髪を梳く

 本日は日曜日。
 自室で昼寝を満喫し、居間へと降りてきた那岐は一瞬、ぽかんと口を開けた。引きつる頬もそのままに、そろりと近づく。
「無防備すぎやしないか……?」
 那岐は呆れの色を隠しもせず、小さく呟く。
 緑の視線の先には、お気に入りの部屋着のままで気持ちよさそうに夢の世界へと旅立っている少女が一人。
 ころり、と居間のソファの上に寝そべっている千尋を見下ろして、那岐は眉間に皺を寄せた。
 キャミソールワンピースの細い肩紐が、柔らかな曲線を描く肩に申し訳程度にひっかかっている。短い裾からは、眩しいほどに白い足がすらりと伸び、華奢な身の上を金の髪が幾筋もの流れを作り、彩っている。
 まろやかな曲線を描くその肢体に、千尋の女としての成長が見える気がして、那岐は額に手を当てて溜息をついた。
 家族同然の自分と風早しかこの家にいないとはいえ、これはあんまりではなかろうか。年頃の娘としての自覚に欠けている。
 あの、年中春の陽射しが差し込んでいるのではないかと疑うような天然気味の風早が、純粋培養しているといっても過言ではない千尋だから、仕方ないのか。それとも自分も風早も男としてはみられていないのか。信頼しきっているのか。
「なんか、全部当てはまりそうだ」
 自分の思考に自分で突っ込みをいれて、那岐は千尋にもう一歩近づいた。
 なんとなくそこ以外に手をかけるのが躊躇われたので、仕様がなくそっと手のひらを薄い肩に乗せた。
「千尋、千尋」
「……すぅ」
 そんなにも眠りの淵は心地よいのだろうか。ささやかな声と振動では千尋を呼び覚ますことはできなそうだ。
 ならば、ともうほんの少しだけ力を込めて、揺さぶった。
「千尋!」
「ふあっ!?」
 流石に起きざるを得なかった千尋が、勢いよく頭をあげた。
「痛っ!」
 長い髪を自分の腕の下に巻き込んでいたために、髪が引っ張られて千尋は小さく悲鳴をあげた。そうして、己の状況を把握したのか、ゆっくりと腕をどかして髪を払う。その拍子にふわりと舞った金の髪に、那岐は思わず目を細めた。コントのようなその行動に呆れるを通り越して感心しそうになる。
「なにやってんの」
 よろよろと身を起こし、若干涙目で頭を撫でながら千尋は那岐を見上げてくる。
「だって……那岐が急に起こすから……」
「あのさ、今日の晩御飯担当は誰だったっけ? そろそろ取り掛からないと風早帰ってくるよ」
「あっ!」
 教職員研修のために出かけている風早のことを思い出したのか、千尋は飛び起きた。
 その千尋の頭を見て、那岐は口元に手を当てて噴出した。笑ってはいけないのかもしれないが、ぴょこぴょこと跳ねた髪の毛先はあっちこっちばらばらな方向を指している。
「ちょっと、千尋。髪、ひどいことになってるよ」
「ええっ、うそっ」
「ほんと」
 慌てて手で髪を抑える千尋の姿に、笑いを堪えられない。
「ほら、座って。まだ時間、少しくらいならあるから」
 ソファと反対側のスツールに千尋を促し、那岐はテーブルの上の籠にいれられていた櫛を手に取った。
 その行動に驚いたのか、千尋が目を瞬かせて口をぽかんとあける。物珍しいものをみるようなその視線に感じるものがあって、小さく眉を潜めた。
「なに?」
「だって、那岐が優しい……あ、きのこ料理が食べたいの?」
 ちょっと仏心を出すとこれである。普段の自分の行いゆえかもしれないが、素直に好意を示したのに疑われるとは世知辛い。やる気が急激にダウンするではないか。
「笑ったお詫びと思ったんだけど、嫌ならいいよ」
 ぽい、と櫛を放り出し背を向けようとすれば、千尋がシャツの裾を掴んで引き止める。
「ごめん、ごめん、是非お願いします」
 何がそんなに嬉しいのかわからないが、にこにこと笑ったまま千尋はすとんと小さな椅子に腰掛けた。
「まったく、最初っからそうすればいいのに」
「はーい、ごめんなさーい」
 ソファの上に落とした櫛をもう一度手にして、千尋の背後に立つ。
 まずは毛先から。ゆっくりと、絡み合う絹糸のような髪を傷つけないよう注意しながら櫛をいれていく。
 風早ほどではないが、那岐も幾度か千尋の髪の手入れは手伝ったことがある。もうこの歳であるから、することはほとんどなくなっていたが。指の間を滑る心地よい感覚が、その時のことを思い起こさせた。
 梳る度に艶を増し、整っていく癖のない髪が背に流れる様は黄金の滝のようだ。
「なんか、懐かしいなぁ。昔はこうやって梳かしてくれたことあったよね」
「……そうだったっけ?」
 とぼけてみるが、千尋はそれに気付いているのかいないのか。うっとりと目を閉じて身を任せている。
「うん。風早がいないときとかやってくれてたよ」
「千尋が不器用すぎてみてらんなかっただけだろ」
「ひどいなぁ」
 他愛もない会話を交わしながら、丹念に櫛を通す。そうして、ほぼ整え終わった頃。
「――那岐の手って、すごく気持ちいいね。私、好きだよ」
 ぽつりと零された一言に、一瞬手が止まる。ぐっと言葉に詰まる。
 どうしてもこうも、人の心を無意識にかき乱すのか。自覚がない分、たちが悪い。

 「好き」なんて言葉、軽々しく口にしないで欲しい。
 心の奥で密やかに、だけれど確かに息づく想いを呼び起こすような真似を、しないで欲しい。
 僕は、誰かを大切になんて想いたくないのに。そんな想いに気付きたくなんてないのに。

 だが、自分の意志を無視し、じんわりと頬を侵し始めた熱は止められない。はらいせに、ぺちりと金色の頭を軽く叩く。痛い、という小さな呟きは聞こえなかったことにした。
「風早とたいして変わらないだろ。はい、おしまい」
 余韻に浸っているのか、名残り惜しいのか。ゆっくりと己の髪を撫でていた千尋が、顔をあげてふわりと笑った。
「那岐、ありがとう」
 その笑顔に、強固な心の扉の向こうがざわめく。ここを開けろとわめく声を押し込めて、小さくいつもどおりに笑って見せた。
「――どういたしまして」
 少しだけ掠れた声に滲む感情は千尋には届かない。届いて欲しいとも、那岐は思わない。
「さてと、そろそろご飯作るね。那岐の好きなもの作るよ?」
「なんでもいいよ」
「なんでもいいが一番困るの! 一緒に考えてよ。んー、たとえばー……」
 座ったまま、本日の献立候補を指折り挙げていく千尋の頭を、するりと撫でた。もう一度。今度は指をもぐらせて、するり、と。
 千尋は那岐の行動に何も疑問を抱かない。慣れ親しんだ人の行為の裏を読むことはない。それでいい。
 豊葦原も知らず、自分の運命も知らず、この想いにさえ気付くことなく――平穏な日々を過ごして欲しい。
 名残り惜しいと思う心をどこか遠くへ追いやり、重力に従い手から逃げ出す髪を見送った。
「じゃあ……きのこスパで」
「またそれ?!」
 悩む千尋に一筋の光明を与えてやったというのに、大げさに驚かれた。そんなリアクションを返したくせに、千尋はキッチンへ慌しく向う。やっぱりきのこ料理が食べたかったんだね、という呟きを零しつつ冷蔵庫の中の材料を確認している。リクエストに応えてくれようとしているようだ。
 そんな千尋の後姿に込み上げる温かな感情が、これ以上どうか育たぬように。
 そう思いながら、那岐はソファに身を投げ出した。