世界が滅ぶその日まで

 夜が明けても、まだ砂漠の風は冷たい。ティアは毛布に包まれたまま、自分と肩を寄せ合う恋人を見上げた。
 こうして夜明けをともに見るのも、もう幾度重ねたことだろう。夜明けに溶け込むような前髪を風に遊ばせ、相変わらず澄んだ瞳をした少年に声をかける。
「ねえ、アンワール」
「なんだ、ティア?」
 吐息が重なり合うような近さで、アンワールが応える。
「あの太陽が昇ってくるところって、なにがあるのかなあ」
 それは、ただの思いつきの問いかけだった。もしかしたら自分たちが住んでいるような、大きな国があって、そこの住む人たちは同じ太陽を見上げているのかもしれない。そんな他愛もない想像がもたらしたもの。
「……東の果てにあるもの、か。想像もつかないな」
「そうだよね。どんな国があって、どんな人たちが住んでいるんだろうね」
 遠い異国の噂は聞けども、そんな遠い場所にいったことのない二人は、ただ想像のみを羽ばたかせることしかできない。
「ほんと……なにが、あるんだろうね」
「さあ、な」
 でも、とアンワールが続ける。
「確かにいえることは、オレたちにとって未知なるものが溢れているだろうということだ」
「そうだね」
 未知という言葉に僅かに背筋を震わせて、ティアはそっとアンワールの肩へと甘えるように頭を預けた。

 未知なるもの――それすなわち、当代の預言書の持ち主たるティアが遭遇したことのない事象。
 ゆえに、新たな世界への礎としてもたらされるものとして、預言書に書き込まれていないもの。
 それはもしかしたら、伝えるべき真に価値あるものである可能性を、秘めているのではないだろうか。

 数ヶ月前の何気ないやり取りを思い出し、そんなことを考えたティアは、ゆっくりと目を開いた。
 ランプの明かりが静かに揺れている。
 夜に落ちた世界の片隅、ローアンの街の自宅で、ティアは机の上に置いた預言書をじっとみつめた。
 ありとあらゆるものを記すことのできる膨大な記憶の蔵でもある預言書は、いつもはぎょろりと蠢く表紙の目を、まるで眠るように閉じている。
 現在、無限に広がるそのページの中身は、ティアが暮らし冒険を重ねたカレイラ王国やその周辺地域のみが記されている。
 まだまだ、世界には不思議なことが満ち溢れている。そのことを、ティアは知っている。
 ぎゅ、とティアは己の胸の上で両手を握り締めた。沈痛な様子で眉を顰める表情は、誰しもが胸を痛めるほどのもの。
 そんなティアの傍らへ、蛍のような炎を引き連れ、燃え立つような姿の精霊が降り立つ。
「ティア、どうすんだ?」
「うん……」
 いつものティアからは考えられないような、弱弱しい声が室内に響く。
「ティア。私たちは次の世界の礎となるもの――真に価値あるものを、滅びの日まで探し続けねばなりません」
 煌く雷を纏った精霊がもう一人、机の上にその姿を現した。ひどく穏やかで静かな声をもって、預言書の主へと告げる。
 ティアは、少し色褪せた唇を引き結んだ。
「ねぇ、ティア。そんな顔をしないで? ティアがずっと悩んでいたのは、知ってるわ。もし、お別れが辛いのなら――」
 ティアの肩の上に、森の香りを漂わせる精霊が、ふわりと腰掛けた。そっと白いティアの頬にその手を触れさせ、慰めるようにひとつ撫でながら言いかけた言葉と遮るように、凛とした声が響く。
「でも……私たちは、記さなければ」
 それは底冷えする冬の日の大気にも似て、ティアの耳を震わせる。空いていたもう片方の肩に、冷気が形を成す。静かな面をわずかに曇らせた精霊に、ティアはほのかに笑いかけた。
「うん、わかっているよ。大丈夫」
 ゆっくりと、少女は瞳を閉じた。
「私たちは、いかなきゃいけないもの」
 かみ締めるように、自分に言い聞かせるようにそう言葉にする。
 そうして、次にその目蓋が上がったとき、隠されていた瞳には寂しさを押し込めた強い光が宿っていた。
「明日、アンワールに言おうと思う――旅に出るって」
 これは預言書に選ばれた自分のなすべきこと。
 儚げに笑ってそう宣したその決意を尊重するかのように、精霊たちはただ静かに頷いた。

 

 ひゅう、と二人の間に風が吹いた。
 しばしの沈黙の後、アンワールは首を傾げた。
「旅に、でるのか?」
「……うん」
 ローアン街の片隅、大きな剣を背負った少年を前に、ティアは問い返された言葉を肯定するように、俯いた。
 それは朝一番にここにきて、アンワールの姿を探した自分が言ったことを確認するもの。それなのに、言った張本人であるというのに、きゅうと胸が鳴った。ちくちくとした痛みを誤魔化すように、ティアはバツが悪そうに笑った。
「急に、こんな話してごめんね?」
「いいや」
 ふる、と小さく頭を振ったアンワールが一歩前に出る。
「それで、どこへいくんだ?」
「預言書に記されていないものを探しにいくから――どこへでも、いってみようと思っているの」
 その言葉を受けて、ふむ、とアンワールが腕を組んだ。僅かに思案したのち、口を開く。
「いつ出立する?」
「……明日の朝、いこうかなって」
 しん、と再び沈黙が落ちる。路地の向こうから、朝の挨拶を交わす住人たちのざわめきが響いてくる。無邪気な子供の歓声がひときわ大きく、届いた。
 そして。
「そうか、わかった」
「え」
 少年の口からのそんな言葉を聴いて、ティアは顔をあげる。
 アンワールが、とくに何の感情も浮かんでいない表情のまま、すたすたと歩いていく。
 何かいわれるだろうと――たとえば、どうして相談してくれなかったとか。いかないでくれ、とか――想像していたティアの視線を横切って。
 アンワールはひょい、とそのまま占い横丁への近道から下へ降りていった。
 その姿を、ティアはただ呆然と見送った。
 恋人同士であるというのに、なんだろうこの淡白な反応。
 ぽかん、と口を開けもうすでに姿の見えぬアンワールを追いかけるように、柵に手をかけ下町を覗き込む。だが、そこにあるのは木々の緑と見慣れた風景と、虚しい風があるばかり。
「随分とあっさりしてたな」
「こら、レンポ!」
「あでっ! なんだよ!」
 ことの成り行きをじっと見守っていた精霊たちが、ティアと一緒に下町を覗き込む。
 ティアの心境を察しない、無神経なことをいったレンポの腕をミエリが抓った。
「……これで、いいの?」
 氷のように綺麗な目に悲しげな色を滲ませ、そう問うネアキに、ティアは小さくため息をついた後――笑った。
 だって、仕方ない。引き止めて、もっと話をすればよかったのかもしれないが、アンワールはもう、いってしまった。
 もしかしたら、愛想をつかされたのかもしれない。勝手に決めて、勝手に告げたことを不愉快に思っても不思議じゃない。
 ああ、でも。アンワールはそんなこときっと思わないなぁと、ティアはどこか確信めいたことも重ねて思った。
 でも、自分の前から姿を消してしまったのは、事実だ。
「いいの。まだ話したいことはあったけど。あとでまた会うかもしれないし――帰ってきたときに、会う事だってあるよ、きっと」
「でも、それがいつになるかはわかりませんよ? それこそ、世界が滅ぶときかもしれません。それでも、よいのですか?」
「それは、」
 厳しい言葉を連ねるウルに、ティアは唇を噛んだ。
 よくない。そんなの寂しいし、悲しい。でも、だからといってこれ以上何が言えるというのか。あてのない旅に出る自分を待っていてほしいとも、一緒に来てほしいともいえるわけがない。
 じっと黙り込んでしまったティアの頭を、ウルがそっと撫でた。
「すみません。ティアを、困らせるつもりはなかったのです。許してください」
「大丈夫だって、オレたちがいんだろ?」
「うん、私たちずーっとティアと一緒だよ」
「……そう、ずっと一緒」
 見回せば、精霊たちの優しい笑顔がある。慰める手のひらがある。
 ウルが、その胸に手をあてて言う。
「さあ、いきましょう。まだ他に、挨拶にいかねばならないのでしょう?」
「――うん、いこっか」
 アンワールとの逢瀬を幾度も叶えてくれた、いつの間にかローアンの街で一番のお気に入りになっていた場所に、後ろ髪をひかれるような想いを残しながら。
 ティアは世話になった人々に会うべく、歩き出した。
 そうして、ティアは挨拶をしてまわっていく。
 泣いて別れを惜しむもの、餞別といっていろいろ呪いの品をくれようとするもの、修行を怠らないようにと最後まで忠告をするもの、君への感謝を忘れないといいながら頭を撫でてくれるもの――皆がそれぞれ、カレイラの英雄であり友人であるティアとの別れを惜しんでくれた。
 だが、終ぞアンワールに会うことはなく。それが、ティアの心に癒えぬ火傷のような痕を残した。

 翌日。

 街の皆に挨拶を済ませ、清々しい気持ちで旅立ちの朝を迎えたはずのティアであったが、その心中はいまだにもやもやとしたもので覆われていた。
 考えるのはアンワールのことだ。
 やっぱり、怒っちゃったのかな。
 でも、自分はいかなければならないとも、思う。
 次の世界が皆が住みよい世界となるように、記せるだけのことを記さなければ。
 うん、と決意を新たに身支度をしたティアは、ゆっくりと家をでる。この家の管理はグスタフに頼んである。彼が管理する家に何かしようなどと思うものは、誰もいないだろう。
 住み慣れた家の扉を閉じて、そっと手をつく。
「……またね」
 いつの日か、戻ってくるときにまた自分を迎え入れてね。
 そんなことを呟いて、ティアは顔を上げた。その視線の先には、ティアの家族といってもいい存在がある。
「よっしゃ、じゃあいこうぜ!」
「いいお天気でよかったね、ティア」
 朝から元気なレンポが、ティアに声をかけてくる。ミエリの言葉のとおり、快晴の空の青さを目にとどめながら、ティアは頷いた。
「では、参りましょうか」
「まずは、北……?」
「うん、ワーグリス砦を抜けてもっと北へ――、帝国領内の通行証を皇子と将軍がくれたし」
 ウルとネアキにそう応えながら、預言書や旅の品が入った鞄を掛けなおし、ティアは歩き出した。
 そうして、ローアンの街を後にして東西南北へと繋がる世界の十字路へやってきたティアは、目を瞬かせた。
 朝の光を浴びて、小柄な体躯に似合わぬ大きな剣を背負った少年が立っている。
 砂利を踏みしめる音が聞こえたのか、気配を察したのか、アンワールがティアのほうへと振り向いた。
 もうみられないかも、と悲嘆した恋しい人の姿に胸が高鳴る。あわあわと、ティアは焦って、裏返った声をあげた。
「アンワール!? あ、あれ? お見送りに来てくれたの?」
 旅立ちに涙は流したくないから、と見送りに来ようとする友人たちには断りをいれたのだが、そういえばアンワールはそんなことを言う前に姿を消してしまっていた。
 そのせいか、とティアは思ったのだが。
「いや、違う」
 あっさりと、アンワールはその問いに否定の言葉を返した。
「え、あれ? じゃあ、どうして……」
 そういいながら駆け寄った少年の足元にある荷物に気がついて、ティアはあっと声を漏らした。
「旅にでるんだろう?」
「――うん」
 ティアはか細い声で肯定する。
 もしかして、という希望に思考が支配される。とくとくと、耳元で鳴る音が、その一拍ごとに意識を白く染めていく。
 そんなティアの目の前で。アンワールが、ふわりと笑った。それは優しく暖かな、ティアだけに向けてくれる笑顔。
「昨日はどこへでもいくとティアはいっていたが――最初にいくところは、まだ決まっていないのか?」
「……アンワール、もしかして、一緒にくるの? ……ううん、きて、くれるの?」
 ティアの言葉は想定外のものだったのか、アンワールが目を見開く。そんな当たり前のことを聞くのか、という瞳の色にティアの目頭が熱くなった。
「オレはそのつもりだが。だめなのか?」
 ぶんぶんとティアは頭を振った。
「そんなこと、ない。すごく、すごく……嬉しい! 昨日のことで、嫌われたかと思ってた……」
 心底不思議そうな顔をして、アンワールは首を捻った。
「そんなこと、あるはずがない」
「でも、急にどこかいっちゃうし」
 もごもごと口ごもりながらそういえば、アンワールはますます不思議そうな顔をした。
「明朝出立とティアは言った。だから、急いで旅支度をしなければと思ったのだが」
「そっか……!」
 何も心配することも、不安になることもなかったらしい。そもそも、はじめからありのままに相談していれば、よかったのかもしれない。
「でも……いつ戻ってくるかわからないし、旅先で何があるのかもわからないよ?」
「だが、オレはティアの側がいい」
 それ以外の答えなど持ち合わせてはいないように、アンワールは断じる。
「ティアの居るところがオレの居たい場所だ。だから、」
「うん……」
 こく、とティアは頷く。
「オレは、ティアと一緒にいく」
「うん……!」
 もう一度、大きくティアが頷けば、アンワールの顔が優しく綻んだ。
 そして、滑らかに近づいてきたアンワールがそっと唇を寄せてくる。そっと瞳を閉じて、ティアは受け止める。
 甘い口付けにさらに泣きそうになりながら、夢のようだとティアは思う。
 本当はずっと、こうなればいいと思っていた。
 でも、言い出す勇気もなくて、この国から離れることをよしとしてくれないかもと思えば、それだけで一歩踏み出すことができなくなった。臆病な自分が、情けなかった。
 でも、アンワールはそんな悩みなんて一瞬で吹き飛ばしてしまった。
 砂漠に吹く、熱い風のように。ティアの心の中を綺麗に拭っていってしまった。もう、燻っていた暗いものは微塵もない。
 ふと、唇が離される。そのかわりというように、気づけば手が繋がれていた。
 目の前でアンワールが幸せそうに笑っているから。ティアも、同じように微笑んだ。
「さあ、ティア。どこへいく?」
「……北、」
 砂漠の民であるアンワールには、寒いというのはちょっと大変かもしれないけれど、雪をみせたらなんて言うだろう。そんな楽しい想像に胸躍らせながら、ティアは続ける。
「ヴァイゼン帝国をみて、それから……!」
「それから?」
 幾度も二人で眺めた、世界が目覚める瞬間を思い出す。
「東にいってみよう? 太陽の生まれる場所を確かめにいこうよ!」
 そんな希望に、アンワールは僅かに瞳を見開いて、くしゃりと少年らしい笑顔を浮かべた。
「ああ、わかった。楽しみだ」
「うん!」
 そうして、二人は歩き出す。まずは北へ、そして次は東へ。その先は、今はまだわからないけれど。
 だが、旅は続いていく――それは、世界の滅ぶその日まで。

 

 

「なーんだ、心配して損しちゃったわね?」
 くすくすと、北へと続く道を仲睦まじく歩いていく恋人たちの姿をみつめながら、ミエリがとても楽しそうに、他の仲間に視線を送りながら言う。
「まったく、人騒がせっつーか。やってらんねーっつーか」
「……」
 呆れたように手を振るレンポに珍しく同意しているらしく、ネアキは静かに頷いた。だが、その顔はどこか嬉しそうで。ティアを案じていたネアキの優しい心が、伝わってくるような表情だ。
「まあ、これで憂いはなくなったわけですし、預言書の価値を高めていくのにはよい結果となりました。ティアにとっても、これ以上ない最良の結果です」
 ウルは切れ長の目を細め、本当によかった、と優しい声で呟いた。
「さあ、いきましょ? このままだと置いていかれちゃう」
 悪戯っぽくそういって、ミエリがふわりと空を駆ける。その後にネアキが、レンポが続く。
「つーか、ティアのやつ、オレたちがいたこと軽く忘れてねぇか?」
「……恋は、人の視野を狭く、する。本に、そう書いてあった……」
「これはこれは、ごもっともなお言葉ですね」
 しんがりのウルが、ネアキの言葉に噴出した。
 そして顔を見合わせた精霊たちは、やれやれと笑いあいながら、可愛い恋人たちを追いかけた。