視線を交わしたその瞬間、01

「いってこい」
 陰色濃く荘厳なフランネル城を背景に、全身を夕焼け色に赤く染めて、大きな背をもつ男はそういって笑った。
「広い世界を、みてこい」
 影を引きずりながら伸びた手が、ふわり、頭の上に置かれる。
 優しく、強く、それでいて暖かな手の心地よさに目を閉じる。
 このぬくもりが、なによりの餞別。
 そう思いながら、瞼を開いて前を見上げて。絡む視線に、自然と顔が綻んだ。
「はい、いってきます」
 大きくひとつ頷けば。満足そうに、男はもう一度笑った。
 目を細める少女には、短い言葉に万感の思いを込めて背を押してくれたそんな男の姿が、とてもとても――頼もしく、映っていた。

 

 そして、預言書の主たる少女がこの地より旅立ってから、季節は三度巡った。

 

 光を弾く艶やかな髪を靡かせ、すらりとした肢体に若さという瑞々しさを溢れさせた乙女が、街道を足早に歩いていく。すれ違うもの皆振り返るような、魅力がある。
「わぁ、懐かしい!」
 そして、世界の十字路よりやや北にいった道の上、街と城と塔がみえるその場所で。その乙女<――ティアは、歓声をあげた。
 なんだか、街の周囲に生える木々が大きくなったような気がする。
 青空を背景に伸び上がる天空塔を眩しくみつめながら、ティアは駆け出した。
 胸にこみ上げてくるのは、久しぶりに帰ってきたゆえの興奮と、再び友人・恩人たちに会うことができるという期待と喜び。
 あの頃よりずっと長くなった足で、ティアは石畳を踏みしめた。
 ヴァイゼン帝国とカレイラ王国の間で、皇子と王女とそしてティアの尽力あって結ばれた和平条約。
 その式典を見届けた直後に世界を巡る旅に出たティアへ、平和に栄えるローアンの街は懐かしくも新しい顔をみせつつ、あたりまえのように出迎えてくれた。
 ティアは、記憶を辿るように街をゆく。
 時間の流れを現すように大人びた友あれば、変わらぬ姿のエルフがいた。
 町並みも変わっていた。些細なところ、大きなところ、それらを確かめるように歩いていく。
 街角で出会った知己に挨拶をすれば、皆が気さくにその無事を喜びながら挨拶を返してくれた。
 そして最後にたどり着いたのは、フランネル城だ。
 だが、かつて城門の傍近くに立っていた大きな人影は、ない。
 帝国に帰ってしまったのかもしれないし、お城の中で仕事をしているのかもしれない。まあ、そのうち会う機会はあるだろう。残念だけれど、仕方がない。徒手流派を教えてくれたあの人は、とても忙しい身なのだから。
 とにかく、ゼノンバート王とドロテア王女はいるはずだ。二人に挨拶をしたいと考えていたティアは、かつてのとおり城門を通り抜けようとして――
「まてっ! 貴様どこへいこうとしている!」
「え?」
 金属が触れ合う音も猛々しく、目の前に交差するように、左右から手にした槍を掲げた衛兵たちに、ティアは目を瞬かせた。
「これより先は、栄光あるカレイラ王国がフランネル城に続く大階段となっております」
「貴様のような不審者を通すわけにはいかん!」
 左の衛兵が静かに、右の衛兵が力強くそれぞれティアに向かってそういった。
 その表情は真剣そのもので、職務に忠実な兵士の鑑といえるかもしれない。
 それにしても、三年前までは咎められることもなく出入りさせてもらえていたというのに、今は変わってしまったのだろうか。
 ぼんやりとそんなことを考えるティアに、右側の衛兵が一歩前に出た。
「あなたのようにお美しい方に、手荒な真似をしたくはありません。どうか、お引取りくださいますよう」
 丁寧に、だが有無を言わせぬ調子でティアに退去を促すその仕草などから、たった三年の間で兵士の質が向上していることがわかる。
 これ以上騒ぎを大きくしても仕方がない。きっと通してはくれないだろうし、こちらの話も信じてはもらえないだろう。
 ぺこり、とティアが頭を下げて身を翻すと、衛兵は満足したように持ち場に戻っていった。
 さて、困った。
 ぷらぷらと来た道を戻りながら、ティアは腕組みをした。
 城に行く方法ならいくつかある。
 ゲオルグの家からゲートを利用させてもらうか、地下の抜け道を使えばいい。
 王への謁見はできずとも、せめてドロテア王女に無事に帰ってきたことを伝えたい。身分に関係なく、友人関係を築けた彼女に会いたい。
 さて、どちらの方法をとろうか……そんなことを悩みつつ、ティアはひとまず、手入れの行き届いた公園への階段を下り始めた。
 と。
「きゃっ」
「おっと」
 考えるあまり前方不注意になっていたティアは、残り数段というところで、すれ違おうとしていた誰かにぶつかってしまった。
 あまりに体格差がありすぎて、ぶつかったはずのティアのほうがよろめく。
 バランスを崩して、階段を踏み外しそうになった瞬間――ティアの腕を、さっと誰かが掴み引き寄せた。
 帰ってきて早々に転んで怪我をするという事態を避けられて、ティアは逞しい誰かの腕に縋るような状態のままで、ほっと息をついた。
「すみません。大丈夫でしたか、お嬢さん」
「ふぇっ」
 やたらと近い場所から聞こえた、低く耳に心地よい声に、ぱっと顔をあげる。
 抱きとめてくれたその人と、視線が絡む。
 青みがかった灰色の瞳。撫で付けられた、はしばみに似た深い色の髪。すっと通った鼻筋に、ティアを気遣う声が生まれた唇。そして一際目を引く、頬から額へと左の瞳を横切って走る、剣の傷。
 力強く、それでいて優しい空気を当たり前のようにまとったその男が、瞳に焼きつく。
 ぱん、と何かが弾けるような音が脳裏に木霊した。それと同時に、記憶の棚が壊れたように、いろんな思い出が溢れ出す。
 一気に心拍数が上がってきて、ぱくぱくとティアは口を動かした。
 言いたいことは、たくさんあるはずなのに、言葉にならない。
 そして、ティアは「あ……」と口を開いたまま、固まってしまった。
 対する人物も、戸惑うように目を瞬かせ、眉根を寄せている。じぃっと何かを確かめるように、ティアの顔を覗き込んでくる。僅かに距離を縮められて、ティアは睫を震わせ視線を落とした。そして。
「間違っていたら失礼――もしかして、ティア、か?」
「ヒース、さん」
 名を呼ばれ観念したように、のろのろと視線を再び上げて、ティアもその人の名を口にした。口内が、からからに乾いていて、やけにかすれた声になったのが恥ずかしかった。
 驚きに僅かに開かれた瞳の色も、鍛えられた身体も変わらない。ティアの記憶の中にある姿のままで、ヒースはそこに立っている。
 ただ、武装した鎧姿ではない。今、身につけているのは、落ち着いた深い緑の衣服だった。視線を下げると、見覚えのある剣が腰に下げられている。
 その服は、旅の途中で見たことのあるヴァイゼン帝国の軍服と同じ形だった。ティアの記憶と色が違うので、もしかしたら将軍職についたものに与えられるものなのかな、と推測する。
「久しぶり、だな」
 どこか呆然とした呟きを聞きながら、ティアはそっとヒースから離れた。
「あ、は、はい! お久しぶりです! ヒースさん、お元気でしたか?」
 じんわりと身体に篭り始めた熱を持て余しながら、ティアは言う。
 あたふたとしたティアのそんな様子に、ふ、とヒースが笑う。
「ああ、こちらは変わりない。それにしても、いつ戻ってきたんだ? 連絡のひとつくらい、くれればいいものを」
「えっと、今日帰ってきたばっかりで。ご挨拶にいこうとは思ってたんですが、お城に入ろうとしたらとめられるし……」
 どうしようかな、って思ってたところなんです――そう続けて、ティアは情けなく眉を下げて笑った。
 ティアの言葉に、ヒースはひとつ頷いた。
「ああ、新兵ならば君の顔がわからないものもいるだろうしな。しかし、カレイラの英雄を追い返したなどといったら、どんなことになるやら」
「えええっ! そ、それは駄目っ」
 ヒースの発言に飛び上がるほど驚いたティアの様子をみて、からからとヒースは昔のように大きな口を開けて笑った。
「なに、オレから王や王女にティアが戻ってきたと伝えておこう。もちろん、兵への処罰もしないように、ティアからの言葉があったと進言しておく。まあ、明日には前と同じように城に入れるようになっているだろう」
「そ、そうですか。助かります」
 その言葉に安堵して、長く息をつく。気付けば、懐かしそうに目を細めてヒースがみつめていた。優しい視線に、ティアは戸惑う。
「えっと、ヒースさんは、あんまり変わりませんね」
 ティアは当たり障りのないことを言って、ヒースを見上げた。
 ヒースは笑いながら己の顎を撫で、応える。
「まあこの歳になったら、そうそう劇的な変化はしないさ。君たちとは違ってな」
「そういうものですか」
 ふーん、とティアが首を傾げて次の話題を探していると、ヒースが先に口を開いた。
「だが君は――綺麗になったな」
 そういって、他意を微塵も感じさせることのない朗らかさで笑ったヒースに、ティアの心臓が震えた。やっとおさまるかな、と思っていた鼓動が、再びうるさいほどに鳴り響いていく。
 目をせわしなく瞬かせ、ティアは心の中で自分自身に問いかける。
 ヒースは、こんな風に笑う人だったろうか?
 もっともっと、安心できる暖かな笑みをくれる人ではなかっただろうか?
 こんな、胸を高鳴らせるような笑顔をする人だったろうか?
「どうした? 長旅で疲れているのか?」
 言葉を発することなく見上げているティアの様子に怪訝な表情を浮かべ、ヒースが言う。
「!」
 そしてその心配そうな声とともに、すっと伸びてきたごつごつとした指先が、己の頬に触れそうになって、ティアは思わず首をすくめた。
 だって、きゅうきゅうと胸が鳴って痛い。一言二言、言葉を交わしただけなのに、どうして。
 理由がわからず、見当もつかず、ティアは身を縮こまらせることしかできなかった。
 が、次にやってくるだろうと思った感触はいつまでたっても訪れず、そろそろと目を開けると困ったようにヒースが微笑んでいた。
 大きな手が、所在なさげにそっと握り締められて、落ちていく。
 そのゆるりとした仕草を追いかけることもできず、ティアはヒースをぼんやりと見上げた。
「そうか……あの頃と同じというわけではないのにな」
 はは、と力なく笑って、ヒースは言う。
「すまん」
 短い謝罪に、ぴくりとティアは身体を震わせた。なんだか、とてもヒースが遠くにいるような錯覚に陥る。
 さあっと冷たい風が二人の間を通って空へと消えていく。
「あ……」
 そして、気安く触れることすら躊躇われるほどの時間が、二人の間に過ぎ去ったことを、ティアは今このとき理解した。
 三年前なら、手も繋げた。頭も撫でてもらえた。その逞しい腕にぶら下がって笑い声をあげたこともあった。軽々と抱き上げられた感覚を、ティアは今でも覚えている。
「あ、あの、違っ……」
「本当に、素敵なお嬢さんになったもんだ」
 触れられるのが嫌だったわけじゃないと言おうとする前に、ヒースが口元に優しい笑みを刻んだ。その顔に、思考が停止してなにもいえなくなる。
 これ以上どうにもならないだろうと思った心臓が、壊れてしまいそう。
 ただ驚いたのだと伝えたかった。どきどきしただけなのだといいたかった。でもそんなこと、いえない。だって、どうしてとその理由を尋ねられたら、答えられない。
 三年間旅をしている間、たくさんの人に会った。だが、会っただけでこんな状態に陥ることなんて一度もなかったから、戸惑っただけ――だろうか?
 ティアが、その小さな胸に抱く想いの整理をつける前に。
 甲冑を纏った兵士が、フランネル城の方向から近づいてきていた。そして、ティアと一緒にいるヒースをみつけると、足早に駆けてくる。
「ヒース将軍、こちらにおいででしたか。執務室のほうへお戻りください。さきほどから将軍をお待ちになっておられる方が……」
「ん、ああ、そうか。今戻る」
 兵の言葉にひとつ頷いた後、ヒースはティアに笑いかけた。さきほどの、なんだかせつなくなるような色は、もうそこにない。
「ではな、ティア。今度ゆっくりと旅の話でもきかせてくれ」
「……はい」
 ティアは、心ここにあらずといった様子で、迎えの兵士とともに去り行くヒースの後ろ姿を見送る。
 その影が消えて見えなくなっても、ティアはずっとそこに立ち尽くしていた。
 いまだおさまらない心臓を抑えるように当てられた胸元の手は、白くなるほどに握り締められていた。