摘まれても—–7

 一夜明けて、鏡を覗きこんだティアは、己の顔をみて力なく笑った。
「ひどい顔……」
 泣きすぎて目は真っ赤。瞼も晴れているし、喉もからからだ。
 そっと、鏡に額をあわせる。髪越しにその冷たさ伝わってくる。
 このままでいてもヒースが思い出さないことくらい、薄々ティアにだってわかっていた。ただ、かすかな希望にすがるしか、自分にはできなかっただけ。
 もう、あの人は知っているけれど、知らない人なのだ。
 それを認めたくなかった。すぐに思い出してくれると、すぐにまた名前を呼んで笑ってくれると、信じたかったのだ。
 ずっと、ずっと。ヒースの「好き」という響きを支えにしていた。
 だがそれすらも、もう。
「忘れてくれっていわれちゃった……」
 ティアは、笑おうとして、でも笑えず。強く瞳を閉じた。
 あの一言を投げかけられて以降、ヒースが想いを告げてくれたときの声を、思い出せなくなってしまった。
 ティアは胸の痛みを誤魔化すように、唇を強く噛み締めた。これに負けてしまったら、自分はあの人との思い出を捨てることになると、なぜかそう思った。忘れたいと思ったけれど、でもそれでも失くしたくないとも思うから。
 ティアは頬に再び流れた涙も、こらえる。漏れる嗚咽も、飲み込む。
 そうしながら、思う。
 いこう。
 あの人のもとへ、昨日のように。何も無かったかのように。
 ヴァルドから「優しくするように」といわれたから、というのもあるだろうが、ヒースはもともと優しい人だ。だからきっと、自分を案じてくれているに違いない。
 自分のことしか考えてなくて、ヒースをあちこちに引っ張りまわしてしまったことを考えると、申し訳なさに小さくなって消えてしまいたい。
 でもだからこそ。ちゃんと謝って、大丈夫だって言いにいかないといけない。安心してもらわないと、いけない。
 ぐし、と鼻を鳴らし着替えようと振り返ったティアの頬に、ひんやりとしたものが触れた。
「きゃっ」
 驚いて声をあげると、いつの間にか傍らに現れていた小さな精霊たちが、ふわりと笑った。
「おはよう、ティア。これつかって?」
「……あ、ミエリ。ネアキも……」
 小さな姿をしたままの二人が持っているのは、ちいさめのタオルだった。
「こういうときは、瞼を冷やすのがいいんでしょ?」
「……冷たく、しておいたから」
 きっと、ティアのためにミエリが提案し、ネアキがその氷の性質をもってして冷やしてくれたのだろう。
「ありがとう」
 ほっと、ティアは笑った。二人の優しさが、心にしみた。礼をいいながら受け取って、そこに顔を埋める。その心地よさに、勝手に息が漏れた。
 と。
「なあ、どうするあいつ、燃やしてやろうか?」
「いえいえ。私が雷落としてきましょう。大丈夫です、曇り空の日を狙ってやれば、誰も怪しみません」
「っ!?」
 物騒な囁きが聞こえてきて、がばりとティアは顔をあげた。テーブルの隅に二人で顔を付き合わせ、レンポとウルが真剣な様子で空恐ろしいことを語り合っている。
「ちょ、ちょっと二人とも……!」
 レンポのウルに、ティアが慌てて詰め寄ると。二人は「なんだ?」「なにか?」と、ごくごく普通の会話をしていたような顔でティアをみあげた。
「本気じゃないよね……?」
「「……」」
 ティアが恐る恐る尋ねると、沈黙のまま顔を二人は見合わせる。そして、ティアにゆっくりと向き直った。
「ばれないようにすっから、安心しろ」
「そうです。ティアを泣かせたのですから、それくらい当然です。ああ、ちゃんとティアが疑われないようにしますからね」
 ぎゃー、とティアは悲鳴をあげそうになった。この二人なら、本気でやりかねないからだ。
「ええっと、ええっとー! わ、私、大丈夫。大丈夫だから! ね!?」
 ほら、平気。なんてことないんだよ、とティアは訴える。精霊たちが怪訝な顔をするが、ひくわけにはいかない。預言書のことを知っていたヒースならいざしらず、あまり詳しくない今のヒースでは、どうなるかわかったものではない。
「ほーらほら、だからいったでしょー? ティアはそんなこと望んだりしないって」
「……ばか」
 ミエリとネアキが、ふわりとティアの傍らに舞い降りる。
「だって、あいつむかつくだろうが!」
「ティアのことを忘れただけでも万死に値するはずです」
 だから、当然の報いなのだといってのけるレンポとウルに対し。
「だから、それがだめなんだってばー!」
「……その気持ちは、わかるけど。……だめ」
 珍しくミエリが声をあげる。賛同しつつも、いけないのだと頷くネアキ。そんな二人に責められて、むむむ、と男二人は黙り込む。
 そのあとも、もっと他のことでティアを元気付けるべき! と、これまた珍しくミエリにお説教されているレンポとウルをみて、ティアは小さく微笑んだ。
 心配してくれているその気持ちが、嬉しい。
「うん……。私、大丈夫。皆が、いてくれるもの」
 きゃあきゃあとやりあう大切な家族である精霊たちに心から感謝しながら、ティアはゆっくりと身支度をはじめた。
 ちくちくとした痛みは、まだ抜けないけれど――。

 

 小さな鏡で自分の顔を確認する。ちょっと疲れているけれど、ちょっと瞼が腫れて目も赤いけれど。
 でも、大丈夫。
 そう何度も自分に言い聞かせ、ティアはコートのポケットに鏡をしまうと、石畳を踏みしめるようにして駆け出した。
 めざすのは、視線の先にいる背の高いひとりの男。
「おはようございます! 将軍っ」
「あ、ああ。おはよう」
 背を向けていたヒースの前に、回りこむようにしながら朝の挨拶をすれば、少しだけ驚いたような声が返ってきた。
「今日もいいお天気ですね」
 にこ、と笑いながらヒースをみあげると、僅かに戸惑うような、申し訳なさそうな表情がそこにあった。
 ああ、そうだなと、ヒースがティアの言葉に賛同したあと、ゆっくりと唇が動いた。
「なあ、ティア。昨日のことだが」
「はい」
 昨日のこと。
 徒手流派の手合わせではないことなど、明白だ。夕方の、あの赤い世界での出来事のことをいっているのだと、すぐにわかった。
「その。すまなかった」
 ヒースが、頭をさげる。
「君を傷つけたかったわけではないんだ。ただ……」
 ティアは、ふと肩の力を抜いた。
 自分のために謝ってくれることが、なぜだか嬉しかった。あんなことをいわれたのに。
 やっぱり、ヒースは優しい人だ。だからこそ、ティアはヒースを好きになった。
「あの、いいんです。私が、わかってなかっただけなんです」
 ティアは、ヒースに頭をあげるように促しながら、そういう。
「すまん」
 しかし、納得がいかないのか、ヒースはさらに言葉を重ねる。
「大丈夫です。私、こうみえても強いんですから」
 ぎゅっと胸の前で拳を握り締めてみせる。
 そう。ヒースに見いだされ、戦う術をたくされた自分が弱いはずはない。弱くては、いけないのだ。
 ヒースが背を正したのと入れ替わるように、今度はティアが頭を下げる。
「私の方こそ、うそつきっていって……ごめんなさい。将軍が、いってくれたわけじゃなかったのに。あんなこといわれても、困っちゃいますよね」
 ゆるゆると顔をあげ、ばつが悪い思いを滲ませながらティアは笑った。
「……ティア」
 ヒースは気づいているのだろうか。ティアが、もう、ヒースさん、とは呼ばなくなっていることに。聡い男だ。そんなもの、ティアが気にかけるまでもなく、気づいているだろう。
 そんなヒースに、ティアは一歩近づいた。
「あの……ひとつだけ、お願いがあるんです」
「なんだ?」
 ひどく優しく、ヒースが問い返してくる。
 ひゅう、と喉が鳴る。また、間違えそうになった自分を叱咤する。目の前のヒースは、あのヒースではないのだと、痛みを伴う確認を再度して。ティアは言う。
「また会いに来てもいいですか? ご迷惑は、かけないようにしますから」
 もう、どこかに連れ出すこともない。もう、親しく名を呼ぶこともないだろう。
 ただ。ヒースの心に触れることを拒まれた己の心の慰めに、せめて近くに立たせて欲しい。心は遠くでいいから。ヒースの存在を、感じられることができるなら、それだけでいいと、ティアは願う。
「――君が、それでいいのなら」
 わずかな沈黙を破り、ヒースは頷いた。その真摯な瞳に、ティアは許されたのだと、ほっとする。
「はい。ありがとうございます!」
 そう感謝の言葉を口にすれば。
 どこか困ったようだったヒースの顔が、ふとゆるんだ。
 ああ、それだけでこんなにも幸せを感じる。
 ティアは心で泣きながら、精一杯に笑顔を浮かべた。