頬に触れる

 はやる感情を少しでも抑えようとするかのように、千尋は手を動かした。
 腰掛かけている綺麗に整えられた寝台は、ひんやりとした滑らかな感触を伝えてくる。
 惜しげもなく使用されたこれら最上級の絹は、一体どれほどの価値があるのだろう。それは染みひとつなく、皺もない。潔癖なまでの白さで、部屋をほんのりと照らし出す灯りを弾いている。
 準備した者の神経質なまでの心配りが見えてくるようだ。ただ、これから行われる営みによってそれもあっさり乱されるのだろうが。
 そのことを考えれば考えるほど、後ろめたい。はじめてのことというものは、未知であるが故に人の不安を駆り立てる。複雑に入り乱れ絡み合う感情が、千尋の華奢な身体の中で出口を求め彷徨っている。
 心定まらぬことへの焦り、豊葦原と常世の命運を背負った重圧、寄せられる期待は枷のごとく。そして自分の女としての部分が暴かれるだろうことへの恐怖。
 だが、それらよりもなお千尋を戸惑わせるのは、淡い期待だ。
 不安の底で色をもつその感情は、夜空の星のように小さくとも確かに瞬いていた。
 もしかしたら、自分は利害という点からだけでなく、彼に真に必要とされたからここにいるのではないか。ならば、形ばかりの結婚だったとしても、夫婦の信頼と愛情を育むことが出来るのではないか。そう思う心が煌めいている。
 あの、笹百合の谷で交わした言葉、優しい表情と手つきで髪に花を挿してくれた彼の姿が脳裏から離れない。あれが偽りだったとは思えない。思いたくなかった。
 だが、彼は何もいってはくれない。自分も何もいえてはいない。結婚が決まったときも、その後も。まともに会話をすることなく、今日という日は来てしまった。あの日は幻だったかのように、心の距離が少しずつひらいていくようで怖い。
 もう、どうしたらいいのか。どうしたいのか。
 千尋には、すべてわからなくなってしまっていた。深い霧に迷い、あてどなく森を彷徨っているようだ。
 だが、国のためではあるが夫婦となった以上、周囲からはその結果が求められる。だからこそ、こうして綺麗に整えられた寝室が用意されているのだ。ぐるりと視線を巡らせる。この部屋のすべてのものが、このときのために整えられたのだろう。芳しい香も、活けられた鮮やかな花々も。
 それらは、痛いほどに初夜という現実を突きつけている。
 改めてそう思えば、千尋は恥ずかしさのあまり消えてしまいたい気分になる。
 そういえば、こういうときには貞淑な花嫁として、おとなしくされるがままにするべきなのか。それとも、それなりの行動を起こさなければ呆れられるだろうか。どうみても、夫となったあの常世の皇子は色々と百戦錬磨のような気がしてならない。
 だからといって、千尋に何が出来るかといわれれば困る。
 遠い異世界で現役女子高生であった千尋は、周囲の友人などからの情報により、その手のことを知らないわけではない。古臭い言い方をすれば耳年増である。だが、実行できるわけではない。そんな度胸もない。
 これまでのこと、これからのこと――悶々と悩み始めればきりがなかった。
「もう、なるようになればいいわ」
 千尋は早々に降参した。特に今夜のことについては、予想を幾つ立てたところで結果はかわらないだろう。それまでの過程に多少の差異があるくらいに違いない。ならば悩むだけ無駄だ。
 投げやりに呟いた千尋は、ころりと寝台に横になる。
 小さく溜息をついて、千尋はそっと手のひらを胸に押し当てた。湯浴み後に着せられた常世風の薄絹の衣越しに、心臓が早鐘をうっているのがわかる。
 ぎゅっと目を瞑って、時間が過ぎるのをただ耐えようと思ったそのときだ。
「姫様」
「……!」
 控えめにかけられた声に、千尋は勢いよく飛び起きた。まるで見透かされていたようで、焦る。慌てて身を整えて返事を返すべく口を開いた。
「は、はいっ」
「アシュヴィン殿下がお越しにございます」
 目を閉じてひとつ、息を吸う。覚悟を決めるときが来た。
 くっと呼吸をとめて顔を上げる。その顔は、凛とした姫君然としたものとなっていた。
「――はい」
 応えて、扉が音も立てずに開かれる。
 濃い夜の闇が圧倒的な存在を生み出すように、ゆっくりとアシュヴィンが姿を現した。いつものように不遜な笑みが、口元を彩っている。踵の音を響かせて近づいてきたと思えば、流れるような洗練された所作で手をとられる。
 あっと思ったときには、口付けを落とされていた。なんという早業。
 手の甲に灯った他人の体温が、じんわりと肌を侵していく。さきほど精一杯の気丈さで作った顔は、脆くも崩れ去ってゆく。頬を紅色に染めた千尋の様子を満足げにみつめ、アシュヴィンはにやりと笑った。
「我が花嫁殿のご機嫌はいかがかな? 婚儀のあとから寂しくはなかったか? 俺は、お前にまみえぬ間も麗しいその身を思わぬことはなかったが」
「あっ……!」
 すっと腰を引き寄せられて千尋は慌てた。何もかもが手馴れていて、太刀打ちできない。
「さて、無粋な真似はしてくれるなよ? 花は一人で愛でる主義でな。ささやかな艶も垣間見ることは許さん。不興をあえて買いたいというのならば構わんが、それでは豊葦原のためにはなるまいな」
 そう背後に視線を流して言うアシュヴィンにつられ、千尋がそちらをみれば深々と采女たちが頭を下げているのが見えた。すっと静かに閉じられた扉の向こう、いくつかの気配が動くのがわかった。
 その間にも、千尋は強い力が込められているわけでもないのになぜか逆らえない手に促され、アシュヴィンとともに寝台へと歩を進めさせられる。
 そして二人で腰を下ろす。千尋は次に備えて身を硬くした。
 しかし、アシュヴィンはじっと気配を確かめるように扉を見つめるだけだった。探るような瞳は何を思うのか。しっかりと肩にまわされた彼の大きな手の指先に、わずかに力が込められる。
 扉の向こうに何の気配もしなくなった後、アシュヴィンはくつくつと笑いながら千尋の身を離した。
「なかなか用心深いことだ。あの老女はやはり食えん」
 そう独り言のように呟いて、外套を外して無造作に横になる。愛用の剣は、彼の守人のごとくいつでも手の届く傍らに置かれた。
「わざわざ見張りを立てて契りが交わされたか確かめようなどとはな。趣味が悪いにもほどがある」
 いきなり解放された千尋は、ぱちぱちと目を瞬いた。つまり、二人が真に夫婦となったのか確認しようとしていたのか。それは確かに、御免こうむりたい。
 だけど、あれ? あれれ?
 長い手足を思う存分に伸ばし、くつろぐ夫をぼーっと見下ろす。
「えー……と、アシュヴィン?」
「なんだ? あの女の配下ならばもうこないだろう。俺は眠いんだ。静かにしてくれないか」
 利き手を自由にし、もう片方の手を枕がわりにして、アシュヴィンは薄くあけた片方の瞳で千尋をみやった。
 いやいやいや、この状況でここまでお膳立てされているにも関わらず、何もないのかしないのか。それでいいのか。
 いやいやいや、何かしたいわけではないけれど。だけど、だけど。これはどうなの。
 ぐるぐると思考が空回りする。
「……」
 彼が来るまで考え込んだ時間はなんだったのだろう。眩暈がしてきた頭を、千尋は指先で支えた。
「どうした」
「いや、どうしたっていうか……その。なにも、しないの?」
 まだ意識渦巻く千尋からの、力ない問いかけにアシュヴィンは悪戯っぽく笑った。次の瞬間には手が伸ばされて、千尋はその胸元へと引き寄せられる。
「ひゃ……!」
「ほう、お前からそんな風に言われるとは思ってみなかったが。存外、清楚な花は積極的に蝶を呼ぶか」
 態勢を崩した千尋を抱きとめて、アシュヴィンは小さな耳に顔を寄せた。触れるかどうかというところで、その唇を動かし千尋の鼓膜を震わせる。
「期待に添えなくてすまんが、今のところ俺にその気はない」
「え?」
「お前を抱かない、といっているんだ」
 意外な言葉に千尋は絶句した。完全に予想外な出来事に頭が真っ白になる。
 その様子を楽しむように、アシュヴィンは千尋の身を押し遣って笑う。間の抜けた顔を見上げるその瞳は、何を考えているのか読み取ることをさせてくれない。
「なんだ、抱いて欲しいのか? 龍の姫の誘いとあれば、断る理由は俺にはないんだぜ?」
「っ!」
 くすり、と己を覗き込んで零されたその妖しいまでの色を滲ませた男の笑みに、ぴしりと千尋は身体を強張らせた。
 その様子に、くつくつと喉の奥で声を転がしたアシュヴィンは、ゆっくりと目を閉じた。
「冗談だ。もう、眠るがいい。お互い明日からは忙しくなるんだ」
 それに、と続く言葉を千尋は呆然と聞くことしか出来ない。
「もう少しすれば、リブが常世で問題が起きたと報告しにくる手筈になっている。そうしたら、俺はここを出る。日が昇る前に出立できるように、常世に向うための準備もさせている。こんなどうでもいいことで、貴重な休息の時間を潰すのは得策ではない」
「ど……?!」
 どうでもいいと言い切られ、千尋の頭にかっと血が昇った。
 なんだ、この男。あまりにも無神経すぎるではないか。こっちは抱かれる覚悟を決めて待っていたというのに!
 なんだか、アシュヴィンにとって千尋はどうでもいい、むしろそういう対象と見ることさえない、といわれているようだ。
 馬鹿にしている。
 ぐらりと煮え立ちはじめた腹を抱え、千尋は勢いよく身を起こすと掛布を一枚剥ぎ取る。そのまま、部屋の隅へ一直線に移動した。
 ばさりと掛布を広げ身を包むと、ごろりと床の上に横になる。
「おい、何をしている」
「何もしないんだったら、一緒の寝台にいる理由もないでしょう? 私はここで眠るわ。アシュヴィンはそこで休んで」
 顔を覗かせることなく、千尋はなぜか込み上げる悔しさで滲む涙をぐいと拭った。
 アシュヴィンの深い溜息が聞こえた。寝台の僅かに軋む音が静かになった部屋に響く。近寄る気配を拒むように、千尋はさらに身を小さくした。
「まったく……とんでもないな。おとなしいだけの郎女ではないと知ってはいたが」
「っ! きゃぁ!」
 ぐっと身体が持ち上げられる感覚に、千尋は声をあげた。
 掛布ごと千尋を何かの荷のように肩の上に持ち上げたアシュヴィンは、さしたる重さも感じないのか、軽い足取りで寝台へと戻る。千尋は身じろぎし、足をばたつかせた。
「やだっ! 降ろして!」
「ああ、降ろすさ。ほら」
「っ!」
 ぽい、と柔らかな布の上へと落とされた千尋は、衝撃をこらえながら掛布から顔を出した。そこには腕を組んでなんともいえない顔をしたアシュヴィンが立っていた。その顔を精一杯睨みつければ、理解不能だといわんばかりの長い息が漏らされる。
「床で寝ると言い出すとは思わなかった。豊葦原ではそれが普通なのか?」
「そんなわけないでしょ!」
 があっと怒鳴り、ぜいぜいと肩で息をした千尋は、見下ろしてくる視線に耐え切れずに寝台へと突っ伏した。アシュヴィンがその傍らに腰を下ろす。その拍子に、ぎしりと小さな音とともに寝台が揺れた。
「俺はお前に何もしないし、じきに部屋を辞するといっているだろう。眠るなら、ここにしろ。手間をかけさせるな」
「……」
「豊葦原の姫を床の上で休ませたなどとなったら、なんといわれるか。王族ならばわかるだろう。お前の立場と価値を良く考えろ」
 高価なお飾りである妃。ただ、そこにいるだけでいいのだと、それ以上のことは求めていないと言外に伝えられているような気がした。
 ならばその通りでいればいいのではないかと、冷えていく心が囁く。
 ゆっくりと顔を上げる。アシュヴィンはじっと千尋の挙動を見ている。こんなに近くにいるのに、彼の思考に触れられないもどかしさが、ちくちくと胸を刺す。いや、己の心定まらぬゆえに、通じあえないのかもしれない。
 いつか、わかる日がくると千尋はまだ信じたかった。
 そうだ、自分の気持ちもはっきりといえない自分が、今の彼に何がいえようか。きっと、大丈夫、大丈夫だ。この先、わかりあえる日もこよう。
 そう、まじない事のように心の内で繰り返し、挫けかけた想いが表にでないように、瞳を伏せる。
「……もう、いいわ。何もないなら、それでいいもの。休みたいって言っていたのに、アシュヴィンを困らせてしまったね……」
「多少驚いたがな。なに、お前も疲れているんだろうさ。いろいろあったからな」
 大きな手が伸びてくる。無意識のうちにびくりと肩が跳ねた。それを気に留めず髪を撫で、そして視界を覆うその手の平は優しくて温かい。
 ふるり、と心の奥底が戦慄く。妙な期待が、また心の奥底で煌めいた。
 なんだか、急に身体が重くなってきた。思考が鈍っていく。緊張の糸を、ことごとく断ち切られてしまったせいだろうか。
「ゆっくり、眠れ」
 耳朶に染み込むアシュヴィンの声が心地よくて、なんだか泣いてしまいそう。
 千尋は己の瞳が潤んでいくのを自覚しつつ、意識を闇へと沈めた。

 

 眦からひとつ涙を零して、落ちていくように眠りについた千尋を見下ろし、アシュヴィンは髪をかき上げた。
 初めてまみえたあの戦場で、一目で心奪われた少女を自分は娶ることができた。政略結婚とはいえ、こんな僥倖この先の人生でもう一度訪れることはないだろう。
 だが、扱いかねるとはきっとこんな状態のことを言うのだろう。あまりに清らか過ぎて己の欲をぶつけることが、酷い背徳的な行為に思えてしまう。それに何より、一度でも手を伸ばせば、何もかも忘れて溺れてしまう予感がした。それはまずい。
 そうしたら、きっと千尋は泣くだろう。覚悟を決めた蒼い瞳の奥に、たしかに躊躇いがあったのだから。
 愛しているとありのままに伝えれば、それも少しは和らぐだろうか。だが、そうするには心を曝け出すことは弱みをみせることだと学んだ、王族の気質が邪魔をする。友情や愛情、そういったものに無縁だったせいもあって、とるべき行動もかけるべき言葉も浮かばない。
 いつも、笑っていて欲しいと思うのに。どうしたら、いいのか。
「どうもこうもない、か。俺は俺のすべきことをするだけだ」
 そっと柔らかな頬に触れながら、一人ごちる。
 戦を終らせることができたなら、そのあかつきには改めて告げればいい。今は、あまりにも自分も彼女もその立ち位置が不穏な気配で満ちている。それまで、真綿にくるむように、その身を大事にすればいい。
 戦場に彼女がなるべく出ずにすむように、その身を危険に晒さぬように、常世の情勢をこちらへ傾け、できるだけ兵を集める。そして、この戦いに勝利してみせる。
 それまで、千尋は待っていてくれるだろうか。否、逃がすつもりは毛頭ない。
 良く知った気配が部屋に近づいてくる。どうやら、時間のようだ。コツコツと小さく扉を叩く音に促され立ち上がる。
「失礼いたします、殿下。常世での地方豪族からの兵の貸与について、問題が起きました。先方が直に殿下との面談を望まれております」
 打ち合わせどおりのリブの言葉にあわせて、アシュヴィンは答える。
「わかった。かの軍はこれからの戦にどうしても必要なものだ。すぐにも常世に向うこととしよう」
「御意」
 これで、今夜結ばれなくとも角は立つまい。夫は常世のため、ひいては豊葦原のために、姫より先に戦の只中へと戻るのだから。
 放り出していた外套を拾い上げ、纏う。腰に剣を帯びて眠る千尋を見下ろした。
 ふわりと、誘われたような気がした。金色の髪より漂う香に、頬に影を落とすその長い睫に、穏やかな寝息を漏らす色づいた唇に。
 起こさぬように、自分らしくないほどの注意を払い、千尋に覆いかぶさってアシュヴィンは微笑む。
「――これくらいは、構わぬだろう? 俺の、花嫁」
 そっと、千尋の頬に触れる。指先でなぞり、その感触に目を細め、最後に静かに口付ける。
 甘く、柔らかな最上級の砂糖菓子のよう。いつまでも、そうしていたいという心を押し退け、顔を離す。その安らかな寝顔をまぶたの裏に焼き付けるように、一度、瞳を閉じてアシュヴィンは身を起こした。
 外套を翻し、影を引きずりなら扉へと向うその顔に、戦いに向う男の決意と覚悟が過ぎる。だが、それもいつもの不遜な笑みの下へと、巧妙に隠されていく。
 開かれた扉の軋む音に、その背への呼びかけがかき消される。

「アシュヴィン……」

 眠る千尋の薄く開いた唇から漏れた、小さくか細い切なげな声が、己の名を紡いだことなど、アシュヴィンは気付かず――扉は無常にも閉じられた。

 そして、二人の距離はまたほんの少し開いたのだった。