いとしきみへ

 ゆらゆらと暖かな色で揺れる暖炉の炎。小さなランプの明かり。そのふたつに満たされた、夜の静けさだけが広がる部屋に、紙面をひっかくペンの音がかすかに響く。
 規則正しく。時に、悩むように立ち止まり。そして、すぐにまた奏でられるその子守唄のような旋律。
 奏者である小柄な少女――ティアは、ときおり手を止めて紙面に目を走らせる。
 どこかおかしいところはないだろうか。
 どこか間違ったところはないだろうか。
 大切な人へと送る手紙は、どれだけ気をつけても気をつけても、しすぎることはないのだから。

――今日は、ローアンの街の皆が花壇の手入れをしていました。私ももちろん、参加してきました。ファナのおうちのぶん、一緒にやったんです。春になったら、綺麗なお花が咲くそうです。いまから、とても楽しみです。
 そういえば、こちらは先日、初めて雪が降りました。すぐに溶けちゃいましたけど、そちらはどうですか? 帝国はカレイラよりもずっと北にあるから、きっともう雪が積もっているのでしょうね。寒くはありませんか。風邪なんてひかないように気をつけてくださいね。
 それから……――

 少女は迷うように、瞳を揺らめかせた。きゅっと、ペンを持つ手に力がこもる。
 ほんの数瞬の後。
 溢れる想いをこめて、ひとつひとつ、紙に文字を記していく。

――ヒースさんに、あいたいです。

 ティアは震える睫を伏せる。柔らかな唇の合間から漏れ出す吐息は、この年頃の少女がするには、あまりにもせつない色を帯びている。
「あいたいな……あいたいよ、ヒースさん」
 ぐす、と鼻を鳴らしたティアは、零れそうに浮かんだ涙を留めるように、目頭を押さえた。しかし、間に合わない。拭いきれなかった涙が、ぽつりと落ちて文字を滲ませてゆく。
 せっかくここまで書いたのに、と思うものの。どちらにしろ、そんな言葉を記した手紙は、送るつもりはないから別に構わないとも思った。
 ティアは、もうひとつため息をついた。
 ヒースがヴァイゼン帝国に戻ってから、一年近く。
 こうした手紙のやりとりは途切れることなく続いているが、文字からはあの笑顔や声やぬくもりは感じられない。あの姿は、ティアの記憶の中だけに、留められている。

 ともに生きることを誓ってはくれないか――

 熱っぽい瞳とともに、想いの全てを吐き出すように伝えてくるヒースの、あの言葉。たまらなく嬉しくて、すぐさま頷いてかえした。そんな二人の誓いも、今は遠く感じられる。
 一目でいい。顔がみたい。声がききたい。私に笑いかけて、名前を呼んで。はやく、ここに帰ってきて。私のところに、帰ってきて。
 どれほど、手紙の中にそう書きなぐりたいと思ったことか。
 でも、ヒースが帝国の将軍という立場である以上、ティアのわがままは、許されないもののような気がした。国でその勤めを果たそうとしているヒースに、カレイラの英雄とはいえ国政にかかわらぬティアが、その仕事の邪魔をするような真似は、できない。したくない。
 ヒースは、やさしいから。
 きっと、ティアが弱音をはいてしまったら、すごく心配するだろうから。
 だから、今日もティアは書いた手紙をそっと横にどけた。
「心配かけちゃ、だめだよね」
 いつでも朗らかに笑いかけてくれたあの人に、憂い顔は似合わない。
 ふふふ、と寂しそうにそう笑い、ティアはもう一枚便箋を取り出す。そこへ、自分の気持ちを吐露することなく、改めて近況報告とヒースの身体を気遣う趣旨の文章を書き連ねていく。
 ただ、怪我や病気をすることなく、日々を過ごしていてくれればいい。一生懸命、仕事に励んでいて欲しい。だから、自分のほんとうの気持ちはかけない。
「ん、よし」
 ティアは書き上げた手紙のインクが乾くように、すれたりしないように注意しながら、重ねずにそっと机の上に広げる。明日の朝にはきっと乾いていることだろう。ふっと息をついて、振り返る。
 目に映るのは、見慣れた我が家だ。
 ヒースに会うまで、ヒースに恋をするまで、ヒースと結ばれるまで。ずっと一人で暮らしてきたこの空間は、小さいはずなのに――今は、やけに広く感じられる。そんなこと、ないはずなのに。
 ゆっくりと席を立つ。そうして、のろのろと部屋の中央へと歩いていく。
 ヒースのために用意した、椅子。その背もたれに、そっと手をかける。冷たい感触だけが、伝わってくる。
 す、と顔をあげれば、壁に設えた棚の中に、ヒースのために、二人で選んだカップがみえた。ゆるりと視線をめぐらせれば、他にも、ヒースのものがいくつも当たり前のようにそこにある。
 今、主のいないそれらを見回した刹那、どうしようもないくらいの寂寥感がこみあげた。
 一気に、視界が涙で滲んでゆく。歪んだ世界は、ティアの心そのままだった。
「っ、ふ……」
 口元を覆って、目を閉じる。だが、次から次へと漏れる嗚咽は、堪えられそうにない。
 ああ。あとどのくらい、自分は一人に耐えられるのだろうか。
 ぐ、と椅子の背もたれを握りしめ、ティアは唇を噛んだ。だがその痛みでは、きりりと胸を苛む痛みは誤魔化せそうにない。
「――ヒース、さん」
 ぽつり零した愛しい人の名は。
 応えるものなく、涙とともに、落ちて弾けた。

 

 星が地平線から昇るように、預言書から四つの光が夜の闇に浮かび上がる。
 四対の瞳が見下ろすのは、寝台の上で毛布に包まり、小さく丸まって眠る、恋する少女。自分たちが、この世界でもっとも大切に思う人間だ。
「……こんなに泣いちゃって……明日、瞼腫れちゃうわ」
 そっと、細く美しい指で頬に残る涙のあとをなぞりながら、ミエリは慈しむような瞳と声でそういった。
「……」
 ネアキも、無言のままティアの額をそっと撫でる。何度も何度も、その小さな身体の中で吹き荒れる、感情の嵐が少しでもおさまるように、と。
「まったく……、恋をするというのは、せつないものですね」
 赤と青の瞳を細め、ウルはティアの書きそんじた手紙を手にした。明日送ろうとしている手紙の、傍らにおいてあったそれには、ティアの真実がある。
「あいたいのに、相手のことを想うがゆえに、そんなことはいえず――ただ、想いだけを募らせる。そうしてまた、恋しさにひとりで涙する」
「なんでこんなことになるのか、オレ様にはわかんねぇ」
 赤々とした炎を連れて、ウルがもつ手紙をとりあげたのはレンポだった。冷め切った部屋の温度を少しでもあげて、ティアを暖めようとしているらしい。
「いいたいことあるんなら、さっさといえばいいだろ。何、ぐずぐずしてんだか」
 ひらひらと呆れたように手紙を動かしてみるものの、ぶっきらぼうな口調の底にはティアを案じる色が確かにある。
「そういうわけにもいかないのでしょう」
「なんでだよ」
 レンポの間髪いれぬ言葉に、ウルは儚くせつなく――ひどく、淡く微笑んだ。
「相手のことが好きだから、困らせたくないから、いえないこともある――そういうことです」
 青と赤の瞳が揺らいで、そっと閉じられる。
「……」
 今までどれほど世界の創造と滅びに立ち会ってこようとも、そんな表情をみせることなどなかったウルをみて、レンポは口を噤んだ。
 ただ、なんとなく。
 自分たちが抱く想いは、発現のさせかたは違えども、同じものだとレンポは感じた。お互いに、それを口に出すことは、最後の最後まできっとないのだろう。
「ま、オレもこいつのことはいえねーってことか」
 小さな呟きに、誰もこたえはしなかった。聞こえていなかったのかもしれないし、あえて聞き流してくれたのかもしれなかった。
 やがて、ティアを撫でていた手を止めて、ミエリが顔をあげた。
「でも、頭ではわかっていたとしても。心は、納得してくれないものなのよね」
 ミエリが、慈愛に満ちた笑みを浮かべて、仲間たちを見回した。それは、抱く想いのすべてを見透かす、母のごとく。
 ウルとレンポは小さく苦笑を返した。ミエリにはかなわないと、いうかのように。
「恋するティアは可愛いけど……私は、できればいつも笑っていてほしいな」
「……うん」
 その願いに賛同するように、ネアキが頷いた。
「そう、ですね。私もです。ティアには、いつも笑っていてほしい」
「ま、こいつは能天気に笑ってるほうが、似合うってもんだ」
 ウルとレンポも、同じように頷いてそう言葉を重ねた。
「だよねえ……。とりあえず、ティアの想いをどうにかして、あの人に伝えたいんだけど、どうしたらいいんだろう?」
 むー、とミエリがわずかに尖らせた唇に人差し指をあてて考え込む。
「まったくです。ですが、どうしましょうか。私たちが、ティアの近況を訴える手紙を書く……というわけにもいきませんしね」
 ウルも、腕組みをして考える。
「そうだよな。精霊が人間に手紙をだすっていうのだけで、まず無理があるよなぁ」
 とりあえず書いたところで、手紙を送るにはそれなりの手順がいる。そうなれば、どうしてヒースに手紙を出したいのか、どんな内容なのか等、ティアに問われることは間違いない。
 ヒースだって、自分たち精霊の存在は知っているが、まさか手紙を出されるとは思わないだろう。そもそも、相手は大国の将軍だ。差出人不明では、不審な手紙として開けられる前に処理されるだろう。
 うーん、と三人で頭を捻ったとき、レンポがもつ手紙がすっと取り上げられた。
「じゃあ、これ……」
 冬の風の下、静かに眠る雪原のごとき清らかさで、ネアキがいう。
「そのまま……いれてしまえば、いい」
 ちらり、とネアキが書き上げられた手紙をみる。明日の朝一にティアがもっていくだろう紙の束。
「あ、そっか」
 ぽん、とミエリが手をたたく。
 最後に紛れ込ませて、そのまま送らせればいい。それならば、確実にヒースのもとへ届くし、なによりティアの想いそのままの言葉が記されている。
「そう、うまくいくでしょうか」
 いつも、ティアは封筒にいれるとき、きちんと内容を見直している。そこに一枚これがはいっていたらわかるはずだ。そんなウルの懸念はもっともなもの。
「そこはそこ、オレたちが連携して、なんとか誤魔化して入れるしかねーだろ」
 だがそれを真正面から吹き飛ばすように、レンポが笑い。
「……」
 めずらしく意見があったようで、ネアキがこくこくと頷いた。
「じゃあ、そうしましょ。ね、ウル?」
 にぱっとミエリが楽しげに最後に笑えば。
 精霊たちの長であると自負するウルは、苦笑するしかなかった。
「ではひとつ、ティアのために頑張ってみましょうか」
「うん!」
「おう!」
「……おー……」
 気合をいれるように手を上げる三人に従うように、ウルも手をあげる。
「それでは、作戦をたてましょうか」
「えぇー、適当でいいじゃねぇか」
「そういうわけにはいきません。ありとあらゆることを想定し、その対処方法を考え、不測の事態に備えることにより、迅速な対応が可能となるのです。任務を完遂するために、作戦をたてることは勝利への第一歩です。レンポはいつもそのように対応するから、いきあたりばったりなことにしかならないのですよ」
「ぅぐ……!」
 不満げに声をあげたレンポを、あっという間に黙らせて、ウルは手を叩いた。
「はい、それでは作戦会議をはじめます」
「はーい」
「……」
 急に生き生きとしてきたウルに、ミエリ、ネアキが続き。
 そして、不承不承のレンポが最後に従った。

 

 

 がしゃり、がしゃり、と金属の音が響いてくる。重い鎧を身に纏った兵が近づいていくる証だ。ヒースは顔をあげた。
 案の定、部屋の扉前で音は途切れ、かわりにノックが響いた。
「失礼いたします。ヒース将軍あてに手紙が届いております」
「わかった。はいれ」
 軍人らしいはっきりとした発音が告げる内容に、ヒースは頷いた。
「はっ」
 すぐに扉が開かれて、廊下の冷たい空気と一緒に大柄な兵がはいってくる。篭手に覆われた手には、手紙の束がみっつほど。
 関係機関からのもの、配下からの報告書、ときには陳情書まである。執務が得意でないヒースにとっては、将軍職は楽な仕事ではない。
「ああ、ありがとう。いつものところに置いておいてくれ」
 少々げんなりしつつ、だがそろそろあれがくることだという期待もあって、ヒースは兵に労いの言葉をかけた。
「はっ」
 どさりと、兵が紐でひとまとめにされた封筒の束たちを、蓋のない木造の箱の中へと置いた。
「では、これにて失礼いたします」
「待て。君は三番隊の所属だったな……たしか……お、あったあった」
 そういいながら、ヒースは執務机の上に目を走らせる。机の表面がみえないくらいの書類が散乱しているが、本人はどこになにがあるのかわかっている。ひょい、と一枚の書類を抜き出して、封筒におさめて差し出す。
「すまんが、これを三番隊の副隊長に渡しておいてくれ」
「了解いたしました」
 そういって、一礼して退室していく兵を見送り、ヒースは読んでいた書類に再び目を落とそうとする、が。
 今しがた届けられたばかりの手紙が気になる。
 そろそろだ。そろそろくるはずなのだ。
 ヒースは、少年のようにそわそわするのがおさえられず、席をたった。
 どのみち、あとで整理しなくてはいけないのだ。いまやってしまえばいい。そんないいわけを心の中で呟いて、手紙の束を手にした。
 いそいそと、執務机までもどると、束ねられて重くなった封筒たちを解放し、ざっと目を走らせる。
 すぐに、淡い色合いの封筒がその中にまぎれているのに気付く。
「――ティア」
 ふわり、勝手に笑みが浮かんだ。
 目に付いたそれを取り上げる。柔らかな薄紅色のそれには、やはりヒースが思ったとおりのサインがある。可愛らしい小さな文字で「ティア」とある。
 その形をみるだけで、頬がさらに緩んだ。
 カレイラ王国で、ヒースがであった光り輝く可能性。この世の奇跡を集めたような、そんな少女に心惹かれ、どうしようもなくなって、手を伸ばした。そんな自分の指先を、彼女はそっととってくれた。断られても仕方ないと、思ってさえいたのに。
 いまは、なによりも大切な恋人だ。
 引き出しからペーパーナイフを出して、慣れた仕草でその封をあける。かさかさと音をたてながら、手紙を広げる。
「ふ、元気そうだな」
 ローアンの街の様子、一緒にいったことのあるお店の新しい料理の話、友人たちとのこと――格式ばった仕事の書類にはない、華やかで明るい話題が便箋数枚にわたって書き連ねられている。
 そして、最後にはいつもこうかいてある。

 身体に気をつけて、お仕事頑張ってくださいね。

 いつもどおりの締めに、小さく息をつく。さて、自分はどんな返事を書こうかと、想ったところで、もう一枚あることに気付いた。
「ん? これは……?」
 きちんと手紙は終わっていたのに。追伸でもあるのだろうか、とその最後の一枚をヒースはとりだした。
 そこに記されているのは、二枚目の出だしとほぼ同じ。読み進めながら、下書きか? と考える。もしくは書き損じか?、と。
「……!」
 だが、違っていた。

 ヒースさんに、あいたいです

 その紙面の終わり。
 小さなティアの願いが、そこにはあった。
 きっと送るつもりなどなかったのだろう、手紙。どうして、この封筒に入っているのかは、ヒースにはわからないけれど。もしかしたら、いれるつもりなどなかったのに、間違えていれてしまったのかもしれないけれど。きっと、これはティアの本当の心なのだろうと思った。
「ずっと……無理をしてたのか……?」
 よく観察してみれば、ぽつり、ぽつりと、わずかに滲む文字がいくつもある。ヒースは、そっと指先をおしあてた。もうすでに乾いているというのに、しっとりとした水の感触が伝わってくるようだった。
 いつも、明るく楽しく暮らしていると伝えてくれていた。そして、必ずヒースのことを気遣っていてくれた。一度だって、あいたいと、かえってきてほしいと書かれたことはなかった。
 だから大丈夫だと勝手に思っていたけれど。
 どうしてそんなことを思ったのだろう。いつも楽しげに笑っているとはいえ、悲しかったり辛かったりすることがないなんてこと――ありえないというのに。
 椅子の背もたれに身を預け、ひじをつく。ゆるり、まぶたを閉じる。
 暗い脳裏に、愛しい少女を思い浮かべる。自分だけに向けられた、その柔らかな微笑みに、恋焦がれる。
「ティア――オレも、君にあいたい」
 薄くまぶたを開いて、そうひとりごちる。だが、まだだ。まだ、自分は帰れない。ここでなすべきことがある。それをすべて終えたなら。そのときには、一番に彼女のもとに参じよう。抱き上げて名を呼べば、きっとティアはヒースがなによりも望む、花開くような笑顔をくれるだろう。
 だが、次に自分が書く返事には、書こう。必ず、書こう。
 いつでもどこでも君を想っていると。そしてなにより――自分こそが、君に会いたくてたまらないのだと。
 大人の分別をかなぐり捨てて、近況報告ではなく、恋文を記そう。
 いつの日か、そんな手紙を書いたことを恥じて消え入りたくなるぐらいのものを、書いてやろう。そして、そのことを、未来に二人で楽しく笑おう。

 静々と雪の降るヴァイゼン帝国の景色を窓から眺めながら、ヒースは遠いかの地と恋人のことを想う。
 降り始めた雪をみあげ、灰色の空に手を伸ばして、ティアはこの空が続く遙か北の大地と恋人を想う。
 今、君はどうしているだろうか――今、あなたはどうしていますか

  君に――あなたに

 あいたい
 そんな二人の願いが叶うのは、雪が融け青い空に花びら舞い、穏やかな陽射し溢れる、とある春の日のこと。