摘まれても—–14

「ずるいと思うんだが、君はどう思う」
「何がですか?」
 突然の言葉に、ティアは面食らう。意味がわからない。
 テーブルの上に肘をつき、組み合わせた大きな手で口元を隠し、瞳をわずかに伏せたまま、思い悩むようなヒースに首を傾げつつ、ティアは手を動かし続ける。
 あの日からすでに幾日も時間は過ぎて。
 今日は気持ちいいくらいの晴天だ。だが、二人はゆっくりとティアの家でくつろいでいる。夕方になったら、ヒースの好物を作るからご飯を食べていってくださいというような、そんな他愛もない話をしていたところで――今は、喉が渇いたというヒースのために、ティアが飲み物を用意している。
 とりあえず、ティアは淹れたばかりのコーヒーをヒースの前にだす。
 香ばしい湯気に誘われたのか、ヒースが手を伸ばしてそれを一口含む。喉を潤して一息ついて、カップがおろされる。かちゃりと、小さな音がたった。
 腕をくみ、ふうとため息をついたヒースが、いう。
「オレがずるい」
「はい?」
 ますます意味がわからずに、ティアは瞳を瞬かせる。
 むむ、と眉間に皺を寄せヒースが腕組みをほどき、傍らにたつティアを引き寄せる。
 きゃあ、と小さく悲鳴をあげたときには、ティアはヒースの膝の上だった。
「城から逃げ出したときのことや、ティアに稽古をつけていたときのこととか……君と過ごした時間を、オレでないオレが知っているのはずるい」
 ティアの顔を覗き込みつつ、真剣な顔をしてそんなことをいう。
 あきれた。
「……子供みたい」
 ティアが、そういってしまうのも仕方ないだろう。きっと誰がきいたって、そういうに違いない。
「子供で結構」
「ふふっ」
 ティアが口元に手を当てて小さく微笑むと、ヒースがもうすこし距離を縮めた。
「だからな」
 なんだろう、とヒースの言葉の先を促すように、ティアは首をかしげた。
「もっとたくさん君の笑顔がみたいし、君の言葉がききたいと思う。君がオレでないヒースと重ねた時間より、もっとたくさん一緒にいたい」
 そう思うのは至極当然だろう? と、自信満々にいい歳をした大人の男が言うことだろうか、それは。
 再び呆れはするものの、だがまぎれもなく嬉しいとも感じるのは、ティアがヒースに恋をしているからで。結局のところ、どっちもどっちだ。
「っ、」
 す、と大きな手が伸びてきて、頬に重なる。それだけなのにティアの小さな胸の奥が締め付けられる。こんな、甘ったるい空気をヒースと共有できるなんて、幸せすぎて死にそうだ。
 こうなることを望んでいたけれど、そうなったらそうなったで恥ずかしい。我侭なものである。
「そ、そういえばっ」
 いろんなものを誤魔化すように、ティアは声をあげた。
「えっと、その。あ、あの日の公園で……どうして、あんなことしたんですか?」
 ティアがいっているのは、唐突に口付けられたあのことだ。
「……む」
 言葉につまったヒースの、いつもは揺らがぬ視線が泳ぐ。誤魔化されてなるものかと、ティアは恥ずかしさを堪えてヒースを凝視した。
 忘れろとか言ったその口で、口付けてきたその真意は?
 それはやはり、女の子ならば気になるものだ。だって、あれは記念すべきファーストキスなのだから。変な理由だったら、鼻でも摘んで今日のお夕飯はつくってあげない――そう考えるティアの気迫が伝わったのか。
 やがて観念したように、ヒースが口を開く。
「……泣きそうな目をしてるくせに健気に笑う君をみて、好きだ、と思ったからだ」
「……」
「愛しさがこらえられなかったというか、たまらなかったというか……つまりはなんだ、つい……な」
 つい、で初めての口付けを奪われたのか、自分は。
 やはり食事抜きでもいいかもしれない。手を繋いだり抱きしめるのも、とうぶんの間お預けにしようか。
「ヒースさんって、凄く手が早いんですね……」
 半眼になって睨み付けると、ヒースの頬が引き攣った。
「いや、そこは違うと思うというか……否定させてほしいというか」
「だって」
 ぶうと不満げに頬を膨らませると、ヒースが笑った。
「大体、その前には、概ねティアへの想いは自覚していたことだし、な。結果としてはよかっただろう?」
「うー……」
 そっちはそれでもいいのかもしれないが、ティアは納得がいかない。
 あんなにも恥ずかしい思いをしたというのに。馬鹿なこともいってしまったというのに。
 思い出といえば思い出だが、できれば自分のしでかしたことは忘れたい。
 ヒースがいってくれた言葉は、死ぬまで忘れないだろうけど。
 こほん、とヒースがわざとらしい咳払いをひとつする。
「とにかく、だ。オレの心のすべてを持っていくのは、君しかいないということだ」
 悪戯っぽく目を細めて、恋人にのろけてみせるヒースに、ティアは頬を染める。
「そんなの、私だって……」
 ごにょごにょと言葉にならない声を漏らしながら、そっとヒースの腕に身を預ける。
「その割にはいい平手だったがなぁ」
 わざとらしく遠い目をして、ヒースがティアにひっぱたかれた頬をなでる。もう痛みなどはないはずだが、叩いたほうとしては気が咎める。
 かあっとティアは顔を赤らめた。
「だって、きゅ、急にしてくる、からっ」
 あのとき、せめて「好きだ」の一言くらいは、あってしかるべきだった。
 だがそれすらもヒースにとってはいい思い出らしく、楽しげに喉を震わせる。
「……なあ、ティア」
 ひとしきり笑った後、ふとヒースが囁く。
「してもいいか?」
「な、なに、をっ」
 ぎくり、とティアは身体を強張らせた。続くであろう言葉に予想はつくが、ついつい訊いてしまう。
「キス」
 それしかあるまい、というようなヒースの返答。ヒースの笑み。
「~~~っ!」
 確認しないでください! という悲鳴は、喉に張り付いてでてこない。だが、表情からそれを察したのだろう。
「急にすると、平手なんだろう?」
 くすくすと小さく笑いながら、そう言ってくるヒースが小憎たらしい。そんな意地悪するのなら。
「だめですっ」
 ぷい、っとティアはそっぽを向いた。
「ティア」
「いやっ」
 宥めすかすような甘い声が、名を呼ぶ。だが、だめだ。
「ティア」
「やっ」
 喉の奥で声を転がしながら、ヒースがティアの膨れた頬をつつく。
「……ティア」
 愛しさをまったく隠さないヒースの声に、背骨が抜かれてしまいそうだ。くにゃりと崩れ落ちそうな身体を支えるのは、ヒースの腕。
 ぎゅうと抱きしめられて、ティアは深く俯いて、自分の身体に回された太い腕に手を添える。
「も、もう……。しょうがない、ですから……」
 ほんとうに、ほんとうに、仕方がないんだから、というように装いながらティアはいう。
「いいです、よ……?」
 そういい終えた瞬間に、ヒースの大きな手がティアの頭の後ろへ添えられる。いつしか零れていた甘い吐息を絡めとるように、ぐいと顔を寄せたヒースが口付けてくる。
「ん、」
 まだ慣れぬ口付けに声を零し応えながら、思う。

 もう、忘れないで。
 この想いも熱も、なにもかも。
 でもそれでも。またこんなことがあったなら――必ずまた、恋をして。
 あの日、誓ってくれたように。

 はふ、と唇を解けば、ヒースがティアを抱く腕の力を緩めた。だが、それは弱弱しいものではない。その絶妙な力加減が心地よくて、ティアはヒースの胸に頬を寄せた。すり、と甘えるように動けば、ヒースが小さく笑うのがわかった。
「そういえばティア、オレのこと『ヒースさん』と呼ぶのをやめてくれないか」
「えっ!?」
 慌てて顔をあげる。
「じゃ、じゃあなんて呼べば……」
「ヒース、だ。ほら、いってみろ」
 促されるが、それで「はいそうですねわかりました」といえるわけがない。
「ええと、その……いわなきゃ、だめ、ですか?」
 ヒースの瞳をみつめていると、どうにかなってしまいそうで、ティアは視線をそらしながら言う。当然だ、とヒースが頷く。
「忘れる前のオレを『ヒースさん』といっていたのだろう? だったらオレのことは『ヒース』と」
 どうやら一緒の呼び方が、気に入らないらしい。自分に嫉妬するとかどれだけだ。
 うー……、とティアは唸りながら俯く。
 さあ、どうするどうする。でも、言うまで決して離さないと、ヒースの太い腕が暗にいっている。
 ティアは、覚悟を決めた。
「ひ、ひっひひひ……」
 口元が引き攣る。名前を呼ぼうとしているくせに、どちらかというと変な笑い声をたてているようにしかみえないだろう自分が、ティアはたまらなく恥ずかしく思えた。
 ただ『さん』を除けばいいのだ。それだけ。なのに、どうしてこんなに難しい?
 それもこれも。
 ご褒美を待つ子供のような、そんな屈託のない笑顔に崩れる寸前の顔をして、ヒースがこちらをみつめているからだ。
 くるくると、思考の糸を解けなるくらいに絡ませて。
「……ヒース……、っ、」
 なんとか紡いだ小さな声に応え、ふわり、ヒースの目元が綻ぶ。
「ああ、なんだ、ティア?」
「~~~っ、」
 そのひどく嬉しそうな笑顔とその声に。ぼふ、とティアの頭が沸騰した。天辺から湯気でもてているのではないだろうかと心配になるくらいに、顔が熱い。
 そんなティアをみて、からからとヒースが笑う。幸せそうなその様子に、いろんな意味でティアは脱力した。
 まったくもう。
 ティアは真っ赤になった頬を隠すように、その小さな手をあてる。力強くたくましい胸に抱き寄せられるまま、身をまかせながら思う。
 でも、今が幸せなら。
 そっと瞳を閉じる。

 これでいいですよね? ヒースさん。

 いつかに咲き綻んだ花と。それとはまた違う色をした恋の花を、胸一杯に抱えながら。
 自分を好きだと一番にいってくれた「ヒース」に、ティアは心の中で問いかける。
 答えは、きっといつの日にか、返ってくる。
 そんな気がした。