摘まれても—–13

 いなくなろう。この街から、でていこう。
 ティアは、混乱した頭でそう思う。
 だって、次に会ったらきっと言ってしまう。想いのすべて吐露してしまう。そして、夜に眩く輝く月をねだる子供のように、自分は泣くだろう。
 受け入れられないと言っていた相手に、そんなことをしたらもう立ち直れない。
 あの口付けの意味はわからない。だけど、もうだめだ。なにかもがぐちゃぐちゃすぎて、どうしたらいいのかわからない。だから、逃げたい。
 ぱらぱらと降りだした雨が、ひとつふたつティアの顔に落ちる。それが、零れた涙と交じり合い、頬を伝わって流れていく。
 ヒースはどうしてあんなことをしたのだろう。からかったのならあまりにひどい。本気ならばあまりにも性質が悪い。
 ああ、わからない。何も、考えたくない。
「旅に、でよう……!」
 独り言のようにそう呟いて、ティアは家に駆け込んだ。わずかに雨に濡れた身体を吹くことなく、タンスに足早に近寄る。
 これまでひとりで生きてきた。たいしたものは持っていない。大切な預言書と、少しの荷物さえあれば、いますぐ旅に出られる。お世話になった人たちには、旅先から手紙をおくろう。
 屋根と窓を叩く雨音が強くなるのを聞きながら、せっせと大きめの鞄にあれこれと出し入れをしていると、小さな家にノックの音が静かに響いた。
「!」
 びく、とティアは身体を震わせた。
「だ、誰……?」
 かすれたティアのか細い声は、木の扉をどうにか越えられたらしい。
「オレだ」
 淡々と返される応えは、聞きたいけれど、いまは聞きたくない男のものだった。
「ヒース、さ……!」
 か、とティアの身体に再び熱がともる。慌てて、扉にとびついて開けられないようにする。
「な、んで……!?」
「君の忘れ物を届けにきた」
 そういえば、買ってきたものをいれていた袋、どこにおいてきた? 公園のベンチじゃなかったか。
「それと、君に会いにきた」
 そちらのほうが本題だと、ヒースがいう。
「あけてくれないだろうか」
「……っ!」
 ヒースにはみえないとわかっていながらも、ティアは頭を大きく振った。
「や……です」
 ざあざあと雨が強くなる。ティアの家の軒先では、きっとヒースは濡れてしまっているだろう。
「オレが悪いのはよくわかっている。君を忘れたのもオレだ。君を傷つけたのもオレだ」
 わかっていてやっているのか。ぶるぶると、ティアの手が震えた。
「だったら、帰ってください……!」
 懇願するような声でティアが訴えるも。
「断る」
 扉の向こうのヒースはそういいきった。
「君が顔をみせてくれるまで、ここを動くつもりはない」
 雨が降っていようが、ティアが拒否しようが、ヒースにとっては関係ないらしい。
「ふ、ふざけないで……!」
 あまりにも傲岸不遜な言葉に、ティアが声を荒げながら扉をあけると、がっしりと開いたところが掴まれた。あ、と思って引き戻そうとするが、それを阻止する力のほうが強い。その勢いに引き摺られそうになって思わず手を離すと、開いた空間からヒースが家の中へとはいってきた。ティアは押し込まれるように後退する。
「ああ、顔がみられたな」
 に、とヒースが口元に笑みを浮かべる。
「邪魔するぞ。ほら、君が置いていったものだ。全部拾ったつもりだが、あとで一応確かめてくれ」
「っ、」
 ぐい、と荷物を押し付けられる。こうなっては仕方がない。ティアは唇を噛み締めながら、いつも予備品をしまっている棚にいくと、その荷物を降ろした。次いで、その近くに置いてあったタオルを手にすると、立ち尽くすヒースの元へ戻りそれを差し出した。
「そのままじゃ、風邪……ひいちゃいますから」
「ああ、ありがとう」
 そんな感謝の言葉には応えず、ティアはヒースがタオルを受け取ったのを確認して、顔を逸らした。ぽたぽたと滴り落ちる雫を拭うヒースの動きを感じながら、ティアは言う。
「……帰って、ください」
「そうはいかん。オレは、君にいいたいことがある」
 ヒースにはあっても、こっちにはない。ティアは同じ言葉を繰り返す。
「帰って……!」
「ティア」
 重ねたティアの言葉に、ヒースの声が一段階低くなる。
「だって、私……、」
 唇が勝手に戦慄く。震える喉をなんとか動かす。
「知りません、から」
 ぐっと、すがるように手近にある椅子の背もたれを握り締める。

「私、あなたのことなんて――知りません」

 そういいきると、ティアの心が軋んだ。あとわずかな衝撃で砕けてしまいそうに、みしみしと聞こえる幻の音。
 本当はこんなこと、いいたくなんてないのに。全部全部、ヒースが悪い。
「……」
 ヒースが、大きな手を握るのが、目の端に映った。
「ティア」
「知りません」
 茨に絡みとられたように痛む心から血を流しながらも、ティアは頑なにそういい続ける。
「ティア」
「だって、ヒースさんが忘れてくれっていったんじゃないですか……!」
 せっかく望みどおりにしているのに。様々な理不尽さに混乱しながら、ティアはヒースを睨みつけた。
 なのにどうして。
 どうしてそんな怒ったような、憤ったような――悲しい瞳で、こっちをみるの?
「ティア」
「や……!」
 滑らかな動作で距離をつめてきたヒースに驚いて、ティアは逃げようとするが、それを許さないというように、逞しい腕が伸びてくる。
「いや……! はなし、て……!」
 ぎゅうと抱きしめられて、ティアは懸命に暴れる。だが、ヒースの腕から逃れられるわけがない。ティア自身、ほんとうは逃げたいとも、思えないくせに。
「もう、やだ……やなんです……や……」
 弱弱しく、それでもティアは訴え続ける。逃げられないのならば、と。せめて身体を精一杯に小さくする。
「すまん」
 ヒースの胸は雨に濡れていたけれど。互いの体温が伝わりあうほどに、あたたかくなっていく。自分を包み込むようなその感覚に、ティアはこのまま消えてしまいたいと、そう思った。
 だが、そんなティアを引き止めるのは、痛いほどにこめられたヒースの力だった。ティアの細い体に過ぎるほどの。
「君のことを、忘れてしまったことも」
 それは、二人の思い出をなくしてしまったことか。
「あんなことを言ってしまったことも」
 それは、忘れてくれといったことか。
「公園で君の気持ちを無視したことも」
 それは、唇を奪っていったことか。
 ぎゅう、と瞳を強く閉じて、ティアはその瞬間のひとつひとつを思い出す。
 ヒースがなにを言いたいのかわからない。謝りながら、なぜ傷つけるようなことをいう。
 もうやめて、とティアはヒースの胸を押す。
 しかし、ヒースは大きく息を吸って。
「――そして、君を恋しく想うことも」
 そう、言った。
 それは、ティアの知らないことだった。
「なにもかも、ほんとうにすまない」
 ティアの喉が、ひくりと震える。
「きっと、忘れてしまったオレも、こんな気持ちだったのだろうな」
 懺悔するようなヒースの言葉は、嬉しいもののはずだ。けれども、ティアの心はそれを素直に受け取れない。拒むように、氷が軋むに似た音が、大きく胸の奥で響いた。
「嘘」
 ティアは決め付ける。
 ヒースが恋しく想ってくれているなんて、そんなの嘘だ。
「嘘じゃない」
 ヒースは、そうではないと言う。
 だけどそんなこと、自分を宥めるための方便だ。だってティアみたいな女の子に興味はないって、あんなにはっきりいったのに。そういったのは、ヒースなのに。
「だって、私、ナナイじゃ……ないもん……」
 ふにゃ、とティアは強張っていた顔を崩した。あの日、あの夕焼けの中、そういったのはヒースだ。大人の女がいいのだと、そういったのはヒースだ。
 だめだ。いけないと思うのに、思い出したら勝手に眉が下がる。涙が、溢れる。
「わかっている。ティアが、いいんだ」
「嘘っ」
 ぼろりと頬に大きな雫をいくつも落としながら、ティアは即座にヒースの言葉を否定し続ける。
「どうしたら、信じてくれる」
 途方にくれたヒースの声。いつも堂々としていて、迷いなんてないように、真っ直ぐに自分の道を歩くヒースらしからぬそれ。
 どうしたらもなにもない。ヒースの言葉なら、ティアはなんでも信じたいと思う。だけど。
「そ、それが……本当、だったとしても……私、怖い」
 喉が引き攣る。肺が熱い。そのくせ、手足はやけに冷たい。不思議な感覚だった。
「怖い?」
 ヒースが問い返してくる。
「ま、また……そのうち……忘れられちゃったら……また、知らないって……い、いわれちゃったら……ひっ」
 しゃくりあげながら、ティアは続ける。

 好きだといくらいわれても、その次の日に、おまえのことなんか知らないといわれたら。
 好きだと、その想いに応えたあとに、そんなことになったりしたら。

「そんなの、怖い」

 そうだ。このヒースに自分がなにもいえなかったのは、ヒースから拒むような言葉をかけられたからだけじゃない。
 怖かったのだ。
 ティアは、その恐怖を噛み締める。
 もし、また心が寄り添うことがあっても、忘れられてしまったら? 自分は一体どうなるのだろう。次はきっと、耐えられない。いまでさえ、なんとか形を保っているだけの心のうちは、ぼろぼろなのに。
 考えるだけで、体が震える。その闇の底知れなさから逃れるように、ティアは自分自身をきつく抱きしめた。
「怖い……!」
 訴えに混じる泣き声が、大きくなる。
「ティア……」
 わずかに、ヒースの腕が緩む。
 その空間を渡って、ティアの涙にヒースの唇が触れてくる。その優しさと落とされる熱のやわらかさが、ティアの目頭からさらなる雫を誘う。瞳を閉じても、一滴さえもとめられない。意味がない。
 そうしてとめどなく溢れるものに、ヒースはただひたすらに口付けてくる。
「ティアに、オレのことなんか知らないといわれて……ようやく君の気持ちがわかった。こんなにも辛い目にあわせていたのか、と」
 君ほどの、辛さではないだろうが。
 そう囁いたヒースが、ティアの背を撫でる。
 想う人に、その存在を認めてもらえないこと。
 二人、笑いあっていた昨日が、なくなってしまう消失感。
「あ……!」
 それをわずかなりともヒースに教えてしまったのは、さっきの自分の言葉なのだと気付いたティアは、目を見開いてヒースを見上げた。小さく頭を振りながら、ヒースの身体に無意識のうちに手を回す。
 ごめんなさい、そうしたかったわけじゃなかった、と。
 わかっていると、ヒースの青灰色の瞳が、ほんのりと微笑む。
「なあ、ティア。オレは帝国の将軍だ。だから、こういうことがまたないとは絶対に言い切れない」
 民を、国を守るべき軍人として、必要とあれば戦場にもまた出ることがありえるかもしれない。魔物がいれば、討伐にでかけねばならぬこともあるだろう。危険は常に、ヒースの隣にある。
「だが、オレは君を知らぬところから、君と時間を重ね、そして君を好きになった」
 記憶を失くし、ヒースにとっては零からはじまったティアとの関係。
 荒れ狂う嵐のような戦いの記憶と、その後穏やかに記憶を重ねあったヒースとはまったく違う記憶を重ねたというのに、それでも想いを寄せてくれたことが、奇跡のようだ。
 ティアは、しゃくりあげながら、ヒースの言葉を待つ。
「万が一、こんなことになったとしても。オレはまた、君を愛する」

 何度でも、君を想おう。

 ヒースの言葉、身体、空気。ヒースを形作るものすべてが、そうティアに告げる。
「絶対に、だ」
 言葉のひとつひとつが、積みあげられていく。二人の間の溝を埋めていく。ティアは、ぼろりと大きな涙を零した。
「それに、オレを二度も落としたんだ。ティアは、もっと自信をもっていいと思うがな」
 にや、とヒースが少年のように笑う。その言葉と表情に、ティアは一瞬ぽかんとした後、小さく噴出した。
 もう、大丈夫。
 胸のうちに、そんな言葉が浮かんだ。無理をして、自分に言い聞かせていたときとは違う、ほんとうの意味での「大丈夫」。
 信じられる。信じていいのだと、誰かがいう。

 摘まれても、摘まれても。
 形が、色が、変わろうとも――かならず、想いの花は咲くのだと。

 そして。
「……好き」
 今度はティアのほうから、虚ろに空いたふたりの距離を埋めていく。
「好きです、ヒースさん」
 ぎゅうとティアはヒースを懸命に抱きしめる。想いと恋しい男の名を口にした瞬間から、一足飛びに心が近づいていくのがわかる。
「私、ほんとはずっとずっと好きで……! あ、あのときも、すぐに言えばよかったのに、い、いえなくっ、て、っく、ふ、……それに、いま、だって……! ごめ、ごめんなさいっ……」
 情けないくらいの涙声で、ティアは紡ぐ。紡ぐ。ただ、ひたすらに恋しい人へのもとへ道を繋げるために。
「すき。すき、です。すき、すきなの――すき」
 決して悔いが残らぬように、心のうちにあるヒースへの想い全てを言葉にする。もう、どこにもいかないでと繋ぎとめるように、指先に力をこめた。
「……ティア」
 息がとまるくらいに抱きしめ返されて、肺から空気が逃げていく。ティアは、陸に上げられた魚のように、ぱくぱくと唇を動かす。声にならなくても、その動きは「すき」とティアの心を、形にする。

「君が、好きだ」

 それはあの日、ヒースに言われた言葉。
 思い出せなくなっていたあの声で、また告げられた想いに、ティアは必死で手伸ばした。閉じた瞳からは、ただひたすらに涙がこぼれた。
 ちぎれた二人の絆が、しゅるりと音をたてて絡み合い、新しく結ばれる。今度こそ決して解けぬようにきつく、かたく。
 そっと顔を見合わせる。涙で塗れたみっともない顔は可愛くなんてないだろうから、みせたくはなかったけれど。ヒースの顔が、みたかった。
 ティア、と掠れた声が呼ぶ。
「――オレの、そばにいてくれ」
「……はい」
 そういって、二人一緒に照れたように笑って。
 もう一度。抱きしめあった。