「ありがとうございました! 失礼します!」
雄英高校一年A組生徒の一人――緑谷出久は、直角に腰を曲げる最敬礼をとる。
それに対して、にこり、と微笑んでくれたのは、長身痩躯の男だ。
「うん、気をつけて帰るんだよ、緑谷少年」
「はい!」
出久は、手をあげて見送りの言葉をくれる大恩人へ、再度頭をさげる。
相手は、一見しただけでは、痩せこけた不健康そうな男にしかみえない。
しかし、その落ち窪んだ底にある目の眼光は鋭く、みるものがみれば、只者ではないとわかるだろう。
彼は、出久がヒーローを志すきっかけとなった人。ナンバーワンヒーロー、そして平和の象徴として名高いオールマイトだ。
今は、世間一般で知られているような、筋骨隆々の逞しい姿ではないけれど、彼は間違いなくヒーローの頂点にたつ存在である。
ぺこぺこと何度も頭を下げて、出久はすっかりと常連になってしまった感がある、保健室をあとにする。
今日の授業で負った傷も、リカバリーガールにある程度回復してもらった。
そのあとすぐに、緊急の呼びだしを受け、リカバリーガールは病院へ。
そんな彼女と入れ替わりでやってきたのが、出久の様子をみにきてくれたオールマイトである。
憧れの人で、恩師もであるオールマイトと、授業の考察で話し込み、いつまにかこんな時間になってしまった。出久にとっては、嬉しい誤算である。
後ろ手に、保健室の扉を閉める。校内には、もはや人の気配がなかった。いるとしたら先生方くらいだろう。
「すっかり遅くなっちゃったな……」
出久は取り出した端末を操作する。心配しているであろう母親に、今から学校をでるという内容の連絡をいれつつ、生徒用玄関へと歩き出す。
視界を流れていく窓の外は、もはや夕日の名残もなく、とろんとした闇で満たされている。
ああ、なんて静かなんだろう。昼間の喧騒はどこへいったのか。楽しげな生徒たちの声も、彼らを諌める先生の声もない。
ひたすら静かな廊下を、出久はひとり歩いていく。なんだか寂しくなってきた。
そういえば、こんな熱のない学校を知っている。
小学生の頃、教室の机にその日の宿題を忘れてしまい、半泣きになりながらとりにいったことがあるのだ。そのときも、こんな雰囲気だった。
いつも見慣れた風景が、まるで魔王の城のようにみえたものだ。吹く風に揺れる草花も怖かったし、教卓の色濃い影から、いまにもなにか飛び出してくるような気がした。
そう思ったのは、どう考えても、前日に幼馴染が臨場感たっぷりに、学校の七不思議なんてものを語って出久を泣かせてきたせいであろう。
そのときの記憶がまざまざと甦ってきて、出久の足元から頭へと、悪寒が駆け上がる。
ぷるぷると、頭を振る。
なんでこんなこと、今になって思い出しちゃったんだろう。
いまはそんな頃の自分じゃない。まさか、高校生にもなって、お化けが怖いとかそんなわけが――ごめんなさい嘘つきました怖いです!
出久は誰にともなく心の中でそう謝り倒し、背負ったリュックの肩紐をぎゅうと握り締めた。
学校からでてしまえば大丈夫。人通りもあるし、電気がもたらす明かりは、世界から一人取り残されたわけではないと教えてくれる。
自然、出久の足どりは速くなった。
内履きの底が廊下にこすれる音だけが、出久を追いかけてくる。
玄関までの道のりを半分ほどきたところで、ふと気づく。
音が、ひとつじゃない。
思わず足を止める。当然、出久の足音だって聞こえなくなる。反響音だったらそれで解決。無問題。そのはず、だ。
が。
キュ……キュ……――
「~~~~!?」
規則正しく、どこからともなく聞こえてくるのは、間違いなく自分以外の誰かの足音。
ざあっと出久は顔を青ざめさせた。いやいや、先生の誰かに違いない。その証拠にほら、職員室方面へと遠ざかって――いかなィィィ! むしろ近づいてきてるゥゥゥ!
超常は日常に! 架空は現実に! といわれて久しい現代社会だが、そういう類への対応は昔から変わっていない。すなわち畏怖。
個性は「こういうものである」と、現代の技術をもってして証明されている。だから、理解している。ゆえに、怖くない。
だが、幽霊やお化けは科学的に証明されていない。あいもかわらず意味のわからないもの、得体の知れないものとされている。理解できないものに恐れを抱くのは、人間の性だ。
ぎゃっと声をあげかけた口元を手で覆い、出久は震える足で逃げ出した。かくかくと笑う膝ではさきほどより若干速いといったくらいだが、これでも精一杯である。
どっと噴出した汗が気持ち悪い。耳元に心臓が移動してきたのではないかというくらいに、心音がうるさく鼓膜に響く。
あがりそうになる悲鳴を飲みこみつつ歩いていけば、ようやく下駄箱がみえてきた。
あそこで靴を履き替えたら、フルカウルで一足飛びに校門へ――いやいや、今日はもう身体のことを考えて、ワン・フォー・オールを使わないと、オールマイトと約束したばかりじゃないか!
すっかり混乱した頭で、じゃあどうするか、と考える出久は気づいていなかった。
もうすでに、足音が真後ろに迫っていることに。
「おい……てめぇ……」
低く地を這うような声が、やけに鮮明にきこえた。
「ひっ!」
力任せに肩が掴まれる。
「ひ、ひいぃぃ……! うわああああああぅあぅあ?!」
涙目のまま、反射的に振り返りつつ悲鳴をあげた出久は、一瞬その声量を小さくしたものの、再びボリュームをあげることになった。
闇の中から現れて、出久を捕らえたのは、色素の薄い髪をあちこちに跳ねさせた赤い瞳の幽霊――ではなく、幼馴染の爆豪勝己であった。
幼馴染だとわかったのに、なんで悲鳴が途中からことさら大きくなったのかって?
そんなもの、長年に渡って彼から与えられた恐怖のせいに決まっている。勝己にはいえないが、いきなり姿をみせられると心臓に悪いのだ。幽霊とは別の意味で!
「うるせぇなあ! つーか俺の前歩いてんじゃねぇよ! デクの分際で!」
ひどい言われようであるが、そのいつもどおりの口の悪さが、出久に安堵をもたらした。
勝己は怖いが、実体がある。小さなころから知っている幼馴染。ヒーローノートに、戦闘におけるクセから、好きなカレーの辛さにトッピングの種類、生活用品の使い方から、果ては寝る前の習慣までまとめてきた相手である。幽霊でないことは明白。
だったら、怖くない。いや、別の意味では怖いのだが、でも幽霊よりはずっとマシ!
「あああああ、がっぢゃあああん! よがっだあぁぁぁぁ!」
「うおっ」
さすがの勝己も、いきなり鼻水たらして涙腺を崩壊させた出久に驚いたのか、わずかに引く。よかった、と叫びながら盛大に泣き出されたら、誰だって同じ反応をするだろう。意味がわからなさすぎて怖い。そう思ったものの、いったん噴きだしたものは簡単には止まらない。
一瞬にして毒気を抜かれたらしく、鬼と見紛うかのようだった勝己の凶悪な顔が、わずかに怯む。眼光は相変わらず鋭いものの、頬が引きつっている。
「きたねーな……オイ……!」
「ううっ……ごめん……ぐすっ……」
さすがに、勝己の足音を幽霊の類だと思ったなんて恥ずかしくていえやしない。
なんでもないといいつつ、ポケットから引っ張り出したハンカチで、ごしごしと目元と鼻下をこする。
そのうちに出久を追い越した勝己は、さっさと靴を履き替えている。出久も慌てて自分の靴箱まで移動した。
「め、めずらしいね、かっちゃんがこんな時間まで、いるなんて」
「うっせぇ、話しかけんな」
「……でも、えっと……」
どこか気だるげな反応を返し、勝己はさっさと歩き出す。すれ違う瞬間、ふわり、勝己の体臭が出久の鼻先をくすぐる。
授業後よりも香るそれは、勝己が汗をかいたということを連想させるには、十分な強さだった。
「かっちゃん、もしかしてトレーニングルームにいってた? 授業のあとも頑張るなんてすごいね」
とん、と外履きの踵を鳴らして追いかけながら、そう問いかける。授業でしごかれたあとに、自主的に身体を鍛えにいくなど、さすがタフネスと名高い勝己である。
ぴたり、と勝己が足を止めて振り返る。
「……おまえ、本格的に俺のストーカーでもはじめたのかよ? よるんじゃねえ、クソナード」
真顔でススス、と距離をとられた。解せぬ。
とりあえず、単なる推測でいった言葉だったが、勝己の反応からみるに正解だったようだ。
だがなぜそんな顔と態度をとられなければいけないのか。む、と出久は唇をわずかに尖らせた。
「そんなわけないだろ。どうしてかっちゃんのことストーカーしなきゃいけないんだよ」
どうせなら、オールマイトのストーカーになりたい! ぐぐっと拳を握り締めて渾身の願いを漏らせば、さらに勝己が距離をとっていく。
「自覚なしかよ……クソナードがクソクソナードになっていきやがる……」
「え、ちょっと待って、ドン引きしないでよ! 本気じゃないからね?!」
心なしか青い顔でそんなことを勝己が呟くものだから、さすがに焦る。
あけられた距離をつめるように近づけば、勝己が逸らしていた顔を出久に向けた。
夜の匂いをはらむ風に、尖った毛先を遊ばせて、赤い瞳でなかば睨み付けるようにこちらを見て勝己が言う。
「つーか、なんで泣いたんだ」
「え」
思わぬ言葉に、出久の動きが止まる。まさか、勝己からこちらの事情を尋ねてくるとは。
ぽかん、としてすぐに答えを返してこない出久に苛立ったのか、小さな舌打ちが響く。
「いじめられでもしたのかよ」
「……かっちゃんじゃあるまいし、誰がそんなことするんだよ……」
雄英に、出久を無個性だと笑っていた小学校・中学校の頃の同級生はいない。勝己をのぞいて。
半ば呆然としていたせいで、出久は、ごくごく素直にそう言ってしまった。
「へぇ」
にこり、と勝己が朗らかな笑顔を浮かべて、わずかに首を傾ける。あ、怖い。笑ってるけど、これ、ダメなやつ。
「あっ、違う違う、ええっと、えっと、ほんと、そういうんじゃないんだ!」
僕、墓穴掘っちゃった?! といまさらながらに気づき、出久は視線を泳がせた。高速で手を左右に動かすが、自分の言葉がそれで消えるわけもない。
「ちょっとその……子供の頃を思い出して怖かったっていうか……そ、それだけ……!」
ああー! 結局、かっちゃんに馬鹿にされる……! と絶望しながら、ちらりと視線を送る。
すぐにピンときたらしい勝己が、ニヤリと底意地の悪さを表すかのような笑みを浮かべた。ほらやっぱり。
「なるほどなァ、クソナードくんは暗い学校にビビッてたってーわけか!」
「ううっ」
勝ち誇ったように、出久のすべてを見下してくるような顔をして、勝己が笑う。
そもそもの原因は小学生のときの勝己だというのに、ひどい。出久は、唇を噛みしめる。
と。
勝己が、ふいに笑うのをやめた。静かになった空間を、風が通り過ぎていく。
なぜが急にあたりを満たした緊張感に、出久の口内が一瞬にして乾いた。
「……おい、デク」
「え」
真剣な赤い瞳で、彼は出久をみて――いない。体を強張らせた出久を通り越して、その後ろを、みている。なぜ。やめてよ。めっちゃこわい。
「てめぇの、後ろ……」
「!?」
何の気配も感じられないけれど、出久は顔を引き攣らせ、焦って振り返った。なにか得体のものが、手を伸ばしてきているような、心臓を鷲づかみにされるような、そんな想像が脳裏を過る。
だがしかし――そこには何もなかった。見慣れた雄英高校生徒玄関があるのみ。恐怖で速くなった心臓につられて、呼吸が細く浅くなっている。
肩をわずかに上下させながら、あれ? と、目を瞬かせた次の瞬間、背後で笑い声が爆発した。びくり、と全身が跳ね上がる。
「はっ、はははははっ、クッソダセェなァ、オイ!」
「かっちゃん! 騙したんだね?!」
再び滲んできた涙もそのままに、勢いよくもとの位置へと体を向き直せれば、身を折って大爆笑する勝己がいる。
「俺はなにもいってねえだろ! 勝手に勘違いしやがって! 高校一年にもなって怖ェとか、マジかよ! ああ、おもしれぇもんみれたわ!」
間抜けな出久の姿をみれて満足したのか、じゃあな、と勝己は背を向けて歩き出す。
「~~~!」
ぎゅうううう、とリュックの肩ひもを握りしめ、出久は体を震わせる。ぎりり、奥歯を噛みながら、と勝己の遠ざかっていく背中を僅かに睨みつけ――湧き上がる激情に任せ、足を一歩踏み出した。
「あっ! オイコラ! ふざけんな! 俺の前を歩くんじゃねえ!」
大股で追い抜かせば、勝己が当然のように叫んだ。いつもなら、ここで引き下がるが、今、出久は怒っていた。
ので。
「じゃあ、かっちゃんの後ろ歩くから。一緒に帰ろ」
「はあ?! なんで俺がクソナードなんかと帰らなきゃいけねーんだよ! ……って、掴むんじゃねえ! はなせ!」
淡々とした声音でそういうと、出久は勝己の背後に回って、手を伸ばした。
勝己がぎょっとした顔で身をよじる。それはそうだろう。なにせ、出久が掴んだのは勝己の制服の上着の裾である。
「いやだよ。かっちゃんが悪いんだから責任とってよ」
「俺の何が悪いってんだ! ああ?!」
幼心に怖い話を語り聞かせて刻み込んだ恐怖。今しがたの度が過ぎたからかい。事細かに言いだしたらきりがない。羅列すると朝を迎えそうなので、やめておこう。
なんにせよ、人の心を傷つけて弄んでおいて、自分はなにもなしだなんて許されるわけがない。これぐらいの嫌がらせ、広い心で受け入れろ!
にこり、と先ほどの勝己のように、出久は笑った。怒りを秘めて、でもそれがちゃんとわかるように、笑った。
「ぜんぶだよ」
「喧嘩売ってんのか?! ああ?!」
いつものように怒気に満ちた顔で睨み付けられる。染みついた恐怖がわずかに顔をもたげるが、震える手足とあわせ、出久はそれを気合でおさえつけた。
ああ、僕、ちょっと成長してるのかも? 我ながら強かになったと思う。
「とにかく!」
勝己の気迫に負けぬよう、出久は声を張り上げる。
「僕、絶対にかっちゃんのことはなさないから!」
個性を使ってでもこの状態を維持する、と言外に意味をこめ、宣言した。
賢い勝己のことだ。このまま攻防を繰り広げるうちに、制服が破けでもしたら、勝ち気な母親からこっぴどく怒られることくらい、すぐに想像できるだろう。
だが、最後の抵抗とばかりに、吠えるように怒りながら、悪態をついて、口汚く罵ってくるに違いない。
さあ、こい! と出久は顎をぐっとあげて待ち受けるが――それは数秒経過してもこなかった。
あれ? と思った出久は、踵をもちあげた。暗くなりすぎてよくみえなかった勝己の顔を、真正面から覗き込む。
勝己は、出久が思っていたような表情をしていなかった。
虚を突かれた顔は幼げで、どうしてだか泣きそうにみえた。
しばらくそのまま、みつめあう。ゆらゆらと、赤い瞳が水面のように揺れているのが、これまでのやりとりを忘れてしまうくらいに、綺麗だった。
くしゃ、と勝己が顔を歪める。いつもならそれが怒っているとしかみえないのに、今はやっぱり、泣きそうに思えた。
「……っ、ば、こんのバカ! クソが!」
ようやっと、出久の想像通りの言葉を吐いて、勝己が歩き出す。ひかれて、出久も一歩踏み出す。
ぼうっとしながら見下ろしたのは、ぎゅっと握りしめた自分の拳。その中には、勝己の制服がおさまっている。それを引きはがされることもなく――二人で歩く。
声をもらすこともなく、目を見開いてありえない光景を網膜に焼き付ける。
紺青の夜空、きらきらと輝く星。風に揺れる金の髪、制服に包まれた広く逞しい背中。
ありえない。こんな風に、一緒に歩くなんてそんな。まるで、幼いころに戻ったみたいな、こんなこと。
自分で宣言した結果とはいえ、出久は混乱していた。
「……なんで、いまごろ……ンなこと……クソっ……」
勝己の掠れた声が、わずかに風にのって出久の耳に届く。でも、それは小さすぎたし、ぐるぐると思考が巡り続けていたせいで、勝己がなにを言いたいのかまでかはわからなかった。
黙ったまま、出久は勝己と歩き続ける。校門が、みえてきた。
そこで、はたと出久は己が口にした言葉のあやうさに気付いた。
あれ、もしかして僕、すごく恥ずかしいこといった?
どうして、別れ話がもつれた恋人同士のような、倦怠期に痴話喧嘩をする恋人同士のような――そんな台詞を! いったの! しかも! かっちゃんに!
いまさらながら、出久は顔から火を噴くような思いを味わう。空いている手で、顔を覆った。
ああ、でも。でも。この手を――はなしたくない。
指の隙間からみえる勝己の背中が、懐かしい。
なにも考えずに、この背についていけていた日々は輝いていた。純粋に、楽しかった。
今、ほんの少しだけ、そのときの気持ちを思い出してもいいだろうか?
このままでいさせてくれるということは、許してくれているのだろうか?
前だけをみる勝己の表情は、出久からはみえない。
「ちょっとだけ、甘えさせてもらっても……いいのかな……」
勝己には聞こえなくくらい、小さく小さく呟いて、出久は真っ赤になった顔を伏せた。
夜の風に包まれて、星に見守られ、二人はゆっくりと帰り道を辿ってゆく。
明日、このやりとりの最後だけを目撃していたとある生徒により、尾ひれがつけまくられた噂が持ち上がることになるのだが――赤面したまま歩く少年二人は、知る由もない。