で泳ぐ魚たちは一人で食べるには多すぎる。
 だが、レクスは「へぇへぇ」と肩をすくめて、大仰に首を振る。
「あんまり食べると太っちまうぞ」
 ティアの抗議を聞き流し、「気をつけろよ」などと言いながら、レクスは川近くに建っている自分の家の扉をあけはなち、中へと入っていく。
「もう、レクスってば、待って!」
 じゃれあうような言葉を交わしながら、ティアはレクスに続いて、その家へと駆け込んだ。

 だが結局。
「おいしー!」
 二人一緒に作った魚料理を、質素なテーブルに並べ、レクスと向かいあうようにして座ったティアは、一口食べた直後蕩けるように笑った。
 そのまま、ぱくぱくと魚を頬張りはじめると、レクスが呆れたようにいう。
「まだあるからゆっくり食えよ」
「うん!」
 ティアは大きく頷いて、レクスに笑い返す。
 美味しい食事は人を幸せにする。そういっていたのは誰だったろう。
 でも、それよりもなによりも、誰かと一緒に楽しく食べることが、一番の調味料になるんじゃないかなぁ――ティアはそんなことを考えながら、もう一口、魚を頬張る。
 それが、大好きな人ならなおのこと。
 ティアは、にこにことレクスを見つめた。
 口を動かせば、やはり美味しさと幸せが、そこから全身に広がっていく。
 レクスが小さく微笑む。いつものような笑い方ではなく、穏やかそうな表情だ。
 どうしたのかな、と思ったらレクスの唇がわずかに動く。
「……やっぱり猫みてぇ」
「え? なぁに、レクス?」
 く、と喉を鳴らしたレクスの楽しげな呟きは、ティアにはよく聞こえなかった。聞き返すものの、レクスは手を振るだけ。
「なんでもねーよ。っていうか、おまえ一人で食うなよ! オレの分なくなるだろ!」
「だって美味しいだもん!」
 にゅ、と伸びたフォークが魚をさらって行くのを見送りながら、「ごめんね」とティアは悪びれた風もなく笑った。

 こうしていつまでも楽しく美味しく、ご飯を食べられたらいいね――二人、一緒に。

 食事が終わってそう言ったなら、レクスはどんな顔をして、どんな言葉を返してくれるだろう。
 ほんの少し先の未来に思い馳せながら、ティアはもう一口、ふるりと震えるような白身を口に運ぶのだった。