森の夕暮れは早い。
陽がわずかに陰ったと思えば、あっという間に夜に支配される。西の大樹を抱くこの深い森の中では特に気をつけなければすぐに飲み込まれてしまう。
独特の緑のにおいを、わずかにしめった風が運んでくる。
どこか遠くから、獣の声がかすかに聞こえた。
ここのところ魔物の動きが活発なこともあり、ヒースはそろそろ頃合かと空を見上げて思う。
伝承者として徒手流派の稽古をつけている弟子のティアは真剣そのもので、己の手に宿ったプラーナの制御に意識を集中させている。
それを途切れされるのは気が引けたが、仕方がない。
ティアは目を見張るような速度で技を習得していっているが、まだまだだ。だが、今日すべきことはもう終えている。引き上げても問題はない。明日、またやればいいだけだ。
ヒースは小さく頷いた。
「よし、今日はここまでにしよう」
「あ、はいっ、ありがとうございました!」
修行の終わりを告げると、はっとしたティアが意識をこちらに向ける。驚いたのか、小さく肩を跳ねさせて返事をしている。
そして、詰まらせていた息をゆるゆると吐き出して、ティアは全身から力を抜いていく。小さな拳に集まっていたプラーナが拡散し、蛍のように一度だけ瞬いて消えた。
それをみてから、ヒースはくるりと踵を返した。
「では戻るか。ラウカも待っているだろうしな」
二人して転がり込んだ家の主は、看病を経てすっかりティアと仲良くなっている。きっといつものとおり夕食の支度をしてくれているだろう。きっと肉だ。
「はい、そうですね」
すっかり緊張も解けたらしいティアが、そう応えて歩き出すのを背後の気配で察しながら、ヒースは足を踏み出す。そのとき、火花が散るように記憶が警告を鳴らした。
そういえば。
「そうそう、今日の稽古でそのあたりにくぼみができてしまったから足を取られないように気をつけ……」
ふと思い出したことを、振り返りながらティアに言う。
「きゃあ!」
言い終わるより先に。
ティアはその穴にひっかかって転んでいた。
ぺしゃんと大地に座り込んでしまったティアが、突然のことに大きな目を瞬かせて見上げてくる。ヒースはなんともいえず、そんなティアを見下ろした。
遅かった。
二人の間に落ちた気まずい沈黙に、ティアが頬を染めていく。ヒースは、ぽりぽりと頭を掻いた。
「……すまん、もっとはやくいうべきだったな」
「いいえっ、私が不注意だったから……!」
謝罪に対してぶんぶんと頭を振るティアへと近づき、手を差し伸べる。
おずおずと重ねられる小さな手に、ヒースの胸中に憐憫の情がこみ上げる。世界を相手取るには、あまりに儚い。でも、この少女だからこそできることがある。なさねばならぬことがある。
自分はそのために、戦う術を伝承者として教えている。ティアだって、戦うことを選んだ。だからそんな風に思うことは、彼女に対して失礼だろうな、と苦笑いしながらその手を引いた。
ひょいと、軽い身体が持ち上がる。つま先が大地に下りた瞬間――
「痛っ」
転んだ際に右足を痛めていたらしく、ティアがぎゅっと目を閉じてかすかな声を漏らした。
「ティア! ひねったのか?」
気付いていなかった己を心の中で叱責しながら、ヒースはティアの肩を捕まえその華奢な身体を支えた。
「だ、大丈夫です」
眉をひそめたままそんなことをいわれても、説得力などない。
「無理をするな。くせになるぞ」
大丈夫といいながら、無意識のうちに足かばうような仕草をするティアにそう言って、ヒースはあたりを見回した。
座れるような岩もなし、冷やすための水もない。暗くなり始めたこの場所で、もたもたしているわけにもいかない。
ならば。
ティアの前で背を向けてしゃがみこむ。
「ほら」
「ふぇ?」
そうして声をかければ、ティアのひっくりかえった声が聞こえた。
「早くおぶされ。このままだと日が暮れるぞ」
肩越しに、オレが背負って運ぶと告げると、ティアが目を見開いた。
「え、でも悪いですし……! ちゃんと歩けますから!」
「君の我慢強さや忍耐力は評価しているがな、こういうときに無理をして明日からの修行に差し支えても困るだろう? それとも抱き上げたほうがいいか?」
ヒースの言葉に、真っ赤になって口を噤んで小さく唸ったあと、ティアはおずおずとヒースの背に身体を預けた。
「す、すみません。じゃあ、お邪魔します……」
「ははっ、『お邪魔します』は、ないだろう」
「そ、そうですか?」
礼儀正しいのか、面白いのかわからない言葉を零したティアにヒースは思わず笑った。
そして、しっかりとティアがおぶさってきたことを確認してから、ヒースはゆっくりと立ち上がった。
と、同時に歓声があがる。
「ふあ、すごい! 高い!」
泣かれるよりはいいものの、うってかわってはしゃぐティアの無邪気さに、ヒースは苦笑いした。
「はははっ。そいつはよかったな」
そんなティアを背負ったまま、ヒースは歩き出す。
広い背の上、いつもとはまったく違う視界の高さに、ひとりしきり興味深そうに周囲を見回した後、ティアが呟くように口を開いた。
「それにしても、お師匠様におんぶしてもらっちゃって、ほんとにいいんでしょうか……。すみません」
みることはできないが、簡単に想像できるティアのしゅんとした様を慰めるように、ヒースも口を開いた。
「弟子の身体のことを気遣うのも師匠の務めだ。それに、さっきも言っただろう。明日から修行できなくなっても困る」
「そうですよね……すみません」
ティアの言葉を聞いて、ふむ、とヒースは小さく声を漏らす。礼儀正しいのは結構なことだが、こうも言い続けられると気になってくる。
そのせいだろうか。些末なことだと思いつつも、ついつい問うてしまう。
「君のそれは癖なのか?」
「え?」
「その『すみません』だ」
背後のティアが動揺して息を呑むのがわかる。
「えっと……そ、そんなに、言ってますか?」
もぞもぞと居心地悪そうにティアは言う。どうやら、本人にも自覚はなかったらしい。ということは、やはり癖なのか。
「ああ、あとその堅苦しい口調も、だな」
二回目の指摘に、あう、とティアが言葉になっていない声を吐いた。
「でも、でも……ヒース将軍は年上だし、お師匠様ですし……えっと、だから」
「まあ、今のオレは帝国の裏切り者なわけなんだがな」
ちょっと意地悪くそういってみれば。
「……すみません」
予想通りの言葉が返ってくる。ヒースは思わず小さく噴出した。
だがこの現状はヒースが選んだことで、自分としてはさして気にしてはない。しかし、ティアにとっては触れてはいけない事柄に思えたらしい。
人の気持ちを慮る健気な性格はとても好ましい。
くつくつと肩を揺らして笑うと、そこに掛けられたティアの手がほんのりと熱くなった。
「なに、気にするな。変なことをいって悪かった」
「むぅ」
きゅ、と指先にわずかに力がこめられる。それは抗議の意味か、謝罪の意味かはわかりかねた。
「まあ、もうちょっと気楽にいけ。あまり力をいれるもんじゃない。とりあえず敬語はなるべくやめろ。あと、もっと頼れ。師匠からの命令だ」
軽い口調でそう告げると、ひゅうと、ティアが息を吸い込んだ。驚いたせいか、身体が一瞬硬くなるのがわかる。
「……横暴です」
そして、どこか不貞腐れたような、困ったようなその声に、ヒースは今度こそ声をあげて笑った。
「師匠の特権といってもらおうか。素直にきいておけ」
その言葉に返事はなく。かわりに、ぽすんと肩に暖かな重みが加わる。ほ、と安心したように、吐息を漏らすティアの髪が腕をくすぐった。頼るというよりは、甘えるような行動。
視線を前に上げる。二人で辿る森の道は、もう闇の色が濃い。鮮やかな色彩の森はすっかりなりを潜めてしまった。夜に眠りはじめているからだ。
そういえば城の牢を脱出し、グラナ平原へと出たときに精神的、身体的に限界に達して倒れたティアを抱え、ここまできたときも確かこんな時刻だった。
あのときも二人、今も二人。だがこの道の上で、二人別々の方向へ向かう日も、もうすぐだろう。
「いろんなことがあったな。これからも、君の進む道に困難は多いだろう。だが、戦うと決めたのは君だ。師匠として、抗うための力はオレがすべて教えてやる。この修行が終われば、君はまたその足で旅立つことが出来るはずだ。その手で、未来を切り開けるはずだ」
「……はい」
ティアのか細い頷きに、ヒースは目を伏せた。
「大丈夫だ。必ず、君は大切なものを取り戻すことが出来る」
「……はい」
きゅ、と首に細い腕がまわってくる。背中に隙間なく、ティアの身体が寄せられる。
「私、ヒース将軍がいてくれて、心強い、です。また明日もよろしく願い、します」
やはり最後に「です」「ます」をつけてしまうティアに、ヒースは苦笑いするしかない。
これはしばらく、どうにもならないのだろう。これ以上、無理を押す必要もない。そのうちでいいのだから。
ああ、この軽さと温かさが、なんだかとても愛おしい。そんなことを思いつつ。ふわりと、知らず微笑んで。
って、何を考えている!
はっと飛びかけた意識を取り戻すように、ヒースは頭を振った。その様子を不思議に思ったのか、ティアが首をかしげたらしく、髪が首筋をひとつ撫でた。
「いいや。なんでも、ない」
ぎこちなく、ヒースはそう返した。
そうだ。こんな年端もいかない少女に、そんなことを想うなんてありえない。そんな感情を抱くことなんてありえない。
これはあれだ。いろいろとごたごたしてあんまりにもかわいそうで、あんまりにもか弱くてか細くて心配だという感情が沸いただけであって――! そう! 保護欲とかあの類のものだ。
そうヒースが自分に言い聞かせていると。
ぎゅっと、ティアの腕にわずかに力がこめられる。
「ありがとう――ヒース将軍」
耳元で優しく、どこか甘く零された声が、ヒースの首筋から背筋へとむずがゆさを走らせる。しかもそれが嫌じゃない。
ほやっと胸に暖かな温度でともったなんともいえない気持ちに、ヒースは再び心の中で否定の言葉を叫んだ。
いやだからこれは、そうじゃない! 確かに、ティアはいい娘だとは思うが。だがしかし、……いや、そんなはずはないない……たぶん――?
湧き上がった感情に、緩みそうになる顔を意識して引き締める。
名付けられない己のもやもやとしたそれに疑問符を浮かべつつ、ヒースは大きな影を落とす西の巨木を目指す。
できるだけゆっくりと――ゆっくりと。
どうしてかこの時間を引き延ばそうとする自分の心への答えは、見出せないまま。ヒースは天を仰いで、息をついた。