視線を交わしたその瞬間、07

 一人で赤くなったり青くなったり、天に昇ったりどん底へ突き落とされたりと、恋の激動をこれでもかと味わったティアと、冷静そうに見えて実のところそうじゃなかったヒースの二人が結ばれて一週間もしないうちに――ヴァイゼン帝国の将軍と、カレイラの英雄が恋仲となったという衝撃の知らせがローアンの街中を駆け抜けた。
 そのあとの騒ぎは、押して知るべし。ティアが帰還したその日に公園で抱き合っていたやら、ティアが幸せそうにヒースを訪ねる様子やら、ヒースがティアを追いかけて街中を駆け抜けたことやら、事実を絶妙に織り交ぜた噂があっという間に広がっていったのである。
 なかにはそれを聞いて「そうだと思った」という声も、ちらほらと上がる始末。
 そして、人の噂もなんとやらというものの、いまだに年頃の女の子の間で憧れまじりに恋物語として語られている。
 その話の当事者であるティアにとって、それは恥ずかしいことこの上もないのだが、噂の中身はほぼ事実に近いものばかりなので、結局のところ否定もできず。
 そして、いつしかティアは何も言わなくなった。ただ、照れたような、諦めたような曖昧な笑みを浮かべるようになった。なにか言えば言うほどに、身動きできぬくらい泥沼にはまっていくと思ったのだ。
 だが、それが余計に人々の想像を掻き立てているということに、本人は気付いていない。
 一方、ヒースの婚約話がどうなったかというと。
 話は固まりつつあったが、正式な婚約はまだであったこと。責任をとるために、ヴァイゼン帝国将軍職を辞することも厭わないと考えていること。そして、ヴァルド皇子とドロテア王女の口添えもあって、ヒースが目立って咎められることはなかった。このことは、内々のうちに処理されることとなったのである。
 相手方の親である貴族は大層憤慨していたのだが、いくら平和のために尽力したとはいえ将軍を辞めるとさえ言い出した男と無理やり婚姻関係を結んでも、思い描いたほどの利を得られぬと最後には判断したらしい。
 そして、婚約者になる予定であった女性本人が、何も言わなかったことも大きかった。
 どうやら、ヒースが自分ではなく別の誰かに心を寄せていくのを、彼女はすべてお見通しだったようで。
 ほっとしつつも、ヒースとの未来をわずかな時間であってもみつめたこともあっただろうその女性のことを考えて、ふとティアが顔を曇らせたとき。
 お幸せに、と最後に笑いながら彼女がいってくれたと、ヒースが静かな笑みで教えてくれた。
 その言葉を、どんな気持ちで彼女がいったのか、ティアにはわからないけれど。
 贈られた響きのとおりの未来を歩こうと、ヒースと真摯な想いで誓いあった。

 そして、それから時は流れて――再び春が巡りきて初夏も間近という、晴天のとある日。

 ローアンの街入り口近くのティアの家。扉が小さく蝶番を軋ませて開き、人影がふたつでてくる。
 寝室が併設されているフランネル城の執務室にも、ローアンの街にある帝国が用意した家にも戻らず、すっかりティアの家へと入り浸るようになったヒースと、見送りに出てきたティアである。
 日を一日重ねるごとに綺麗になっていくティアへ、目を細めてヒースは言う。
「今日は陽が沈む頃には帰れると思う」
「うん、わかった! お食事作って待ってるね」
 そういって、ティアが背伸びをすれば、その行動はなんのためなのか承知しているヒースが、そっと身を屈める。
「いってらっしゃい、ヒースさん」
 そして、ティアはヒースを引き寄せて、その頬へと小さく口付けた。
 名残惜しそうな顔をしてティアがゆっくりと離れれば、ヒースは喉の奥で声を転がすようにして笑った。自分からこんなことをしているというのに、照れて目元を赤らめるティアの様子がおかしいらしい。
「じゃあ、いってくる」
 対して、こちらは照れる素振りなど微塵も見せず、滑らかな動作でお返しの口付けをティアの頬に落として――ヒースは身を翻しローアンの街の先、フランネル城へと向かって歩いていく。
 まだ暖かな感触が残る頬に手をあてて、それをぽ~っと眺めるティアの全身からは、幸せ空気がこれでもかというくらいに生み出されている。
 そして、その春の陽射しもかくや、といった柔らかな熱に、すっかりあてられたものたちが一斉にため息をついた。
 開け放たれた扉のむこうで、繰り広げられる恋人たちの日常を眺める預言書の精霊四人組である。ただし、うち一人はその光景にうっとりとしながら息を吐いている。
 それに気付かぬティアは、蕩けるような笑顔を浮かべて手を振っている。
「毎日毎日よく飽きねーよなぁ……」
 炎の精霊であり、灼熱の炎も、すべてを溶かす溶岩も平気なレンポであるが、こればっかりは駄目らしい。
「……」
 まだ夢見心地にヒースの影を追っているティアをみながら、ネアキも小さく頭をふっている。この暑苦しさは、氷の精霊にはとくに辛いのかもしれない。冬に眠る静かな湖面のように美しいその面が、どこかやつれてみえる。
「うーん、完全に新婚家庭だよね!」
 家の中から、いちゃいちゃしている二人を見守って――否、見物していたミエリが笑った。ミエリは相変わらず、二人の仲を絶賛応援中。だから、これくらいならまったくもって平気らしく、むしろ楽しんでいる。
「まあ、なんといいましょうか。ティアが幸せならば、いいじゃないですか」
 自分たちが我慢すればいいだけなのですし――達観した口調で、ヒースが読み終わった新聞をめくりながらウルが言う。
 ヒースと恋人になれた幸せから、ティアがこういった行動をとるのも致し方ないと諌めなかった自分たちも悪いのだ。ある程度で、きっと満足すると思っていたのが甘かったのだ。
 人間とは、精霊の思惑など軽く超えていくものだと、ウルは膨大な知識の積み重ねてできている己の経験という記憶の本に、そう書き加えたくらいである。
「ですが、もう少し周りに気を使っていただけると、助かりますよね」
 どこか遠いところをみるように。ウルがぽつりと呟く。レンポとネアキが力いっぱいそれに同意するように首を縦に振り、ミエリは首を傾げて人差し指を頬にあてた。
「そう? 今のままでもいいと思うんだけどなあ……。だってほら、おもしろいじゃない! ティア可愛いし!」
 そこまで達観できていない炎と氷の精霊たちからの反論が発せられる前に、いつのまにか家の中に戻ってきていたティアが言う。
「あれ、みんなどうしたの?」
 ぱたん、と小さな音をたてて扉を閉めて、テーブルに集まっている精霊たちのもとへと近づいてくる。そんなティアは能天気とさえいえる、しまりのない笑顔をしている。
 自分以外の三人が、一斉にため息をついたことに笑いながら、ミエリはティアの側へと浮かび上がった。
「んーと、甘いなあってお話よ」
「え? ジャムそんなに甘かった? お砂糖控えて作ったのに……。ヒースさん、無理して食べてくれたのかなぁ」
 テーブルの上に置かれた綺麗な赤い色をした野いちごのジャムは、先日、二人が出かけた先で摘んできたものを利用して、ティアが作ったもの。今日の朝食を彩ったその瓶を手に取り、うーんと眉をしかめたティアへレンポは手を振った。
「そっちじゃねーよ……」
 もはや突っ込む気力もないらしい。
 じゃあなんのことだろうか、とティアが頭を捻ったところで、ミエリがひょいとその顔を覗き込んだ。
「ねえ、ティア」
「なあに?」
 くるり、ティアはその大きな瞳をめぐらせる。その可愛らしい様子に、ふふふ、とミエリは笑う。慈愛に満ちた笑みを浮かべるそのさまは、聖母のよう。
「今、幸せ?」
 ぱち、と大きく目を瞬かせたあと。ミエリの問いを、表情すべてで肯定するかのように、ティアはふわりと微笑んだ。
「うん!」
 その輝かんばかりの笑顔は、太陽のごとく。
 それは、ティアが本当に幸せだからこそのものであり。その主たる原因がヒースという一人の男にあることを、精霊たちにこれでもかと思い知らせるもの。
 そして、なんだかんだいっていた精霊たちの心に、すとんと届く純粋さをも持っている。その煌きは、精霊たちがこの世界で最も好む、真に価値あるもので間違いない。
 予想通りの回答に、ミエリが楽しげにころころと笑い声をあげれば、レンポもネアキも、ウルさえも。声を転がして、笑った。
 「じゃあ、仕方がない」と、精霊たちがほだされてしまうその威力。一目だけで、見るものを幸せな気持ちにしてくれる。ならばもう、笑うしかないではないか。
「え、え? なんで笑うの?」
 ティアは、おろおろと精霊たちの顔を見回す。
「だ、だって、今の私が幸せじゃないなんて、おかしいでしょう?」
 順繰りに視線を送りながら、焦ったように続ける。
「皆だってこうしてそばにいてくれるのに」
 だから当たり前のことをいっただけだと、ティアがそう必死な様子で言っても、精霊たちの笑いは収まらない。
「う~、もういいもん!」
 とうとう僅かに頬を膨らませたティアは、ぶつぶつと何事か呟きながら、テーブルの上を片付けはじめた。
 そんなティアの不貞腐れたような子供っぽい様子が、さらに笑いを誘う。
 そして、そんな少女を愛しげにみつめた精霊たちは、祈る。願う。
 視線を交わしたその瞬間、二人に咲いた恋の花が――どうか、いついつまでもそのまま鮮やかに咲き誇りますように。
 この世界が滅ぶまで。そして、その先にある次の世界さえも埋め尽くしてしまうほどに、力強くありますように。
 自分たちを家族のように思ってくれている大好きなティアが、これからもずっとそんな笑顔をみせてくれますように。
 そのためならば、この周囲の見えていない恋人同士が中心となって吹き荒れる、恋の嵐も耐え抜えぬいてみせる。
 精霊たちは言葉ではなく、視線だけでそんな誓いを交わしあう。
 そして、ご機嫌斜めになってしまったティアを宥めるようにミエリはその頭を撫でた。
「ごめんね、ティア。ただね、私たちも幸せだから、笑っただけなの」
「そうなの?」
 重ねた皿を流しへと運んでいたティアが、きょとんとして言う。テーブルの上に降り立ったレンポが、胸を張った。
「おう、気にすんな。ちょっと胸焼け起こしそうだけどな、なんとかならぁ」
「幸せって胸焼け起こすものだっけ……?」
 う~ん? と、頭をかしげたティアが、食器を水に漬けながら言う。
「まあ、私たちの場合は、ですから。ティアは違いますよ」
 そもそも、その原因はティアとヒースなのだから、本人たちがどうにかなるわけない。
「そうそう。精霊はね、純粋な存在だからそういう感覚に敏感なの!」
「……そう、だった……?」
 それっぽいようで、実は適当なミエリに言葉に、さすがのネアキも細い眉をきゅっと寄せた。
「うん、そうよ、そうなのよ!」
 だが、とても明るくミエリが当たり前のようにそう言い切るので。
「そっかぁ、そうなんだね。皆と暮らし始めて結構たつけど初めて知ったよ!」
 まだまだ知らないことってあるんだね! と、素直なティアは満面の笑みで頷いた。
 そして、右肩下がりだった機嫌の先を、あっという間に上向かせたティアは、食器を洗い始める。が、ふとその手をとめて振り返る。
「あ、そうだ。今日は陽だまりの丘に行って、新世界を見てみようと思うんだけど。皆、付きあってくれる?」
「ええ、もちろんです。ティアが望むままに」
 ウルが、胸に手を当てて頷く。他の精霊たちも同じような反応を返してくれたことに、ティアはますます嬉しそうな顔をして、再び流しに向き直った。
 ほのかに流れはじめたティアの鼻歌を聴きながら、レンポが全員を招くように手をひらめかせた。
「でもよー……」
 こそこそ、と耳打ちするようにレンポが口元に手を当てて言う。
「なんですか? レンポ」
 レンポの近くへと歩いてきたウルが、先を促すように声をかけた。
「このままだった次の世界の空、ピンク色とかになりそうじゃねえ?」
 ヒースとティアの二人の甘ったるい空気を反映したら、そうなってしまうかもしれない。
 ぷ、とミエリが小さく噴出した。
「それじゃあ、その空に浮かぶ雲はハート型になっちゃうかもね~」
 常に二人の間にある恋心から発せられるものをそのまま形にしたならば、そうなるかもしれない。
 ゆるりと冷気を纏わせて、近づいてきたネアキもそれに続く。
「それで……きっと。大地は、お花だらけ、ね……」
 果てしない世界の大地を覆うのは、彼らの背後にいつも広がってみえる幻影の花に似ているかもしれない。
「……いいんでしょうか、それで」
 レンポ、ミエリ、ネアキの発言で、そんな世界をありありと想像してしまったのか、ウルがこめかみに長い指をあててうつむいた。何かに深く悩み沈むほどに、眉間に皺が寄っていく。
「うーん、愛いっぱいの世界ならそれにこしたことはないんじゃない?」
「それは、そうでしょうけれど」
 なんとなく、一人身には物凄く居心地が悪い世界ができてしまいそうだ。
 精霊全員で、綺麗な旋律を室内に響かせながら食器を洗うティアの後姿をみつめる。
 今のティアなら、皆で想像したとおりの世界を本当に作り上げてしまいそうな気がする。
 人も精霊も、魔物でさえも。そこに住むありとあらゆるものが、愛に満たされる――そんな、世界を。
「ま、ある意味楽しみってことでいいんじゃねぇの?」
「ほんと、そうだよね!」
「……うん」
「まあ、そういう世界があってもいいのかもしれませんが……」
 だが、しかし――と、まだ頭を悩ませる真面目なウルに、ミエリは笑った。
「創世神話が恋物語でもあるなんて、素敵じゃない!」
 夢見る乙女のように胸元で手を組んで、そんな言葉を恥ずかしげもなくいってのけた森の精霊に、他の精霊たちは一瞬だけ固まって――そして、本日何度目になるかわからぬため息をついたのだった。