つつまれて

「ヒースさんこんにちは! って……あれ?」
 ノックの音も早々に、勢いよく重厚な扉を開いたティアは、お目当ての人がいないことに気付いて、きょとんと目を瞬かせた。
 きょろ、と室内を見回す。暖炉の火は落ちていない。外に出かけるためのコートもある。つまり、ヒースは城内にいるということだ。おそらく、ちょっとした用事で席を外したか、皇子もしくは王国関係者に急に呼び出されたに違いない。
 もともと会う予定はなかったから、こういったすれ違いがあっても仕方がないけれど。せっかく、ヒースが好きだという産地のコーヒー豆を偶然にも手に入れたから、プレゼントしようと思ってやってきたというのに。拍子抜けだ。
 んー、とティアは腕を組む。
 この場合の選択肢はふたつ。
 このまま帰って出直すか。
 もしくは、この執務室で待たせてもらうか、だ。
 だがティアには、そんなもの一秒だって悩むまでもなかった。
「お邪魔します!」
 ティアは満面の笑顔で、執務室へと身を滑り込ませた。
 だって前に同じようなことがあったとき、部屋の外でずっと待っていたら、戻ってきたヒースに「今度から中に入って待っていろ」と、いってもらえている。だから大丈夫なはずだ。
 後ろ手に静かに扉を閉めて、ふふふとティアは笑う。
 ティアは沸きあがる気持ちを抑えきれないまま、主のいない室内を踊るような軽い足取りで歩いていく。
 何度か訪れたことはあるけれど、じっくりとみてまわったことがない。これは絶好の機会が訪れたということだ。
 とりあえず執務机の片隅に、プレゼントをそっと置く。
「ふわぁ……むずかしそうな書類でいっぱい……」
 磨きこまれた大きな執務机の上は、さまざまな書類が散乱している。ティアにはさっぱりわからないものだらけだ。くるり、その縁を辿るように、机上を見下ろしながら歩く。
「ヒースさんってすごいなあ」
 きっとヒースはこのすべてのものを理解しているのだろう。決して綺麗に整理されているとはいえないが、どこに何があるのかくらい把握している、と豪語していたくらいだし。
「えっへへ~、ちょっとだけ……っと」
 でん、と置かれている黒い革張りの椅子に、そっと腰掛けて背を預けてみる。わずかな軋みの音も立てず、それはティアを包み込むように受け入れた。
 ヒースさんが座っているときは、そんなに大きく見えないのに。
 ぐいぐいと背中に体重をかけてみるが、びくともしない椅子。足の先が床に着かない。きっと正面から見たら、椅子と机に埋もれたように見えるに違いない。それは、とんでもなく間の抜けた光景だろう。
 そんなことを想像し、急に恥ずかしくなったティアは、書類を乱してしまうのを恐れたこともあり、そろそろと椅子から降りて執務机から離れた。
 広い執務室の奥には、出入り口とは違うもうひとつ扉がある。それはヒースが私室として使っているところに続くもの。
 ちょっと――みてみたい。
「ん、ん~……だめだめ」
 ぷるぷると自分の考えを払い落とすように、ティアは頭を振った。
「そんなこと、勝手にしちゃいけないもん」
 ヒースは大好きで大切な恋人であるけれど、そこに招かれたことはない。いつか、ヒース自身に誘ってもらったときを、楽しみにしていよう。
 今度は、大きなガラスのはめ込まれた窓へと近づいてみる。昨夜に降った雪が降り積もった中庭は、太陽の光をあびて銀色に輝いている。庭師たちが、重さにたわんだ枝から雪をおろしたり、小道の雪かきをしているのがみえた。
「綺麗……」
 ヒースも、仕事に疲れたときにはここから心和ませる景色に目をやっているのだろうか。
 知らないヒースの姿に思いを馳せて、ティアは笑みを零した。
 そして、最後にティアの目に留まったのは、部屋の片隅に立つコート掛け。そこには深い緑色の、ヴァイゼン帝国軍の冬用コートがさがっている。
 ててて、と小走りに近づく。
「ちょっとくらいなら……いいよね?」
 きょろきょろと誰もいないとわかっているけれど室内を見回して、ティアは手を伸ばした。それは見ため以上に、ずっしりと重い。あの大きな身体を覆うものなのだから、布地部分も多いし当然かもしれない。
「わぁ……大きい……」
 手を伸ばして広げてみる。精一杯やってみるものの、どうやっても裾が床についてしまう。
「うわぁ、うわぁ!」
 なんだか楽しくなってきたティアは、袖を通してみることにした。
「ふふっ、指先も出ない」
 ぶかぶかのコートはティアに覆いかぶさるような状態だ。着ているというより、着られている。
 ティアは、余った袖を左右交互に倒してみたり、長いドレスの裾をさばくようにして動いてみる。ヒースの足元までくるむ裾はティアの足に纏わりついて、溜まっている。
 そんなことをしているうちに、ふわ、と漂ったものに、ティアは目を見開いた。
「あ……」
 ティアは、くんと鼻をうごめかせた。
「ヒースさんの、匂いがする……」
 ぎゅ、と自身を抱きしめるようにティアはコートを引き寄せた。目を閉じて、大好きな人のことを考える。いつも鋭く厳しい瞳が、自分を見てやわらかに和む瞬間を思い出す。はやくはやく、その瞳でみつめてほしい。
「はやく……戻ってきて」
 願うように祈るように囁きながら、そっと頬を摺り寄せてみる。だが、そこにあの温もりはない。冷たさの中にヒースの香りだけがあるせいか、余計物悲しさを覚えた。
 ふ、と息をついて目を開く。きっとすぐに、ヒースは戻ってきてくれる。それまで、もうちょっとだけこの状態を楽しもう。
 気を取り直したティアは、コートを引き摺りながら歩き出す。一応、手で抱えられる部分は持ち上げているのだが、全部は無理だ。
「でも、ほんと大きい~」
 できればこのまま、もう一度執務机の椅子に座ってみたかった。ヒースはそんなことしないだろうが、えっへんと胸をはってみたい。
 子供のような無邪気な希望をかなえるため、ティアは懸命に歩く。が。
 案の定というかなんというか。裾を踏んづけ、バランスを崩した。
「わ……! きゃん!」
 がくり、と身体が前へ傾ぐ。そのまま、両手両膝を着くように、べしゃりとティアは倒れこんだ。ふかふかの絨毯が敷かれていてよかった。
「ぁぅ」
 失敗した、でも誰もいなくてよかった――そんなことを思いながら立ち上がろうとしたところ。
「ぶ……、ふ、くくっ、ははは!」
 堪えるのも限界だというように、盛大な笑い声が響いた。
「!!?!?!」
 ばっとティアは顔を起こして声のするほうをみた。そして、真っ赤になる。
「な、なにを……は、はははっ! さっき、から……、君は何をして……ふ、あっはっはっは!」
 廊下に続く扉を開きながら現れ、からからと笑っているのは、ティアの恋しい待ち人だ。
「な、な、な……!」
 倒れたまま、ティアはぷるぷると震えだした。
「ああ、なんでここにいるのか、と訊きたいのか? 皇子の呼び出しの用件が終わったから戻ってきただけだ」
 ティアの問いを見透かしたように、ヒースが目尻の涙を拭いながらいう。
「い、い、い……!」
「ふむ、いつからいたのか、といわれると……そうだな、君がオレのコートを羽織ったあたりからか」
 にんまりと笑われて、ティアはますます真っ赤になった。自分の行動全てをみられていたなんて、恥ずかしくて死ねる。顔から火を噴くどころの話じゃない。
 立ち上がることもすっかり忘れ、絨毯の上で涙目になって震えていると。
「ほら、いつまでそうしている」
「っ!」
 ひょい、とコートに包まれたままティアは抱き上げられた。なんなく腕へとひっぱりあげたティアの身体を抱えなおしつつ、ヒースが覗き込んでくる。
「ど、ど、ど……」
「どうして声をかけなかったかというとだな。まず、執務室内に何者かいるのを感じたから、気配を消してそっと様子を伺った。そうしたら、ティアがとても楽しげにしていたものだから、ついつい観察してしまったわけだ」
 観察。
 ヒースは、自分のことを小動物かなにかと勘違いしているのではなかろうか。
 ティアはヒースの肩に手を置いて、あいかわらず震えながらそんなことを考える。
「オレを待っていてくれたのか?」
「……はい。そこの、コーヒー豆を渡したくて」
 囁くように問われて、ティアはこくりと頷いた。く、とヒースが喉の奥を鳴らした。
「それで暇を持て余してあんなことをしていたのか」
「……」
 こくん、ともうひとつ頷く。本当は単なる好奇心で部屋の探検をしていたわけだが、そこはひみつだ。
「ごめんなさい……」
「何故謝る?」
 ヒースはとても楽しそうだ。だが、だからこそティアは居た堪れない気持ちになる。
「だって、コート勝手に着ちゃったし、転んじゃったし……もしかしたら汚しちゃったかも、しれませんし」
「……怪我は、していないのか?」
 静かなヒースの声に、自分の身体に意識を走らせる。多少膝が痛いくらいで、あとはなんともない。
「ん、と。大丈夫、です」
 鼻先が触れ合うような位置で長い睫を伏せながら、ティアは無事であることを知らせた。
 そうか、と安堵からの息を絡ませ呟いたヒースが、顔を寄せてくる。
「っ、」
 瞬きする間もなく、距離がゼロになる。唇を押し付けられたティアは、今度は顔だけでなく全身を火照らせた。
 一拍の躊躇いの後、ティアはゆっくりと目を閉じる。触れ合わせているだけなのに、くらくらしてきた意識を保つので精一杯になりながらも、なんとかヒースの首に腕を絡める。
「ならかまわない」
 口付けを解いて、ヒースが笑う。コートぐらいどうということはない、とさっぱりとした顔でいう。
「それに、随分と可愛らしかったからな。いいものをみた」
「……できれば、忘れてほしいです」
「無理だな」
 上機嫌なヒースに抱き上げられたまま、ティアは息をつく。迂闊なことをした自分が悪い。これはしばらく、ヒースにからかわれるに違いない。
 そのままソファのほうへと連れて行かれる。ふわふわとして気持ちいい。穏やかな海の波間を漂うような律動に、身も心もゆだねていく。
 くらげとかって、いつもこんな気持ちなのかなー……。ティアは、なんとなくそんなことを思う。
「せっかくきてくれたのにすまないが、少し仕事が残っているんだ。待っていてくれ。終わったら、一緒に茶でもどうだ? うまいと評判の菓子があるぞ」
 おろされながらいわれたヒースの言葉に、ティアは顔を輝かせる。甘味を嫌うヒースだが、なぜか差し入れは菓子ばかりで、それを処理するのがティアのお役目になりつつある。
「はい!」
 いい子だ、と蕩けるような甘い囁きと一緒に、額に口付けが落とされる。大きな手が髪を撫で、離れていく。こちらに背を向けて、歩き出すヒースを見送る。
「それにくるまって、もう少し辛抱してくれ」
 視線を感じたのか、わずかに振り返ったヒースが、くすくすと笑いながらそんなことをいうから。
 ティアはまた頬を染めた。
「はぁい……」
 いわれたとおり、もぞもぞと布団にもぐりこむようにしながら、ぎゅ、とコートを握り締める。
 冷たかったはずのそれは、ティアとヒースの体温が染み入って、いまはもう温かい。
 そのぬくもりと香りは、まるでヒースに後ろから抱きしめられているよう。つつまれている。安心する。
 ちら、と視線を送る。真面目な顔をして書類にペンを走らせるヒースは、とても格好いい。ずっとみていても飽きることはなさそうだ。これなら、まだまだ待てる。
 こてん、とティアはソファに転がりながら、にこにこと幸せ色の笑みをこぼした。