摘まれても—–5

「えいっ」
「おっと」
 ひゅ、とティアは拳を一閃させる。プラーナをまとった拳とその身のこなしに、挑みかかられたヒースがひどく驚いた顔をする。
「……本当に、徒手流派が使えるとはな」
 しみじみと呟かれ、ティアは頬を膨らませた。
「だから、ヒースさんに教えていただいたんですってば」
「うーむ……」
 ティアの力説とは裏腹に、ヒースはただ困った顔をするだけだ。
「でも、こうして使えるのは間違いないでしょう?」
 その目でみたものならば、信じられるはず。そういって、ティアは自分の小さな拳にプラーナを集めてみせる。
 ティアの言葉とその輝きに、ヒースが頷く。
「そうだな。しかも随分と強そうだ」
「それはもう、お師匠様譲りですから」
 ふふん、と胸をそらして師匠自慢をすると、ヒースが笑った。
 記憶を取り戻すきっかけにはなっていないようだが、ヒースのその楽しそうな姿に、ティアはほっと心の中で息をついた。迷惑にはなっていないようだ。
 そう。

 忘れてしまったなら、思い出してもらえばいい!

 そんな心意気で、ティアは「ヒースの記憶思いだし作戦」を、ヒースが回復して以降連日実行していた。
 それが重荷になっていないか、ちょっとだけ心配だったのだ。
 渡したエリクサーが効いたのか、ヒースの身体はみるみるうちに回復していった。そうして、医師に許可を貰ってから今日まで。ティアは思いつく限りのことを、なんでもやってきた。
 でも、無理だった。ヒースは何も思い出してはくれなかった。
 そんな現実に、ティアの心には焦りだけが募っていっているが、それ以上に諦めることのほうが恐ろしい。
 ふと、数日前のことに思いを馳せる。
 ローアンの街、最初に出会ったところにいって、ここでお腹殴られましたといってみたこと――ヒースに、渋い顔をされた。  フランネル城の地下牢獄にいって、ここで二人でつかまっていて、落っこちてきた瓦礫から守ってもらいましたといってみたこと――ヒースの頬が、引き攣っていた。  あのときのようにタワシにあいさつをして地下通路を辿り、平原の遺跡に出た頃には、「なかなか衝撃的な出会い方をしたんだな……」とヒースが呆れたように呟いていた。
 しかし、なにひとつ思い出すことはなかった。一番、鮮烈な記憶のはずなのに。
 その後も、ヒースと一緒にいった場所や、ヒースと一緒に話した人たちを訪ねてみたり。道場にいるグスタフのところに行こうとしたら、さすがに勘弁してくれといわれたが。
 そして今日は、徒手流派の組み手に誘った。
 いつまでたっても、徒手流派を伝授してもらったということを信じようとしなかったからだ。でも、こうして身体を動かすのも悪くはないはず。
「ヒースさん。どこで稽古つけてくださったか、わかりますか?」
 ティアは、拳から放たれる互いのプラーナがぶつかり合い対消滅したのを見届けて、構えを解いて問いかけてみる。
「……いいや、わからないな」
 僅かに考えるものの、やはり思い当たるところはないらしい。ふるり、と頭を振るヒースにティアは苦笑した。
「この平原を越えて、もっとずっと先の森ですよ」
 そういって、ティアは東のほうを指差した。ヒースが、ぴくりと眉を動かして、そちらをみた。
「森……。もしかして、ラウカのところか?」
「そう、そうです!」
 思い出してくれたのか、と一瞬喜んだものの。
「ラウカのことならよく知っている。戦場でともに戦った仲間だからな」
 遠い目をして、ヒースが言う。そのときの光景が、脳裏を過ぎ去っているのだろうか。
「そう、でしたね」
 ティアは、少し肩を落とした。そのあたりの記憶を、ヒースは持っているのだ。それなのにどうして、肝心な部分は消えたままなのだろう。
 どこかへ意識を向けたままのヒースの横顔や、普段みせる朗らかな笑顔や言動は、記憶を失くす前とさして変化はない。ただ、これまでのことがぽっかりとぬけ落ちてしまっている。
 ティアはそんなヒースの言葉に、仕草に、自分だけをみて慈しむように愛おしげに接してくるあのヒースを垣間見てしまう。
 でも、違う。違うのだ。ヒースはヒースだけれど、ティアを好きだといってくれた「ヒース」じゃない。そう理解しているのに、「好き」といいかけてしまう自分が怖い。そんなこといきなり言われたらヒースは困るだろう。
 だから、はやく思い出して欲しかった。
 伝えたい。伝えられない。
 そんなティアのもやもやとした心情などわかるはずもないヒースが、大きくのびをする。その動きに、ティアは意識を現実に引き戻した。
「それにしても……久しぶりに身体を動かして、いい気分だ」
「ふふ、お医者様にずっと止められてましたもんね」
「まあな」
 もう大丈夫だといって寝台から抜け出そうとするたび、それを制止する軍医に怒られていたっけ。
 ティアが、くすくすと笑っていると、すっと突きつけられるものがあった。
「なあ、せっかくだ、ティア。もうひとつ、付き合ってくれるか?」
 ぐっと差し出されたヒースの大きな拳を、きょとんと眺めた後。ティアは笑いながら、そこに己の拳をあてた。
「はい」
 平原の風に吹かれながら、互いに距離をとる。構えた拳に、淡く宿っていく光。
「遠慮はいらんぞ」
「ヒースさんこそ、全力でどうぞ」
 そういって笑いあい、常人にはそうそうついてはいけぬような動きで、ティアとヒースは練ったプラーナを放った。
 眩い光が、平原の上で交錯した。

 

 だが結局。組み手をしてもヒースはなにも思い出したことはなく――

 

 とぼとぼとした足取りのティアと、すっきりした顔のヒースは、ともに連れ立ってローアンの街に帰ろうとしていた。
 世界の十字路にさしかかると、そこを行きかっていた旅人や商人の姿も、もうほとんどなかった。自分たちと同じように街へ向かう者が、長い影を従えてわずかにいるのみだ。そんな人影の中、夕焼けよりもなお鮮やかな赤髪の美しい女が、ひとりいた。
「あら、ティア」
 南方向から歩いてきたことから察するに、祖母に会いに行っていたのだろう。
「こんにちは、ナナイ! サミアドから帰ってきたの?」
「ええ、そうよ」
 にこ、と深く美しい緑の瞳が、気まぐれな猫のように細くなる。
「そういえば、頼まれていたあの石鹸、できてるわよ」
「わ、やったぁ!」
 ティアは、歓声をあげてぴょんとナナイに飛びついた。
 それは、ナナイ自信が作って愛用しているものだ。代々家に伝わってきた秘密の製法で作られるもので、肌によし、髪にもよしという、世の女性なら誰しも欲しがるという石鹸である。
 ティアも女の子。ナナイのように綺麗になりたいといのは、至極当然のことだ。そしてそれは、好いた男のためでもあった。
「ふふ、時間があるときに取りにいらっしゃい。切り分けてあげるから」
「うんっ、ありがとうナナイ」
 そういって、ティアの頭をひとつ撫で、ナナイは外套を翻した。
「じゃあまたね、ティア。将軍様もごきげんよう」
 優雅に会釈し、髪を靡かせ去っていく。ティアは手を振って、ナナイが去っていくのを見送った。
 人影がなくなった街道に、ティアとヒースだけが残された。
「――あの女性は、君の知り合いか?」
 それまで沈黙を続けていたヒースが、ぽつんと呟くように問いかけてくる。
「あ、はい。ナナイです。占い横丁に住んでいる占い師なんです。とってもよくあたるんですよ。ヒースさんも何度か会っているんですけど……あ、なにか思い出しました?!」
 女同士で盛り上がってしまったため、ヒースをおいてけぼりにしていたことに申し訳なく思いつつ、もしかしたらという淡い期待を持ってティアはヒースに身体ごと向き直る。
「いや、残念ながらそれはないな」
「そう、ですか」
 しゅん、と頭を下げる。すまん、という言葉とともに、ぐしゃぐしゃと頭を撫でられる。こんな仕草も、前と何も変わっていないのに。どうして、記憶はもどらないのだろう。
 そんなことを切なく考えるティアの頭上から。
「しかし、覚えていないのが残念だ」
 いい女だな――というつぶやきがかすかに聞こえて、ティアは慌てて顔をあげる。
 次の瞬間、あげなければよかったと思った。
 そこにあったのは、楽しげに、口元に刻まれた笑み。優しく甘い熱を帯びた青灰色の瞳。全身から滲む、やや落ち着かない空気。
 そんなヒースをみて、ぞわっと、嫌な感覚が背筋を這いずり回る。
「ナ、ナナイはだめですっ」
 というか、彼女でなくとも――いやだ。
 ティアは、ふるふると頭を振って、ヒースに訴える。
「なぜだ。そういわずに紹介してくれないか」
 に、と笑うヒースに、意識が沸騰しそうになる。こっちの気持ちも知らないで。
「だ、だめったらだめですっ」
「人の恋路をじゃますると、馬に蹴られるんだぞ?」
 恋路って。
「っ! だ、だって。だってヒースさん、は……」

 私のことが好きだっていってくれた、から。

 でもそれをいえるわけがない。いまのヒースが、いってくれたわけではないからだ。ティアは涙目で、震えるしかできなかった。ぐっと唇をかむ。
 それをしばらく見つめていたヒースが、顎をさすった。神妙な顔つきで、のぞき込んでくる。
「なあ、なんというか。まさか、なんだが。実は皇子から、君には優しくするように、といわれていて……その、理由なんだが」
「は、はいっ」
 顔の距離が近くなったことに驚き、ティアは背筋を伸ばして、うわずった声で返事をする。
 そんなティアをまじまじと見つめ。
「もしかしてオレと君は、その……恋仲、だったのか?」
 どうなんだ、とヒースの瞳がいっている。
「……っ!」
 かあ、とティアは頬を染めた。その反応で察したのか、ヒースが目元を覆うようにして、その大きな手で視線を隠した。
「……なんてことだ」
 もうこうなったら、やぶれかぶれだ。自分から言い出したわけじゃない。ヒースから聞いてきたのだから、と自分に言い聞かせながらティアは言う。
「あ、あの……その……違います。恋人じゃない、ですけど……ヒースさんは、私に……言ってくれて、あの」
 しどろもどろになりながらも、なんとかそれだけの事実を伝える。深いため息が、ヒースの唇から零れた。
「……そうか、オレのほうか」
 こくん、と頷いてティアはそのまま地面をもじもじと見つめた。
 どう思った? 恥ずかしい? 照れる? それとも――?
 だがそんなティアの淡い期待を含む想いは、目の前の男に届くことはなかった。

「忘れてくれ」

 茜色の空から吹く風に乗せて、ヒースは簡単にそういった。
「……え?」
 意味がわからず、ティアは目を瞬かせる。でも、いわれた言葉は確実に、ティアの熱を奪っていく。
 ゆるゆると手を下ろし、再び顔を覗かせたヒースが、苦笑する。
「君のような少女に、オレのような男が懸想するなど、世間の目とか……いろいろとあるだろう」
「…………」
 ティアは、何もいえない。沈黙に支配されたティアをよそに、ヒースは残酷な言葉を重ねていく。
「それに、オレはどちらかというと、さっきの彼女のような――もっと大人なほうが、好みなんだ。正直なところ、な」
 ひくっと喉が震えた。一瞬で冷えた心臓が痛い。ティアは震える指を握り締めた。
 じゃあなんで私のことを好きだなんていったの? あんなに恋しいという目で私をみつめてくれたの? あれは全部、嘘だったの?
 ふと、思い出す。ナナイを見送った、ヒースの顔。それが、とても嫌だと思ったのは、ほんのすこし前まで、その顔で、自分をみていてくれたからだ――。
 からん、とティアの中で何かが音を立てて崩れた。なんとか形をなしていたものが、ひとつひとつはがれて奈落へ落ちていく。
「う……つき……」
 熱く焼け爛れたような喉から、ティアは言葉をふり絞る。
「うそ……つき……っ!」
 ぼろぼろとこぼれる涙は止まらない。ぎゅうと力をこめた眉間に宿る光の中に、笑顔で好きだと告げてくれたヒースの姿がちらついて、きえた。
 自分があのとき、ヒースの手をとっていたら? そうしたら、こんなことにはなっていなかった?
 後悔するのは容易い。あのときそうしなかった自分が悪いのだ。
 だけど、こんなのあんまりだ。
「待つって、いつまでも待つからって、そういってくれたのはヒースさんのくせにっ!!」

 好きだって、いってくれたくせに――!

「うそつきっ!」
 いうだけいって、ティアはヒースを置き去りにして走り出した。振り返ることなく、家まで一直線に駆けていく。
 もう、もう。無理だ。
 忘れたい。あの人のことを知らない頃に、私も戻りたい。
 でも。
 そんなことできない。
 ティアは、乱暴に開けた扉から、家の中へと駆け込んだ。後ろ手に閉めて、大きく肩で息をつく。
 ぎゅ、と目を閉じる。瞳が火を押し付けられたかのように、熱い。
 だって――失いたくない記憶のほうが、自分には多すぎる。
 言葉も、笑顔も、思い出も。すがるものが、もうそれしかない。この想いの置きどころが、ない。だったら、なくしたくない。
 今はつらいけれど、幸せな時間は確かにあったのだから。もう、自分しか覚えていなくても。それは、この胸にちゃんとあるのだから。
「ふっ、うえっ、ひっ……ふ、あ……うわあぁぁぁん!」
 これまでなんとか表にださなかったものが、噴出す。それはありとあらゆる負の感情だ。ティアが小さな身体のうちに、懸命におしとどめていた不安や恐怖、焦燥、諦め――そういったものすべてと。何も知らぬヒースに、悪いことをしてしまったと、悔いる気持ち。
 幼子のように声をあげて、涙をとめどなく零しながら、それを拭うことさえできず。泣きながら、ティアはよろよろと寝台へと歩き出す。
 ああ、これはなんというのだろう。失恋したと、いうべきものなのだろうか。
 二人の間で、恋は実るはずだった。ヒースが帰ってきたら、一番に会いに行って、飛びついて抱きしめて、私もあなたが大好きだと告げるだけで、幸せは約束されるはずだった。それなのに、どうしてこうなったのだろう。

 ――どうして、わすれちゃったの。

 それは何よりも、大切なことだったはずなのに。
 ティアは泣きながら、寝台に身を預ける。ぎゅうとシーツを握り締めて、いろんなものに耐えるように身体を丸めた。
 預言書から、ふわりと四つの光が抜け出して寄り添ってくるものの、それに気付く余裕すら、今のティアにはない。
 実り間近な果実は、急に支えを失って、誰も知らぬ闇の底へと落ちていった。ひどくあっけなくて、残酷で、ティアの心を刻んで消えた。それは、確かに訪れた恋の終焉。
「ヒースさん……」
 それでも。
 ヒースに、たまらなくあいたかった。