二人の未来~?年後~

「よし、これでいいな」
 手にしていた羽ペンをゆっくりと下ろす。これで帝国に向けた書類の作成はすべて終わった。ヒースはやれやれと肩に手を当てる。
 やはり机仕事は疲れる。戦争は二度と起こってほしくはないが、身体を動かす任のほうが性にあっている以上、じっと紙に向き合いペンを走らせる事務作業は苦痛だ。
 鍛錬後の心地よい疲労感とはまた違う身体の重さに、そうは思いたくないが「歳かな」と小さく呟いた。
 重厚な造りの机の上へ、インクを乾かすためにそっと書類が重ならないように注意しながら並べておく。とくに重要な機密書類のたぐいではないし、しばらくこのままにしておいても大丈夫だろう。
 いつでもできると思っていたこともあり、後回し後回しにしていて今ようやくそのつけを払い終わったヒースは、額にかかった髪をかきあげた。
 柔らかな陽射しの遊ぶ自室の中、紙は光を弾いて淡く光っている。それが風などで飛ばないようにペーパーウェイトを乗せて、席を立つ。
 軽く伸びをしながら体をほぐしつつ、茶でも飲もうと部屋を出ようとしたその時。
 ゆっくりと扉が動いた。
 おや、とヒースは軽く目を開いた。伸ばした手の先で、廊下への僅かな隙間がつくられていく。
 と、そこから栗色の髪をした小さな子供が、ひょいと顔をだした。
 きょろり、と青灰色の瞳をめぐらせて、見下ろすヒースと目があうと無邪気に笑う。
「おとうさん! おしごとおわった?」
 そして勢いよく扉を開き、手を伸ばし近寄りながら、あどけない口調でそう聞いてくる。
「ああ、もういいぞ」
 身をかがめ、おとなしく待っていてくれたのだろう我が子へ、ヒースは笑いかけた。
 わぁい、と歓声をあげて飛びついてきた小さな身体を揺らぐことなく受け止める。ひょい、と片腕で抱き上げてやると、喜びの声が一際大きくなった。
「いい子にしていたか?」
「うん、いいこにしてたよ」
 だからね、と続けて言う。
「ごほんよんで!」
 ずい、と鼻先に突きつけられた本を見て、ヒースは噴出した。大事そうに胸に押し抱いているものに気付いてはいたが、この絵本とは。
「またこれか、ずいぶんと気に入っているんだな」
 それは、長きに渡り子供たちに愛され続けた、仮面をつけた正義の味方の物語。ヒースにとっては、いろいろと思い出深いもの。それは、まだまだ幼い子にいってもわからないだろう。
 最愛の妻との出会いと縁を繋いだ絵本を、目を細めてみつめるヒースに、太陽のような明るさで子は笑う。
「うん、だいすき!」
「そうか。さて、天気もいいし、庭で読んでやろう」
「うん!」
 腕に座りはしゃぐ我が子の、重みと暖かさは幸せの証。
 なんとなく、懐かしい。
 若かった頃、人ごみの中で転んだ少女と声をかけた自分を思い出す。
 あの時も、こうして小さな少女を抱き上げた。たくさん、話をした。もう、随分と昔のことだ。
 くつくつと思い出し笑いをするヒースにつられたように、子供も声をあげた。
 すいすいと高い視線で移り行く景色が楽しいのか、ようやく父にかまってもらえることが嬉しいのか。上機嫌な子を連れて、ヒースはバルコニーから外へでる。
 妻の手により綺麗に整えられ、さまざまな花が入り乱れて咲いている庭。横切る花々の種類などはわからぬが、競い合うというよりも手を取り合うように仲良く風にゆれているさまは、手入れ主の穏やかな気性をそのまま反映しているかのようだ。
 蝶が行き交うそんな庭の奥に目指す場所がある。さらさらと降り注ぐ木漏れ日の下に、大きな木造のブランコがある。
 秘密の場所、とでもいうように僅かに隠れるようにしてそこにある。
 どっかりとそこに腰を下ろして、子供を膝の上に乗せ。
「よし、最初からか?」
「うん、さいしょからー!」
 父の言葉を繰り返す子の前で、絵本の表紙をはらりとめくる。
 そうして、そこから日常とは違う不思議で冒険に満ちた物語が、ヒースの優しい声に乗って広がっていく――

 

 身と心に馴染んだ気配が近づいてくるのを感じて、ヒースは顔をあげた。
 腰掛けたブランコをゆりかごのように揺らして、ゆっくりとした手つきで膝の上で眠ってしまった子の髪を撫でつつ、振り返る。
「おかえり」
「ただいま。ここにいたのね」
 斜め後ろにあるあまり背の高くない庭木の向こうから、ティアがひょっこりと顔を覗かせた。その仕草が、子供と同じものだったから、ついヒースは笑ってしまう。
 午後になって、すぐにでかけてしまっていたティアは、不思議そうに目を瞬かせながら二人に近づいてくる。
 そんな彼女になんでもないと手を振りながら、ヒースは横に座るように促した。
 ティアはそーっとわが子を起こさぬように、細心の注意を払いながら腰掛ける。
 親子三人で座っても余裕のあるブランコは、わずかにゆらりと揺れただけ。
「お留守番ありがとう。ふふ、よく寝てるね」
 少し声を抑えて、ティアは僅かに身を屈めその寝顔に微笑を浮かべる。白くふんわりとした頬を幸せそうにひとつ、撫でた。
「本を読んでやっていたら、そのうち眠ってしまってな。起こすのは気が引けたし、今日は陽気も良いだろう? だからこのままでもいいか、と」
「そう」
 こそこそと内緒話でもするように、小声で言葉を交し合う。
「眠るまでに三回も読まされた。この絵本がよほど好きなんだな。君と同じだ」
 すやすやと眠る子のお腹の上に、そっと置かれたそれを目で示せば、ティアは僅かに頬を染めた。
 ヒース同様、いろいろと思い出すことがあるのだろう。
「もう、どうしてこういうところばっかり似るのかな」
 せわしなく目を瞬かせ、ティアは本を持ち上げる。ほんのわずかに懐かしそうな色が瞳に滲む。そして、二度目に出会った頃と同じ、あどけなさの残る少女の横顔を見せながら俯いた。
 その様子に、笑い出しそうになるのを必死に堪える。
 性格も、行動も。気持ちよいくらいに真っ直ぐで。いまさらいうほどもないくらいに、似ているというのに。
「ああ、本当に……この子は、君そっくりだ」
「ヒースに似たほうがいいと思うのに」
 ぶつぶつとそういいながら、ティアは子の額にかかった髪を払った。
「オレと同じなのは瞳の色くらいか? まあ、オレとしては君に似てくれて嬉しいがな」
 すやすやと眠る子を見下ろす。
 自分の上で交わされる両親の声に起きる気配はまったくない。どうして子供というのは、いきなり深い眠りに落ちていくのだろう。だが、健やかな成長のためならば、致し方ない。
 そんなことを考えていると。
 ふ、と頬を風が撫でた。その中に冷たさを感じたヒースは、子供を抱えなおしながら、ティアと視線を重ねた。
「そろそろ家に入ろう。あまりこうしていて風邪でもひいてしまっては可哀想だからな」
「そうだね」
 ベッド整えるね、と言ってティアは立ち上がり、ブランコから離れて庭を横切り家へと戻っていく。
 ゆっくり静かに。なるべく動かさないようにしながら、ヒースは子供を抱き上げた。
 気をつけているとはいえ、ここまでされてもなお涎をたらすような勢いで眠る子に、ついつい笑ってしまう。
 ティアに先導されるようにバルコニーから家へと戻ったヒースは、そのまま一直線に子に与えた部屋へと向かう。
「あ~……」
 開け放たれた扉から中に足を踏み入れて、広がる光景になんともいえなくなったヒースはティアをみた。
「昨日、一緒に片付けたばかりなのに。仕方ないんだから……」
 たおやかな風情の妻は、頬に手を当ててため息をつきつつそう零した。もはや諦めの空気が漂っている。
 絵本やおもちゃが散乱した部屋を見回し、いい子にしていたという子供の言葉はあてにならないものだ、とヒース思った。仕事の邪魔をしなかったところは、たしかにえらいのだが。
 とりあえず、ベッドからおもちゃを下ろしたティアに促されて、そっと子を横たえる。
 むにゃむにゃと口元を動かす仕草に、思わず二人は顔を見合わせ微笑んだ。こんな寝顔を見せられたら、怒れやしない。
 それを愛しげにみつめるティアの表情が、なんとも美しく愛おしい。
 そして、二人はそーっと、部屋を後にした。廊下を歩きながら、ティアはぶつぶつと呟く。
「もう、あんなに散らかして……」
「オレが仕事してるのわかってたから、一人で遊んでいてああなったんだろう。あまり怒らないでやってくれ」
「ヒースは、あの子を甘やかせすぎ」
 とにかく、あとで片付けさせようと小声で誓っているティアの腰に手を回す。夫婦ならば対して問題もない行動だが、いまだにティアは僅かに頬を染めて照れるそぶりをみせる。
 いつまでたっても初々しさを失わない妻を可愛らしいと思いながら、ヒースは居間のほうへと向かう。
「そうだ、ファナからいいお茶の葉をもらったの。淹れるからゆっくりしてね。お仕事と子守、おつかれさま」
 ほんのりと色づいた優しい笑顔で、ティアがヒースを見上げながら言う。
「ああ、ありがとう。奥さん」
 そういってかえせば、くすぐったそうにティアは声を転がした。
「さっき帰ってきて、庭にでたとき――ちょっとだけ、いいなぁって思っちゃった」
「なにがだ?」
 さきほどティアがいっていたとおり、家にこもって仕事と子守をしていたヒースは問い返す。それらはいつものことだからだ。
 だが、ティアは曖昧な言葉と笑みで、はっきりとしたことは言わない。
 その態度に足を止め、ほんの少し考える。
 そして、ヒースは「ああ、なるほど」と呟いた。
 思い返せば簡単なこと。だって、それ以外ないではないか。
 にや、と笑ったヒースの顔をみたティアが、ぎょっと目を見開く。何か言う前に、手を伸ばす。
「つまり、こういうことか」
「きゃっ、ちょ、ちょっとヒース!」
 問答無用でティアを抱き上げて、ヒースは笑い声をあげながらティアを覗き込む。
「なんだ? 自分の奥さんに嫌がられると夫としては立場がないんだが。それに、羨ましかったんだろう?」
 ほんの少し意地悪くそういえば、ティアは真っ赤になった顔を伏せた。本気で逃げようとはしないあたり、この状態は満更でもないのだろう。それでも。
「だ、だって、もうそんな歳じゃないじゃない……あの頃じゃあるまいし、その……」
 あっさりと引き寄せられてしまったティアは、どもりながらそう訴える。
 あいかわらず片手でやすやすと持ち上げられるティアの軽さに、目を細めながらヒースは頭を振った。
「そんなこと関係ないだろう」
 近いところにあるティアの頬にそっと口付ける。
「最近は、あいつしか抱き上げていなかったからな。本当なら、いつでもこうしてやりたいくらいだし、どんなに歳をとったとしても、してやりたいと思ってるぞ」
 おとなしく与えられるぬくもりを受け入れながら、ティアは情けなく眉を下げた。
「もう、そんなこといって……。私がおばあちゃんになっても抱き上げるつもりなの?」
「もちろん。そのために日々の鍛錬を欠かさないんだからな」
 あっさりとそういいきってやれば、ティアは言葉に詰まった。そして、僅かに沈黙した後、ふわりと笑う。
「……あきれた」
 そういいながらも、ティアはとても嬉しそうで。零れた髪を耳にかける左手の薬指で、静かに指輪が輝いている。
「うん、でも……」
「ん?」
「やっぱりいいね。ヒースに抱っこしてもらうの。大好き」
 抱き上げる夫の肩口に頭を預け、幸せそうに蕩ける笑みを浮かべる妻へ、同じように笑って告げる。
「オレは、君だけの正義の味方だからな」
「……うん」
 そして、ゆっくりと歩き出せば、そっと細い腕が首に絡まってくる。
 心地よいのか、うっとりと目を閉じたティアが言う。
「いつか、あの子にもあの子だけの正義の味方、あらわれるのかな」
「少なくともオレより強くないと許さんぞ」
「えっ!」
 明るく笑いながらも本気の色を瞳に浮かべたヒースに、ティアは驚いた後、海の底へと届くような深いため息をついた。
「あの子の恋は前途多難になりそう……」
「そうか? オレくらいどうってことないだろう」
「どうってことありすぎ」
 徒手流派の伝承者で私の師匠で帝国の将軍でしょ、というティアのもっともな突っ込みに。
「はっはっは」
 ヒースは、どこか乾いた笑い声を廊下に響かせた。
 だがしかし、なんといわれようとも譲りはしない。
 言っても無駄だと思ったのか、ティアが小さく「ほどほどにね」と囁くのを聞きながら、ヒースは居間へと足を踏み入れる。
 一直線にソファに向かいながら言う。
「まあ、そんなことはまだまだ先のことだ。とりあえずは、だ。あの子が目覚めるまでの間、久しぶりに二人っきりでのんびりするとしよう」
「――うん」
 同意して首筋へと顔をうずめてくるティアの可愛らしさに頬を緩ませつつ。ソファに腰を下ろしたヒースは膝の上で、微笑む妻へと愛の言葉を囁きながら。
 そっと口付けを交わすべく、顔を寄せた。