摘まれても—–6

 ぼり、とヒースは頭を掻いた。小柄な少女は風をつれて、目の前から走り去っていった。涙に塗れた悲しそうな顔と。ヒースの胸に、もやもやとした想いの火種を残して。
 まずいと、やってしまったと、さすがのヒースも思う。ヴァルドにも、優しくするようにと言い含められていたというのに。
 だが、このままでいいはずがない。
 恋仲だったのか、という自分の問いに対する答えに、笑って「そんなわかりやすい嘘をつくな」といってやりたいところだった。
 だが、ここ数週間で、彼女がそんなことをいう人柄でないことはよくわかっていた。
 過ごした時間を思い出す。
 街のあちこちに連れて行ってくれたり、覚えていないことを詳細に語ってくれたり、言ったこともないはずのヒースの好物を振舞ってくれたり。ごく親しいものでなければわからぬようなことを、ティアは当たり前のようにヒースにしてくれた。そうすることで、記憶を取り戻すきっかけにたどり着くと信じていたのだろう。
 そんな風に一生懸命、自分の記憶を取り戻そうとしてくれた人間が、そんなくだらない嘘をつくわけがない。
 つまり、本当だ。事実なのだ。自分が、ティアを女として好いていたこと。
 きっと、ティアもまた、自分のことが好きだったのだろう。いや、今もそうなのだろう。
 ヒースの中に、ティアの記憶はなくとも、ティアを思い出すことはなくとも。
 だから、ティアはあんなにも頑張っていたのだ。

 ――はたからみても、痛々しいと思うくらいに。

 初めて会った次の日に、言葉を交わしたときに彼女の瞳の奥にみえたものは、その必死さの光だったのだと、今ならわかる。
 いつしか気付いていたティアの想いが、ヒースにはひどく哀れなもののような気がした。
 は、とヒースは息をつく。
 なにがあって、自分があの少女を愛することになったのか。その想いを告げるに至ったのかはわからないが、今のヒースにティアを愛する自信はない。

 そもそも、いいはずが、ないのだ。

 戦場を駆け、血にまみれ、そうして生きてきた自分の背負うものを、誰かとわかちあうように支えあって生きたいと思わない。そんな道に引きずり込むことなんてできない。
 あんなにも綺麗な少女だからこそ、ヒースはことさらにそう思う。
 夕焼けに赤々と染まった己の手を見下ろす。戦場にいたころの記憶が、重なる。この手でいくつの命を消したのだろう。いくつの幸せを、壊したのだろう。
 彼らにも愛する者が、愛してくれる者がいたはずなのに。帰りたい場所も、あっただろうに。
 ぐ、と手のひらを握り締める。みしり、と骨が悲しげに鳴った。
 そうすることで過去に引き摺られそうになった意識を、ヒースは現実に引き戻した。
 だから。
 後腐れなく男と女の関係を楽しめる程度が、自分にはちょうどいい。ゆえに、あんなに純粋無垢に、全身全霊で慕ってくるティアをとおざけたかった。そうしなければいけないと思った。
 だがもっと、上手い方法はあっただろう。どうして、こんな風にしかできなかったのだろう。
 そして、そうしたのは自分だというのに。
「胸が痛い、とは……な」
 苦々しく、ヒースは呟いた。
 あの泣き顔が、頭にこびりついて離れない。じくじくとした心の痛みは、罪悪感がもたらすものだった。その奥には、寂しさや悲しみが渦巻いているが――その理由までは、ヒースにはよく、わからない。
 眉をしかめ、ヒースはぐしゃりと髪を乱すように頭をかいた。
 どうすれば、よかったのだろう。答えは、みえない。
 ただひとつ確かなことは、泣かせたかったわけではない、ということだった。
 説得力はかけらもない。いい訳にもなりはしない。
 だがこうしなければ、彼女はいつまでも自分を慕うことをやめなかっただろうとも思う。
 だからきっと、これでよかったに違いない。そう、自分に言いきかせる。
 そっと、握り締めていた拳をほどく。
「こんな……」
 血塗れの手をのばすには、彼女は清らかで美しすぎる。
 自分のような存在が、そんなティアの傍らにあっていいわけがない。自分のような男が幸せになっていいはずもない。
 ゆっくりと頭をふって、ヒースは歩き出す。身に纏った鎧の、重く鳴る音がやけに耳につく。それはまるで、自分を縛る鎖の音のようだった。
 ああ、今日の空はこんなにも澄み渡っているというのに。藍色から紅色に染まり、星瞬く様はとても美しいというのに。
 後悔をしないことを常に意識しているヒースの胸の奥は、東より忍び寄る宵闇よりも暗いものがわだかまっていた。