ふわ、と漂う二種類の香り。
ひとつは、香ばしさの中に苦味とわずかな甘味を隠したコーヒー。
もうひとつは、颯爽とした柑橘系の香りを纏う紅茶。
さきほどティアが淹れてくれたそれらは、ヒースとティアが互いに持つカップから、ゆらゆらと湯気と共に香気を立ちのぼらせている。
二人の距離のちょうど真ん中あたりで溶け合うそれらは、ヒースにとってはもう日常のひとつだ。
紅茶派のティアに手間をかけさせて申し訳ないと思うが、やはり飲むならコーヒーだとヒースは思う。
苦味を舌の上で転がしながら、ヒースは新聞に目を走らせる。紙面には戦時中には考えられないような、明るく穏やかなニュースがいくつか載っている。平和が訪れた証拠。
だからこそ、こうしてティアが側にいてくれて、心地よい沈黙の中でお茶を飲み、のんびりと時間が過ごせている。なにものにも変えがたく、失いたくはないものだ。
「ねえ、ヒースさん」
「ん?」
ふいに、ティアが声をかけてくる。しかし、まだ記事半ばを読んでいたヒースは、顔をあげなかった。だから、ティアがどんな顔をしているか、わからなかった。
「えっと……これからずーっと紅茶だけを飲んでくださいって、お願いしたらどうします?」
突然な言葉だった。
こうして欲しいと願うにしては、あまりにはっきりとしない、なんとも歯に物が詰まったような言い方。
「――は?」
たっぷりとした沈黙のあと、いわれたことがよくわからなかったのと、単に問い返したかっただけもあって、ヒースは思わず間の抜けた声を漏らしながら顔をあげた。
するりと糸が結ばれるように、視線が絡む。少しだけつまらなさそうに、だけと緊張感を滲ませていた可愛らしい面が、わずかに緩んだ。好きな人の視界にはいれて嬉しいと、その表情だけで伝わってくるようだ。
「だから、その……コーヒーの匂いが苦手だから、これからは紅茶だけにしましょう、っていったら……どうします?」
それをきゅっと引き締めて、紅茶のはいったカップをテーブルに置きながら、ティアが再度問いかけてくる。
それはまるで、愛情を注いでくれることを知っていて「私のこと好き?」と親へ問いかける子供のようにみえた。答えを知っているくせに、それが欲しいとねだっている。
どうしてそんなことしてくるのかわからないけれど。その様子は正直可愛い。
ヒースは目を二度三度ゆっくり瞬かせたあと、くしゃりと顔を崩した。
むむ、とティアの眉間が僅かに寄せられる。
「そうだな。じゃあ、飲むのをやめるとするかな」
他愛のない願いだ。これから先、一生涯コーヒーを口に出来ないとしても、ティアがそう願うのならば、叶えることは容易い。
悠々とした口調でヒースはそう告げながら、わずかにおろしかけていたカップを再び口元まで持ち上げる。すう、と香りを楽しむように吸い込む。これが最後だと、コーヒーに対し別れを告げるような行為。
「じゃあ、じゃあ……! ええっと、お肉食べないでっていったらどうですか?!」
そのあまりにも落ち着き払った態度に焦ったのか、ティアが身を乗り出して詰め寄ってくる。だが、大好物を引き合いに出されても、答えは一緒だ。
「では、食べるのをやめるとしようか」
「う、ぅ~……」
決して否定せず、反論もせず。ティアがいうならすべて是だと、ヒースは本気で思っている。それを感じ取ったのか、すとんと腰を下ろしたティアが、唇をわずかに尖らせた。
「……私、割と本気でいってるんですよ?」
「オレも、冗談でこたえているつもりはないが?」
うぐぐ、とティアが口を引き結ぶ。その様子に、ヒースは低い声を喉で転がしながら笑った。
「一体どうしたんだ、急に?」
ん? とティアの言葉を促す。真正面からその綺麗な瞳をみつめると、わずかに眦を染めたティアが俯いた。ぷつりと途切れた視線が、少しだけもったいなかった。
そして、ティアはだんまりを決め込んだ。
無理に聞き出そうと思えばできるだろうが、可能ならばティアに答えて欲しい。ヒースは我慢強く待ち続ける。
いたたまれなくなってきたのか、もじもじとティアが手をすり合わせて、肩を揺らした。そして。
「――ちょっと、試してみたくなったんです」
神へ罪を告白する懺悔者のように、ティアがようやく白状する。
結局のところさきほどの言葉は本気ではなかったと、この言葉で白状したようなものだが、そこには目をつぶろう。
「何をだ?」
自分でもわかるくらいに、にや、とヒースは目を細めた。悪戯めいた輝きを見出したのか、ちらりと視線をあげたティアが、びくっと身体を震わせた。「だって……だって」と、ティアがテーブルの上に乗せた手の指先を絡め、ぎゅっと力をこめた。
「ヒースさん、そういう人じゃなかったような気がして」
「……む?」
そういわれても、思い当たるところがない。
ついつい、視線を上へと彷徨わせて記憶を手繰る。だが、一向にそうだったように思えない。記憶がない。
それに焦れたのか、ティアがぱっと顔をあげた。
「だって、徒手流派の修行をしてるときとか……ヒースさんはもっとこう、厳しくて……!」
それはそうだ。これまで世間に秘されてきた流派の伝承者としてだけでなく、己をしっかりと律する大人として接することで、ティアがその強さを取り戻せるよう、模範となるよう努めていたのだから。
「私なんかが何を言っても、自分のことは曲げそうになかったじゃないですか」
そして、帝国のため、皇子のためと、ヒース自身も己の信念を貫きとおそうとしていた。だから、ティアにはそう見えていたのだろう。
ふむ、とヒースは頷く。
確かに、あの頃ならば、こうしてああしてといわれたところで、「自分のことは自分でしろ」、「人の好みには口を出したりはしない。かわりにこちらにも口を出すな」、と透明でありながらもはっきりとした線をひいていただろう。
だが、それは過去のことだ。現在のことじゃない。ティアはそれをわかっていない。
「……そうだったかな」
深い森の中、自分の希望と戦う術を託すため、ティアを鍛えていた頃を思い出しながら、ヒースは薄く微笑んでそらとぼけた。
「それで、さっきの質問になるわけか」
こくんとティアが頷いた。
「今のヒースさんて、お買い物に一緒にいけば、重いものを必ず持ってくれるし」
「そうでなければ一緒にいった意味がないだろう」
「お店にはいろうとすれば扉あけてくれるし」
「男として当然の振る舞いだろう」
「……ヒースさんが、その……こんな風にしてくれるなんて思ってなかったっていうか……」
決して嫌ではなく、むしろ嬉しい誤算だったというように、ティアが赤くなった頬に手を添えた。
「う~む……」
甘やかしているつもりはないが、ティアが出会った頃のヒースと、今のヒースの違いに戸惑う程度には、態度や行動に出ていたらしい。しかし、そこまで亭主関白気取りになると思っていたのだろうか、ティアは。それはそれで心外だ。惚れた女をぞんざいに扱うことなど、絶対したくないことのひとつだというのに。
「だから、その……ですね、どこまで私のいうこときいてくれるのかなって、ちょっとだけ気になっちゃって……ごめんなさい」
ティアは長い睫を伏せながら、試したことを詫びてくる。好物を引き合いに出せば、ヒースは嫌がるかもしれないというのが、実にティアらしい。もっと嫌がりそうなことなら、たくさんあるだろうに。それを思いつかないのが、ティアという女の子だ。
そうか、とひとつ頷いた後、ヒースは新聞を折りたたんだ。
そして、出会ったころには見せることなんてなかった表情を、ヒースはわざと浮かべる。ぎょ、とティアが驚いた顔をする。みるみるうちに、さらに赤くなっていく顔。
「――まあ、あの頃とは随分違うからな」
意識して、優しく甘さを帯びた声でそういうと、ティアの小さな胸を押えるように手を胸元に持っていった。見開かれた目も、ほんのり染まった頬も、その仕草も、己に恋してくれている証拠のようでたまらなく可愛い。
「えっと……どこが、ですか?」
予想どおりティアは問い返してくる。
「知りたいか?」
「はい」
ではちょっとこっちにこい、と手招きする。ティアが首をかしげながらも席を立ち、小さく靴音を響かせてヒースの傍らに立った。に、と笑みを深くして手を伸ばす。ティアの細い腕を掴み、軽く引き寄せる。それだけで、小柄なティアは、いとも容易くヒースの腕の中へと落ちてきた。
「きゃ……! ヒースさんっ」
悲鳴に近い声を無視して、そのまま己の膝の上へとティアを横抱きにするように座らせる。反射的に下りようとするのを押えるように、腰に腕を絡ませる。こうしたらティアが逃げられなくなることくらい、よく理解している。
「もうっ、びっくりするじゃないですかっ」
絡めた腕に華奢な手を添えて、ティアが抗議するように声をあげてくる。だが、ヒースはそれにかまうことなく、ティアの頬に節くれだった指で触れる。瞳を覗き込めば、ティアが真っ赤になって息を呑む。
「さきほどの答えだが」
ヒースは薄い唇を動かして、ゆっくりと言葉を刻む。
「オレが君を誰よりも愛しいと思っているところとか」
剣を持つせいで硬い皮膚が、多少申し訳ないと思うが――触れたいものはしょうがない。ヒースは無骨な指先で、ティアの眦を撫でる。そのまま、柔らかな髪の下に隠された耳をくすぐると、ティアが「ひゃあ」と首をすくめた。
「君がオレを慕ってくれているところ、とか」
ティアの気持ちを引きずり出すように囁きながら、そっと髪越しに額へと口付けをひとつ、落とす。柔らかな熱が、唇から伝わる。
「そういったところが、あの頃とはずいぶんと違うと思うんだが……さて、君はどう思う?」
「……あ、や、そ、そそそそそう、です……ね」
恋人同士となってから、こういった触れ合いは多少経験したものの、まだティアは慣れていない。無意識のうちに、こちらの胸に手を突っ張って距離をとろうとするティアの仕草が初々しい。与えられる愛情を、素直に受け取れるようになるのは、いつになるのか。それすらも楽しみで、ヒースはついつい声を上げて笑った。
「そうだろう?」
こくこくと、ティアが幾度も頷いた。
あの頃とは、抱く気持ちがまったく違うと理解してくれたようだ。
弟子の将来を考えての厳しい思いではなく、今は女の子として恋人として大切に想っている。だからこそ、ティアの言葉を、ヒースはすんなりと受け入れてしまう。ティアのためならばと、出来る限りのことをしようとしてしまう。
ヒースの言葉に納得する答えを得たものの、それに気恥ずかしそうにするティアの全身が、服越しからもわかるほどに熱を帯びていく。きっとその小さな心臓は、早鐘のように打ち鳴らされているのだろう。
「だから、オレは君の願いでもわがままでも、なんでもかなえてやりたいと思っているんだが――」
ふと、声にともる温度が下がるのが自分でもわかった。
「ひとつだけ、絶対にかなえられないこともある」
それを敏感に感じ取ったのか、ティアが顔をゆっくりと顔をあげた。
「それって……なんですか?」
わずかに首を傾げる。その澄んだ瞳に吸いこまれてしまいそうだと思いながら、ヒースはうっそりと微笑む。
笑う自分が、温かみをもつ茶色の目に映っている。だが、そんな表情とは裏腹に、胸の奥は冷たく疼いて――そして、せつなさに満たされている。
ぎゅっとティアを抱きしめる。
自分の悪い癖だと思う。常に最悪の事態を想定してしまうのは、戦場を駆け抜けてきた戦士の悲しい習性だった。
閉じた瞼の裏に浮かんでいた、ティアの姿がふいに掻き消える。それだけでヒースの心臓が、悲鳴をあげる。明るい闇の中、ティアから伝わるぬくもりだけが、確かなものだった。
「君が、オレのもとを去りたいといっても……絶対に、手放せない」
「……あ……ヒース、さん」
ふるり、腕の檻に閉じ込めたティアの身体が震えた。そうして、おずおずと背に回される細い腕の感触。抱きしめているようで、実は自分が縋っているのだと気付かされる、わずかな力。
自分がティアを嫌うことなどない。ティアの想いを信じているが、先のことなどわからない。だからこそ、悪い未来も想像する。
ヒースの肩に頬を摺り寄せながら、ティアが吐息とともに口を開く。
「……もし、もし……それでも、どうしても、私がお別れしてくださいって言ったら……どうするんですか?」
仮定の話なのにこんなにも胸が痛むのは、ヒースこの少女に惚れこんでいるせいだ。
「そうだな……」
そんなことは決していわないでほしい。そう願いながら、ヒースはティアの髪から背を、数度撫でた。ティアは、じっとヒースを待っている。
答えは最初から、決まっている。ひとつしかない。
身体を離し、ヒースはぐいとティアの顎を掴んだ。視線をそらせぬようにして覗き込む。
その瞳からティアの心を射抜いて、ここに縫い付けられるならばいいのに、と浅はかなことを考えながら口を開く。
「君を、誰も来ない場所に連れて行って閉じ込めて――どこにもいけないようにするとしよう」
眩しいものをみるようにティアの目が眇められる。その僅かな瞳の隙間に、光がちらつく。
自分で言葉にしたくせに。それは、なんて甘い誘惑だろうとヒースは思う。
誰も来ないところに、誰の声も届かぬところに、ティアとただ二人きり。そんなこと、決してティアは望まぬとわかっているのに、常日頃は心の一番奥底に理性という鎖で縛り付けている独占欲が顔を覗かせて妖しく囁く。
そうしたらきっと――きっと、ありとあらゆるものが満たされるだろうに、と。
ヒースは重い息を吐いた。
空恐ろしいことをいってしまった、考えてしまったと、ヒースは心を振り切る。のばされた誘惑の手は、その瞬間、再びあるべきところへと引っ込んでいく。
ヒースは、顔を一変させた。
ティアが大好きだといってくれる笑顔を形作る。まるで、さっきみせていたのは幻だったとでもいうような明るさで、ティアに笑いかける。
「まあ、オレがどんな手を尽くしたって、君を繋ぎとめる事はできないんだろうがな」
わかっているんだ、と。物分りのいい大人の顔で、そういう。
ふるふる、とティアが頭を左右に動かす。
ティアの手が、ヒースの肩にかかる。指先に力が込められる。
「そんなこと、ないです」
「?」
ティアのいいたいことがわからず、ヒースは思わず首をかしげた。
「えっと、だって私、いつもヒースさんに繋ぎとめられてますよ? ここからはどこにもいけません」
へにゃ、とティアが笑う。ヒースの閉じ込めたいという発言に、恐怖を抱いてる様子はない。むしろ嬉しげなのは気のせいか。
「そ、そうか……」
怖がられても仕方ないとさえ思ったが、どうやらそんな心配は無用だったらしい。
「それに、私がそんなこというなんてことも、ありえないです」
自分から「そうなったらどうするの?」と問うたというのに、頭からすべてを否定してヒースを安心させてくるティアがずるくて――どうしようもなく、愛しく思えた。
「……ティア」
掠れた声で名を呼ぶと、手が首へと回された。ぎゅうううっと、精一杯に抱きついてくる。と肩の力を抜きながら、ヒースはティアの背に手を添えた。
ありがとう、という言葉が自然と零れた。
そうしてしばらく抱きしめあう。やがて、ティアが「でも、」と声を漏らした。
「もし、逆にヒースさんが別れたいって言い出したら……。私は、ヒドゥンメイヤの一番奥に、ヒースさん連れて行っちゃうんだから」
覚えておいてくださいね。
九割方というか、ほぼ本気でティアが囁いただろう言葉に、ヒースの体が勝手に強張った。思わずティアの顔を覗き込むと、悪戯っぽい微笑みがそこにあった。だが、瞳は真剣そのもの。
これはこれは。
「――は、はははっ、そいつは怖いな!」
むずりと腹の底がうごめくような感覚に、ヒースは豪快に笑い出した。ティアにそういわれるのは、なんだか悪くない気分だった。
様々なところで好みは違えど、案外、ティアと自分の根っこは近いものがあるのかもしれない。そう思った。
「まあ、そんなことは杞憂だ。オレは君に飽きられないように、精一杯つとめるとしよう」
「私も、ヒースさんのこと離さないように離されないように、がんばります」
そういいあって、二人は顔を見合わせ笑いあう。
ヒースがきけないティアのお願いはたったひとつ。
ティアがきけないヒースのお願いもたったひとつ。
だがその願いが口にされることは、こうして互いに笑顔でいられるなら、そうあれるように自分にできることを忘れなければ。
未来永劫訪れることはないと、愛する少女と額を触れ合わせながら、ヒースは強く信じた。