ごあいさつ

 今まで自分の家が一番落ち着くと、ナナイは思っていた。この街にきてまじないで生計をたてるにあたり、魔女らしくと雰囲気作りにもこだわった、占い横丁の我が家。だが、それはいまや二番手だ。
 穏やかな空気に満ちた、恋人の家ほど心休まる場所はないと知ってしまった。
 一人で生きていくと決めていた決意が、いかに悲しく寂しいものかを教えてくれた年下の恋人は、テーブルの向こうから今日もにこやかにナナイに微笑みかけている。
 魔女と呼ばれ、恐れられる自分の側にやってきて、あっという間に己の定位置を築いていた男の子。
 そして、そこに彼がいることが当たり前になってしまったナナイが、この少年に心惹かれていると気付くのにさほど時間は必要なかった。ずっと側にいてほしい、否、その側にいたいと願うようになっていった。
 よくもまあ、こんなにほだされたものである。
 しみじみとそう思いながら、ナナイは残っていた紅茶をすべて喉へと流し込む。
 まあ、幸せだからいいんだけどね。
 満たされた心のうちで、そう呟いた次の瞬間。
「じゃあ、そろそろいきましょう」
「え?」
 せっかく恋人との楽しいティータイムを満喫していたというのに。その相手からの言葉は、ナナイの夢見心地の気持ちを容易く弾けさせてしまった。
 突然の一言で、この場に幕を降ろそうとしているユミルは、何を考えているのか読めない笑顔を浮かべている。
 飲み干して空になったばかりの白いティーカップを下ろしながら、ナナイは綺麗な弧を描く眉を寄せた。
「えっと、あなたとどこかへいく約束、していたかしら……?」
「ほら、いつかナナイが言っていたじゃないですか。エエリさんのところに謝りにいくとき、僕も一緒についてきてほしいって」
「ああ」
 合点がいったナナイは思わず頷いた。
 確かに、そんな約束をした。自分が、砂漠でしでかしたこと、そうしてこの街へとたどり着いた経緯をユミルに語ったとき、いつか見えぬ鎖を断ち切るため、サミアドへ帰ることになったら――彼が一緒にきてくれるならば、これほど心強いことはないと思ったのだ。だから、お願いした。
 しかし。
「でも、あたし、今日いくなんていってないわよ」
 いくら記憶の棚を探ったところで、そんな約束をした覚えはない。
 確かに、いつかは祖母へこれまでの謝罪とそれ以上の感謝を伝えねばならないが、実際のところまだ心の整理ができていない。言うべき言葉も、まだ定まっていない。
「僕、エエリさんに用事があるんです。だから、ナナイも今日一緒にいけばいいと思って」
 にこり、と爽やかに微笑まれてナナイは目を瞬かせた。
「そんな話、聞いてないわよ」
「そうですね。今言いましたから」
「……」
 相変わらずの眩い笑顔で、マイペースなことをいうユミルに、ちょっとこめかみが痛くなってくる。思わず、ナナイはそこへ指を当てて揉み解しながら、目を伏せた。
 ここ最近は、いつもこの調子でユミルに振り回されっぱなしだ。
 日常の一場面をとってみても、いつの間にか立場が逆転しているような節がある。
 最初に会ったときは、こんなんじゃなかったような――。
 さほど遠い昔でないことを思い出しながら、小さくため息をつく。
 すると。
「だめですよ、ナナイ。ため息をひとつつくと、幸せがひとつ逃げるらしいですよ」
「!」
 テーブルの上に投げ出していた手が、恭しくとられて持ち上げられる。そのまま、つ、とユミルのほうへと引き寄せられて、ナナイは焦った。
「ちょっと、ユミル!」
「はい?」
 そのまま口付けが指先に落とされそうになり、ナナイは僅かに頬を赤らめて声をあげる。  相変わらずの笑顔を浮かべたままのユミルは、ナナイの手をがっちりと握り締め、離しそうもない。
 諦めたナナイが肩を落とすと、ユミルは小さく笑って、指先にぬくもりをともすようにそっと唇を押し当てた。
 逃げた幸福を倍にして返すような気障な仕草だ。だが、まだ色濃く残る少年っぽさがそれを感じさせない。
 しかし、こんな女ったらしな行動を平気でするような子だなんて、ナナイは全く思っていなかった。ちょっとからかったくらいでひいていた、あの頃の初々しさはどこにいってしまったのか。
 嫌ではないが、気恥ずかしくて、ナナイはぷいと横を向いた。
「いくなら、一人でいってきてちょうだい」
「どうして?」
 きょとんと大きな目を瞬かせるユミルは、本気でそう思っているようで。ナナイは小さく息をついた。
「だって……まだ、おばあちゃんになんて言ったらいいのか、あたし……」
 そういって、ナナイは長い睫を伏せた。俯いた表紙に、鮮烈な赤みをもつ髪が頬に落ちてくる。ユミルに預けたままの指先に、自然と力がこもった。
 そのまま沈黙したナナイを宥めるように、ユミルが笑う。ナナイの手を両手で包み、祈りを捧げるような澄んだ声で言う。
「ナナイの気持ちを、そのまま伝えればいいと思いますよ」
 それは、とても柔らかくて。人を思いやる心に満ち溢れた微笑みだ。ナナイは、ゆっくりと目を見開いた。
「ごめんなさいって――それから、ありがとうって」
 ころり。ナナイの心に、その単純だからこそ想いが一番伝わるだろう言葉が落ちてくる。
 ああ、やはり敵わない。
 自分が持ちえぬその輝きは、とても尊くて眩しくて。目を背けたいはずなのに、手を伸ばさずにはいられない。さすが、預言書に選ばれた奇跡の人。
「……ふふふ、そうね」
 胸をくすぐる感情に、ナナイは顔を綻ばせた。
 ユミルの言うように、そんなに悩む必要なんてないのかもしれない。
 顔を合わせれば解けてゆくものもあるだろう。いつもこの身を案じてくれていた祖母ならば、皺だらけの顔をもっとくしゃくしゃにして、自分を迎え入れてくれるだろう。ならば、その小さな身体を抱きしめて、ごめんなさいとありがとうを伝えれば――きっと、それでいい。
 遠い砂漠の故郷にいる大好きな祖母に思い馳せて、ナナイは目を細める。
「じゃあ、そういうことで行きましょうか」
 席を立ったユミルがナナイの手を名残惜しそうに離したあと、背もたれにかけていた緑のコートを手に取って、笑う。
「さあ、ナナイ」
 向けられるのは暖かな眼差しと、促しの言葉のみ。ユミルから、手は差し伸べられない。
 自分の意思と足で、ナナイが一歩踏み出すのを待っている。その優しい瞳は、幼子が初めて歩く瞬間を見守る、大人のそれに似ている。
 これじゃあ、どっちが大人なのかわからないじゃないの――あたしの方が、ユミルより長く生きているはずなのに。
 ほんの少し頬を膨らませ、ナナイは席をたつ。それを見届けたユミルは、微笑を浮かべたまま、ナナイに背を向けた。
「……こんな強引な子だなんて思ってなかったわ、ホント」
 家の出口に向かうユミルの後ろ姿を追いかけつつ、そう愚痴のように呟けば。
「でも、嫌じゃないですよね?」
 扉をあけて、外からの光を浴びながら――ユミルが、振り返ってそんなことを言う。
「……」
 「はい」も「いいえ」も言えなくて、ナナイは黙り込んだ。本心をすっかり見透かされて、頬がじんわりと熱をもっていく。

 まったく――こっちが色々とリードするつもりだったというのに、このざまはどうしたことだろう!

「ん、もう、覚えてなさいよ。こっちが年上ってこと、すぐに思い出させてあげるんだから」
 照れをひた隠しにして、早口にそう告げる。でもきっとユミルには、それもお見通し。
「あははっ。楽しみです」
 そんなナナイの言葉をなんなく受け止め、ユミルは楽しそうに声を転がした。
 いつのまにかこんなにも余裕をもってしまった恋人が、可愛らしいのか格好いいのか頼もしいのかわからなくなりつつ、ナナイはその隣に並んで歩く。
 あれ、そういえば……。
「聞き忘れていたけれど――ユミル、おばあちゃんに何の用事があるの?」
 ローアンの街の正面入り口付近へと向かいつつ、ふと思ったことを問いかける。
 砂漠の町を再び治めるようになったエエリの知識は、神殿の神官を務めていただけあって深いものだ。それに自分の家にある石版も、もとはエエリが管理していたもの。もしかしたら、預言書のことでなにか尋ねたいことでもあるのかなぁと、そこまでナナイは考えてみる。  が、その予想はすべて綺麗に打ち砕かれる。
「ああ、それはですね」
 足を止めたユミルが、にこりと微笑みながらナナイを見上げる。
 つられて立ち止まったナナイは、その続きを求めて首を傾げた。

「お孫さんを僕のお嫁さんにくださいって、一度きちんとご挨拶に伺わないといけないと思って」

 でも、ご家族に改めてお話するのって、何か緊張しますね――そんなことを、はにかみながら続けるユミルの台詞を、一言一句聞き漏らさなかったナナイは、すべての動きを止めて己の恋人をじっとみつめた。
 見下ろす、わずかに下あるユミルの瞳に嘘偽りは欠片もない。ただひたすら、泉のように澄みきっている。
 嘘なのか冗談なのか本気なのか。
 そんなこと、問う意味なんてないと思わせるそれ。
 一度だけ、心の中でユミルの言葉を反芻してみる。
 つまり、ユミルは結婚の許しを得るために、エエリおばあちゃんのところへいくというわけね。
 ああ、なるほど、なるほど。そういうことかぁ、うん――え?

「!?!?!?!」

 そして。
 すべてを理解したナナイは、妖艶ともいわれる美しい花のごときかんばせを、うぶな少女のように真っ赤に染めて――音を伴わぬ、悲鳴をあげた。