銀色の脅威

 日差しが眩しい夏に夫婦となり、相変わらずの仲睦まじさで過ごしているとある新婚家庭の家に、秋の気配が色濃くなった風を纏った訪問者が、ひとり。
「やあ、久しぶりだね、サト」
 光を弾く銀の髪、すらりとした長身に、細く白い指先。眼鏡の奥で柔和に瞳を細める男に、キリクは見覚えがあった。
「ミハイルさん!」
 朝食を終えた食卓を片付けていたサトが、突然現れたその青年の名を呼び、駆け寄っていく。
 頭にフクロウを乗せつつ、家畜の世話を手伝ってくれているペットたちにも朝食をやっていたキリクは、ゆっくりと立ち上がった。
 そう、ミハイルだ。
 このはな村にふらりと訪れては、秋の音楽祭で美しいヴァイオリンを披露してくれている、音楽家。たしか、春の終わりごろ、この村をあとにしていたと記憶している。
 そういえば、昨年の秋にミハイルが村に滞在するようになってから翌年の春まで、二人はそれなりに仲がよかった。わざわざ挨拶にくるくらいだから、間違いないだろう。
 サトと言葉を交わしていたミハイルが、キリクのほうを向いた。
「おや、キミは」
 どうも、とキリクは頭を軽く下げた。
 キリクをじっと見つめたミハイルは、説明を求めるようにサトに視線を戻す。
「ええっと……、あの、実はですね、」
 もじもじと胸の前で組み合わせた指先を動かしながら、ふんわりと美しく頬を染めたサトが、とびっきりの笑顔を浮かべる。
「私、夏に結婚したんです」
 そういって、キリクのほうを向く。その可愛さに、頬が緩みそうになるのを我慢して、キリクはサトに近づいた。傍らにたつと、嬉しそうにサトが見上げてくる。その視線に絶対の信頼と、絶えることない愛情が確かに感じられて、キリクは幸せがもたらす息を、そっと零した。
「なるほど、オレが旅に出た後か」
 にこ、と笑ったミハイルが、ひとつ頷いた。
「はい」
 同じように顎をさげたサトが、わずかに顔を曇らせる。
「ご連絡できれよかったんですけど……」
 結婚が決まってから、あれこれと世話になった人たちに声をかけていたサトだから、ミハイルにも是非出席して欲しいと思っていたのだろう。
「すまないね。その頃はひとところに落ち着いていなかったから……」
 遠い土地で移動しつづける人間を追うのは、たいへんなことだ。ましてや婚約から結婚まではわずかな時間しかなかった。連絡のしようがなく、時間もなかったのだから、ミハイルがこられなかったのは、仕方のないことだ。
「幸せそうでなによりだよ。当日にお祝いできなかったのが、とても残念だ」
「いえ、そんな……」
 サトが、慌てて手を振った。そんなことないと、懸命に否定する。その手を、すっとミハイルの指先が捉えた。
「あらためて、おめでとう。サト」
 うやうやしくサトの手を握りなおしながら、ミハイルが祝いの言葉を贈る。
「は、はい、ありがとうございます!」
 いきなりのことに目を白黒させながらも、サトがにこにこと応対する。
「……」
 ひく、とキリクの頬がわずかに引き攣る。
 まてまて。
 お祝いの言葉はありがたいが、なぜそこでサトの手をとらなければいけない。
 気安く触るな、オレの嫁さんだ。
 喉まで出掛かった言葉を、なんとか飲み込む。
 ここで大人げない行動にでては、サトだって恥ずかしい思いをするかもしれない。
 でもさっさと離せ。
 ぎりぎりと視線にそんな本音を滲ませ、ミハイルを睨み付ける。
 と。
「でも……、うん。なるほどね」
 ふむふむと何事か会得したように頷いたミハイルの、眼鏡の奥の瞳が一層細くなる。
 いらいら、と胸に出来た棘が鋭さを増す。いい加減に離せと、言葉が口から飛び出そうとしたところで。
「どうりで、」
 すっとサトの手を持ち上げたミハイルが、その指先に口付ける。
「ミ、ミハ……っ、!」
「お、おまえっ!?!」
 その行動に、サトが上擦った声をあげ、キリクが声を荒げ掴みかかろうとしたとき。
「キミの声が、別れたあの日に比べて、随分と艶っぽくなったことを疑問に思っていたところだったんだ」
 すとん、と落とされた言葉に、キリクとサトは思わず顔をみあわせた。
 意味がよくわからない――と、サトの瞳が訴えているにもかかわらず、なんとなくキリクはミハイルの言いたいことを察した。
「それは、彼のおかげなんだね」
 する、とサトの手の甲をミハイルが撫でる。
「あ、そ……手……あのっ!」
「あの頃の無垢なキミの声もよかったけれど、深みを増したキミの声もまた素敵だ」
 うっとりと、熱に浮かされたようにミハイルがサトを覗き込む。
「できるなら、オレがそのきっかけとなりたかったのだけれど――」
 その言葉に、行動に、キリクの脳内で危険信号が明滅した。これはやばいと、がんがんと警鐘が鳴り響く。
 こいつもかー!
 ミハイルまでもが恋のライバルであったのだと悟ったキリクは、無言のままサトを強引に引き寄せる。その勢いに離れた手を確認し、自分の背後へとサトを押しやるようにして二人の間に割ってはいった。
「――悪いが、サトはもうオレの妻だ」
 そういうことをしていいのは、自分だけだと暗に滲ませる。そして、彼女の愛を受け取ることができるのも、自分だけだと胸を張る。
「そうだね」
 客人に対しての態度としては咎められても仕方がないキリクの対応にも、ミハイルはただ微笑むだけだ。
 コートの裾を翻し、ミハイルが一歩下がった。
「さて、と。新婚家庭に長居するのも不躾だからね、これで失礼するよ。今日からまた、よろしく頼むよ」
「あ、はいっ」
「……」
 自分の後ろから顔を覗かせ、律儀にこたえるサトをじりじりとかばいつつ、キリクはミハイルの瞳を見返した。
 涼しげな瞳が、いいものをみつけて喜ぶ子供のように、輝いている。ぞわわ、と嫌な予感がキリクの背筋を這いずり回った。
 それを裏付けるように、至極楽しそうにミハイルが口元を綻ばせた。
「人妻というのも、いいものだね」
 予感的中である。手ごわい。なんという脅威だろう。
 さっさと帰れ! と、塩をまいてやりたい衝動に、キリクは駆られた。
 が。
「はいっ! キリクのお嫁さんで、私、とっても幸せです!」
 男二人の水面下の攻防などまったくわからないらしく。
 場違いなほどに、にこにことサトがいう。薔薇色の頬に、毒気が抜かれる。
 その様子に、ミハイルが小さく噴出した。
「これはこれは、ご馳走さま」
 そのまま肩を揺らし、ミハイルがきびすを返す。戸口へと向かうその背は、まだ震えている。
「ミハイルさん、また!」
「……また」
 キリクの横にならび、サトが手を振る。振り返ることなく、それにミハイルが手を振り返す。無愛想に、とってつけたようなキリクの言葉にも答えるようなそれに、ますます苛立ちが募った。
 ぱたり、と小さな音を響かせて家の扉が閉じられる。
 ほう、とサトが手を下ろした。
「また秋の音楽祭で、ミハイルさんのヴァイオリンが聞けるね」
「そうだなー……、はあ……」
 楽しみだね、と同意を求めるサトに対し、いつの間にか強張っていた肩から力を抜きつつ頷く。
 まったく、朝から疲れてしまった。ミハイルまでもが、サトに心捕らわれていたとは、思いもしていなかった。
 自分の認識が甘かったと反省していると、腕にやわらかく暖かなものが触れた。
 見下ろせば、ぺったりとくっついているサトがいる。
「なんだよ」
「んー……、なんかキリクが寂しそうだから、お嫁さんとしては放っておけないかなって」
 すりと頬を寄せて、サトが小さく笑う。
「別に寂しいとは思ってないぜ?」
「そう?」
 きょと、とキリクの腕をとったまま、サトが顔をあげて首を傾げる。
「ただ、おまえがモテるってことをつくづく実感しただけだ。なんか、焦るよな、こういうのって」
 素直な気持ちを言葉にすれば、不思議そうな色が紫の瞳に浮かぶ。
「ミハイルさんのこと? そんなことないよ、いつもあんな風にからかわれるもの」
 前だってそうだったよ、というサトに、キリクは内心ぞっとした。自分の知らないうちにあんなことをされていたのかと思うと、空恐ろしい。
「そんなことあるんだって!」
 自覚しろと告げてはみるものの、むー、とサトは唇を尖らせるだけだ。
「……キリクが心配性なだけだと思う。実際には、そんなことないよ?」
 もてている、という意識はまったくないらしい。
 サトはわかってない。わかってない。
 だが、これ以上いってもどうにも理解してもらえそうにはない。深く深くため息をつくと、サトがぎゅっとキリクの腕をさらに抱きしめた。
「キリクだけにもてれば、私はそれでいいもの」
 野辺の花が、次々と蕾を綻ばせていくのを連想させるような笑顔が、サトに浮かぶ。
「いっぱいいっぱい大好きよ、キリク」
「……オレも、サトだけ大好きだ」
 結婚したというのに、威嚇の対象が増えたのはちょっとした悩みの種だが、サトにこうしてもらえるのも、こういってもらえるのも、たまらなく嬉しい。
 そうして生まれるサトへの愛情が、込み上げたいろんなものを霧散させていく。それを感じながら、キリクは静かに睫を伏せる。
 ちょっとだけ背伸びをして、何かを待っている可愛らしいサトへと、顔を寄せる。
 この存在に心も身体もすべてが捕らわれた。だが自分は、相手もまた捕らえることができた。幸運だ。
 その事実を確かめさせてくれる柔らかな唇に、キリクはそっと口付けた。