東雲色にまどろむ褥

 どこかから規則的に降り注ぐ光が呼んでいるような気がして、千尋は楽しくも脆い夢の世界を後にすることにした。
 寄り添いともに在った緋色の愛しい人が行くなと手を伸ばして、千尋は困ったように小さく笑った。目覚めた先で会いましょうと囁いて身を離せば、不満げな大きな羽ばたきが一度だけ、聞こえた。
 それを合図にしたように、ぐるりとすべてが渦を巻いて闇の向こうに落ちていく。
 暗転してゆく世界に色を取り戻すべく、静かに瞳を閉ざし開けば、そこに広がるのは見慣れた部屋だった。

 緩慢に蒼い視線を動かす。
 肩にまわされた逞しい腕がある。乱れた寝台の敷布、その上にひとつ落ちた大きな羽根がある。そして夢と同じ――否、それよりも鮮やかな緋色の髪が見えた。
 ほら、またすぐに会えたでしょう。
 そう微笑みながら心のうちで呟いて、千尋は夢で彼との逢瀬を妨げた光源を探す。
 見回した視界の中に、眩しいほどに光るものはない。
 わずかに、顔を上げる。大きく船が波に揺れた次の瞬間に、ちりりと強い光が目を焼いた。
 それは、ほんの少しだけ開かれた窓からの侵入者だった。黄金の絹糸の様な光が一筋、一直線に差し込んでいる。
 閉め忘れていたのだろうか。ここ数日は非常に穏やかに海が凪いでいたから、吹き込む潮風に対して注意が薄れていたのかもしれない。
 そっと、起こさないように気づかいながら身に絡む手を外し、千尋は温かな懐から抜け出した。
 そうして見下ろすことができるようになった人の面に流れる髪をそっと払う。己を捕らえていた男の寝顔はどこかあどけなくて、千尋は小さく微笑みを零した。
 床に落とされた衣服を身につけ寝台を降りる。
 ぎしぎし、と小さな音を立てる船はゆったりと心地よいくらいの揺れで、千尋の足取りを妨げるほどではない。
 今は、南の国に貿易のために向っている船。進む方向から考えると、今この部屋の窓の方向は確か――。
 そっと音を立てぬようにして扉を開くと、そこに広がっていたのは千尋の予想以上の極彩色の世界だった。
「素敵……」
 うっとり、と千尋は呟いた。東の空から昇る朝日が、己の眠りへいたずらをしたのだろうと思ってはいたけれど、こんなにも美しいものを見せてくれたらなら、なんだか許せる。
 眩しくて目を細めて遠く東を見つめる。
 太陽はその輪郭を揺らめかせ、水平線から世界をあまねく照らすために昇り往く。広がっていく光は暗い海と空を染め上げていく。
 海が赤い、空が朱い。
 夕暮れに似ているけれど、そこには夜の気配は微塵もない。むしろ、夜の痕跡を吹き飛ばしていくような、力強さと清清しさに満ちていている。
 これまで幾度も朝焼けはみてきたが、こんなにも素晴らしい景色は見たことがなかった。
 もしかしたら、これを見せたいが為に起こされたのかもしれないという気にさえなってくる。
「……姫さん?」
 擦れ気味の寝惚けた声で呼ばれて、千尋は振り返ってわざとらしく頬をふくらませた。
「また姫っていう」
「え……あ? ……あ! あー、そっかそっか、すまねぇ。姫って呼ばない約束したってーのに、オレって学習しねぇよなあ」
 幾度か千尋の言葉を反芻して、ぱっと顔から眠気を吹き飛ばしたサザキが、がっくりと寝台に突っ伏した。
 それはもはや癖のようなものなのかもしれない。だが、約束は約束だ。ついつい姫と呼んでしまい落ち込んだサザキに、千尋はくすくすと笑いかけた。
「ほら、みてサザキ。すごく綺麗な朝焼けだよ」
「ん~、どれどれ」
 気を取り直すように千尋が呼べば、サザキはゆっくりと身を起こした。さらさらと零れた髪をかきあげる仕草に、千尋は男の色香を感じて目を瞬かせて俯く。
 そんな風に思われたとは考えていないのだろう。サザキは、簡単に布を腰に巻きつけただけの姿で千尋のもとへとやってきた。
 へえ、と感嘆の言葉を落とし、サザキは腕を組んで揺らぐ朝焼けを見つめている。
 結ばれた当初は、年上であるはずなのに照れてこんなことなどできなかったサザキが、随分と成長したものだ。まあ、どうしてここで照れるのか、といった部分はまだまだ残っているのだけれど。
 それだけ供に夜を過ごしたということに思い至って、ふいに千尋に恥ずかしさが込み上げる。だけれど、こんな風に恋人としての彼の姿を見ることができるようになったことは、それを霞ませるほどに嬉しい事実だった。
 自分の思考に一人で照れて、緩む頬を押さえた千尋の傍らに立ったサザキが小さく首を傾げた。
「なに笑ってんだ? かってに抜け出しておいてよ」
「きゃっ」
 手を引っ張られ、むき出しのサザキの肌に頬を触れされるはめになった千尋は、照れを隠し怒ったように眉を潜めてサザキを見上げた。しかし、抗議の言葉はサザキの熱を帯びた真剣な眼差しの前に、胸の奥へと引っ込んでしまう。
「ちっと焦ったんだぜ? あんたがいなくなったかと、全部オレの都合のいい夢だったんじゃないか、って思っちまった」
 千尋を確かめるように抱く力を強めながら、サザキは重たげな息を吐いた。
「目が覚める寸前までみてた夢のせいかもしれねーけどよ。まったく、あんたあっさりいなくなっちまうんだもんな……」
「!」
「ああ、いや。オレの夢の話なんてしても仕方ないんだが。その……なんとなく寂しくてな」
 なーんか女々しいよなオレ。
 ぶつぶつと顔を背けて呟いて、腕をわずかに緩めたサザキを見つめながら、千尋は目を瞬かせた。隣で眠りながら、お互いの夢を渡っていたのだろうか。それとも、夢の世界でも、一緒にいたいと千尋と同じように願ってくれていたのだろうか。
 そこまで通じ合っているのならば、それはとても――幸福なことではないだろうか。
 ふふっと千尋は笑ってサザキの胸に頬をすり寄せた。
「私も、夢でサザキに会ってたよ」
「本当か? そりゃ嬉しいねぇ」
 さらり、と千尋の朝焼けに染まった髪を撫でながら、サザキは甘く低い声を響かせる。
「うん。駄々っ子みたいに、いっちゃだめだっていってた」
「なぁに、それほどあんたを一瞬でも離したくないってこった」
 ぐっと、腰を引き寄せられて千尋のかかとが床から浮き上がる。
 距離を縮めたサザキが、息がかかるほどの近さで千尋の視線を捕らえて、にやりと笑う。
「な、千尋は夢のオレと現実のオレ、どっちがいい?」
「夢の私が名残惜しかったくせに、そういうこと聞くの?」
「まあ、オレは海賊だからな。狙った獲物は逃がさないし、手放さない」
「……ん」
 す、と滑らかな仕草でサザキの唇が近づいて、千尋は反射的に瞳を閉じた。触れた優しい熱に、思考が融けていく。
「あんたは、いつでもどこでも、オレのものだ」
「欲張りなんだから」
 蕩けるような口付けの余韻に浸りながら、ぽつりと千尋が零した言葉にサザキは豪快に笑った。
「それ、海賊にとっちゃー褒め言葉じゃねえか?」
「ふふふ、そうかも」
「ま、紛れもない事実でもあるしな。なぁ、千尋?」
 流される緋色の視線。太陽が染め上げた世界よりもずっと鮮烈で、それは千尋の心を捕らえて離さない。
 サザキの言葉が頭に木霊する。
 いつでも、どこでも。
 例え、それが必ず覚める夢の中であっても。
「そうだね。私はサザキと一緒にいるって決めたから」
「そうだろ、そうだろ」
 幼子の様に相好崩して千尋を抱き締めるサザキの翼が、彼の感情を如実に表すように羽ばたいた。
「それに」
「?」
 くい、と彼の髪を優しくひっぱって口元に引き寄せ、千尋は悪戯っぽく笑った。
「それはサザキが、いつでもどこでも、私のものだってことでもあるでしょう?」
 心底驚いたようにサザキが切れ長の瞳を見開いて、ぱくぱくと酸素を求めるように口を動かした。
 そういわれるとは思ってもみなかったらしい。
「~~~っ!」
 なにがそんなのつぼにはまったのか、それは千尋にはわからない。だが、この部屋を満たす東雲色のように、頬や耳を染めるサザキがとても愛しい。
 ずるずると崩れ落ちるようにして背を丸め、千尋の小さな肩に顔を埋めたサザキが呻いた。
「ちくしょう、やられた……!」
「自分が先にいいだしたくせに」
 千尋はあやすように、サザキの髪を手で梳いた。反撃ともいえないような返しをされただけで、照れて動けなくなるなんて、とんだ純情さである。
 まあ、わかっていてそうした千尋も大概意地が悪い。だが、サザキの反応が可愛いのだから仕方ない。秘密だけど。
 くすくす笑いながら、千尋がぎゅっとサザキの首に腕を回して抱き締めれば、応えるように彼の腕が絡んでくる。
 東から吹いた風に金の髪を揺らして、千尋はお互いが手の届くところにいる幸福さを噛み締めた。

 東雲色に染まるまどろみの残滓をたゆたう褥の上、静かに落ちていた羽が一枚、風にふわりと舞い上がる。
 それはゆらりゆらりと漂って。
 二人寄り添い伸びた一つの影の淵に、音も立てずに舞い降りた。