ぼり、とヒースは頭を掻いた。小柄な少女は風をつれて、目の前から走り去っていった。涙に塗れた悲しそうな顔と。ヒースの胸に、もやもやとした想いの火種を残して。
まずいと、やってしまったと、さすがのヒースも思う。ヴァルドにも、優しくするようにと言い含められていたというのに。
だが、このままでいいはずがない。
恋仲だったのか、という自分の問いに対する答えに、笑って「そんなわかりやすい嘘をつくな」といってやりたいところだった。
だが、ここ数週間で、彼女がそんなことをいう人柄でないことはよくわかっていた。
過ごした時間を思い出す。
街のあちこちに連れて行ってくれたり、覚えていないことを詳細に語ってくれたり、言ったこともないはずのヒースの好物を振舞ってくれたり。ごく親しいものでなければわからぬようなことを、ティアは当たり前のようにヒースにしてくれた。そうすることで、記憶を取り戻すきっかけにたどり着くと信じていたのだろう。
そんな風に一生懸命、自分の記憶を取り戻そうとしてくれた人間が、そんなくだらない嘘をつくわけがない。
つまり、本当だ。事実なのだ。自分が、ティアを女として好いていたこと。
きっと、ティアもまた、自分のことが好きだったのだろう。いや、今もそうなのだろう。
ヒースの中に、ティアの記憶はなくとも、ティアを思い出すことはなくとも。
だから、ティアはあんなにも頑張っていたのだ。
――はたからみても、痛々しいと思うくらいに。
初めて会った次の日に、言葉を交わしたときに彼女の瞳の奥にみえたものは、その必死さの光だったのだと、今ならわかる。
いつしか気付いていたティアの想いが、ヒースにはひどく哀れなもののような気がした。
は、とヒースは息をつく。
なにがあって、自分があの少女を愛することになったのか。その想いを告げるに至ったのかはわからないが、今のヒースにティアを愛する自信はない。
そもそも、いいはずが、ないのだ。
戦場を駆け、血にまみれ、そうして生きてきた自分の背負うものを、誰かとわかちあうように支えあって生きたいと思わない。そんな道に引きずり込むことなんてできない。
あんなにも綺麗な少女だからこそ、ヒースはことさらにそう思う。
夕焼けに赤々と染まった己の手を見下ろす。戦場にいたころの記憶が、重なる。この手でいくつの命を消したのだろう。いくつの幸せを、壊したのだろう。
彼らにも愛する者が、愛してくれる者がいたはずなのに。帰りたい場所も、あっただろうに。
ぐ、と手のひらを握り締める。みしり、と骨が悲しげに鳴った。
そうすることで過去に引き摺られそうになった意識を、ヒースは現実に引き戻した。
だから。
後腐れなく男と女の関係を楽しめる程度が、自分にはちょうどいい。ゆえに、あんなに純粋無垢に、全身全霊で慕ってくるティアをとおざけたかった。そうしなければいけないと思った。
だがもっと、上手い方法はあっただろう。どうして、こんな風にしかできなかったのだろう。
そして、そうしたのは自分だというのに。
「胸が痛い、とは……な」
苦々しく、ヒースは呟いた。
あの泣き顔が、頭にこびりついて離れない。じくじくとした心の痛みは、罪悪感がもたらすものだった。その奥には、寂しさや悲しみが渦巻いているが――その理由までは、ヒースにはよく、わからない。
眉をしかめ、ヒースはぐしゃりと髪を乱すように頭をかいた。
どうすれば、よかったのだろう。答えは、みえない。
ただひとつ確かなことは、泣かせたかったわけではない、ということだった。
説得力はかけらもない。いい訳にもなりはしない。
だがこうしなければ、彼女はいつまでも自分を慕うことをやめなかっただろうとも思う。
だからきっと、これでよかったに違いない。そう、自分に言いきかせる。
そっと、握り締めていた拳をほどく。
「こんな……」
血塗れの手をのばすには、彼女は清らかで美しすぎる。
自分のような存在が、そんなティアの傍らにあっていいわけがない。自分のような男が幸せになっていいはずもない。
ゆっくりと頭をふって、ヒースは歩き出す。身に纏った鎧の、重く鳴る音がやけに耳につく。それはまるで、自分を縛る鎖の音のようだった。
ああ、今日の空はこんなにも澄み渡っているというのに。藍色から紅色に染まり、星瞬く様はとても美しいというのに。
後悔をしないことを常に意識しているヒースの胸の奥は、東より忍び寄る宵闇よりも暗いものがわだかまっていた。