「ほたる?」
ティアのきょとんとした声が、小さな家に響いた。
巨木の一部に住居を構えているラウカの家に、森の探索がてらティアと二人で邪魔をしたのが今日のこと。
友人二人の訪問をラウカはとても喜び、三人がかりで森の獲物を追いかけたりした。
今日はラウカいわく「肉!」らしい。実際、ヒースは肉が好きなのでありがたかった。
その肉を焼く準備をしつつ、スープなどの支度をしている小さな後ろ姿をぼんやりと眺めつつくつろいでいたヒースは、のそりと身体を起こした。
「そう、ホタル!」
元気いっぱいの声を響かせながら、ラウカが頷く。
「せっかく来てくれたんだからみてくるとイイ! 光るゾ!」
「ひ、光る……?」
小柄な外見とは裏腹にそれなりに歳を重ねているラウカと、見た目どおりのあどけない年頃のティアのやりとりを聞きつつ、心の中で繰り返す。
ほたる……ほたる……ホタル……ああ。
「そうか、もうそんな季節か」
顎に手を当てて記憶を探っていたヒースは、ようやく思い当たって、声を零した。
あまり大きな声で言ったつもりはなかったのだが、狭い家の中だ、ちゃんと聞こえていたらしい。ぱっと二人分の視線が向けられる。
「ヒースさんは知ってるんですか?」
全然想像できないらしいティアが、不思議そうな顔で首を傾げる。その可愛らしい仕草に、小さく微笑む。
「ああ、一度だけここでみたことがある。なかなかすごいぞ?」
へえー……、と呟くティアの瞳がきらきらと輝いていく。しかし、今手元にある料理の行く末も気になるらしく、あっちをみたりこっちをみたりしている。その動きにティアの葛藤が見え隠れしているようだった。
そんな様子を察したらしいラウカが、にこーっと笑ってティアの背を押し出した。
「ヒースと一緒に、行ってこイ。ちゃんとラウカが肉の番をしていル!」
任せろというかのように、胸にとんと拳をあてたラウカに、ティアは一瞬だけ迷いをみせる。
しかし結局は好奇心に勝てなかったらしく、はにかむように小さく首を縦に振った。
「じゃ、じゃあちょっとだけ……」
「よし、ではいってみるか」
ぎし、と寝台をひとつ鳴かせて立ち上がったヒースは、ティアのもとへと近寄った。
「暗いカラ、足元には気をつけるんだゾ!」
「ああ、わかってる。ありがとう」
心配してくれるラウカに二人で微笑み、ティアはヒースと連れ立って家をあとにする。
扉をくぐる瞬間に、よだれをたらしそうな勢いで料理というか肉をみつめるラウカの瞳が、どこかぎらぎらしているように見えた。
昼間、三人がかりで捕まえてきたポグの肉は大量にあるけれど、戻ってきた頃には随分と減っていそうな気がして、ヒースはくつくつと笑う。
そんなことを思いもしないティアが、どうかしたのかと首を傾げるので、なんでもないとその小さな背を叩いて、先を歩くように促した。
家を出てしまえば、そこは別世界。
森は夜の気配に満ち満ちて、仰ぐ空に月はない。
甘い緑の風を浴びながら、水面を滑る小さな光が、闇に尾を引き舞い踊る。
巨木の根元を流れる小川を階段上から覗き込み、そんな様子を目にしたティアが、ほう、と息をついた。
「わ、すごい……」
ティアが近寄ってきた光を受け止めるように、その小さな手をひろげて感心したよう呟く。
「ティア。ほら、あそこ」
何気なくヒースが指差した先には、緩やかな光の渦ができていた。
「うわぁ、うわぁ……! とっても綺麗!」
きゃっきゃと歓声をあげたティアが、そこへ近づくために階段を駆け下り、川辺沿いに歩き出す。少し下流にある橋を渡って対岸にいけば、もっと近くでみられるからだ。
そのあとをのんびりと追いかけながら、ヒースは目の前の幻想的な風景に目を細めた。
ひとつひとつは小さく頼りないというのに、こうして集えばそれは見事な景色を作り出す。以前にもここでみたけれど、あいかわらず美しい。
「これが、ほたるですか!?」
橋を越えたところで、くるっとティアが振り返る。興奮を抑えきれない問いに、ヒースは笑いながら頷いた。
「ああ、この季節にでてくる虫でな。それほど大きくもないんだが」
「まるでお星様が空から降りてきたみたいです!」
可愛らしいティアのそんな言葉に、ヒースは笑みを深くする。そんなロマンティックなことをいうのは、やはり女の子だからだろうか。
「それにしても、どうして光ってるんでしょうね? あ、ほら、消えたりもするし」
もっともな疑問ではあるが、学者でもないヒースはその答えは持ち合わせていなかった。ひょいと肩をすくめる。
「さあ、オレにもよくわからん。だが、綺麗なのはわかるぞ」
「はい!」
まったくもって同意見だと頷くティアの髪が、ほのかに光っていることに気付いて、ヒースは腕を伸ばした。
「ああ、ティア。髪にとまっているぞ」
「え、どこですか?」
慌てて手を上げるティアを制する。下手に力を加えると、小さな虫だ、潰れてしまうかもしれない。
「じっとしていろ」
その言葉を受けて、ティアは素直に動きを止めた。
柔らかな髪を飾るように明滅を繰り返すホタルを、そっと指先で押しやると、名残惜しそうにふわり、空へと飛び立っていく。
「ほんと、綺麗です……!」
その軌跡を、ティアは楽しそうに追いかける。
「なんというか、そんなに夢中になられると妬けるな」
本気半分の冗談を言えば、ティアがくすくすと笑った。
「もう、そんなこといって」
ころころと声を転がすティアの頬に手を伸ばす。良く知っているその柔らかさは、いつでも心地よい感触をヒースに与えてくれる。
「あれ、まだ、くっついてます?」
「いいや?」
ゆっくりを頭をふって否定して。もう一度その頬を撫でた。
「じゃあ……?」
どうして、と問いかけるティアに笑う。
「オレが、触れたいだけだ。ホタルだけなんてずるいだろう?」
む、と息を詰まらせたティアが、ふいと顔を背けた。
「……な、なにいってるんですか……!」
ティアが、闇の中で長い睫を伏せるのがわかる。照れが多分に含まれた声と仕草に、勝手に笑みが深くなる。
少しずつ、ティアと自分の間に漂い始めた雰囲気が、心地よい。
かつてここに滞在し、徒手流派の技を伝えていたときには、お互いにこんなことになるなんて思ってなかっただろうに。人の縁と心は、不思議なものだ。
「ティア」
しっかりと恋人の名を呼ぶと、わずかな逡巡の後、おずおずとティアが一歩前に出た。
軽いその身体をさらうようにもちあげる。
とくに苦情の声はあがらないし、ぎゅうとティアが腕を回してきたのをいいことに、ヒースはそのまま歩き出した。
肩で風を切るように前に進むヒースに対し、ホタルたちはふわふらと飛び交い、道をあけていく。
いくつもの光を割るようにして近づいた、巨木の張り出した根にヒースは腰掛ける。そのまま、己の膝の上にティアを降ろしてそっと抱きしめた。
小さな肩にまわした手に、ティアの手が重ねられる。
じんわりと皮膚を通じて身体の芯を温めるティアのぬくもりが、ひどく愛おしい。
安堵したように息をつくと、ティアが胸へと体重を預けてくる。そのまま、小川のせせらぎを聴きながら、水面の上で繰り広げられるホタルの舞を、二人で静かにみつめる。
滅びゆく世界の片隅で、こんなにも美しいものを、自分のすべてといってもいい恋人と穏やかに過ごすこの時間が、何にも変えがたい大切なものに思えた。
ふいに近くへと飛んできた蛍に、届かぬと知っているだろうに、指先を伸ばしたティアが、言う。
「――ね、ヒースさん。またこの季節、ここに一緒に来ましょう? きっと、そのときも綺麗ですよ」
「そうだな。君とまた、観られたらいいとオレも思う」
「えへへ、嬉しいです」
その声が、ほんとうに幸せそうだから、ヒースの心も同じ気持ちに満たされる。
それを伝えるように、ヒースはそっとティアの頬に手を添えて、優しく自分のほうをむかせると、その額に口付けを落とした。
ぴく、と身体を震わせたティアが、ん、と息をのむ。
そうしてゆっくりと離れれば、ヒースをぼうっとみあげたティアが、おずおずと背を伸ばした。
躊躇いながらもねだるその仕草は、幾度口付けを交わしても初々しい。
くす、と笑ったヒースは、その求めに応じるために大きな身体をまるめ、唇を寄せて――
「できたゾー!」
ばぁん、と勢いよく扉を開け放つ音と、どたどたと今までの静けさをぶち破る足音と大きな声に、今まさに口付けを交わそうとしていた二人は一瞬固まって。
目にも留まらぬ速さでティアがヒースの膝の上から飛び降りた。
「ティア! ヒース! 肉、焼けたゾ!」
ラウカが、川を挟んだ向こう側、室内へと続く階段の上から手を降っている。
「う、うん! わ、わわ、わかった、今、行くね!」
裏がえった声で、ティアが返事をする。
「はやく、来ル!」
ぶんぶんともう一度手をふって、ひどく上機嫌なラウカは家の中へと引っ込んだ。
なんともいえない沈黙が、二人の間に落ちる。
口元を押さえたヒースは、深く息をついた。タイミングが悪いというか、なんというか。
「ご飯、で、で、できたみたいですし! えと、その……も、もどりましょうか、ヒースさん!」
あはは、と乾いた笑いをこぼしながら、ぎくしゃくとティアが歩き出す。
あわや夜目の効く友人に自分のキスシーンをみられるところだったということが、よほど衝撃的だったらしく、その足元はおぼつかない。
やれやれとヒースは小さく笑って、ここにくるときと同じように、ティアの後を追いかける。
「ティア」
「は、はいっ」
背後まで近づいて、声をかけると、ティアが慌てて振り返る。そんな少女に向かって大きな背を折った。
もう少し、ティアの身長が高くなったら、キスもしやすくなるだろうに。
来年、つい今しがた交わした約束を果たすとき、そうなっているだろうか?
そんなことを考えながら、掠め取るように一瞬だけ唇を触れ合わせる。
小さな音と甘い感触、そして僅かなぬくもりだけをティアの唇に残して、そのまま何事もなかったかのように、ヒースは歩き出す。
次にホタルの光に包まれたティアをみるとき、きっと彼女は美しく成長しているのだろう。はやくその日がくればいいとも思うが、まだこなくてもいいような気がする。
できるだけ、二人の時間がこのホタルの舞う小川のように、ゆっくりと流れてくれればいい。ティアと出会い、彼女を愛するまで得ることを望まなかった幸せだが、もう手放すこともできない。いつまでもこの幸せに包まれて、日々を過ごしたい。
こうした、優しい思い出を、どこまでも重ねるために。
「……ん?」
そんなことをつらつらと考えて橋を渡ったところで、ティアがついてきていないことに、ヒースはようやく気付いた。
「どうした、ティア。いかないのか」
小川の対岸で、すっかり動きを止めてしまっているティアに、ヒースが声をかけると。
かちんこちんに固まってしまっていたティアが、のろのろと手を伸ばしてくる。
ふ、とヒースは眉を下げて、来た道を引き返す。
闇夜に浮かぶその白い手を恭しくとると、離さないでというように、細い指先に力がこもる。
優しくその手をひけば、ティアがよろりと一歩前にでる。そのまま、ひどくゆっくりとした足取りで、橋を渡り巨木へとむかう。
川岸を彩るホタルを横目に、ラウカがしつらえた階段に足をかけたところで。
「ヒースさん……」
「ん?」
か細く響いた声と聞き逃すことなく、振り向いてヒースはティアを見下ろした。
俯き、髪を頬にかけて表情の見えないティアが、ぽつんと呟く。
「……大好き、です」
ふいに伝えたくなっただろうその言葉と、華奢な身体から滲み出る空気からは、ただひたすらにヒースに恋焦がれているティアの想いが、垣間見えた。
自分との恋に頭からつま先まで溺れきったティアは、いますぐ抱き上げて、抱きしめてやりたくなるくらいに可愛い。けれど、そうするとティアの動きが、余計ぎくしゃくすることは容易に想像できた。
だから。
「――ああ。オレも君が好きだ」
繋いだ手を握りつぶさないようにそっと力をこめて、ヒースは熱っぽい声を喉の奥から零す。
それだけで今は充分。
それを同意するように、こくん、と頷くティアの髪がさらさらと揺れた。
ああ、それにしても実に残念だ。
今が明るい昼ならば、真っ赤になったティアの顔がよく見えただろうに。
まあ、今から家にはいればじっくりと見ることができるから、構わないといえば構わないのだけれど。
不思議に思ったラウカに質問されて、慌てふためく姿がまざまざと脳裏に描かれる。
確実に起こりうるだろう、ほんの少し先の未来を思って小さく笑いつつ、ヒースはティアと共に、ゆっくりと階段を上っていった。