ローアンの街を束ねる町長の庭は、手入れの行き届いた美しい花々に溢れ、蝶がひらひらと行き交っている。
誰しもが心和ませるような場所であるというのに、家へと続く石畳の道の上、シルフィは腕を組んで仁王立ちしたまま、苛々と恋人を待っていた。
まったく、この私を待たせるのも駄目だけど――とにかく、昨日のこと絶対はっきりさせてやるんだから!
昨日の夕方にみかけた光景を思い出すだけで、腹が立つ。おかげで、昨日はよく眠れなかった。
この美貌が損なわれたら、どうしてやろう。シルフィがそんなことを考えている間に。
道の向こうに、緑色の人影がひとつ姿を現した。
大きなバスケットをぶら下げたその人物は、シルフィを見つけるなり、満面の笑顔を浮かべた。
「シルフィ!」
そして名を呼びながら、一直線に駆けてくる。そんな少年の様子にシルフィはきりきりと瞳を吊り上げた。その暢気な笑顔に安心するとともに、苛立ちが募る。
「ユミル、遅いわよっ!」
「え? そんなに遅れたかな?」
今日は待ち合わせの五分くらいまえについていると思うんだけど、と呟くユミルの言葉は正しい。
だが、そんなこと今のシルフィにはどうでもいい。
「ユミル!」
「ん、なに? シルフィ」
問い詰めるように一歩前に踏み出す。しかし、ユミルはにこりと幸せそうに微笑むだけで。その表情に、思わずシルフィは白い肌を桃色に染めた。この暖かな笑みに、シルフィは弱い。
「今日も綺麗だね、シルフィ」
言葉に詰まったシルフィに対し、ユミルは溶けるような甘やかな声音で語りかける。
「あ、あったりまえでしょ! 何いってるのよ!」
エルフである自分が、人間より美しいのは当たり前のことだ。だから、そういわれるのも当たり前のことだというのに――ユミルに言われると、どうしてこんなにも嬉しくて恥ずかしいのだろう。
しかも、照れ隠しがユミルにはまったく通用しないのが、シルフィにはまた悔しい。
すべてわかりきったような穏やかさをたたえたまま、ユミルが頷く。
「うん。でも、やっぱり綺麗なものは綺麗だし。シルフィは、僕にそういわれるのは嫌?」
「そんなこと、ないけど……」
嫌なわけがない。そもそも、そういうことを訊くのはちょっとずるい。むしろ……。
そんなことを思いつつ、シルフィは口ごもる。
結局、「もっと言って欲しい」という可愛らしい願いは、天空塔より高いプライドが邪魔をして言葉にならなかった。
「そっか、よかった!」
素直に喜び胸をなでおろすユミルに思わず見惚れてしまったシルフィは、はっとさきほどまでの苛立ちの原因を思い出した。
ここで流されるわけにはいかない!
「というか、そんなことはどうでもいいのよっ! それよりも、ユミル! 昨日のあれはなんなのよ!」
「え? なんのこと?」
ぐいともう一歩前にでると、さすがのユミルも半歩後退する。そして、思い当たることがないのか、目を瞬かせて僅かに眉を顰めた。
「なによ、とぼけるつもり!? 人間の女の子たちに囲まれて、街中でデレデレしてたくせに……!」
目撃した瞬間のことをまざまざと思い出し、シルフィは拳を握り締めた。
「私という恋人がありながら! どういうことなのっ」
あのあと、あまりのショックに家に飛ぶように家に帰ってしまったことは黙ったまま、シルフィは憤りをユミルにぶつけた。
その様子にまったく動じることなく記憶を辿っていたらしいユミルが、「あ」と声を漏らした。
「ああ、あの子達のことかな?」
「あの子達って……!」
どういう知り合いなのか問い詰めるよりはやく、ユミルは眉を下げて頭を掻いた。
「何かよくわからないけど、つかまっちゃって。早く買い物にいきたかったのに、困っちゃったよ」
「嘘! だって、すごく楽しそうだったわよ!?」
少なくとも、ユミルを取り囲んでいた少女たちは、楽しそうだった。頬を染め、潤んだ瞳で、ユミルをみていた。そう、あれは恋する少女のものだった。
「うーん、僕はあんまり楽しくなかったんだけどなあ」
それ以上の感想はないらしく、ユミルは心底困ったような瞳でシルフィを見つめてくる。
その表情に、シルフィは唇を噛んで俯いた。
本当は、シルフィにだってわかっている。群がる女の子に、ユミルが誰にでもするように、ごく普通に接していたことくらい。
カレイラの英雄で、自分とは違って人当たりもよくて、老若男女問わず人気のあるユミル。目立つ人が好きだとはいったけれど、出会った頃よりユミルはずっと有名になってしまっていて。
だからこそ不安になる。こんな性格のエルフより、一緒にいる友達も多くて、ユミルに優しく接することのできる人間のあの子たちにその心が動いてしまわないか。ユミルのことが大好きだからこそ、怖くなる。
「ねえ……あの、ね……ユミル、やっぱり人間の方がいい……?」
「シルフィ、どうしたの?」
ほろりと零したささやかな問いかけに、目を見開いたユミルが、顔を覗き込んでくる。
思わず本音を滑らせてしまったことに、かっと頭に血を昇らせて、シルフィは慌てふためきながら言葉を重ねる。
「だ、だって私は高貴でなにかも人間より優れたエルフでしょ? だからユミルが気後れしてるんじゃないかって……! そう、思っただけで! べ、別に私が気にしているとかそういうわけじゃ……!」
そんな言葉に、ユミルは斜め上を見上げながら「う~ん」と唸った。
どきどきと返答を待つ間は、やけに長く感じられる。
ユミルの答えがはやくほしい。人間のあの子たちよりも、エルフである自分のほうがいいと、言ってほしい。
祈るような気持ちでユミルを伺っていると、ふいに戻ってきた視線に射抜かれる。目を逸らす前に、ユミルが笑う。
「人間とか、エルフとか関係ないよ? 僕は『シルフィ』が好きなんだから」
思わず息を飲む。ばくん、と心臓がひとつ大きく跳ねた。そして刻まれる早鐘の旋律。
「エルフだから、シルフィが好きなわけじゃない。シルフィが、たまたまエルフだっただけのことだよ。僕が、たまたま人間であっただけのようにね」
真っ赤な顔でぱくぱくと口を動かし、シルフィは強張っていた身体から力を抜いた。
ユミルは、自分というひとつの存在を、好きだと言ってくれている。それは、シルフィ自身の魂や心を、この上なくユミルは尊んでいてくれているということで。
エルフとか人間とか、そんなことにこだわっていた自分がやけに小さく思えた。
「……ふ、ふん! そんなことちゃんとわかってるわよ!」
すごく嬉しいはずなのに、口をついて出る言葉はいつもどおりのつんけんしたもの。だが、ユミルはそんなシルフィの棘さえも包み込むように微笑む。
「そう? でもね、やっぱり言葉にして伝えたいと思うから、僕はいつでも言うよ。君が好きだって」
「か、か、か、勝手にしたらいいでしょ!」
「うん、そうすることにするよ」
ユミルが、そんなことをいつでもいってくれるなら、小さな泡のようにふいに心に浮かぶ不安は、きっとすぐに消えていくことだろう。わかっていてそうしようというのか。それとも、わかっておらずとも、シルフィを喜ばせるようにユミルはできているのか。
どっちでもいいかな、と、シルフィは思う。嬉しいことに変わりはないのだから。
「ところで……」
「っ、なによ!」
ずい、と鼻先を触れ合わせるようにユミルがもうひとつ、二人の間をつめてくる。
「シルフィは? 言ってくれないの?」
「……!」
君の気持ちを教えて。
そう請うユミルの瞳に抗えるものがいるならば、ここに連れてきてほしい。少なくとも、シルフィには無理だ。
「そ、あ……す……」
恋しい人の、熱っぽい視線に抱きすくめられてしまったよう。
「……好き……」
可憐な花びらのような唇を震えさせ、聞こえるかどうかわからぬくらいの、か細い声でシルフィは告げる。頭から湯気が出ているのではないかと、錯覚してしまくらいに顔が熱い。
恋人が、ぱあっと顔を輝かせるのを、ぼんやりと茹った思考を持て余しつつ眺めていると。
ちゅ、とユミルが音をたてて唇を奪っていく。それは、ほんの一瞬のことだった。しかし、シルフィの全身に火をつけるには充分。
全身の毛を逆立て威嚇する猫のように、肩をいからせてシルフィは叫ぶ。
「バカっ! いきなりのキスはなしだって……! いつもいってるでしょ!」
「あ」
ごめんごめんとユミルが眉を下げて笑う。どうして何度言っても直らないのか。
う~っと真っ赤な顔でシルフィが唸っていると、「もう一回、いい?」と、ユミルが律儀に尋ねてくる。
わずかに唇を尖らせ、目を伏せてため息をついて。そんな仕方ない風を装いながら――シルフィは小さく頷いた。
そうして、重ねた視線を瞼の奥にしまう。互いの指を絡めて、唇を寄せ合う。
触れたぬくもりは、自分もユミルも変わらない。だって、ほら。すぐに蕩けてひとつになっていく。それは暖かくて、優しい。なんだか、泣きたくなるほどに愛おしい。
離れれば、風を受けた唇が寂しさを訴えてくるようだった。
ユミルが、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「泣いてるの? シルフィ」
「ちがうわよっ! バカっ!」
「痛っ!」
手を振りほどき、恥ずかしさを誤魔化すために、ぽかりとユミルの頭をひとつ殴る。
ユミルが頭を抱えたその隙に、指先で眦の涙を払い、シルフィは足早に歩き出した。
「わ、待ってシルフィ!」
「うるさいっ! グズグズしてないではやくきなさいよっ! 今日は太陽の棚に行くんでしょ? そんなに遅いと日が暮れるわ!」
シルフィが振り返りつつそういえば、ユミルは駆け足で後を追いかけながら笑った。
「あはは、大丈夫だってば。時間はたっぷりあるんだから。あ、そうそう、今日のお弁当に、シルフィが好きなあのお店のクリームチーズ使ってあるからね。売り切れる前に買えて、ほんとよかったよ」
そういいながら、バスケットに視線を落とすユミルの何気ない言葉に、シルフィは足を止めた。
昨日、早く買い物に行きたかった――ユミルは、確かそういってはいなかったか。
「あ……」
ユミルの行動が、自分のために繋がっていたことに気付いて、シルフィの胸が切なく締まる。
彼は、いつでも自分を想ってくれている。だが、それもユミルにとってはごくごく自然な当たり前のことなのだろう。
シルフィが、いつも彼を想って、揺れる恋心に戸惑うように。
「さあ、いこう」
追いついてきたユミルが、シルフィの手を握ってくる。ぎゅ、と離れないようにしっかりと繋ぎ合わされた手が、力強くひかれる。
ユミルは先へと歩を進めつつ、振り向き朗らかに微笑む。
その眼差しに応えるように、シルフィは今日はじめて心からの笑顔を浮かべ――――ありがと、と呟いた。