彼への違和感

 柔らかな光をまぶた越しに感じながら、ティアは小さく呻いた。
 まだ、このまどろむ感覚を離したくない。
 隣にあるぬくもりに頬を寄せながら、そう思う。
 でも。
 耳に届くのは、目覚めた小鳥たちの軽やかな歌声。それはいつものとおり、朝の訪れを告げるもの。きっと、家の周りの木々の上で、清々しい光を浴びながら、声をあげているのだろう。
 そんな様子を想像しながら、名残惜しむようにティアはもう一度、頬を摺り寄せた。くすぐったいのか、吐息混じりの声を漏らしながら、それは僅かに身じろぎした。
 そろそろ寝床から起きだす頃合だと急かすように囀る小鳥たちにうながされ、ティアはゆっくりと目蓋を持ち上げた。
 ティアを包むのは、しなやかな筋肉のついた褐色の腕と、滑らかな肌を惜しげもなくさらした硬い胸だ。
 呼吸にあわせて緩やかに、寄り添うティアの目の前で、動いている。
 まだ明瞭にならない視線をゆるゆるとあげれば、穏やかに眠りについている少年の、あどけない寝顔がそこにあった。
 その安心しきった表情に、思わずティアは口元を緩めてそっと囁いた。
「おはよう、アンワール」
 まだ眠りの海をただよう彼には聞こえていないだろうと知りながら、朝の挨拶を告げたティアは、そーっと、アンワールを起こさないように細心の注意を払って、その腕の中から抜け出した。
 抱いていたぬくもりが消えたことに、わずかに眉を寄せるような表情をしたアンワールに噴出しそうになりつつも、ティアは寝台の上で身を起こす。
 腰掛けて、近くに散らばっている衣服に手をのばして拾い上げ、ブラウスの袖に腕を通した瞬間。
「わきゃっ!」
 ぐい、と後ろに力強く引かれ、ティアは声をあげた。
「……ティア、どこへいく」
 するりと、さきほどまでティアを捕えていた腕が再び絡みつき、どこか寝ぼけた声音が、耳近くでぼそぼそと問いかけてくる。
 ついさきほどまで共に寝台に寝転がっていたものの、朝の光が部屋へと差し込み作る明るい闇の中で、こんな風に密着されるとそれはそれで恥ずかしい。
「も、もう……アンワール。私は、どこにもいったりしないってば」
 どこへもいかせまいとしっかり抱きしめてくるアンワールの手に自分それを重ね、ティアはわずかに頬を染めた。
「朝だから、そろそろ起きなきゃ。ね? ご飯の用意するから、離して?」
 ぽんぽん、と宥めるように優しく律動をつけて叩けば、「ん……」という了承したらしい返事とともに戒めが解かれる。
 ほっとして、背後のアンワールに向き直ろうと振り返り――ちゅ、という軽い音とともに唇へと口付けを落とされて、ティアはぴしりと固まった。
「おはよう、ティア」
 ふわり、ほどけていきそうなほど柔らかく微笑んで、アンワールはティアの髪を一度指先で梳いた後、寝台から降りていった。
 ティアとのやりとりで、すっかり目が覚めたのか。さきほどまで寝ぼけ気味だったのはどこへやら、さっさと衣服を身にまとっていくアンワールを呆然とみつめながら、ティアは真っ赤になった頬を晒しながら唇に手を押し当てた。
 どうしてアンワールはこういうことを平気な顔をして、突然してくるのだろう。
 どうせ、理由を問いただしても「したいと思ったから」という言葉と、「どうしてそんなことを訊くのだろう?」という、不思議そうな顔しか得られないだろう。
 ティアは情けなく眉をさげたまま、心音煩い胸の奥底から、諦めか幸せか――自分でもわからないため息を零した。
 でも、嫌というわけじゃないし。むしろ、嬉しいくらいだし、うん。
 恋する少女はいつだって、いちばん好きな人に触れられれば、嬉しいものだ。
「おはよう、アンワール」
 湯気でもでているのではないかと思う顔の火照りが、はやく冷めればいいなと思いつつ、二度目の挨拶の言葉を述べて、ティアも寝台から降りた。
 羽織っていたブラウスのボタンをとめて、スカートを穿いて。
 ふと顔をあげれば、すでに身支度を終えたアンワールが、顔を洗うために室内を横切っていくところだった。
「……?」
 なんだかその後ろ姿に妙な感じがして、ティアは首をかしげた。
 いつもどおりのはずなのに、どこか違う。わずかに付いた寝癖も、しなやかな手足も、砂漠の民の衣装も、とくに変わりはないはずなのに。
 でも、なにかがひっかかる。
「アンワール……?」
「どうかしたか、ティア」
 昨夜汲んでおいた水差しを手に、振り返ったアンワールをじっとみつめる。
 結わえられていない紫紺色の髪が肩口から流れ、切れ長の金色の瞳は澄み渡り、ティアだけをうつしている。
 なにも、変わっていない。
「――ううん。ごめんね、なんでもないの」
 結局、違和感はあるのにそれが何なのか言葉することができなくて、ティアはぷるぷると頭を振った。
 そして、小走りに近づいて笑顔を向ける。
 恋人を目の前にすれば自然と浮かぶその表情に、僅かに訝しげな様子を見せていたアンワールも、笑顔を浮かべてくれた。
「ね、アンワール。そのまま顔洗ったら、髪まで濡れちゃうよ。先に結わえちゃおう?」
「ああ、それもそうだな」
 長い己の髪を見下ろして、アンワールは小さく頷いた。
 ティアに水差しを渡し、いつも使っている結わえ紐を探す姿をじっと観察してみるが――それでも、自分が感じたものの答えは見出せず。
 ティアはもう一度、首を捻ったのだった。

 

 がやがやと人が賑やかに行きかうローアンの街にある市場の片隅、馴染みの店主に別れを告げたティアは上機嫌に顔をあげた。
 新鮮な野菜が手に入っただけでなく、いろいろとおまけもしてもらえた。そのうちのひとつであるリンゴの艶やかな赤さを綺麗だと思いながら、よいしょ、と野菜や果物が入った買い物袋を抱え上げる
 そして、ティアは少し離れたところで待っていてくれるアンワールの元へ戻るべく、歩き出した。
「やっぱり今日は人いっぱいだなあ……」
 月に一度の売り出し日ということもあって、市場はいつになく活気に溢れている。
 背の低い小柄なティアは、大人たちの間を縫うようにして、懸命に進んでいく。
 と。
「おっと、ごめんよ」
「わわっ……!」
 大柄な中年男性の突き出したお腹におされ、よろよろとティアは体勢を崩した。
 なんとかもちこたえたものの勢いまでは殺せず、ころりと袋の一番上に乗せられていたリンゴが宙に飛び出した。
「あっ!」
 はしたなく声をあげるが、腕の中の荷物を押さえるので精一杯。
 そんなティアの視界の中で、褐色の何かが素早く動いた。それはまるで、一陣の風が吹いたよう。
 ぱちりとひとつ瞬きをした後には、重力に従って地面へと落ちていくところだったリンゴは、しっかりと長い指に捕まえられていた。
「大丈夫か?」
 気遣う優しい声は、ティアが良く知っているもので。ティアは、満面の笑顔を浮かべて声のした方向に顔を向けた。
「アンワール! ありがとう!」
 いつの間にきていたのか、この先で待っているはずのアンワールが、掬い上げたりんごを片手に立っている。
 すす、とティアを庇うようにアンワールが動き、軒を連ねる屋台の片隅にティアを誘導する。
「よかったー、せっかくもらったリンゴ、だめになっちゃうところだったよ」
「それよりも、ほんとうに大丈夫か? 怪我はしていないか?」
 心配そうに睫を伏せて、アンワールはティアの様子を伺ってくる。
「うん、大丈夫!」
 ぎゅっと拳を握り締めて無事なことを知らせると、ようやく安心したらしく、ほっとアンワールが小さく息をついた。
「今日は、これで買い物は終わりだな?」
「うん!」
 その返事に頷いて、アンワールがティアの抱えた買い物袋の上へとリンゴを置いた。そして、いろいろと詰まったその袋を取り上げ片腕に抱えると、空いているほうの手をティアへと差し出した。
「じゃあ、帰ろう」
 ふわり、と微笑むアンワールの手に、当たり前のように指先を重ねたティアは、笑って頭を大きく上下させた。
 ぎゅっと、離れないように、はぐれないように指を絡めて、二人は歩き出す。
 さきほどまで、ティアだけでは前進するのさえ一苦労だったというのに、今は川の流れにのった木の葉のように、すいすいと進んでいく。
 そして、アンワールの後をついていくような形になったティアは、ふいに今朝の不思議な感覚に再び囚われた。
 ほんの少し前なら、アンワールもティアも一緒に飲まれていた人ごみの中、自ら先頭となり歩いていく少年の後ろ姿をじっとみつめて――あ、とティアはどこか間の抜けた声を漏らした。
 そっか!
 ようやく思い当たったことに、アンワールの背に守られながらティアは楽しげに笑った。
「?」
 小さく零されたティアの明るい声に気付いたアンワールが、何事かとわずかに視線を後ろに送ってくる。
「ね、アンワール。ちょっとだけ寄り道しない?」
 どんな些細なことでも自分のことを気にかけてくれるアンワールに、暖かい気持ちになりながらティアは提案する。
「どこへいくんだ?」
「中央公園!」
 ぐい、と今度はティアがアンワールの手を引いた。もう市場の端で、あまり人もいないからこそできたことだった。
 そのまま、ティアは人ごみを迂回するような路を選んで中央公園へと向かう。
 アンワールは何も言わずに付いてきてくれている。振り返って微笑みかければ、応えるように繋いだ手に力がこもった。
 二人一緒に見慣れた街並みを横切り、ローアンの住人にとって憩いの場所である公園への階段をあがってゆく。そうすれば、今日も太陽の光に水のしぶきを煌かせた噴水がみえてきた。
 青空を背景に、儚い命の虹の粒を撒き散らす噴水の前に立ち、ティアは隣に立つアンワールへと向き直った。
「ティア?」
 首をかしげたアンワールの額を、さらりと紫紺色の髪が流れた。その下で純粋な光を宿して瞬く瞳を、じっとみつめて思う。
 やっぱり、そうだ。
 ティアは、くすくすと声を転がすようにして笑った。
 この噴水の前は、大会前夜にアンワールから貰った、自分を想う告白のことを思い起こさせる。
 いつまでもティアの記憶に鮮やかに残り続けるであろう、ふたりの恋が結ばれた思い出の場所だから当然だ。
 ほんの少しだけ、過去に思い馳せるだけでも、あの夜、あの時に引き戻されるような錯覚に陥る。
 どこか緊張しながらも真摯に言葉を紡ぐ過去の幻を、現在のアンワールに重ねながらティアはいう。

「アンワール――背、伸びたよね」

 そんな言葉に、アンワールが目を見開いた。
 その位置は、思い出の中の彼と違って高い位置にある。あのときも少し前も、自分と同じか、彼の方がいくらか低いくらいだったはずなのに。
 ティアは、眩しいものをみつめるように目を細めて、アンワールを見上げた。
 答えを得たことで、胸の奥に爽やかな風が吹き込んだような気分だ。とても、すっきりした。
 ティアが朝に感じた違和感は、成長したアンワールと、自分の記憶の中の彼とのほんの些細な差だったのだ。
 少年らしい細身だった身体が青年へ近づいていることを示すように、広くなっていく肩幅。長くなっていく手足。そして、見詰めあう瞳の位置。
「……そうか? 自分では、よくわからない」
「うん、間違いないよ」
 ティアは大きく頷いた。
 だって、アンワールのことだから自分がわからないはずがない。ただちょっと、今回は気付くのが遅れたけれど。間違いなく、日毎にアンワールは大人になっていっている。
「アンワールがわからなくても、私は気が付くから」
 にこ、とティアは笑ってアンワールを覗き込む。
「大好きな人のことだから、ちゃんとわかるよ」
 今度、家のどこかに背の高さを示す印でもつければ、アンワールにもわかるかな――と、そんなことを考えるティアの目の前で、ふむふむとアンワールは頷いた。
「そうか。オレも、ティアのことならわかる。同じことだな」
 そんな言葉に、今度はティアが目を見開いた。慌てて、自分の姿を見下ろしてみる。とくに、変わったようなところはないと思う。
「え、そう? 私も自分のことはよくわかんないや――ね、ね、私はどこが変わった?」
 期待に満ち満ちた眼差しで、ティアはアンワールに問いかける。
 じっとティアの瞳をとらえていたアンワールの瞳が、揺れる。そして、視線が下がる。
「……」
 思わずその先を追いかけて、ティアは「あ」と声を漏らした。
 もう一度その視線を辿ってみるが、やはり向かう先はさきほどと寸部違わぬ場所であって。
 ティアは、かっと頬を赤らめた。繋いだ手のひらに、じんわりと汗が滲む。思わず離そうとするものの、アンワールはがっちりと掴んで離してはくれない。
 そして、つっとなんの含みもない純粋さそのものでできているような視線が、再びティアの瞳を射抜いた。
「いろいろ、だ」
 にこ、とアンワールが朗らかに微笑む。
「うう……!」
 つい先ほどまで視線が突き刺さっていた胸元を押さえて、ティアは呻いた。
 訊かなければよかったと思いつつ、でもアンワールがそういうならそうなのかな……と、ちょっと嬉しくも思いつつ、ティアはぷいっと顔を背けた。
「もう、そういうことはいっちゃだめ!」
「オレは見ただけだ」
 めずらしくあげ足をとるようなアンワールの言葉に、一瞬、ぽかんとした後にティアは頬を膨らませた。顔が熱くて仕方がない。
 思考が茹ってきたティアは、それ以上なにか言うこともできず、忙しなく目を瞬かせた。
 そんな自分の恥ずかしがる様子を楽しむように、出会った頃には持っていなかった表情を浮かべるアンワールを、ちらと視界におさめてティアは俯いた。
 熟れて落ちそうになっているティアの耳に、ひどく優しい声が届く。
「ティア、また気が付いたことがあったら教えてくれ」
「え?」
 思わず顔をあげると、アンワールは遠いどこかを見晴るかすように、噴水と空をみていた。
 手に、また力がこめられる。少し痛いけど、どこか心地よい。
「それは、オレがティアと一緒にいることの証のひとつだと思う」
 ティアとともに重ねた時間がもたらしてくれるもの。できれば、オレはそれを知っておきたい。
 そう続けたアンワールに、ティアはぴたりと寄り添った。
「……うん」
 こうして、すこしずつ二人一緒に成長していって、それを互いに教えあう。
 まあ、今回はティアだけ恥ずかしい思いをしたわけなのだが――それはそれできっと、大切な思い出になっていくのだろう。
 この噴水の前で、かつてアンワールが自分を好きだといってくれたのとおなじくらい、いつの日にか輝くのだろう。
「じゃあ、私たち――ずっと、ずーっと一緒にいないとね!」
「ああ、そのとおりだ。だからティア、いつまでも、オレの側にいてくれ」
 自分の願いをこめながらの言葉に、恋しい人は笑ってくれて。とても嬉しい言葉を、返してくれた。
 うっとりと、ティアはため息を零した。
 ああ、私。
 とても幸せな時間を、大好きな人と生きている。生きていけるんだ― ―それはなんて、素敵なことなんだろう。
 人生をこれでもかと彩るだけの力がある想いを、胸のうちに溢れさせながら。
 ティアは隣にいるアンワールの笑顔を見上げて、蕩けるような笑みを浮かべた。