たゆたうようなまどろみの中、記憶が泡のように膨らみ、次々と弾けていく。
頭を撫でる大きな手、軽々と抱き上げてくれた逞しい腕、そうして手に入れたいつもとは違う視線の高さ。振り返れば、いつでも見守ってくれていた優しい瞳。
どうしようもなくて道に立ち尽くしていた自分を叱咤してくれた、力強い言葉。歩き出すための、取り戻すための力を与えてくれた人。
お父さんのようだった――というのは言い過ぎかもしれないが、本当に頼もしく思っていた。
そんなヒースは、平和を願うヴァルド皇子のもとで、あの頃よりずっと責任ある立場で、ティアの知らない時間を生きていたのだろう。
別れたときと変わらぬまま、その強い意志と平和への願いを抱いて、ずっと頑張っていたに違いない。
対して、自分はあの頃は大きく違う。いろんな国にいって、いろんなものを見て、いろんなことを考えて、いろんなことを預言書に記した。
その経験が、ティアをティアであってあの頃とは違うティアに成長させた。
それは喜ぶべきことだと思う。
ティア自身も、身体も心も子供のときとは大きく変わったことを、ちゃんと受け入れていた。そのはずだった。
だが、それらは今のティアにとって、自分の気持ちを持て余すだけの原因になってしまっている。子供の頃なら、こんなこと絶対になかった。
ヒースに相対しただけで、あんなにも取り乱してしまうなんて、自分はどうしてしまったのだろう。
頬に触れようと伸ばされていた指先が、戸惑い離れていった光景が忘れられない。思い出せば、今も胸をちくりと刺す。
あんなに寂しく思ったのは、どうしてだろう。
そんなことを考えながら、目を開く。
ぼやけた視界を鮮明にするように、幾度か瞬きを繰り返した。
そうして、数年見ることのなかった我が家の天井に、手を伸ばしてみる。もちろん届くわけがない。
それは、今のティアを悩ませるよくわからない感情を捉えることができないのと、よく似ていた。もどかしい。
ため息を零して身を起こし、寝台の傍らにある窓にかかったカーテンを開く。
「おはようございます、ティア」
「……おはよう」
「二人とも、おはよう」
部屋に差し込んだ朝の光を浴びた預言書から、ウルとネアキが浮かび上がってくる。そんな二人とティアは朝の挨拶を交わす。
「レンポとミエリは……まだ寝てるよね?」
「ええ、久しぶりに戻ってきたこともあってか、ゆっくりしたいみたいですね」
「レンポは……いつも、でしょう……」
「そうだね、お寝坊さんだもんね」
ネアキの呆れた声にくすくすと笑って、ティアは大きく伸びをする。ゆっくりと腕を戻した。零れる陽の光が、肩より伸びた髪を滑り落ちる。
寝台を降りて、ティアは自分自身を見下ろしてみる。
手も、足も、少女の名残をとどめつつも、すんなりと長くなった。少年のようだった身体も、女らしい丸みが服の上からでもよくわかるほどになった。
包み込むように守ってくれた保護者と、その心を一身に受ける被保護者という関係にはもう、戻れない。
ヒース、さん。
そう心の中で彼の人の名を浮かべるだけで、とくとくと甘く切ない音色を紡ぐ心臓を抑え、ティアはため息を零した。
なんだか、三年前に無邪気にヒースにじゃれついていた頃の自分を思い出して、ティアは情けなくなってきた。
彼にどうしてそんなことをしていたのだろう。
そのころの記憶は確かなのに、今のような気持ちは添えられていなかったことがとても不思議でならない。ティアは再びため息をついた。
昨日から、自分がやけにあやふやだ。情緒不安定とは、こういうこときに使う言葉なのだろう。
自分は一体、どうしたのだろう――どう、したいのだろう。
わからない。わからない。
「おかしいよね……」
声にするつもりはなかったけれど、ぽろりと口から漏れ出してしまったその音に、ウルは首を傾げた。
「ティア、寝癖はたしかについていますが、そこまでおかしくはないですよ」
それは、見当違いだけれど年頃の少女にとっては恥ずかしい指摘で。
こくこくと頷くネアキとウルから視線を逸らし、ほんの少し頬を染め。
ティアはそっと跳ね上がった髪を押さえつけた。
あれから一週間。
住み慣れた家と街に溶け込むのにたいして時間はかからない。あっという間に、かつてと同じように過ごし始めたティアだったが、胸の疼きだけはどうにもならなかった。
フランネル城にいくことさえ、躊躇われる。
ヒースの姿をみるだけで、頭が真っ白になる。
かといって、姿を見ないとそわそわする。だから、昔のように自由に出入りすることを許されたフランネル城の片隅、みつからないように最新の注意を払い、そっとその姿をみてため息をつき――そして家に戻ることを、ティアは毎日繰り返していた。
しかし、家にいてもヒースのことが気になるばかりか、閉じこもっているせいで答えのでないことをあれこれと考えてしまう。
そんなわけで今日は家に帰らず、ただひたすら新緑眩しい公園でベンチに腰掛けたまま、ぼんやりとして過ごしていた。
行きかう人々の賑やかな声、溢れるように露店に並べられた品々は、帝国のものも当たり前のように混じっている。
「平和、だなあ」
物資と人材の交流が盛んになり、王国も帝国も共に栄えている。
それもこれも、帝国と王国の人たちが頑張ったからだ。そこにはヒースだって含まれている。ティアが名も知らぬ人々の尽力も、もちろんあるのだろう。
王族の一員として、あのドロテア王女とてその立場に見合うだけの活動――戦争孤児のための孤児院の設立や、身体に傷を負った者たちの生活保障など―に、積極的に関わっていると聞いた。
先日会ったときには、かつての我侭はすっかりなりを潜め、無邪気でありながらも王女にふさわしい立ち居振る舞いで、ティアを出迎えてくれた。あの姿は、その話が確かなのだと裏付けている。
皆、変わっていった。今も、変わっていっている。それを望んで、今日を生きている。
それになのに、自分ときたら昔の頃に戻りたいと叶うことのない望みを抱いて、延々と悩み落ち込んでいる。
「あ~……」
喉を反らせて空を見上げる。
ゆったりと流れていく白い雲。その向こうの空は広く雄大で、こことは違う国にいた頃と変わりないはずなのに、ひどく綺麗だ。それは、育った街の空と大地は特別だということかもしれない。
「あら、ティア?」
「こんなとこでなにしてんだ?」
呼びかけに、え、と声を漏らしながらティアは上向かせていた顔を元に戻した。
「そんなでかい口あけてぼーっとしてっと、虫食っちまうぞ」
「もう、レクスったらなんてこというの。それにしても、ティア、なにかあったの?」
「レクス、ファナ……」
二人は対照的な言葉を口にしながら、ティアのそばへとやってくる。二人ともティアにとっては親友だ。
旅に出るまでは両者ともに顔見知り程度であったはずなのだが、ティアがいない間にすっかり打ち解けたとらしく、よい友人関係が築かれているという。
色とりどりの布をおさめた箱をレクスが持っていることから察するに、またファナお手製のぬいぐるみをつくるため、いらない布を貰いに行った帰りというところか。
そんな二人に対して、ティアは力なく頭を振った。
「ううん、なんていうか……いろいろと変わっちゃったなあ、って思って」
「そりゃ、まあな。お前が旅にでて三年たってるんだぜ、当たり前だろ」
そう呆れ顔で言ったレクスも、言葉どおりあの頃に比べて成長している。細身であるのは同じだが、背は伸び、筋肉もしっかりついて、手先の器用さを活かした職についている。もう少年ではない、男らしさを滲ませる青年になってしまった。
「そうね、街のあちらこちらが変わってしまっているものね」
そういって、口元に手を当てて笑うファナも美しく成長した。長かった髪はあの頃よりさらに伸ばされて、ティアが摘んできた花の効能によって健康になった身体は、年頃になった彼女らしいふんわりとした服に包まれている。細く長い指先にある爪も、綺麗な色をしている。
「ううん、そうじゃなくて――みんな、変わったなぁって」
そうつぶやいたティアに、ファナとレクスは顔を見合わせた。
「ま、いつまでたってもお子様気分ってわけにはいかねーし」
「ティアだって変わったわよ? 私は、面差しですぐにわかったけれど」
二人の言葉に、ティアはしゅんと頭を垂れた。
「やっぱり、変わっちゃったよね……」
「なんだよ、子供の頃の方がよかったのかよ」
「うん、ちょっとそんな気分……」
ティアの様子にからかい気味の言葉をかけたレクスであったが、あっさりと肯定されて眉を顰めた。
「はあ? なんだそれ」
「やっぱり、なにかあったのね?」
う、とティアは言葉に詰まる。そろ、と目の前にたつ二人を見上げる。
呆れたような顔をしていても、そこに心配げな色を宿したレクスと、眉を下げて気遣う様子を隠せないファナがいる。
それは、かつての親友そのままで、変わったのに変わっていない、確かな友情を伝えてきてくれた。
じんわり、とティアの瞳に涙が浮かぶ。
ぎょっとレクスとファナがそろって身を硬くした。
「お、おい、ほんとにどうしたんだよ!」
「ティア、私の家にいきましょう?」
促され、こくこくと頷いて。ティアは二人に導かれるように立ち上がり歩き出した。
ファナの家はいつも綺麗に整理され掃除が行き届いている。よく通った頃を思い出しながら、テーブルに着く。
すぐにファナがお茶をいれてくれた。
そして。
ティアはことの次第をあらいざらい、二人へと吐き出していく。
旅の中で変わってしまった自分のこと――それは当たり前のことだし、嬉しかったはずなのに、今はそう思わないこと。
そして、ヒースへ抱いたよくわからない感情のこと――姿をみるだけで足元がふわふわして落ち着かなくて、どうしたらいいのかわからなくなること。
最初は真剣に聞いていた二人だったが、だんだんと話が進むにつれて呆れたような、困惑したような、なんともいえない表情になっていった。
そして、すべて聞き終わったあと。
小さく息をつきながら、レクスが髪をかき上げた。
「おまえ、そりゃー、なんだ……つまり……」
「ティアは、ヒース将軍が好きになってしまったのね」
はっきりといわないレクスの言葉を遮って、微笑を浮かべたファナが言う。
「!」
びくり、とティアは身体を震わせた。その可能性を考えなかったといえば嘘になる。
でも。
「だ、だって、そんなおかしいよ。ヒースさんはあの頃も確かに好きだったけど、そういうんじゃなかったのに……!」
ぎゅう、とティアは白いティーカップを持つ手に力を込めた。ゆらりと冷めかけの紅茶が波紋を描く。
「久しぶりに会ったからって、そんな……どきどきはするけど、好き……だなんて。おかしいよ……」
その慌てきったティアの顔と言葉に、くっとレクスは皮肉げに口をゆがませた。だがその目は心底楽しそうで。
「そういうの、一目惚れっていうんじゃねーの? あのオッサンに、ティアがねえ……。そういうことも、あるもんなんだな」
「!」
違う、と否定したかったが、そのとおりだとティアの心のどこかが、その答えを受け入れてしまう。
そう、まさにレクスがいうとおり、ティアはヒースに一目惚れをしてしまった。
ただ、素直に認めるには、あまりにも恋の訪れが突然すぎた。いや、突然だからこそ、そんな名がついているのだろうけど。
これは、三年の時を経てじっくり育てられた恋だとか、そういうものではない。一気に芽吹いて花開いて。今、まさに満開を迎えた、恋。
そんな己の心に戸惑うティアに、ファナは小さく笑った。
「構わないんじゃないかしら」
「だ、だって」
「だってもなにもないわ。好きに、なっちゃったんでしょう?」
「……う」
自分でもわかっていなかった感情に、ずばりと名前をつけられて、ティアは口ごもる。
ファナの言葉はまるで、ティアの心境にぱちりと音をたててはまる、パズルピースのようだった。しっちゃかめっちゃかにかき回されたピースの中から、ようやく拾い上げた最初のひとつ。
「でも、だって……知ってる人だよ。帝国の将軍で、初めて会ったときお腹殴られたり、牢屋から一緒に脱走したり、お師匠になってもらったりした人だよ? 良く知ってる人だよ?」
「そういや、殴られてたよな、お前」
当時を思い出したらしいレクスが、そんなことをつぶやいた。
「一目惚れって、何も知らない者同士に限ったことじゃないと思うわ」
またひとつ、ぱちりとピースが組み合う。
「三年離れていたのよ? お互い、その知らない時間の積み重ねがあって、はじめて心惹かれたということがあっても、私はおかしくないと思う」
「案外、あのオッサンもティアに惚れるかもしれねーしな。あの頃のお子様なお前じゃ無理としても、だ。いまならいけんじゃねぇの?」
だから、今の自分を嘆くなと、言外にレクスはいってくれている。
こんなところはあいかわらず不器用なレクスの態度に、ティアは微笑み、胸に手を当てた。
そして、心の中で急速に組み合わされて描かれていくものに、背筋が震わせる。
「大丈夫、将軍だって憎からずティアのこと想ってくれているのは、確かなんだから。ここからどうするかが、ティアとヒース将軍の未来を決めると、私は思うわ」
レクスとファナの励ましが心に体に染み渡っていく。ようやく、ティアは表情を輝かせた。
「うん……そうかも……ううん、そうだよね。頑張らないと何も始まらないよね」
そうだ、気付いたのならば努力すればいい。今までだって、そうしてきた。今回だけ、そうしない理由なんてどこにもない。
ようやく本来の明るさを取り戻したティアに、レクスは笑って手を伸ばした。相変わらずのティアの兄貴分であることを自負しているような、そんな仕草だった。
「なんつーか、英雄様は久しぶりに帰ってきても、相変わらず頼りねぇなあ。それでよく一人旅できてたよな」
くしゃくしゃと、レクスはティアの頭を撫でながら言う。
「う、や、もう! やめてよ~」
振り回されるがままに頭を揺らめかせながら、ティアが抵抗の声をあげる。
その様子に、ころころとファナが笑った。
「これから、よ。ティア。頑張ってね。応援するわ」
「おう、なんかあったらまた相談のってやるよ」
「うん!」
そうして、三人で笑いあう。
静かに部屋に満ちていく暖かな空気に、ティアは旅から帰ってはじめて――心の底から、安堵した。