千尋は、知らぬ道を歩いていた。手には生太刀。光る刀身が、道を照らし出してくれている。
己の胸を貫き、奈落に身を落として目を開けたそこは、闇だった。空間の足元は、かろうじて砂利だとわかる。
しかし、行く道は確かに続いているのがわかる。ゆるやかに、どこへいくのかもわからぬ終着点のみえぬ、下り坂。
いつか通った常世へ向かう道とはまったく異なる。どこまでも果てなく続くような錯覚は、きっと人の心を折れさせるには十分だ。だが。今の千尋はそれすらも障害にはならない。
必ず、必ず。
この黄泉路を下りきり、その先から忍人とともに還るのだ。
その想いが千尋の足を前に出す。
その意思に比例するように、太刀は光を増していることに千尋は気付いていない。
いつの間にかたどり着いた場所は、感覚的に広いと感じた。
遠雷が、聞こえる。
きょろり、とあたりを見回した千尋の視界の片隅が、ゆらゆらと陽炎のように歪み揺れる。
「っ!」
そして、唐突に現れた何かに、思わず息を呑む。ほんの一瞬前まで自分以外の吐息も声も、気配すら感じなかったというのに。いや、もしかしたら最初からこの闇の中にいたのかもしれないが。
闇の靄にかすむ姿は、懸命に目を凝らしても判然としなくて、千尋はぎゅっと生太刀の柄を握り締めた。
「人の身でありながら、神気を纏う娘よ。我はこの地を預かりし者。愛しい我が背の命に打ち捨てられた、古き神――名は黄泉津大神」
大神と名乗るしゃがれた女の声に、千尋は居住まいを正した。
目の前に在るのは、紛う事無き神だと本能がいっている。
「私は、豊葦原が王――葦原千尋と申します。黄泉を司るあなたに、お願いがあって参りました」
「ここは、生を終えたものが来る根の国。死者の地。いつの日か、また始まる時を待つ魂が、安息を得て眠る場所。生あるものが来るべき場所ではない。お前は、巡る時間のすべてを終わらせていない」
ずるり、と湿った重いものが動くような音を引き連れて、神が近づいてくる。
吐息もかかるような間近で、ぎょろりとにごった黄色の瞳が覗き込んできた。深淵から千尋の心の奥底までも覗き込むような、その眼光にわずかに肩がはねた。
「娘よ。生太刀に導かれしものよ。汝はなにゆえこの地に足を踏み入れた。そうさせるだけの願いとは何だ」
「ある人の黄泉還りを、どうか」
千尋の言葉に、神の目が探るように細くなる。
「それは何者か。黄泉路へと足を踏み入れてなおそう願うほどの者は、お前にとってどのようなものであるか」
「とても大切な人。伝えるべき言葉を伝えることができず、かの人の夢も叶えることができない自分が、ただひたすらに会いたいと願う愛しい人です」
その答えに、大神が笑う。あざけりに満ちた声が静かに響く。
「愛しく想う者、か。なれば、なおのことあわせるわけにはゆかぬ。とく、ここから立ち去れ」
「いいえ、できません。葛城忍人という人がこの地にきているはずです。その人を還してください。私が還るときは、その人も一緒です」
笑みをおさめた大神が、何かを招くように手を閃かせた。
すうっと闇に溶けていた何かが結晶していく。ぱきぱきと小さな音をたてて、深い底から暗い天へと昇るように、形を成していく。
目に見える形となった闇を、千尋は静かに視界に映す。
どこか澱んだこの世界を固めたような黒い水晶のごとき中に、愛する男の姿が封じられている。
「っ……!」
叫び、縋り、名を呼びたい衝動を抑え、唇を噛んで千尋は大神を見据えた。
漆黒の女神が、忍人を封じた水晶をその手元に引き寄せる。ゆるりとその表面を撫でて、にたりと笑った。
「これは、己の願いのままに業を重ね、魂を捧げ、命を削った愚か者よ――この死者の復活を望むか」
「はい」
力強い肯定に、神は満足気にひとつ頷いた。
「よい、目だ。遙か古に、あのお方とともに見た空を、海を、汝は思い出させる」
こんな世界の底といえる場所までやってきた少女の愚行を嘲っていた声色が、厳かなものに変わる。
「よいか、娘よ。魂は、魂をもって養われる。命は命をもって生み出される。一度失われた命と魂を黄泉還らせるためには、それに見合うだけの贄が必要だ」
「はい。何の代償もなしに、何かを為し得られるとは思っていません」
溢れ出したまさに大神にふさわしいその霊圧に懸命に抗いつつ、千尋は平静を装って頷いた。
「汝の魂と命ならば、この者の黄泉還りを成し得るには十分な力となろう」
赤く熟れた口腔が、奈落へ続く亀裂のように闇の中に花開く。
「娘よ、お主は黄泉還りを儀式を望むか」
「はい」
重々しい声が、言霊になる。これは問いかけという形の約束だ。
「それは魂を削り、命を切り出すことぞ。力及ばぬならばお前は、この男のために己を捨てることとなろう。それでも黄泉還りを望むか」
「はい」
重ねられる言葉が、さらに力を強めていく。
「だが、たとえ願いが成ったとしても汝の生はごく短い時間になる。儀式に差し出した命の分だけ、おぬしは生きられぬ。捧げた魂の分だけ、その輝きは失われる。儚い命の花のごとく、汝はわずかな時で散り逝く生涯となろう。それでも――黄泉還りを望むか」
「はい」
神の三度の問いかけに。
千尋は三度の肯定を、力強く頷いて返した。
ここに、言霊は確固たるものと為った。破ることも、戻ることも、もうできはしない。
「――――愚問であったようだな。娘よ、汝が心は我に届いた」
だが、と大神は呟く。
「汝には為すべきことがあるのではないか。その身に与えられた使命があるのではないか。おぬしを待つものたちもいるであろうに」
少しだけ、闇の向こうで瞬く瞳に案じるような光が走る。千尋はゆっくりと瞳を閉じて、息をつく。
「私は今、抜け殻です。愛する者を失い、もうどこにいけばいいのかわからない」
それは、舵のきかない船が大海原を漂うがごとく。
「かの人は私を王としてくれました。私の作る国が見てみたいと、いってくれました。あの想いに答えることを私は心から願った。でも、それはあの人がいればこそ」
思い出す、初めて会った頃のこと。
興味なんてかけらも持ってくれなくて、将軍としての力量を試すような言動ばかりで。その冷たい目が、怖かった。
でも、共に過ごすうちにたくさんのことを知った。どんなに他者へ厳しいことをいっても、それ以上に自分に厳しかった人。
一人でも死なずにすむようにと、兵たちの指導を熱心に行っていた。自分が戦場に出て傷つくことを厭わなかった。人に無茶をするなといったくせに、自分は魂を削ってまで戦っていた。そんな彼が、心配で気になって、近づけば近づくほどにその不器用さも誠実さも尊いと思った。抱きしめたかった。その存在すべてを、愛しく思った。
「私は彼の主足りえる資格がないかもしれない。たった一人の人を恋い慕う今の私には、国を導く資格がないかもしれない。でも、どんなに言葉を重ねて言いつくろって、自分を誤魔化そうとしたって、真実は決して消えてはくれない」
心を駆け抜けていく、たくさんの思い出。
星空の下で誓った言葉、差し出された手、君のために生きてみたいといってくれた優しい声。
「私にはあの人が必要なんです! 彼の願いを叶えるために、私の願いを叶えるために。そして、豊葦原をあの日語ったような幸福な国にするために」
自分が幸福でなければ、何かを誰かを幸福になんてできないといったら、忍人は怒るだろうか。
でも、それでも。
千尋は彼が生きていてくれれば、それだけで幸せだ。
たとえ嫌われてもいい、ともに同じ世界に生きていたい。
「必ず一緒に還ります。だから、死ぬわけにはいかない。死にません。忍人さんも、ここに決して置いていきません!」
その小さな体のどこにそんな力があるのだろうか。見るものがそう感じるだろうほどに、千尋は声を張り上げた。
「よい覚悟だ。我が元までくるほどの、伝承を覆そうとするほどの――なんと愉快なことか!」
そう愉悦を滲ませて声を上げた大神が、手をゆっくりと上げる。
「さあ、儀式をはじめよう。汝が掴む未来がいかなるものか、みせてもらおう」
ぞわぞわと大神の周囲の闇が動く。否、それは闇ではない。どこに潜んでいたのかわからぬ冥府の住人たちが次々と姿をあらわす。
彼らは嘲笑うように千尋を取り囲んでいく。踊り狂いながら、千尋が己たちの仲間となるその時を待ちわびている。
逃がさぬというその檻を気にすることなく、千尋は大神をただ一心に見つめた。
奇跡は起こるからこそ意味がある。そして奇跡は起こらねば価値がない。そしてそれはただ一度のみゆえに、貴く崇められ、誰しもがその光臨を夢見る。
だから信じる。だから願う。
そして想い、祈る。ただ、ひたすらに。
差し伸ばされた大神の掌に、剣が現れる。真っ直ぐな刃を持つそれは、忍人が封じられたものと同じような水晶でできている。ここへくるときに刺し貫いた胸を、その切っ先がひたりと狙う。千尋は、ゆっくりと瞳を閉じた。
これは、戦い。
背負うものを降ろせず、夢を諦められず、そうして彼を忘れられない、欲深き私の戦い。
負けられない。負けるわけにはいかない。そのすべてを手にするために。
力強い蒼い輝きが宿る瞳が開かれた瞬間、大神の手のうちにある剣が、伸びた。