姫様と一緒

 ドロテアは可愛らしい面をしかめ、云々と唸っていた。
 長い歴史をもつカレイラ王国の姫であるドロテアに、悩みなどないと思われるかもしれないが、彼女は彼女なりの悩みというものが常にあるのだ。
「むむむ、どうしたものかのう……」
 腕を組み、肩を落とす。いい考えが浮かびそうで浮かばない、そんなもどかしさが、ふとユミルが自分の騎士となると約束してくれたあの日のことを思い出させた。

 ああ、あれは、最高に幸せな瞬間じゃった……。

 ほやん、とした蕩けた笑顔にそっと己の手を添えて、忘れることなどできない一時に浸る。
 そのすぐあとに、ドロテアが預言書に吸い込まれるというとんでもない事態になったのだが、それはまあ終わったことである。
 それに、ユミルが自分ために懸命に駆けずり回ってくれたことや、自分が吸い込まれたページをみつめながら悲しそうな瞳をしていたことなど、すべてわかっている。
 だからいい。自分をあんなに思ってくれている彼の姿をみれたのだから。
 だが、問題はその後だった。
「そうじゃ、あの日に誓ったではないか! ユミルは……ユミルは、わらわの騎士じゃ! わらわだけの騎士なのじゃ!」
 誰もいない室内で、ぐっと拳を握り締めてドロテアは叫んだ。
 ふかふかの椅子で眠りについていたグリグリが、その剣幕に何事かとゆるりと視線をあげて尻尾をふった。
「それなのに……皆、ユミルに頼りすぎなのじゃ! のう、グリグリもそう思うであろう!?」
 振り返ったドロテアの厳しい視線を受け流し、賢いけれど人の言葉を話さぬ黒猫は、にゃぁんとひとつ鳴いただけ。
 だが、ドロテアは、それに「そうであろう、そうであろう」と満足そうに頷いた。
 伝説の中でのみ語られていた魔王との一件にかたがつき、帝国との戦争も終結したというのに、あいかわらずユミルは忙しい。
 それもこれも――このカレイラ王国の者たちからの信頼が厚すぎるのである。
 先日も、ユミルは王であるゼノンバートの頼みで、ヴァイゼン帝国への書状を届けに行っていた。帰ってきたと思ったら、すぐに町長の願いで魔物退治にでかけていった。そして、砂漠の民との連絡・交渉役も引き受け、壊れた町の修復のためにいまでもミスティックジュエルを集めにいっている。
 それでも、それらの合間を縫って、ユミルは毎日のように自分のもとへとやってきてくれているのだが……。
「まったく……これではわらわがユミルと一緒に、ゆっくり過ごすことができぬではないか……」
 二人が時間を共有できるのは、せいぜい長くて一時間程度。それでは恋する少女の気持ちに、おさまりがつくはずもない。
 苛々とした気分を隠すことなく、ドロテアは自室の中をうろうろと歩きはじめる。グリグリが何かの遊びと思ったのか、椅子から飛び降りてその後をついて回る。
 そもそも、ユミルの顔をみれば何かしら頼む人々も悪いが、それを快く引き受けるユミルも悪いような気がしてきた。
 まあ、街でも城でも彼のことを知らない者などいないから、みかけたら声をかけたくなるのもわかる。カレイラの英雄と呼ばれても、一向にその純粋さを失わない優しい人柄がそうさせるのだろうということもわかる。
 昔ほどの我侭をいうことなどなくなったドロテアだが、子供っぽさがぬけたかわりに、誰かに恋焦がれるという本人ではいかんともしがたい感情を、知ってしまった。だから、わかっているはずなのに、不満が募る。
 ああ、せっかく恋人同士になったというのに。
 もっと二人っきりで甘いひと時を過ごしたいと願うのは、悪いことなのだろうか。ほわ、と春の陽だまりのような笑顔を思い浮かべ、ドロテアはせつなく息をついた。
「うぅむ。どうすれば、ユミルと一緒にいられるかのう……」
 腕を組み、くるくると円を描きながら部屋を歩き、悩むことしばし。
「そうじゃ!」
 ピンと閃いたドロテアは、顔を輝かせて声をあげた。
 つまり、ユミルが頼まれごとをされなければいいだけではないか。
 そうすれば、彼が依頼を引き受けることも、そのためにどこかにいくこともない。すなわち、自分との時間がもっともてる。そのためには、誰とも会わなければいい!
「明日の朝が勝負じゃ……!」
 恋する少女の行動力を侮ってはいけない。
「よし、ようやくこれを使うべき時がやってきたわ」
 ふふふふ、と小さく笑いながら、せっせと何事か準備を始めるドロテアの姿を、グリグリが不思議そうに見上げ――にゃぁ、と可愛らしい声をあげた。

 

 とんとんとん。
 朝靄が漂うローアンの街入り口近く、質素な家の扉が軽やかに三度鳴く。
 まだ眠っているものもいるような時刻だが、しっかりしている彼のことだ。絶対に起きているに違いない。
 案の定、家の中からは、はぁーいという返事と、どちら様ですか? という問いかける少年の声が響いてきて。
 そっと扉が開かれる。
 ひょっこりと栗色の髪に縁取られた優しい面差しの少年が、顔を覗かせた瞬間。
「ユミルっ」
 顔を隠すようにかぶっていたスカーフを放り出し、ドロテアは己の恋人に飛びついた。
「え、ええええっ!? ドロテア様!?」
 わずかによろめきながらも、しっかりと華奢な少女を抱きしめたユミルが目を見開く。
「どうしてここに!?」
 ユミルが驚くのも無理はない。ここは下町。フランネル城に住む深窓の姫君であるドロテアがくるような場所ではない。しかもこんな早朝に、だ。
「ふっふっふ! 驚いたかや?」
 いつも穏やかで物静かなユミルが滅多に見せることの無いその表情に、ひどく満足を覚えながらドロテアは満面の笑みを浮かべた。
「いや、普通に驚きますよ……それに、その格好は……」
 ドロテアの姿はいつもの豪奢なドレスではない。素材や仕立てはよくみればしっかりとしたものであるが、作りは街娘が着るようなものと変わりない。
「どうしたんですか、それ」
「うむ、ユミルといつかお忍びででかけるときもあろうかと思ってな! お父様たちには内緒で、こっそり用意させておいたのじゃ!」
 我ながら準備がよかろう? そう胸を張っていうと、ユミルが噴出した。
「な、なにがおかしいのじゃ! それとも、似合っておらぬか?」
 慌てて、自分の格好を見下ろしつつ、ドロテアは声をあげた。
「いいえ。そんなことはありません。ただ、さすがドロテア様だな、と思って……」
 くすくすと笑い声を零しながら、ユミルがドロテアの頬を撫でる。
「なんだか、褒められておらぬような気がするのう……」
「そんなことありませんよ」
 軽く頬を膨らませたドロテアを宥めながら、ユミルは小さく首を傾げる。
「それで、こんな朝早くからどうされたんですか?」
「おお! そうじゃった、そうじゃった!」
 本来の目的をようやく思い出し、ドロテアはユミルから身体を離した。
「うむ。しかと聞いて、心より喜ぶがよいぞ、ユミル」
「はい」
 にこにこと素直に頷くユミルに向かって、ドロテアは手を振りかざした。

「今日一日、わらわの側にいることを許そうぞ!」

 高らかに静かな朝の下町に響いた可愛らしい声に、ユミルが固まった。
「……はい?」
 しばしの沈黙のあとにようやく漏れ出したユミルの声に、ドロテアは唇を尖らせた。そんな反応が欲しかったわけではない。
「だからの。今日、ユミルはわらわと一緒にいて、わらわの願いだけを聞いていればよいということなのじゃ! どうじゃ、嬉しかろう!」
 ドロテアが言葉を重ねていくと、合点がいったらしいユミルが「あ~……」と気の抜けた声を発しながら、幾度も頷いた。
 その様子に、ドロテアは苛々と足を踏み鳴らした。もっと喜んでもいいはずなのに!
「皆のいうことを聞くくらいじゃ。わらわの騎士として、このくらいの主の願いを叶えずしてどうする!」
 不満でもあるのか! と、ドロテアが声を張り上げると、ユミルがぽりぽりと頭をかいていた手をすとんと落とした。
「あ、いえ。不満があるというわけじゃなくてですね」
 ふわり、ユミルが朝の光にほどけるような淡さで微笑む。
「もともと、そのつもりだったので、驚いてしまって」
「え?」
 す、とユミルが流れるような動作でドロテアに近づく。
「ここ最近、皆のために頑張ってきましたけど。そろそろ、耐えられなくなってきたところだったから、」
 そういって、ユミルは腕を伸ばしてドロテアを引き寄せ、抱きしめた。
「今日は、なにがあっても、ドロテア様のそばにいようって決めていたんです」
 愛しさを隠すことなくその声に乗せて伝えてくるユミルの腕の中、どきどきとドロテアは胸を高鳴らせる。
「そ、そうなのか?」
「はい」
 少年らしいまだ若々しい胸元に両手を添えて、ドロテアはユミルの瞳を覗き込む。
「じゃあ、わらわは来ぬほうがよかったのか? 城でおとなしく待っていればよかったかのう?」
「いいえ、ドロテア様も僕と同じように思っていてくれて、嬉しいです。僕のために朝早く起きて。僕のために門番の目を潜り抜けて。僕のためにここまできてくれた。こんなに嬉しいことはないです」
 頬を摺り寄せながら、ユミルが幸せそうにそういう。くすぐったくて、ドロテアは長い睫を震わせた。
 しばらくそうして恋人のぬくもりを感じあったあと、ユミルが僅かに身体を離して口を開いた。
「今日はこのまま、二人ででかけませんか」
「どこにいくのじゃ?」
 ユミルからの誘いに、ドロテアは首を傾げた。
「そうですね、地底湖とかどうですか? 天上から差し込む光が湖面でゆらめいて、すごく綺麗ですよ。その後、森の中を散策しましょう。今の季節なら木苺が見つかると思います」
「おお! よいのう! よし、すぐに支度をせよユミル!」
 城以外をあまり知らぬドロテアにとって、ユミルの申し出はあまりにも魅力的だった。
 だが。
 顔を輝かせ、威勢よくユミルを急かすドロテアの反り返った胸の下。きゅうと、お腹が物悲しい悲鳴をあげた。
 一瞬、きょとんと二人で顔を見合わせる。そして、かあっとドロテアが頬を赤らめると、ユミルが笑った。
「これ、笑うでない! しかたないであろう、誰かにみつかるまえにと、飛び出してきたのじゃ、だから……!」
 恥ずかしさを誤魔化すように、早口でまくし立てながらドロテアはユミルの胸を叩いた。
「す、すみません。じゃあ、でかけるまえに朝食にしませんか。ちょうど、僕もこれからなんです。お口に合うかわかりませんが、ぜひ一緒に」
 顔を逸らして、くすくすとひとしきり笑った後のユミルの提案に、ドロテアはとびつく。
「おー、さすがわらわのユミルじゃ。かまわぬ、かまわぬ。わらわはユミルの料理が大好きじゃ!」
「じゃあ、狭い家ですがどうぞ。あがってください」
「うむ。邪魔をするぞ」
 扉をひらき、ドロテアを中へ入るよう勧めるユミルの仕草は、自分に対する恭しさで満ちている。
 ああ、やはり、自分の騎士は素晴らしい。そして自分の恋人であることが、こんなにも誇らしい。
 ドロテアは無邪気に微笑んで、ユミルの腕にぎゅうと抱きついた。
「さすが、わらわの騎士なのじゃ!」
 最高の騎士だと、手放しでドロテアが褒め称えると、ユミルは照れたように目元を赤くして、微笑んだ。

 柔らかな熱を発しながら、愛くるしい姫とその騎士は家の中へと姿を消す。
 ぱたり。
 小さな音をたてて、木造の扉がその甘い空気をひとつとて漏らさぬように、閉じられた。