「ん~……」
ぐっと背伸びをして、千尋はゆっくりと腕を下ろしながら肩の力を抜いた。そうして、からからと乾いた音を立てながら、竹簡を確認しつつ片付ける。
「よし、出雲へと続く街道の整備に関する書類はこれでよし、と。あとは、明日でも大丈夫かな……」
広い執務机の上には、各地方の豪族から上げられてくる陳情書に加え、復興のための経済的施策の案など、中つ国の王として目を通すべきもの、決済を下すべきものが山積みとなっている。処理した傍からだんだんと増えていく書状に挫けそうになるときもあるが、これも王の務めと千尋は懸命に頑張っていた。
だからこそ、たまに生き抜きがしたくなるのだが……。ほんの少し前の出来事を思い出して、千尋は乾いた笑いを漏らした。
「陛下。よろしいでしょうか」
そんな小さな身体で執務をこなす千尋の耳に、よく知った声が届いた。重厚な扉の向こうから、畏まった言葉がかけられる。
「はーい。どうぞー」
明日すぐに取り掛かるために、きちんと整理整頓しておかなければならない。竹簡をもとあった場所に戻しながら、返事をする。
そういえば、もっと威厳のある受け答えをするように、口を酸っぱくして幾度も言われたような気もしたが、もう遅いだろうと千尋は諦めた。
「失礼いたします」
「いらっしゃい、忍人さん。どうしたんですか? こんな夜更けに」
む、と忍人の美しい柳眉の合間に皺がよる。端正な顔を照らす明かりが、ゆらゆらと生き物のような影を落としている。薄い唇から呆れたような溜息が漏れた。
「陛下こそ、執務に励まれるのは大変結構ですが、もうすでに月が中天へと昇りきるような刻限でございます。そろそろお休みになられるべきかと」
「あ、お月様でているんですか」
忍人の言葉のうち千尋が反応したのは、「月」という単語だった。
机の上を片付け終わった千尋が、小走りに窓辺へと近づく。
「陛下!」
「は、はいっ! すみません! ごめんなさいっ!」
いきなりあげられた怒鳴り声に近い声に、びくーっと千尋は身を竦ませた。しかも、なぜか反射的に謝ってしまった。まだ何も、怒られるようなことをしていないはずなのに、悲しい学習ゆえだろうか。
悲鳴をあげた心臓をいたわるように手を胸に押し当てて、千尋は緩慢な動きで振り返る。
忍人の目が段々と剣呑な光を帯びつつ、細くなっているような気がする。
「前々から申し上げておりますように、不用意に窓辺には近づいてはなりません。貴女はこの中つ国の中心たる貴いお方。ゆえに、不遜にも御身を害そうと企むものもおります。姿を見せたとたんに矢でも射掛けられたらいかがするのですか」
「うう……」
しかしそれでは千尋にはおちおち、外を眺めて心を休ませることもできないといっているようなものだ。
「で、でも、ほら。皆がしっかり橿原の宮を警護してくれているじゃないですか。だから大丈夫ですよ!」
「そうでございますね。陛下が御自ら警備の穴を教えてくださったおかげで、随分と兵たちの意識改革もできましたし、侵入路の発見もできました」
「むむ……」
意地悪くさらに目を細めた忍人は、どうやら先日起きた千尋の脱走事件をいっているようだ。
「だって、あれは。その……あの戦以来はじめて橿原に大きな市がたったっていうから……」
ごにょごにょと紡がれるいい訳を、忍人は腕を組みつつ一笑に伏した。
「那岐と遠夜、それから布津彦を供につけ、復興の兆したる市へお忍びで視察に行った――でしたか」
無理やりこじつけた理由を覚えているようだ。本当は、ただ単に市を見に行きたいと零した千尋を遠夜が連れ出し、抜け道近くで昼寝をしていた那岐が巻き込まれ、宮を抜け出したところで出くわした布津彦が護衛についていくと言い出しただけだ。
そうして四人で回った市はとても楽しかったのだが――宮に帰った後のことは、正直思い出したくなかった。付き合ってくれた三人も相当絞られたらしい。
申し訳ないような、恥ずかしいような感覚に陥って、だんだんと身を縮こまらせていく千尋に、忍人の呆れたような溜息が聞こえた。
「そんなに月見がなさりたいのですか?」
「え、う、うん。できばみたい……かな?」
おずおずと、それでも千尋が願いを口にすれば忍人が微かに笑った。
「わかった。ではいくか、千尋。俺が君を守ろう」
さきほどとはがらりと変わった、穏やかな声と口調にあわせて差し出される手。
「忍人さん……」
「君が前にいったんだろう。あまりかしこまった言い方は、居心地が悪いとな」
それは、この瞬間から臣下である葛城将軍ではなく忍人という青年が千尋の願いを叶えてくれると、そういっているように聞こえた。
引き寄せられるように忍人の手へと重ねた指先が優しく握り返されて、千尋はふわりと微笑んだ。
忍人に連れ出してもらった回廊は、月の光に満ちていた。柱も、手すりも、敷き詰められた石の床も、自らが青白く光っているようだ。もし、月に都があったなら、こんなところなのかもしれないと、千尋は思う。
整然と立ち並ぶ柱の合間からは、千尋が望んだ月が顔を覗かせていた。
「わぁ、綺麗な満月! ありがとうございます、忍人さん」
天より零れ落ちる熱をもたない光を浴びながら、歓声をあげた千尋は真白い円へと手を伸ばす。天から零れ落ちそうなほどなのに、やはり捕まえることはできそうもない。
「そんなにめずらしいものでもないだろう」
「そんなことありません。空気が澄んでいるから、中つ国は星も月もよく見えるんです。前にいたところじゃ、こんな夜空を見るのも難しくて。いつもどこか濁った空でしたから。懐かしいなぁ……皆どうしてるかな」
月よりも、そんな行動をとる千尋のほうが珍しいとわんばかりだった忍人の目が、僅かに見開かれた。
「君は、帰りたいのか? その、ここへ来る前の世界へ」
「え?」
どこか、焦ったような忍人の問いに千尋は目を瞬いた。
「ああ、いや、今のは失言だった。王たる君に問うものではなかった。忘れてくれ」
千尋の反応に、早口で前言を撤回した忍人はふいっと目を逸らした。
「――いいえ、懐かしく思い出すことはあっても、帰りたいとは思いません。私の、いたい場所はここですから」
ここ、という言葉に力込め想いが伝わるようにと願いつつ、千尋は笑った。嘘はそこにない。ただの、純粋な真実だけがある。忍人の隣に、ずっといたい。
「そう、か」
ほう、と漏れる息とともに僅かに強張っていた忍人の身体から力が抜けた。
「はい!」
元気よくこたえて花開く様に笑った千尋に、忍人も優しい笑みを返した。いつもは厳しい顔をしている忍人が、千尋の前だけでこんな風に笑うことを皆が、微笑ましく思っていることを二人は知らない。
ふんわりと流れ出した柔らかな空気が、なんとなくくすぐったくて、千尋はほんのすこし目を伏せた。
春の日に桜の下で交わした約束が、いまのこのひと時をくれたような気がする。
ちらり、とさりげなく自分を守る立ち位置を崩さない忍人を盗み見る。
忍人さん、怒らないかな……。
おずおずと千尋は忍人に寄り添った。なんだか無性に忍人の傍にいきたくなってしまった。あの柔らかな陽の光の中で互いの手を重ねた合わせたときのように、彼のぬくもりを感じたい。
自分の少女的思考に戸惑いつつ恥ずかしさを押し込めて、きゅ、と彼の左袖を摘まむ。とたんにびくりと忍人の身体が跳ね、ぱっとその腕が振り払われた。
「お、おい、誰が来るともわからぬのに……」
「だめ、ですか」
しゅん、と千尋が頭を下げると言葉に詰まった忍人が天を仰いだ。
そうして数秒の後、ゆっくりと、千尋の細い肩に忍人の手が重ねられた。しかし、それはわずかに乗せられただけ。触れるかどうかといった微妙な心地だ。
そっと肩を抱き寄せようとしているらしい忍人の慣れない仕草が、なんだか初々しい。
柊に奥手の朴念仁だとからかわれていた忍人だ。それを除いても生真面目な彼の性格を考えれば、今はまだこれで精一杯なのかもしれない。
でも。やっぱり腕を振り払われたのはほんのちょっぴり傷ついた。女の子から勇気をだしたというのに、あんまりではないだろうか。
「そうですね、不謹慎ですよね」
仕返し、とばかりにその手に気付かないふりをして、千尋は勢いよく身を離す。
とんとん、と数歩前に出てくるりと振り返る。
そこにはなんともいえない顔をした、忍人がいた。
宙に浮いた手が行き場をなくして、ゆっくりと力なく落ちていく。深く青い忍人の瞳には、離れた温もりに未練があるような、千尋の行動を惜しがるような。そんな感情の光が浮かんでは消えていった。
そこに落胆の色を確かに見出して、千尋は堪えきれずにころころと笑った。少なくとも、嫌だとは思われなかったらしい。むしろ、残念だと思ってくれた?
「なっ……、からかったのか!」
「だ、だって忍人さんったら……!」
可愛いんだもの。
そうはっきりと口にしてしまうと、彼が気分を損ねることがわかっているから、千尋は必死に笑い声の向こうにその言葉を追いやった。
「まったく……! 人が悪いぞ君は!」
ぶつぶつ小言を言いながら腕を組み、眉を潜めたその姿が出会った頃は怖くて仕方なかったのに、今の彼には別のもっと温かな感情しか湧き上がらない。
それはきっと、知ってしまったからだ。
刃のような鋭く厳しい言葉と、冬の凍えるような冷たさを纏う態度に隠された、この人の不器用なまでの優しさ。
共有した時間、重ね続けた言葉、交わした想いの中で千尋はすこしずつ、その小さくとも温かな光に気付いていった。
そして今は、それが失われて欲しくないと、自分の傍でこれから歩む道を照らす灯火になって欲しいと心から願っている。彼の存在すべてが愛おしい。
自ら広げた距離を一足飛びで縮め、千尋はぎゅっと忍人の左腕を捕らえた。
今、千尋が抱く想いをありのままに言葉にするならば――。
「忍人さん大好きです!」
「!!!」
こういうことなのである。
静かな夜に、荘厳な佇まいで悠然と構える橿原の宮の一角。
そこから漏れる聞こえる軽やかに響く少女の笑い声と、困ったようなそれでいて愛しさを隠しきれない青年の声を聞きながら。
ゆっくりと、ゆっくりと――真白に輝く月の船は、西の端へと星の海を渡っていった。