「え……」
今、なんて言われた?
千尋は散り散りになっていこうとする意識を必死にかき集める。
そして深呼吸。
すってー……はいてー……すってー…………。
駄目だ。
ゆっくりと胸を上下させても、耳に届くほど痛い鼓動を繰り返す心臓はおさまらない。手のひらにじっとりと汗が滲むのがわかる。くらくらとしてきた頭を押さえ、千尋はか細く呟く。
「け、結婚ですか?」
私が?
内容を確認するような、もしかしたら聞き間違えかと問うようなその言葉に、狭井君はにこり、と穏やかに微笑んで頷いた。
「ええ。陛下にあらせられましては、先の戦を経て見事この豊葦原を復興させ、今は臣民のためとその身を省みることなく政務に励まれておられます。ですが、その肩に何もかも背負うはあまりにも酷というもの。我らも陛下をお支えするべく日々努めておりますが、誰よりも陛下のお傍で、陛下をお守りし、ともに国を導くにふさわしいお方を迎えられるのがよろしいかと存じます。幸いにも、復興した豊葦原と縁を結び、ともに国を盛り立てたいと願う豪族方のご子息には、陛下とお年の近い方も幾人かおられますゆえ」
すらすらと立て板に流れる水のごとく、狭井君から紡がれる言葉に、千尋はぱくぱくと口を開け閉めするしかできない。
「そこで、僭越ながら家柄、実力、功績、容姿などあらゆる点を私たちで検討させていただきました結果、とあるお一方と陛下をお引き合わせいたしたく、今日はその日取りをお伺いに参った次第です」
要は見合いということだ。しかも、会うだけでは済まない。この見合いは、結婚に直結しているのだ。そこに千尋の意思が入り込む余地が無いことを、狭井君の穏やかだけれど有無をいわさぬ光を宿した瞳が物語っている。ひゅっと喉が鳴った。
「あ、あの!」
「はい、陛下。なんでございましょう」
感情を読ませることのない、狭井君の微笑みに焦りだけが募っていく。政治に関わる者に必要とされるその冷静さが、自分にもっとあったらよかった。だがそんなこと、今思ってもどうしようもない。精一杯、鈍った思考回路を働かせる。
「私、いきなりそんなこといわれても……!」
「ええ、わかっておりますとも。心の整理に時間が必要なのは、女であるならば誰しもに当てはまること。ですが」
歳経た女の声が、冬の嵐もかくやという冷たさを帯びる。その凛とした音に、千尋は小さく身を竦めた。
「貴女は、この豊葦原の王にございます」
「!」
なれば覚悟を決めろと、この老女はいっているのだ。
そんなこと、わかっている。
本当はいつかこんな日がくると、思っていた。自分は女王で、国のために利益となる相手と結ばれることを求められる時がくると、漠然とは考えていたのだ。
だけれど、たった一人を想えば全身が温かく満たされるこの恋心を、どうすればいい。こんなにあっさりと結末が訪れるなんて、予想などできようはずもなかった。
脳裏を過ぎる一人の男の面影に縋るように、千尋は俯いてぎゅっと手を握った。纏う絹が深い皺を刻む。
さらりと零れた金の髪が、傾いたその面を隠すように落ちる。
「少々、戸惑っておられるようですね」
深く、狭井君が腰を折って千尋に臣下の礼をとる。
「それでは、こちらで陛下のご政務の合間に席を設けられるよう、手配させていただきます。改めてご連絡申し上げますので、その日までにお心をお決めくださいますよう」
一度だけ唇を噛み締めて、千尋はすっと顔を上げた。その青い瞳の奥はまだ揺らいでいるが、狭井君を見据える視線の強さは、大将軍として軍を率いていた頃を髣髴とさせるものだった。
「――わかりました。日程については任せます」
「承知いたしました」
退室の言葉を述べて、狭井君は優雅に衣の裾を翻して千尋の前を辞した。
それをぼうっと見送り、その姿が見えなくなってしばし後。千尋は執務机に手をついて、ゆるゆると腰を降ろした。精緻な細工の施された椅子が、ぎしりと小さく音を立てる。
震える両手で顔を覆い、呟く。
「おしひとさん……」
恋しく、愛しく想うひと。
いつ交わしたか判然としないけれど、確かに果すと決めていた約束のとおり、ともに桜を見上げた大切なひと。
名を呼べば、それだけでこんなにも心震えるというのに。
もう咲かせることを許されないこの恋を、手折るには遅すぎる。いつの間にか自分でどうにもできないほどに成長してしまっていたそれを抱えて、千尋は途方に暮れた。
あの日から三日が過ぎ、今日の昼過ぎに狭井君からの連絡があった。
二日後に相手に会うことになったらしい。なんとも仕事の速いことだと思ったが、すでに日も決めてあったと考えるのが妥当なような気がした。
策を張り巡らされ、逃げ場を失った敗走の兵の気分とはこのようなものだろうか。梅雨時の曇天のごとき心が少しでも晴れたらいいのにと思いながら、千尋は溜息をつく。冷たく痺れた指先で、竹簡を執務机に降ろした。
あの日から、千尋は政務に没頭した。復興半ばの豊葦原ではやらねばならぬことはそれこそ山のようにあるのだから、丁度良かった。寝食を忘れたように励む千尋に、幾度か風早や那岐が心配そうに声をかけてきたけれど、やんわりと笑って大丈夫だと言ってみせた。
何か言いたげなその表情を目にすることも辛くて、千尋は執務室に篭もった。集中したいからと嘘をつき、誰も通さないようにと衛兵にお願いした。おかげで、いつもよりずっと静かなこの部屋で千尋は黙々と仕事をこなし続けた。
今朝は西国の視察に出かけていた忍人が戻ってきたという嬉しい知らせもあったのに、身体は動かなかった。今の心境そのままに、全身が鈍く重い。
それに忍人だって、軍の状況確認や報告のための準備などいろいろあるだろう。女王への報告を兼ねた謁見は明日の朝だったはずだから、できれば体を休めて欲しいという思いもある。だけど。
本当は、会いたい。
会って、話したい。
こんなことがあった、あんなことがあった。忍人はどうだったと、他愛も無い話を交わしたい。あんなことがなければ、一番に会いにいってそうするつもりだった。きっとまた、王としての自覚が足りないといわれるだろうけれど。
でも、今あったら泣いてしまう。理由もわからず、顔を合わせただけで泣き出せば、きっと忍人は呆れるだろう。そして、困るに違いない。そうしたくなかった。
どうして、こんなに好きになっちゃったんだろ……。
「……私、馬鹿みたい」
くすん、と鼻を鳴らして目から零れそうになった涙を拭った。
「君は軽率なところはあるが、馬鹿ではないと思うが」
「……!?」
聞きたいと願っていた声が聞こえてきて、ぴしりと千尋は凍りついた。
ゆっくり、ゆっくりと顔をあげる。
いつの間にそこにいたのか。戸口にすらりと立つその姿が逆光のせいもあって、眩しい。思わず目を細める。半月ぶりにみるその顔は相変わらず厳しい。
「おしひとさん……? どうして、ここ、に」
「厳重な人払いの命がしてあったようだが、無理をいって通してもらった。いっておくが、彼ら警備の者に非はない」
その存在を確かめた後、急激に身の底から湧き上がった複雑な感情に千尋は勢いよく立ち上がった。しかし、くにゃりと視界が歪む。眩暈を起こしたと思う前に、身体が執務机に縋るように崩れた。
「おいっ! 大丈夫か!」
「だ、大丈夫……、です……」
一瞬の眩暈を気合で捻じ伏せ、駆け寄ってきた忍人から距離を置くように、執務机を回りこんで逃げる。ぎゅっと胸元を握り締めて、息を整える。
その様子に、忍人の眉がぴくりと小さく動いた。
「嘘をつくな。風早に聞いたぞ。ここ数日はまともに休憩もとらず政務をこなしているそうだな。無理をしているからそうなるんだ」
「でも、やらなきゃいけないこと、たくさんあるから……」
「それで君が倒れていては元も子もないだろう。さっさと休め」
せっかくあけた距離も、長い足であっという間に詰められる。それでもなおふらりと逃げ出そうとすれば、大きな手が二の腕を掴んだ。
「痛っ」
「……あ、すまない」
その力強さに小さく呻くと、忍人が慌てて手を離した。
しん、となんとも気まずい沈黙が落ちる。
何かいわなければならないと思うのに、言葉は喉に張り付いてでてこない。
先に、静かな空間に音をもたらしたのは、忍人だった。
「なぜ、こんな無理をしている」
さらり、と髪を梳いて頬に忍人の手が添えられる。その温かさに、涙が零れそうになる。雫を抑えるように、ぎゅっと目を瞑った。
ああ、でもだめだ。どんなに頑張っても、ぼろぼろと瞼の隙間から溢れた涙は止められない。頬を伝うその熱を感じながら、千尋は観念した。
「わ、私、結婚することになったんです。狭井君から、そう言われて、その」
それは震える声での、千尋にとって精一杯の訴えだった。
「ああ、知っている」
だが、返されたのはとてもあっさりとしたものだった。ひくっと喉を震わせて千尋は目を見開いた。
忍人はいつもの表情だ。あえていうなら、微かに瞳を細めているくらいだ。そんなことが理由なのかと、深い瞳がいっている。
「だが、それとこの事態と何の関係があるんだ」
どうして、どうして。そんな風に言うの。
ぐるぐると千尋の意識が渦を巻く。
「考えたく、なかったんです。なにも、考えたくなかった。だから仕事に打ち込むしかなかった」
頬にある忍人の手を弱弱しく振り払い、千尋は叫ぶ。
「国の利益のために必要な結婚なんだってわかってます! でも、どうしようもないんです! だって、私の気持ちはそこにないもの! 私、結婚なんてしたくない!」
冷静すぎる忍人の切れ長の目が、見開かれる。どうしてそんな、思ってもみなかったという色を浮かべているのか。それがすっと剣呑な様で伏せられていくのを見ていられなくて、千尋は俯いた。
じわりと発せられる、肌を刺すような殺気にも似た忍人の気に当てられてしまいそうだ。
感情のない声が、降ってくる。
「つまり、君は婚姻関係を結ぶ男が好きでないということか」
「……そうです」
「王としての務めのために仕方ないと思いながらも、心は承服しかねると?」
「……はい」
「想う男がいるのか」
「……」
ぎゅ、と唇を噛み締める。俯いたままゆえに、忍人の表情はみることはできないが、きっと物凄く呆れているに違いない。王である自分のわがままを目の当たりにして、もしかしたら失望されたかもしれない。だから、千尋は恐ろしくて顔が上げられなかった。
「誰だ」
「え? ――きゃあっ」
いきなり熱の篭もった声音に、驚いて顔を上げれば急に両の肩を掴まれた。千尋の視界いっぱいにうつる忍人の顔が、怖いくらいに真剣だ。ぎりりと軋んで痛みを訴える肩のことも考えられず、息を呑む。
「君を傍らで守り続けた風早か? それとも、出雲で花を寄越したという常世の皇か」
「ち、違います! 私が好きなのは……!」
あなただと。そう言おうとしたときに、千尋は忍人に抱きすくめられた。
「そんなに……俺と結婚するのは嫌なのか」
そうして、驚きに身動きできない千尋の耳に届いた言葉は、その身をさらに凍らせるに十分すぎる威力を持っていた。
涙も引っ込め何もいえなくなったその様子に、さらに苛立ちを募らせたのか忍人の低い声が響く。
「俺は自惚れていたのか? 君が俺を想ってくれていると、すこしでも心を寄せてくれていると思っていたのは間違いだったのか? あの桜の下での君の微笑には、なんの意味もなかったのか?」
「あっ……」
耳朶に触れた柔らかな感触に、思わず小さく鳴いてしまう。想い人の腕の中は、想像していたよりも優しくはなかった。そのかわり身を焦がすような熱さを千尋に伝えてくる。こんな忍人のむき出しの感情なんて知らない。
「君を、誰にも渡したくない」
こめかみへと、髪越しに押し付けられた唇が震えているのがわかる。
「俺がどれほど、狭井君の言葉に心震わせたかなど、君は知らないだろう。君が名実ともに己のものとなると、そう浅ましく喜悦した俺への、これは罰なのか?」
暴露された忍人の思いもかけぬ情熱に、千尋の全身が火照る。でも、それよりもなによりも、さきほどの言葉を確かめなければ。だって、何かとんでもない誤解が二人の間にあるような気がしてならない。
「あ、あの……私、忍人さんと結婚するんですか……?」
逃がさないというようにきつく抱き締められたまま、千尋はおずおずと問いかける。どこか間の抜けたその問いに、忍人の腕が緩む。
「――待て。君は、誰と結婚するつもりだったんだ」
優しさが加味された戒めの中、そろりと視線を上げれば、呆れもなにもかも通り越したような忍人の顔が見えた。
「え、え、え? だ、だって狭井君は相手が忍人さんだなんて一言もいってなかったですよ?!」
千尋は慌てて言い繕う。数瞬前まで叩きつけられていた痛いほどの気はすでに霧散し、忍人は半眼になっている。
「だってあの時、豪族の子息で、家柄も実力も功績もある人だとしか……!」
言いながら、あれ? と思う。葛城はこの豊葦原でも屈指の豪族だ。ゆえに家柄に何の問題もない。忍人の実力は将軍という座にふさわしく、その力は常世の末端の兵にまで知られるほど名高い。功績はいわずもがな、先の戦を知っているものならば、誰しもが手放しで褒め称えるほどだ。 ……改めていわれなくても、忍人以外にいなかったような気がした。
む、と忍人の眉間に深い渓谷が刻まれる。
「なるほど、な。あの御方らしいといえば、らしいが……」
はあ、と溜息をついて、忍人は説明をはじめた。
「西国に視察にでた日に、俺の一族である葛城へと打診があったそうだ。俺は視察先でその知らせを受け、今朝に改めてそれを受けた。豪族が王と婚姻関係を結ぶゆえ、手間のかかる手順を踏まなければならないらしく、知己であるが互いの顔合わせから始めると聞いている。狭井君から連絡はなかったか?」
「お昼過ぎに、日取りの連絡はありました……けど」
誰が相手かきちんと聞かなかった自分は確かに悪い。勝手に思い込んだのも、情けない。だが、ちゃんと狭井君が言ってさえいてくれたなら、こんな恥ずかしいことにはなってなかった。
千尋の全身から、力が抜けた。怒りたいような気もしたが、それよりも安堵が強い。なんだか、どっと疲れた。
なんだ、なんだ。そうだったのか。
「何を笑っている」
「いえ、あの、何がというわけじゃないんですけど……ふ、ふふふっ、なんだか、おかしくて」
「まったく……人の気も知らないで何を呑気に」
「だって、悩んだのが馬鹿みたい。忍人さんだって知ってたら、こんな」
こんなことしなかったのに。
そういって、千尋は忍人の胸に頬を寄せる。
「――それは、君と結婚するのは俺でもいいということか」
ふるふると頭を振った。ほろりと涙を零して千尋はその言葉を訂正する。
「も、じゃないです。私、忍人さんがいいんです」
泣き笑う顔はきっと綺麗じゃないし、可愛くもないだろう。だけど忍人の目をみるにはそうするしかなくて、千尋は顔を上げた。
「私、王だからって思って我慢しようと思ったけど。でも、どんなに考えても、やっぱり忍人さんじゃなきゃだめなんです。あなたが好きだから、今とっても嬉しい」
ようやく、言えた。好き、ほんとうに大好き。ぽろぽろと、心のふちから零れる想いが、くすぐったい。
「忍人さん。私とずっと、ずっと一緒に……っ、ん……」
ずっと、一緒にいてくださいという願いは、忍人からの口付けに飲み込まれた。
そのまま彼の身体の奥深くへ届いて、彼の身体の隅々、それこそ髪の一筋までも私の想いで満たされればいい――そう思いながら、千尋は与えられる熱を懸命に受け止める。
「はぁっ……」
乱れた吐息をただすように、肩で大きく息をしながら忍人の胸へと再度頭を預ける。するり、と髪が撫でられる感触を心地よく思いながら、千尋は広い背へと震える腕をまわす。
「もう、取消はきかない。この豊葦原では、言葉が力をもつ。君がそう言ったのだから……いや、俺自身が君を絶対に放しはしない。もしも、君が俺を拒む日がきても、自由を与えることは決してない。それでも構わないのか?」
「そんな日が来ることは、ないですよ。だってこんなにも、私は幸せですから」
ぎゅうっと忍人を力いっぱい抱き締める。
おかしいな、さっきまであんなにも不安で苦しかったのに。今は嬉しくて苦しいなんて。
くすくすと笑いを零せば、忍人が千尋の身を起こすように促してくる。顔をあげると、もう一度唇を寄せられた。小さく声を漏らしながらそれを受け止め、千尋は嬉しさのままに微笑む。
「君を、愛している」
「……はい」
しなやかな腕から解放される。そっと、千尋の手を恭しくとって、忍人は告げた。
「改めて言おう。俺と、生涯ともに在ってはくれないか」
言霊が降ってくる。
一生を縛るはずの強さと重さを秘めているのに、それは甘く優しくて、千尋は手を伸ばさずにはいられない。
ふわふわと雲の合間を漂うような、不思議な感覚に戸惑う。身体の芯が痺れたよう。
「二ノ姫――いや、千尋。どうか、俺の妻に」
「……謹んで、お受けいたします」
ふ、と忍人が笑う。それは幸せだと、精一杯の愛情を伝えてくれている。
雪溶けて、春の野に芽吹く命が咲き綻ぶような、ささやかだけれど貴いその笑みを脳裏に焼き付けて、千尋は忍人の胸へと飛び込んだ。
これより一年の後、豪族である葛城出身の将軍と豊葦原の女王の婚儀が盛大に執り行われた。
微笑む女王と、その傍らにたつ夫の仲睦まじいその姿は、豊葦原だけではなく、常世にまで広く伝えられたという。