指を絡ませる

 夜の帳に包まれた静かな天鳥船の一室に、サザキはいた。
 そこは最小限に明かりが落とされ、寝台の上には荒い呼吸を繰り返す部屋の主人が横たわっている。
 遠夜の薬のおかげで一命を取り留めたとはいえ、全身に廻った毒がすべて消えるまでにはまだ時間がかかるだろう。それまで彼女の身体が苛まれると思えば、苦々しい溜息が零れた。あの橿原の宮で矢を射掛けられた千尋の姿を見たとき、心臓が止まるかと思った。
 ぎり、と歯を噛み締めて項垂れる。
「姫さん……すまねぇ」
 どうして、守れなかったのか。その身に降り注ぐものすべてから、この翼を失っても守りたいと心から思っていたというのに。惚れた女が傷つくのを許してしまった情けなさに、消えてしまいたくなる。
 ふと自分の視界の片隅にある、彼女の手に目が止まる。恐る恐る、そっと己の手を重ねた。
 毒によって熱をもった華奢な手。
 日に焼けた自分の肌とは違う、滑らかで白い肌がほんのりと光を弾きながら覆っている。
 節くれだった自分の指とは異なる細く長い指。その先端には、小さな爪が繊細な飾りのようについている。
 今は生気が失われ少しだけかさついてるものの、年頃の女の子らしい手だ。
 だけれど、ただ安穏と生きる女にはないものがある。
 指は隠しきれない戦の傷跡に塗れ、手にした左手の親指付近や手のひらには弓を引き続けたゆえに皮膚が角質化して、盛り上がった箇所がある。
 治ったけれど薄く跡が残ったもの、治りかけの痛々しい赤い傷跡。大きなものもあれば、小さなものもある。
 気高い彼女の精神が、自身を安全な場所へ置いたままで、兵たちを前線に送ることを拒むために負った傷ばかりだ。
 知らず眉間に皺を寄せたまま、サザキは慈しむようにそのひとつひとつを優しくなぞった。
 こんなになってまで、なお国のため、民のためにと戦っている。
 一兵たりとも捨て駒と考えず、見捨てず、供に戦う仲間だという彼女の言葉に嘘偽りはない。だからこそ末端の雑兵までもが姫のためにという誓いとともに、ここまで団結してこられた。
 姫は貴い身分でありながら、己の身を厭わぬ尊い人柄をもつ、王としては優しすぎるお方。その分け隔てない心、味方を純粋に信じる心は、つけ込まれる隙になり得るだろうと。そう言っていたのは誰だったか。
 本当にそうだ。
 今回だって、信じていた者に裏切られた。
 戦に乗じ、誰よりも頑張っているこの少女を亡き者にしようとした輩は、戦の相手である常世ではなく豊葦原の者だ。
 ああ、今すぐにでも千尋をこんな目にあわせた奴を探し出して、八つ裂きにしてやりたい。
 苛立ちよりもなお深く暗い、負の感情がどろりとした重さで腹の内で蠢く。
 橿原へ忍び込んだ昔、あんなにも痛い目にあったというのに、どうしてこのような事態もありえることに思い至らなかったのだろう。己にさえも腹が立つ。
 自分が、あの作戦を提案しなければよかったのだろうか。
 いや、そもそもなぜ彼女は戦わねばならないのだろうか。
 ふと那岐から聞いた話を思い出す。
 常世に豊葦原が滅ぼされた日、炎とともに姿を消した二ノ姫は、長らく時空を隔てた遠い異世界に身を隠していたという。
 あっちで平穏に過ごしてたのに、どうしていまさら――そう呟いて背を向けた、那岐の言葉に見え隠れした苦々しい感情を覚えている。きっと、那岐も戦に身を投じる千尋の身を案じているのだろう。
 想像することすらできない異世界だが、そこで生きていたならば千尋はこんな風に毒に苦しむこともなく、こんな傷だらけの手になることもなかったのは確かだ。
 そもそも、常世が豊葦原を攻めることがなければ、彼女は大国の姫として戦も知らず、生きていられたのではないか?
 姫を慕いその力とならんとするもの、国を再興せんと武器をとったもの、様々な思いを抱いて集う兵たちを大将として率いることもなく、人の血でできた大河を渡るような真似をする必要もなかったのではないか?
 これが、天より与えられた彼女の運命だとしても、神に選ばれたという身だとしても。あまりにも、酷だ。
 過ぎてしまったこと振り返っても、起きてしまったことを悔やんでも、現実がどうにかなるわけではないと知っているのに、サザキはこんな運命を用意した神を呪いたくなった。
 そう思った瞬間、さらにどす黒く渦巻く感情が胸元までせりあがる。それは、千尋に知られたくはない類のものだ。若い頃ならいざ知らず、この歳になればそれを抑える術も心得ている。そのはずなのに、考えれば考えるほど沸きあがる感情を持て余す。
 いっそのことこの感情に従ってすべてを焼き尽くして、彼女を浚っていってしまいたい。
 豊葦原の複雑に絡み合った糸のようなしがらみを滅ぼして、辛く厳しい常世との戦もすべて忘れて、どこか遠くへ二人でいってしまえたら。
「……ハッ……重症だな、オレも」
 するり、と指を絡ませる。折れそうに細い千尋の指先にそっと口付けを落として囁く。
「そんなこと、姫さんが望むわけもねぇよな」
 親を失い、姉を失い、国を失い。そして残された、たった一人の姫のこんなにも細い肩にあらゆる決断が迫られている。もし、それを違えれば、多くの命が失われることを知りながら、全てを背負い懸命に前に向って歩むその姿を、傍らで見続けた自分にはわかる。
 きっと彼女は、逃げることなどしない。
 その真っ直ぐな青い瞳に心を射抜かれ、全身を震わせた感覚を覚えている。凛として立ち向かう千尋はなによりも美しかった。だから、ついていこうと決めた。
 目を閉じれば、歳相応のあどけなさを残す笑顔で日向の一族に何の偏見も持つことなく接してきた千尋と共有した時間を思い出す。
 あの輝きを失わせたくない、あの笑顔を曇らせることはしたくない。
 でも、もう決壊してしまいそうだ。衝動が臨界点を突破する一歩手前まで来ている。
 サザキは千尋の指を絡めとる己の指先に力を込め、額を押し付ける。
「姫さん、はやく……」
 悲痛な声で請う。幾度願えば、彼女は目を覚ますだろう。
「はやく、目……開けてくれ……」

 どうか、どうか。
 この想いが暗い炎となってすべてを焼き尽くしてしまう前に。
 雄大で懐深い海のようなその青い瞳で、この心を静めて欲しい。

 ゆらりと緋色の髪を揺らして、サザキはひたすら祈り続けた。