世界は滅びに向かっているとはいえ、一日は穏やかに過ぎていき――ティアが、ゆっくりと家でくつろいでいたとある日、とある時刻。
突然の訪問者があった。
返事をして、古びた扉をあけて。目の前に立つ人物を見上げ、ティアは上擦った声をあげた。
その人を迎え入れた際の、ぎくしゃくとした態度は少しおかしかったかもしれないが、それはティアが初めて恋をした相手が客であるということを鑑みれば仕方がない。恋心を抱く少女が、緊張しないわけがない。
もじもじとしているうちに、彼はティアに向かって熱っぽく語りだした。
緊張が一気に増して、一言一句、彼の言葉を逃さないようにティアは己の耳に全神経を集中させた。
そして、その内容を理解するにつれて、ティアは頬を染めあげた。
だってそれは――彼の言葉は、ティアへの愛の告白だったのだから。
ともに生きて欲しいと、君を守りたいといってくれていたのだから。
憧れていた人からのそんな言葉に、恋愛経験のなかったティアが舞い上がるのは、無理もない話で。
ティアは嬉しくて、嬉しくて、すぐさま頷いた。
自分も愛してると臆面もなく、返した。
駆け寄って、彼に少しでも近づきたくて背伸びして。そうして、抱きしめられたことを、ティアは生涯忘れることはない。
それは、敵国の将軍と祖国の英雄、徒手流派の伝承者とその弟子という二人の関係に、もっと優しい名前が加わった瞬間だったのだから。
これからはその新しい関係で、もっと素敵な信頼関係を築いていけると。
そう未来への希望を抱いて、ティアはひとつ涙を零した。
だが。
「えっと、どういうこと……?」
困惑しきったファナが、ほんの少し眉を寄せて首を傾げる。
ティアはこみあげる恥ずかしさを堪えるように、膝の上に置いた手をぎゅうと握り締めた。
「だ、だからね……! その、ヒースさんて……ヒースさんて、そういうの嫌いなのかな、って」
不安に大きな瞳を揺らしてそんなことを言えば、要領を得ないその言葉に、ファナはとうとう睫を伏せた。
健康になんの憂いもなくなったファナの家の一階に、なんともいえない空気が広がってゆく。
さきほどまで、ファナの父親が作った大きなテーブルで午後のお茶と世間話を楽しんでいたはずだったのだが――いつの間にか、ティアの悩み相談がはじまっていた。
だが、その悩みの原因がよくわからず……ファナは無言のまま、ティアに続きを促した。
ティアは、もじもじとしながら言う。
「ヒースさんね、私のこといつでも抱きしめてくれるし、手も繋いでくれるけど、けど……その……あのね……」
「あ……うん、わかったわ」
その先がいいづらくて口ごもったティアに代わり、ようやく合点のいったファナが、わずかに頬を染めながら頷いた。
どちらも恋愛経験はないに等しい二人は、互いに真っ赤になって俯いた。
恋人がいるティアだって、ヒースと付き合い初めて日が浅い。ファナにいたっては、身体が弱かったために、恋愛したことなどあるわけもない。
「つまり、その……キスしたことない、ということでいいのかな?」
ファナの最終的な確認に、ぶんぶんとティアは首を縦に振った。
「でも、ティアたちって恋人同士、なのよね?」
おずおずとファナに問われて、ティアがうっと息を詰まらせた。
「うん……」
そう改めて言われると不安が膨張していく。ティアは泣きそうに顔を歪めた。
「羨ましいくらいに二人とも仲いいし、私てっきり……」
つまり、ファナにはそういうこともすでに経験済みだと思われていたらしい。
ティアは気まずい思いをしながら、重ねた指同士をすり合わせた。
「最初はね、気にしてなかったの。ううん、気付いていなかったっていうか……」
一緒にいられるだけで、幸せだった。真正面から見つめられるだけで、嬉しかった。手を繋いで歩くだけで、夢のようだった。
だけど、ふと気付いたのだ。
そこから先へと、ヒースがティアへと踏み込んでこないことに。
そして、不安になった。もしかしたら、自分はそういう対象にはみられていないのか。まだまだ子供だからしてもらえないだけなのか。ヒースからの愛情は疑うことなんて絶対にないけれど、父性的な保護欲のほうがもしかしたら強いのか。
いくら考えても、ヒースではないティアに答えなんて見出せるはずもない。ぐるぐるとずっとそんなことを考えたせいなのか――ティアは、「もっと」と、願うようになっていった。
「ヒースさんにね、いっぱい抱きしめて欲しいの。それにね、キスだって、して欲しい。こんなこと考えるなんて……私、おかしい……?」
ぐす、と鼻を鳴らしたティアの肩に、席をたって近づいたファナが、そっと手を置いた。
柔らかな手の感触とぬくもりに、ティアは顔をあげる。ふわり、ファナが優しく笑う。
「ティアったら、すごく将軍のことが好きなのね」
「……うん」
小さく頷けば、ファナが顔を覗き込んでくる。そして、相変わらず膝の上で硬く強張った手を、ファナがそっと包み込んでくれた。
「だったら、ちゃんとそういってみればいいと思うわ」
「でも、」
何かいいかけるものの、その言葉を優しく遮って、ファナは続ける。
「大丈夫よ。ヒース将軍は大人なんだしちゃんと受け止めてくれるわ。それとも、ティアが好きになった人は、そんなことでティアから離れちゃうような人なの?」
「ううん……そんなこと、ない」
戸惑うことなく、ティアは頭を振った。
ヒースの言葉は何よりも信頼できる。注がれる愛情も、間違えようのないほど真摯なものだ。
ただ、それを感じることができるほどに、自分を想っていてくれるのが確かだというのに――なぜ、口付けのひとつもしてくれないのか。そんな疑問に、ティアが捕らわれてしまっているだけだ。
「じゃあ、言ってみるのが一番よ」
重ねられた手がそっと持ち上げられる。ぎゅ、と握り締められれば、そのぬくもりはティアの中に降り積もって勇気を呼び覚ます。
「恋人っていっても、相手の気持ちも考えもすべてわかるわけじゃないわ。いろいろ考えて、いろいろ悩んで、訊いてみて。相手の考えを知った上で、それでも一緒にいたいと想うのが、大切なんじゃないかな」
「うん」
幼馴染と、こつんと額を触れ合わせてティアはほのかに笑った。
確かに、ファナの言う通りだ。あの人に聞いてみよう。ちょっと、ううん、かなり恥ずかしいけれど、考えたところで答えなんてでないのだから。
相談してみてよかったと思いながら、ティアが「ありがとう」と呟けば、ファナが鈴を転がすような可愛らしい声で「どういたしまして」といった。
というような結論にいたったのが本日昼過ぎ。
だがしかし。
ファナ――いきなり機会がやってきたけど……どうしよう。
君の顔がみたくなったと、急に家へと訪ねてきてくつろいでいるヒースのもとへと歩きながら、相談に乗ってくれた幼馴染へ心の中で助けを求めてみる。
だが、当然助け舟があるはずもない。ティアは、そっとヒースの前に湯気をくゆらせるティーカップを置いた。そして、わずかに遠い目をして、ちくちくと痛む胸を押さえる。
テーブルについてティアが淹れたお茶を一口飲んだヒースが、その様子に気付いて心配そうな表情で口を開く。
「どうかしたのか、ティア。具合でも悪いのか」
「い、いいえっ! そんなことありません! 今日も元気ですっ」
「そ、そうか?」
飛び上がらんばかりのティアの勢いに、面食らった様子のヒースであったが、すぐにふわりと笑って手を伸ばしティアの頭を撫でてくる。
「まあ、それならばいい」
低く優しい声が、空気に馴染んでティアの耳に届いて響く。
うわぁ……。
ぐりぐりと大きな手にいいように撫でられながら、ティアは顔を真っ赤にした。
髪が乱れるのが気になるが、それよりも気持ちよくてあったかくて――何か言う気力が、削がれてしまう。
そばにいるだけなのに、こんな風にされるだけで、もう何がなんだかわからなくなってくる。
ヒースが好きすぎて、周りが見えない。自分のことも、よくみえない。離れないで、いてほしい。
そんなことをぼんやりと考えていたティアは、去っていこうとするヒースの手を、無意識のうちに捕まえていた。
「ティア?」
「……あ」
不思議そうなヒースの声に、ティアは我にかえった。
だが、繋いだ手は磁石のようにぺたりと張り付いて離れない。
ヒースの青灰色の瞳と目があった瞬間、唐突にティアは思った。
いまだ! ――っていうか、いましかない!
「あ、あの、ヒースさんに訊きたいことがあります!」
意を決したティアは、ヒースを真正面から見つめながら、必死に口を開く。
ヒースは不思議そうな顔をしながらも、「なんだ?」と優しく続きを促してくれた。
ばくばくと心臓が煩い。それを気合で押さえ込み、ついでに怖気づきそうになる自分を叱咤して。
ティアはヒースに向かって、爆弾を放り投げるべく息を吸い込んだ。
「どうして、キスしてくれないんですかっ」
思っていたよりも威力があったのか。びしっとヒースが固まった。
その様子に、ああやはり訊いてはいけないことだったのかもしれないと、ティアは思う。
だが、もう後には退けない。
「わたしたち……その、恋人同士、じゃないんですかっ」
普段おとなしいティアからの攻勢に、ヒースはすっかり押されているようで、目線があらぬ方向へ泳ぎ始める。
「あーいや、まあ、なんというか……」
珍しく慌てた様子で、なにやら言おうとしているが、言葉にならないようだ。
「どうしてですかっ」
重ねた言葉に、ヒースが観念したように息をついた。
「というか、だな」
「はいっ」
もう、ここまでくれば捨て鉢である。もう、どうとでもなれ、とティアは声を大きくあげて応えた。
「君は、いいのか?」
「え」
思ってもみなかった確認に、ティアの手が緩む。その隙を逃さずヒースはティアの手を己の手からはずして――そのまま、ぎゅっと握り締めた。
「オレが触れても、構わないのか?」
「え、え?」
もう片方の手が、ティアの頬に触れる。いつもとは違う色を乗せた熱っぽい視線が、ティアの瞳を射抜く。
「それならば、遠慮はしないんだがな」
「え、え、ええええ?」
ぐい、とヒースが急に顔を近づけてくる。思わず、ティアは硬く目を閉じた。
だが、思っていたような感触はいつまでたっても訪れず。
そろり、と目を開けると、顔を背けて笑いを堪えているヒースがみえた。
――からかわれた?
そう思った瞬間に、かっとティアの頭に血が昇った。
「ひ、ひどいですっ」
ぽかぽかと厚い胸を叩くと、ヒースがとうとう噴出した。ティアの怒りを押さえ込むように、椅子に腰掛けたまま器用に抱きしめてくる。
憤懣やるかたない気持ちでしばらく暴れてみるものの、腕力と体格差は圧倒的だ。ティアは、やがてあきらめたように力を抜いた。
ぽんぽんとその小さな背を、やさしくあやすように大きな手が叩く。
「ティア、無理はするな。まあ、興味があるのかもしれんが、こういうのはもっと……」
「違います! いきなりだったから驚いただけです!」
気遣うような、諭すようなヒースの言葉も、混乱してしまったティアにとっては苛立ちを募らせる燃料にしかならない。
わずかに身を離して、いたずらっぽく笑ったヒースが言う。
「なんだ? じゃあ今から口付けすると、宣言でもすればよかったか」
「そ、それは……!」
そんな様子を想像してみる。
……急に口付けられるより、恥ずかしく思えるのは何故だろう。
う~、と涙目でティアが黙り込んだのをみて、さすがに可哀想だと思ったのかヒースがもう一度、優しく抱きしめてくる。
「憧れ、というのもあるんだろうがな。君にはまだはやいだろう?」
今のでよくわかったはずだ、と続けられてティアの中で何かが切れた。
人が一体どんな気持ちで訊いてみたと思っているのか……!
すっかり乙女の純情を踏みにじられた、もしくは無視されてしまった気分である。
「できます! キスくらい!」
ティアは勢いよくそういうと、ぐいとヒースの胸元を押し返した。
いつにないティアの大きな声に驚いて、ヒースが僅かに離れる。
ひらいた二人の隙間から腕を伸ばして、ヒースの太い首にすがりつく。いつもならティアの全体重をかけてもよろめくことのない大きな身体が、気迫で勝るティアに引き寄せられるように前のめりになる。
目を見開くヒースをみれば、これまでに感じたことのないほどの恥ずかしさが込み上げる。
だが、もう止まらない。否、止まってなるものか。
不安定な身体を押し出すように、つま先に力を込めて。
ティアは己の唇を、僅かに開いたヒースのそれへと押し付ける。
が。
「痛っ!」
「!!!」
勢いあまって、歯をぶつけあってしまった二人は、同時に短い悲鳴をあげて離れた。
じんじんといたむ口元を押さえたまま、双方しばらく押し黙る。
やがて、やや痛みがひいたころ、ティアはいろんな意味で涙目になりつつ、そろりと視線を上げた。
まだ口元を覆ったままのヒースが、それに気付いて目を細めた。
怒ってしまったのか、呆れてしまったか。それだけでは判断がつかない。
ただ、馬鹿なことをしてしまったと痛感しながら、ティアは胸の内に暗雲立ち込めさせて俯いた。無意識のうちに、数歩後退する。
「……ははは、君にはいつも驚かされる」
「……」
穏やかにきこえるヒースの言葉が、余計に辛い。席を立ったヒースが、近づいていくるのがわかって、ティアはさらに顔を伏せた。
「ティア」
優しい声と頬に触れた指先に促され、ティアは今にも泣きそうな面をあげた。
しかし、見えたものは嗜める厳しい表情のヒースではなかった。
どこか諦めたような、開き直ったような――それでいて、今にも溢れ出しそうになる何かを堪えるような。今までに見たことのないヒースが、そこにいた。
ぱちぱちと思わず目を瞬かせると、にやりとヒースが笑う。いつの間にか腰に回されていた逞しい腕が、易々とティアを引き上げる。
「キスとは、こうやるもんだ」
――え?
僅かな声をあげる間もなく、慣れた様子でティアの顎に手をかけて上向かせたヒースが、唇を重ねてくる。
んむ、という鼻にかかった小さな声を漏らし、ぎゅっと目を閉じる。
わずかに溜まっていた涙が、頬に落ちるのがわかる。重ねるたびに響く音が、やけに耳につく。
ティアの息継ぎを見計らうように、時折離れる唇の優しさに、溺れてしまいそうだ。
するり滑り込んできた舌先が、上顎をなぞる。絡めとられて、背筋が勝手に震えた。息が上がる。酸欠になる。意識が、白くなっていく。
でも――もっと。
そんなことを思いながら、ティアはねだるように、ヒースの首にもう一度腕を回す。
少女からのつたない求めに、わずかにヒースが笑った。
恋人から与えられる初めての感覚に、ティアがすっかり酔いしれたころ。ふっとヒースは離れていった。それは嵐のようだったと、表現するに相応しい。
余韻に浸りながら、ティアは真っ赤な顔をして床へ座り込む。自分がいるところが夢なのか現実なのか、すっかりわからなくなってしまった。
ぽや~っとしていると、ひらひらと目の前でヒースが手を閃かせた。
「おい、大丈夫か?」
こくり、ティアは頷く。
身体はまるで軟体動物になったように、ふにゃふにゃとして力が入らないけれど、大丈夫。
そう言いたいが、まだあの感覚に支配された唇は言うことを聞いてはくれない。
ティアが立てないことを察したのか、ヒースがそっと抱き上げてくる。ふわりと空中に持ち上げられる感覚に、ティアは息をつめた。そのまま、ヒースは顔を覗き込んでくる。
「まあ、こうなるだろうな、と思っていたんだ」
やりすぎてすまないと苦笑するヒースに、頭を小さく振る。
「嫌じゃなかったか?」
「……そんなこと、ないです」
ふるふると、今度はもっと強く否定して、ティアはようやくいうことをきくようになった腕を伸ばした。やんわりと抱きしめれば、ティアを落ち着かせるヒースの匂いが鼻をくすぐった。
「一度でも知ってしまえば、オレの方が止まらなくて無理をさせるとわかっていたから、あえて今まで触れなかったんだが……そんなもの、あっさりと君に壊されてしまったな」
本当はもう少し待つつもりだったんだが、と言いながらヒースがからからと笑う。
ああ、彼は自制してくれていたのか。私のことを、想って。それなのに。
自分のしたことを思い出して、ティアは思わず腕に力を込める。安心させるように、ヒースの手のひらがティアの背に添えられた。
「もう、遠慮なぞせんからな――ぜんぶ、君が悪い」
言葉とは裏腹に、そこに宿るものはひどく甘い。自分の決意を台無しにした少女への、ひたすらに愛しい気持ちが溢れている。それを確かに飲み込んで、ティアは肯定の言葉の代わりに、頬を寄せる。ヒースの髭がちょっとだけ痛い。
「悪い子で、ごめんなさい。……でも……」
ようやく動いた唇からは、やけに掠れた声が漏れた。
「嬉しかったから――許してください」
悪びれた様子など微塵もみせず。へらりと笑いながらそういえば、そんな表情はみえないはずのヒースが、肩を震わせた。何かを察したのかもしれない。
耳元をため息が掠めて、ティアはそっと顔あげてヒースの様子を伺う。ティアの心を捕らえて離さない年上の恋人は、ひどく照れくさそうに微笑んでいた。
「ああ、わかった。まったく、仕方ないやつだな」
「えへへ」
ぎゅ、とティアは再びヒースに抱きついて笑う。
次にヒースがキスしてくれるのは、いつになるのだろう。
それはそんな遠くないことだろうけど、すごく楽しみだ。
ああ、そうだ。ファナにもちゃんとお礼を言おう。
あと。あと。これをちゃんと、伝えなければ。
「ヒースさん、大好きですっ」
徒手流派だけじゃない。恋心だけじゃない――ィアが望むことを満足するよう教えてくれるヒースへと、ありったけの想いを込めて。
かくして、少女の悩みは恋人から与えられた「初めてのキス」という幸せのうちに、ぽんと弾けて消えていったのであった。