崩れる砦

「今日はいいお天気だねぇ~」
「そうだな」
 晴れた日の暖かな陽光の下、ぽかぽかと陽だまりで寄り添う猫のように、レクスはティアと一緒に釣り糸をたらしていた。
 川面から時折吹く風は少し冷たいが、それは前髪を僅かに揺らす程度で、さほど気にはならない。ちら、と視線を横に向ければ、とろとろと眠っていってしまいそうなほど、幸せそうな顔をしたティアがいる。ぼーっとしているその様子は、ほんとうに夢の世界に片足をいれてしまっているようだ。
 随分とまあ、幸せそうなこって――く、とレクスは笑って前に向き直った。
 その瞬間、ぴく、とレクスの釣竿から伸びる浮きの隣の浮きが、動いた。
 お、と思っている間に、その動きは大きくなっていく。だが、それが繋がった竿を持っているティアは、動かない。
「おい、ティア、ひいてるぞ!」
「……ふぇ?……うわ、わわっ、と、と!」
 ぱちん、と意識が弾けたような顔をして、立ち上がったティアが慌てて竿を引く。だが、少しばかり遅かったようだ。
 軽くなった浮きが、餌をなくした釣り針とともに岸辺へと戻ってくる。
「あーあー……」
 それをみて、かっくりと肩を落とすティアに、意地悪な笑いがこみあげるのが抑えられない。
「どんくせー!」
 堪えるつもりもなく、けたけたと笑ってやると、ティアが悔しそうに顔を赤くした。
「もう! レクスも気付いてたんならもっと早くいってよぉ!」
 完全なやつあたりである。
 ぷりぷりと真っ赤な顔でそういわれても、迫力なんて微塵もない。はっとレクスは鼻で笑った。
「あんだけ引いてて、気付かないほうがどうかしてんだろ。ティア、おまえいつの間に、目を開けたまま眠れるようになったんだ?」
「~~~っ! そ、そんなことできるわけないでしょ! 確かにちょっとだけ、ほんとにちょっとだけ、ぼーっとしてたかもしれないけど――寝てたりなんて、してないもん!」
「ほぉ~?」
 懸命にいいわけをするその様を、にやにやと笑って眺めていると、ティアがぷいっとそっぽを向いた。
「次はちゃんと釣り上げてみせるもん!」
「へぇへぇ、ま、がんばりな」
 そういって、レクスは己の浮きに目を落とす。こんな会話をしていて釣り時を見逃したら、ティアのことを笑ってなどいられない。もしそんなことになったら、仕返しとばかりに何を言われることか。
 ゆったりとした流れの川、木の葉がくるくると回って下流へと旅立っていく。まあ、この陽気と、静かな空気、溜まった穏やかさに、眠気を誘われるのは致し方ない。そんなことを考えていると。
「きゃぁっ」
 隣であがった短い悲鳴に、レクスが何気なく顔を向けると。
 竿をもったまま、じたばたとしているティアがいた。奇妙な踊りのような、その動きをしばし眺める。
「……なにしてんだよ」
 一向におさまる様子がないので、思わずそう呟いた。ティアの瞳に、じわりと浮かぶもの。ぷるぷると震えながら、ティアがいう。
「レクス……、ひっかかっちゃった……」
「……」
 みれば、釣り針が、ティアの上着の襟にひっかかっている。それを、なんとか取ろうとしていたらしい。がっくりと、今度はレクスのほうが肩を落とす番だった。
「ほんと、どんくせえ……」
 一体、なにをどうやったらそんなことになるのか。当の本人にきいても、気付いたらそうなっていたのだから仕方がない、というのだろう。
「もうっ! そんなこといわないでとってよ~!」
 涙目を堪え、恥ずかしさで一向に赤みのひかない頬を晒して叫ぶティアに、レクスの全身の力が抜けてゆく。やはり、ティアには自分がついていないとだめだ。こんなこともまともにできないやつが、一人で生きていけるわけがない。親友として、自分がしっかりしなければ。
「へえへえ」
 ぞんざいな返事を返しながら釣竿をおろし、ティアの後ろに回りこむ。
「おい、あんまり竿ひっぱるなよ」
「う~」
 力任せにひっぱったところで、返しのついた釣り針がおいそれと外れるわけもない。めくりあがった襟に触れながらレクスがいうと、ティアはおとなしく従った。
 無防備極まりなく後姿をさらすティアの、白く細い首筋と、そこにかかる髪の色鮮やかさが、視界に飛び込んでくる。
 その対比に、レクスは思わず目を細めた。
 じっと自分を信じて待つその姿に、とくんとひとつ心臓が痛く跳ねた。
 風が吹く。ふわり、ティアを通して吹き寄せる香り。自分のものとも、男の友人たちのどれとも違う、それ。
 あたたかな太陽のにおいと、花のような香りがする。
 釣りの前に、魔女と名高いナナイの家にいっていたというし、これはなにかの魔女の薬なのかもしれない。
 意識が一瞬だけ、ぶれるような感覚。せせらぎも、梢の音も、どこかへ遠ざかるような、不思議な感じに囚われる。
 気付けば、レクスは手を伸ばしていた。
「おまえ、いいにおいするな……」
 髪に指先に絡めると、ぴくりとティアが反応した。
「レクス……?」
 あどけない声が、自分の名を呼ぶ。髪が流れて、わずかにティアの面がこちらを向いた。
「っ!」
 大きな瞳に、みつめられる。レクスは、魂が抜かれたような、間の抜けた自分の顔をそこにみつけ、ぼっと頬を染めた。
「ぇ……?」
 思った以上に顔が近かったせいか、レクスにつられたのか。ティアもまた、ようやく白さを取り戻しかけていた頬を、再び染めた。
 かあっと互いに顔を真っ赤にした二人は、そのまま固まったようにしばし見詰め合う。
 なんでもない――なんで赤くなるんだよ――針はまだとれてねーからあっちむけ――
 そんな言葉がでかかるが、喉の奥にぴったりと張り付いて音にならない。
 ティアの長い睫が震える。熟れた小さな果実のような唇から、吐息が漏れる。
 ああ、女の子とは、こんなに繊細に造られた可愛いものだったろうか。いつもみているはずなのに、どうして気付かなかったのだろう。
 いまさら理解した現実に、がんがんと頭の奥で鳴り響く何か。その煩さにさいなまれながら、どきまぎとした挙動不審者そのものの仕草で、レクスは指を動かした。艶やかなティアの髪は、それだけでするりと逃げていく。
 ――もったい、ない。
 ゆるゆるとティアの瞼が落ちる。頬に影を落としながら、何かを待つように唇が震えている。
 くちづけたい。
 そんな欲望が脳裏にゆらりとにじみ出る。
 バカな!
 ぎゅ、と拳を握り締め。レクスは目を見開く。ティアの瞳が甘く揺れる。誘われてしまいそうで、レクスは心の中で叫んだ。
 ティアは親友だ。互いに手を取り合って生きてきた。そうしてこれからもそうであるべき、親友だ。レクスが、目をかけ手を伸ばさなければ生きていけない、か弱い存在だ。さっき、そう思ったばかりじゃねーか!
 ぎり、とレクスは歯軋りをして。がっしと、ティアの頭を掴んだ。ぐいっとおかまいなしの力で、ティアの顔を前に向けようとする。
「わあ!」
「まだ取れてねーよ! 前向いてろ、前!」
「いた、いたたっ」
 きゃーきゃーと叫ぶティアの顔を無理やり戻し、レクスはほっと息をついた。
 どきどきと高鳴った心臓も、熱くて仕方のない頬も、どうしてそうなったのかわからない。考えたくもない。もしそうしたならば、知ってはいけない答えにたどり着きそうだった。
 レクスはこれ以上、ティアのことで動悸息切れをしないためにも、素早くコートの襟に手を伸ばした。
「あーあー、随分食い込んでるぜ? なにやってんだか!」
「うう~! 好きでやったんじゃないもん! レクスの意地悪!」
 怒るティアの耳が、やけに赤い。
 ああ、どうしよう。この針が取れたら。オレはどんな顔でティアと向き合えばいいのだろう。
 そう思うと、自然と手の動きは鈍くなる。
 ああ、はやくはやく。川面の風に頬よ、冷めておくれ。
 針の返しで生地を傷めぬよう気をつけて、レクスはひどくゆっくりとそれを外した。
「――とれたぜ」
「うん、ありがとう、レクス」
 そういって、さっきのようにティアが振り返る。えへ、と笑う顔はいつもどおりのものだった。
 ただ、その顔は相変わらず赤い。そのまま食べれるんじゃないかってくらい、熟れている。
 そんなティアと、一瞬だけ視線が絡む。ぱっと、ティアが目を逸らした。
「こ、今度はひっかけたりしないから! だいじょうぶだから!」
 レクスがもったままの釣り針を、白く細い指がそっと摘む。わずかに触れた肌にさえ、レクスはくらくらと眩暈を覚えた。
 そうして、ティアがひょいとしゃがみこむ。二人兼用の餌いれから、丁度よさそうなものを探し出そうとしている。ふわりと風が吹いて、またあの香りがした。
 なんだ、これは。
 自分はおかしいおかしい。
「わ、わりぃ、ティア。ちょっと家にいってくる」
「う、うん、わかった。じゃあ先に、つ、釣ってる、から」
 ティアは、ちょっとだけレクスを見上げ、そうしてまたすぐに顔を戻した。
「おう」
 レクスは、口元に手を当てたまま踵を返した。
 少しだけ歩みを遅くして、振り返る。
 しゃがみこんで、えさをつけようと四苦八苦している小さな後姿を、衝動的に抱きしめたいと思った。
 ぶんぶんとレクスは頭を振る。だめだ、今日の自分はおかしい、おかしすぎる!
 レクスは身を翻し走り出した。ひゅうと風をきれば、温かな空気が名残惜しそうに、レクスの身体からはがれていく。
 勢いよく道を駆け抜けて、川べり近くの自分の家へと飛び込んだ。
 ぜえぜえと息をつき、閉じた扉に背をつけて座り込む。
 ここで落ち着いてから戻ろう。
 この心臓が、この頬が、いつもの自分のものになったなら。
「ティア……」
 は、とため息とともにその名を呼べば、ぎゅっと胸がわしづかみにされた。
「なんなんだよ、ちくしょう……」
 レクスは、ぐいと頬から熱い息を零す口元を強くこすった。立てた片膝に額を押し付けて、目を閉じる。
 ちらちらと、脳裏を過ぎ行く光にさえ目が焼かれそうだ。その中心にあるのは、ティアの笑顔とそのはかない姿。
 とても――愛しい――と、思った。思ってしまった。親友なのに。親友に、そんなこと思うことなんて、ないはずなのに。
 薄暗い室内の中、レクスは深く呼吸を続ける。
 この想いを頑なに認めぬことが、いまにも崩れてしまいそうなレクスの砦を守る、唯一の手段だった。

 火照りは、いまだ冷めない。