口づけを落とす

 しまった!

 唇に指を押し当て、見開いた青玉の瞳をみるみるうちに潤ませていくさまをみたアシュヴィンは言葉を詰まらせた。
 己の、相手を慮らなかった行動を後悔しても、もう遅い。
「あ……あ、アシュヴィンのばかぁぁぁぁぁ!」
 熟れた果実顔負けなほど赤らんだ顔をくしゃくしゃにして、千尋は叫ぶ。
 それはアシュヴィンの耳を貫き、今二人がいる中庭の東屋から宮全体に響き渡るような苛烈さだった。
「おまえ、またっ……、お、おい! 待て千尋!」
 その声量にひるみつつも、馬鹿、という発言を諌めようとした次の瞬間、ぱっと千尋はアシュヴィンの膝の上から飛び降り駆け出した。
「嘘吐きっ! もう知らないんだから!」
 衣の裾を翻し、あっという間に庭の木々の合間へと消えてしまった愛しい妻に向けて伸ばした手が、力なくぱたりと膝の上に落ちた。
 アシュヴィンはやってしまったと頭をかきむしりたくなったが、皇の威厳を保つためにも堪えた。
 もうすでに、この時点で何もかもが地に落ちているような気がしたが、気にしないことにする。傍らにいるのは信頼のおける部下であるし、口も堅い。だが、慣れ親しみすぎた気配であるが故に油断していた。
「や、今のは陛下がお悪いでしょう。先日お約束したばかりでしょうに」
 背を向けて素早く両手で耳を覆い、繰り広げられた光景と千尋の叫びを華麗に回避した側近を、アシュヴィンはぎろりと睨みつけた。
「そのような怖い顔をなされましても、私にはなんともしがたいですよ」
 何事もなかったように卓へ向き直り、お茶を淹れ続けるリブの精神力は感嘆に値する。
「……はぁ」
 額に手を当てて、空を仰ぐ。自分はいつからこんなに情けなくなってしまったのか。千尋のことになるととたんに調子が狂ってしまう。
「それは陛下が妃殿下のことを心から愛しておられるからでしょう」
「……俺の心を読むな」
「やや、失礼いたしました。ですが、陛下のお顔がそういっているように思えましたので」
 微笑ましい、といわんばかりの穏やかな笑顔にアシュヴィンはもうひとつ溜息を落とした。事実であるだけに、反論の余地もなかった。
「席を外すぞ」
「御意。そうそう、妃殿下ならきっと池のほとりですよ」
 リブの助言に返事をすることなく、アシュヴィンは外套を翻して東屋を後にする。
 できればお茶の冷めないうちにお戻りくださいね、という応援ともとれそうな言葉を背に受けて。

 時間は少し遡る。

 戦が終わり常世に恵みが戻り、緑が赤茶けた大地を覆うようになってすでに久しい。
 しかし、未だ戦の爪あとは残り、皇となったアシュヴィンを蹴落とそうと狙う権力者も多い常世での政は、多忙の一言に尽きるものだ。
 そんな日々の中で、リブの茶を楽しみ、緑豊な庭を眺めるという休憩時間は貴重なもの。今日も、ほんの一握りの時間を味わう予定――というのは建前で。
 本当のところは腹心である部下から、内密の報告を受けるべく場所を設けているに過ぎない。
 アシュヴィンは涼しい風が通り抜ける東屋に設えられた柔らかな椅子に身を置いて、茶を淹れるリブからの世間話風に聞こえるよう細工された報告を聞きつつ、次の政務時間での仕事の順序を頭の中で組み立てていた。
 そこへ黄金の小鳥が舞い降りた。
「アシュヴィン! ここにいたのね」
 柔らかな陽の光に金糸よりもなお鮮やかな髪を煌めかせ、いつもは凛とした青い瞳を嬉しげに綻ばせて、心地よい囀りで己の名を呼ぶ愛しい小鳥。
 誰にもその姿を見せたくないと思うほど、大切な存在だ。
 自分だけを見つめ輝く笑顔で駆け寄ってくるその姿に、くらり、とした。触れたいと、思ってしまった。少し疲れていたのだ。癒しを求めても、仕方がない。
 だから。
「あのね、アシュヴィン。私ね……」
「千尋」
「えっ、わっ!」
 傍らに立ち何か言いかけた千尋を、有無を言わさず引き寄せる。態勢を崩した千尋がアシュヴィンの膝の上に落ちると同時に、その細い顎を掴んで唇を寄せた。
「っ! んーっ!」
 驚きは一瞬。次にくるのは可愛らしい抵抗。己の胸元を叩く手を気にも留めず、アシュヴィンは深く唇を合わせ続ける。千尋の身体から段々と力が抜けていくのは、諦めたのか、それとも与えられる心地よさに身を委ねたのか。
 どちらでもいいと、アシュヴィンは思った。そして、思う存分その柔らかさと甘さを味わい、熱が溶け合った頃に唇を離す。
 千尋はとろん、とした瞳のままゆっくりと俯き、今まで触れあっていた己の赤い唇を白く細い指でそっとなぞる。その様は女の色香を十分にもっていて、アシュヴィンはもう一度触れたくなってしまった。
 だが、状況を把握していくにつれて瞳に戻り始めた力強い光が、それを許さない。
 きりり、と赤くなった眦が吊り上っていく。
 そしてようやく妻と交わした約束を、夫が思い出した頃。
 彼女の怒りの雷が轟いた。

 リブの存在をわかっていながらも、その馴染み深さに油断した。これでも気をつけていたというのに。
 痛むこめかみに指をあて、ゆっくりとアシュヴィンは周囲を見渡した。深く静かな池の水面を渡る風が、美しく咲き誇った蓮の花を揺らしている。巡らせた視界の片隅に、ちらりと光が走った。
 いた。
 池のほとりにある大樹の下、両膝を立ててそこに手を着いて、額を押し当てている。さらりと零れた髪の合間からみえる耳と首筋は、ほんのりと赤く色づいている。
「千尋」
 努めて優しい声で名を呼ぶと、ぴくりと肩を震わせる。しかし、顔を上げることはなくさらに縮こまってしまう。
 まるで、海底で真珠を守る貝のようだと思う。
「千尋、すまなかった」
 その傍らに膝をつき、謝罪の言葉を述べると勢いよく千尋が顔を上げた。
「約束したのに!」
「ああ、だからすまなかったと……」
「ぜんっぜん反省してないでしょう! 約束してからこんなこともう何回あったと思ってるの!?」
「……」
 ぐうの音もでない。
 アシュヴィンの脳裏をよぎる約束の言葉と、それを反故にしてしまった数々の行い。

 この常世の若夫婦が交わした約束。
 それは――人前では口付けその他千尋が恥ずかしがることをしない! ――である。

 ゆえに、リブのいたあの東屋で急に口付けを落とされたことに、千尋は憤慨しているわけだ。
 だが、夫としてはここまで拒否される意味がわからない。恥らう姿も大層好いのだが、そこまで気にすることだろうか。
 アシュヴィンにとっては、麗しい奥方にあわよくば群がろうとする虫たちへのいい牽制であるというのに。
 そっと千尋の髪を撫でながら、アシュヴィンは本日三度目のため息をついた。
「しかし、なぜそうも頑ななんだ。俺に触れられるのがそんなに嫌なのか」
「嫌なわけないでしょ!」
 売り言葉に買い言葉ではないだろうが、勢いに乗ってそのまま千尋の口から飛び出した台詞に、アシュヴィンは柄にもなく驚いて目を瞬いた。
 今度は千尋が、しまったと息を飲んでいる。
「ほう」
 随分と人の悪い笑みを浮かべているだろうと自覚しつつ、千尋の両頬に手を添えて身を寄せる。俯こうとする千尋の動きを阻止しつつ、瞳を覗きこもうとすれば視線を逸らされた。頬を染め、いやいやと首を振る千尋のなんと可愛いことか。
「や、だから、そうじゃなくて……! 時と場所を考えてって言おうと……! ア、アシュヴィン!」
 ちゅ、と軽い音をたてて頬に唇を落とされて、千尋が真っ赤な顔で慌てふためく。
「なんだ。今は構わんだろう。ここには俺たちしかいない」
「だ、だめ! 私まだ怒ってるんだから!」
「だが、俺は口付けたい」
「~~っ!」
「できることならいつでも触れたいし、言葉にしたい。どちらかだけでは、この想いがすべて伝わらない気がするんだ」
 白く秀でた額に、震える金の睫に、紅の刷かれた頬にもう一度、次々と唇と落として囁く。
「機嫌を直してくれないか、愛しい奥方殿。その美しい花のかんばせが曇っていては、星のない海をゆく船のように、俺はどこへ向えばいいのかわからなくなる。どうか、この哀れな夫に慈悲を与えてくれないか」
 うーっと唸っていた千尋が、そろりと視線を上げる。
 潤んだ青い瞳をできるだけ厳しくしようと努めるその様子に、アシュヴィンは噴出しそうになるのを必死に堪えた。
 ああ、どうして自分の花嫁はこんなにも愛らしく、自分を惹きつけてやまないのか。戦場でまみえたあの凛々しい姿との懸け隔たりが、余計そう思わせるのかもしれない。この姿をみることができるのは自分だけなのだと思えば、優越感まで沸いてくる。
「……ずるい」
「……なにが?」
 すっと滑らかな動作で顔を近づけて、互いの吐息がかかるほどの距離で問う。
 深く青い瞳には、なんともいえない自分の顔が映っていて、こんな情けない顔は千尋にしかみせられないな、とアシュヴィンは思う。そこにいるのは、ただの恋する男でしかない。一国の皇が政略結婚で嫁いできた一人の少女に、こんなにもいれこんでいるなどと、誰が思おうか。
 ゆるりと千尋の瞼が降りていく。それにあわせてゆっくりと距離を縮めていけば、完全に瞳が閉じられる瞬間に吐息と一緒に言葉が滑る。
「そんな顔されたら、怒れないよ……」
 くっとアシュヴィンの唇の端が持ち上がる。
「――愛している」
 アシュヴィンの言葉に、長い睫を震わせてくすぐったそうに千尋が微笑む。
 勝った。
 そう思うと同時に、負けた、とアシュヴィンは思った。
 こんな風に己に膝をつかせ許しを請わせ、砂を吐くほど甘い言葉を己から引き出すことができるのは、この少女だけだ。
 だが、それもいいだろう。
 彼女が、自分を許してくれるなら。
 触れることを許してくれるなら。
 愛の囁きを、はにかみながらも受け取ってくれるなら。
 そうして、この想いに応えてくれるなら。
 それはとても、幸福なことに思えた。

 やはり俺の負け、か。

 常世の皇は楽しげに小さく笑い、この世で唯一愛する己の妃に甘く優しい口付けをひとつ、落とした。