わき出でる水の動きに優雅に踊る砂。そんな水底がみえるほどに透き通った美しい泉の前。
山の風吹く緑の中で、差し出したばかりの青い羽が返される。
頭が真っ白になる。どんな表情をしていたのか。どんな言葉を零したのか。自分でもよくわからぬまま、なんとか「頭を冷やす」といって、惚れた女の横を通り過ぎたとき。
ごめんね――と、その想いを断ち切るような謝罪が響いた。
驚いて振り返ると、サトが遠くにいた。その隣には、よくみえないが誰かが立っている。
キリクに視線のひとつも投げかけず、サトはその誰かに微笑みかけ、そっと寄り添う。
動けぬままにいると、二人はこちらに背を向けて歩き出す。さらにサトが遠ざかっていく。
でも、足はまるで縫い付けられたかのように、動かない。
羽をきつく握り締め、精一杯に口を開く。でも、声がでない。
それでも。
ぎゅうと瞳を閉じて、ただただ愛しい女の名を呼ぶ。
キリクには、それしかできなかった――
は、と息をつくと同時に、キリクは目をあけた。
うずぼんやりと、ようやく見慣れてきた天井が淡く目に映る。まだ、夜はあけきってはいないようだ。
ああ、心臓が痛い。冷や汗が噴出していて、気持ち悪い。冷めた手のひらを、額にあてた。
夢、か。
とんでもないものをみた。悪夢だ。子供のころにみたお化けとか、わけのわからぬものとは全然違う。正真正銘、命を縮ませるような、悪い夢だ。
馬を駆けさせたときの振動よりなお速い鼓動が、痛い。だがその感覚が、いまこうして寝台に横たわっていることが現実だと知らしめてくれているようで、ありがたかった。
だが、本当に自分は目が覚めているのだろうか。
ふと浮かんだ、恐ろしく心冷やすような疑問の答えを求め、のろのろとキリクは横を向く。
そこでは、すやすやとした穏やかな寝息が生まれては、夜の空気に消えていく。安心しきったものだけが、紡げるもの。
二人用の寝台。白い寝具の中に、ぽたりと蹲った闇のような人影。目を凝らせば、それは愛しい女の姿になった。
「サト……」
昨日も、自分の牧場内を元気に駆け回っていた。いろいろと野菜の収穫や花の手入れを頑張っていたから、きっと疲れて深い眠りに落ちているのだろう。でも。
「サト……」
髪に指を滑らせる。少しだけからませてみる。ひんやりとした感触が、指からするりと逃げ出した。
「サト……」
首筋をたどり、小さな肩に手をかけ、揺らす。
起こさずにはいられなかった。ただの夢であったと、彼女自身に教えて欲しかった。
「ん、ぅ~……」
キリクの願いに応じるように、サトがくぐもった声をもらして、みじろぎした。そして、ゆっくりと大きな瞳が、半分ほどにひらく。
「ど、したの……?」
掠れてはいるものの、確かなその声に、ほっと息が漏れた。
「サト……」
ぎゅっと、その細い体を引き寄せ抱きしめる。
「ん~……?」
当たり前のようにたおやかな腕に抱きしめ返されて、それだけで涙がでそうだった。
サトはここにいる。ちゃんと自分の腕が届くところにいる。オレは、サトを抱きしめている。
それは何よりも安心できる答えのはずなのに、やはりこっちのほうが夢なのではないかという考えが振り払えない。
さきほどの夢のほうが、現実なのではないか。本当は、自分はサトにふられっぱなしで。そのうえ、サトは自分ではない別の誰かと一緒になって、幸せそうな結婚生活をおくっていて。
そうして、自分の想いはなかったことになっている――そんな馬鹿な考えが、キリクの脳裏を占領する。 いつもと様子が違うことを察したのか、サトが腕に力をこめてくる。それは、繋ぎとめるような、引き戻すような温かさを宿している。
だが、それでも強張ったままの、キリクの体と息をほぐすように。
「――好き。キリク、大好きよ」
耳元に、サトの声が静かに舞い降りた。
これは魔法の言葉じゃないのかと、キリクは常々思っている。
だって、それだけなのに、こんなにも心が安らかになる。
「……ん」
ぽんぽんと幼子を宥めるようなサトの手に、キリクは頷いた。ゆるゆると、息が肺から押し出された。
「オレも好きだ。サトのこと……好きだ」
恋をしていると気付いたときから、否、その前の、出会ったときから。
「ずっとずっと、好きだったんだ……」
おまえが、オレのことを好きじゃないときも、ずっと。
「うん、だから好きよ。私が自分の心を理解できないでいたときも、かわらずに好きでいてくれたあなたが、好き」
妻の言葉に、キリクは泣きたい気持ちを抱えて、笑った。
少なくとも、サトの気持ちを気付かせたきっかけになったなら、自分のプロポーズは無駄ではなかったのだと思えるから。
もちろん、一度断られてから、サトに青い羽を渡されるまでの間のことも、すべて。すべてだ。
「……なんかずりい」
ただ、ひどくやきもきされられたうえに、失恋気分を味わわされたことは悔しい。いや、悲しいのか。それとも……?
掴みあぐねる感情に突き動かされるように、キリクはサトの額に口付けた。
「うん、わかってる。ごめんね?」
ふふふ、と首をすくめたサトがなんだか嬉しそうに、悪びれたようすなく笑う。
なんだがそれがとても幸せそうなので、つい毒気を抜かれたキリクも、つられて笑った。
屈託なくそういってくれるほうが、深刻に謝られるよりも、ずっと救いになる――そんな気がした。
二人の声が、寝台のなかを優しく転がる。
ひとしきり笑ったあと、キリクはサトの髪を撫でた。
「寝てたのに、おこしちまってごめんな?」
「ううん、いいの。好きっていってくれるなら、大歓迎だよ」
ちゅと、サトの唇が、鼻先に触れる。その幼い口付けが、くすぐったい。
サトが離れると同時に、キリクもまた、唇をよせた。
まず触れたのは、頬。甘いものを好まないキリクだが、ケーキやマシュマロはこんな感じなのだろうかと思う。
二度三度触れた後、そのまま唇を滑らせる。吸い寄せられるようにたどり着いた、サトの唇をふさぐ。ふ、と甘く漏れた息さえも飲み込むように。
「ん、」
ぐいと舌先を押し込むと、小さな舌が驚いてひっこんだけれど、おかまいなしに深く唇を結ぶ。
舌先で散々にサトの口内を辿った後、ひとまず満足したキリクが唇を離したとき、サトの息はすっかりあがっていた。
「は、……なに、す……」
サトは、急な刺激に呂律がまわらなくなっている。まだまだ慣れないその様子が、初々しい。
肩を揺らし、せわしなく呼吸を繰り返すサトに対し、ゆっくりと体の奥底に溜まる熱を、キリクは自覚する。
まずいとは思うものの、本能に体は忠実だった。柔らかな体に手を這わせると、びくりと過敏な反応が返ってくる。
「あ、だめ、キリク……! 夜が明けたら仕事、が……、ん、」
「起きたついでってことで、さ。いいだろ?」
「だめだって、ば……!」
キリクの意図を察してか、ひどく焦って身を捩るサトが、可愛い。やめたほうがいい、という淡い理性は、たったそれだけで吹っ飛んだ。
「……オレ、今日は店やすみだし、おまえの仕事なんでも手伝うから。な?」
だからこのまま流されてほしい。小さな耳に吐息混じりに囁く。
「そういう、ことじゃ……! やっ、」
ちゅ、とサトの細い首を吸い上げる。
「観念しろって」
細い手首をつかみ、シーツへと押し付ける。
「――好きだって、あきれるくらいにいうから……」
のしかかり、完全にサトを自分の下へと組み伏せて、キリクは脅すように、説き伏せるように、宣告するように。そう告げた。
「うう~……もぅ……」
つい先ほど、大歓迎といってしまった手前もあってか、それともいわれたとおり観念したのか。わずかに抵抗していたサトが言葉に詰まり、動きをとめた。
それを無言の了承と解釈し、口の端に笑みを刻んだキリクは、サトの寝間着に指をかける。
やっぱり、夢でなくて。これが現実であってくれて、ほんとうによかった。
そんなことを考えながら、キリクは愛しい妻の肌に、そっと触れる。
おずおずと伸ばされる細い腕に誘われ、キリクはゆっくり堕ちていく。
夜明けまで――あと、どのくらいあるのだろう。