風吹く黄金の地

 眠気を訴える瞼を叱咤して、千尋はきゅっとアシュヴィンの外套を握った。頬を撫でてゆく、すこし肌寒い風は夜の気配を纏っている。
 とろとろと心地よいまどろみの淵にあった千尋を問答無用でたたき起こした張本人は、黒麒麟を華麗に駈って空を行く。
 その腕の中、身を覆うように包み込む外套からは、アシュヴィンのお気に入りの香と彼自身の匂いが混じりあい、ふわりと漂ってくる。寝不足と久しぶりの彼の匂いに、くらくらしてきた頭を抑えて、千尋はすぐそこにある端正な顔を見上げた。
 ほとんどが外套に覆い尽くされた視界の中で、唯一みえるもの。
 僅かに明るくなってきた空を背景に、前だけを見据える夫の顔に知らず胸が高鳴る。
 こうして、アシュヴィンの顔をみるのはどのくらいぶりだろう。十に満たぬ夜を越えたような気がするけれど。
 西部地方の復興の指揮を直々にとるためにでかけていたはずなのに、いつ戻ったのか。
 身体は大丈夫なのか、疲れてはないのか。アシュヴィン自ら出ねばならなかったほどの問題は、無事に解決したのか。
 聞きたいことはたくさんあるのに、わずかに焦りの色が見え隠れする赤い瞳を見てしまえば、その問いを口にすることが憚られた。
 だからこうして、千尋はおとなしくアシュヴィンに抱かれ、未だ明けぬ空を移動しているのである。
 結婚してからというもの、アシュヴィンの行動に驚かされることは度々あったが、今日は一体どうしたというのか。いつになく強引な気がして、千尋は内心で首を捻った。
「降りるぞ」
 ぼんやりとそんなことを考えていると、ふいに身体が重力の支配から僅かに逃れた。くっ、と内臓ごと引き落とされるような感覚に、千尋の身体が反射的に強張る。
 短いアシュヴィンの命に応えて、黒麒麟が高度を落としはじめたのだ。
「きゃあっ」
 急な下降に身体がついていけずに小さく声をあげた千尋の腰を、アシュヴィンが引き寄せた。
「すまないな、奥方殿。だが、あまり時間がないんだ。今は許してくれ」
「どこにいくの?」
 ようやくそれだけを問えば、アシュヴィンは楽しい秘密を胸にしまった子供のように目を細めた。どこか無邪気な少年のごときその笑顔が眩しくて、千尋は僅かに睫を伏せた。頬がじんわりと熱くなってくるのを悟られたくなかったから。
 彼の笑顔でこれほど幸せな気分になるなんて。ほんの少ししか離れていなかったはずなのに、自分はよほどアシュヴィンが恋しかったのだろうかと考えて、千尋はわずかに頬を膨らませた。
 そんな楽しげな顔をして、ずるい。こちらは――寂しかったというのに。
 湧き上がる愛しさの裏側で、悔しさが顔を覗かせた。千尋は、いつも自分ばかりが好きなようで負けたような気分になる。
 千尋が教えてくれないことを不満に思っていると解釈したのか、くつくつと笑いながら、アシュヴィンは金の髪越しに白い額へと小さな口付けを落とした。
「きっとお前も気に入るだろうよ。この季節にしかあらわれぬ、美しい海だ」
「海?」
 ふいに与えられた温もりに、滲み出そうだった可愛らしい苛立ちはあっという間に霧散した。千尋自身も呆れるような現金さだが、嬉しいものは仕方ない。
 それにしても嫁いで以降、こっそりと常世のことについてリブに教えを請うてきた千尋の中に、この先に海があるなどという知識はない。地理的なことだけはなく、常世の習慣や国の成り立ち、ありとあらゆることをリブに教えてもらったつもりだったが、まだ足りなかったのだろうか。
 うーん、と口元に拳を当てて考え込んだ千尋を見下ろして、アシュヴィンはさらに楽しげに破顔した。
「みればわかる」
 そんな会話を交わしている間に、黒麒麟は滑らかに降り立った。
 外套の戒めがほどかれて、かわりに全身を包んだ大気の冷たさに、千尋はわずかに身震いした。
 アシュヴィンの手を借りて、羽のような軽やかさで大地に足を下ろす。
 そこは小高い丘の中腹よりやや上の緩やかな斜面だった。丘を覆いつくすのは、一面の緑だ。かつての荒廃した赤茶けた景色はもう、そこにはない。朝の風に僅かに揺れる草たちは、今日という日の始まりを静かに待っているよう。
「間に合ったな。こちらだ、千尋」
「ま、待ってアシュヴィン! 一体ここになにがあるというの?」
「お前に見せたいもの、だ」
 ここまできて、なおはぐらかすアシュヴィンの声はとても楽しげだ。まもなく知れるだろうその秘密を、これ以上聞き出すことはできそうにない。
 手を引かれ、小高い丘の頂を目指す。導く腕の強引さに半ば諦めを感じつつ、千尋は引きずられるようにして足を進めた。
 上げた視線の先には、白んだ空。もうまもなく夜明けとなる。追われてゆく夜の色は、西へ西へと駆け足で去っていく。
 そうしてわずかな坂を上がれば、唐突に視界が開けた。
「わぁっ……!」
 アシュヴィンと肩を並べ、丘の頂きに立った千尋はわずかにあがった息を飲み込んだ。
 見下ろす千尋の瞳に写る世界は、秋色に染まっていた。
「麦の畑……? こんなに、広大な……」
 どこまでも果てしなく続く実りの色は、夜の帳が上がりきらぬのせいか僅かに沈んではいるものの、その豊かさはここからでもわかる。それは、息を呑むほどの恵みを讃えているから。
「いい頃合いだな」
 そう、呟いたアシュヴィンの高い視線を追う。
 空に薄くたなびく雲の合間、遙か遠くにある青い影を纏う山々の淵。
 そこに、光が生まれた。
 そこから幾筋もの光が、さらさらと零れるように大地に落ちはじめる。
 次々と照らし出されてゆく麦畑は、荘厳な光を一身に受けて東から西へと黄金の絹が広がるように、輝きを増してゆく。
 歓喜したように、大きく吹いた風に穂が揺れて、その音が千尋の耳に届いた。
「すごい……」
 それはまさに、海のごとく。
 寄せてはかえす波のように、麦はさざめきその身を躍らせている。呆然とその景色に千尋が見惚れている間に、光は加速して丘に立った二人の爪先から髪の先まで一瞬で駆け抜けていった。
「これが、黄金の海――常世のかつての姿そのままに甦った大地だ」
 眼前に広がる光景に飲み込まれてしまいそうになった千尋が、大きな瞳を瞬かせてアシュヴィンを見上げた。
「俺は、こうして実り豊な常世が戻ってきたことが嬉しい。俺とお前の――いや、皆の尽力が、この美しさを取り戻した。あの長い戦いの果てに、この結果があるのならば……」
 俺は失われた多くの命に、報いることができたのやもしれん。
 そう言いながら伸ばされた腕を拒むことなく、千尋は引き寄せられるままにその胸に身を寄せた。その仕草は優しさといたわりに満ちていて、抵抗する理由がなかった。
 王族としての務めを知り戦いに情は必要ないのだと豪語するアシュヴィンにも、消えていった命に思うことはあるのだろう。
「これをみせるために、私を連れてきてくれたのね」
 清廉な光の中で、千尋の唇が優しく孤を描いていく。
 二人が願った幸福な国への歩みが確かに前進していることを、この風吹く黄金の地は教えてくれている。
 それはきっと、アシュヴィンの言葉のように。
 黄泉へと旅立った人たちへの手向けになると、千尋は信じた。
「ほんとうに、綺麗。ありがとう、アシュヴィン」
「なに、愛しい奥方のお眼鏡にかなったのならば光栄だ」
「当り前よ。気に入らないはずがないわ」
 湧き上がる嬉しさそのままに顔を綻ばせる千尋に、アシュヴィンは満足げに笑った。
「この季節、この時間、この場所でしか、この海は現れぬ。常世の恵みが失われてからというもの、ここは長い間、赤い大地が横たわっていただけだった。だが、それも過去のことだ。必ずお前を連れてこようと思っていた。お前と二人でこの丘に立ちたかった」
「……もしかして、このために急いで帰ってきてくれたの?」
「ああ」
 当然だといわんばかりにアシュヴィンは笑った。
「今日を逃せば、また季節が一巡りせねば実りはない。お前をそんなに待たせるなど、できようはずもない」
 今日にでも刈り取りが始まるだろうと、リブから報告を受けたのだと軽い調子で付け加え、アシュヴィンはゆっくりと視線を揺れる海へと移した。
 そのために、こんな朝早く黒麒麟を駈って自分のもとに来てくれたのだと知って、千尋の青い瞳が潤む。
 復興してゆく国を感じ取れるこの地で彼の隣に立つことを。
 命を賭した結果をともに目にすることを。
 アシュヴィンは願ってくれていた――――それだけで、胸が溢れんばかりの誇りで満たされる。
 それは王妃として、妻として、恋人として、アシュヴィンにふさわしいよう存在であるように努めてきた千尋にとって、何よりも嬉しいことだった。

 心の大切な場所へと目の前に広がる光景をそっと納めながら、千尋はアシュヴィンの胸へと頭を預ける。
 この黄金の実りを、この輝く色を、一生忘れない。
 きっといつか死に逝くとき、ここでこうしてともに見た光景を思い出すだろう。
 国を慈しむように、愛しげに目を細める、最愛の夫の姿とともに。

 そっと宝箱の蓋が閉じられるように、朝の光に一層煌めく金に縁取られた瞼が、青い瞳を隠していく。
 その眦からぽつりと落ちた一滴が、アシュヴィンの黒い手の上で真珠色に弾けて舞った。