没頭していた本を読み終え、ふと顔をあげればリビングは燃え立つような赤色に包まれていた。
いつの間にそんなに時間が経っていたのかと、少々焦る。念のため端末を確認するが、緊急連絡の形跡はなかった。ほっと、息を吐く。
ひとまず落ち着いたところで、きょろりと瞳をめぐらせる。しかし、一緒に過ごしていたはずの同居人の姿はどこにもない。
耳を澄ませれば、遠くで水が流れる音がする。シャワーでも浴びているのだろう。ということは、一人でトレーニングをこなし、今は汗を流している、といったところか。
リビングからいつの間にでていったのか記憶にないのが、少々申し訳ない。我ながら、集中しすぎたと感じる。
サイドテーブルの上にあるマグカップに手を伸ばす。冷めたコーヒーで喉を潤したが、あまり美味しくなかった。ちょっと眉をひそめる。
同居人とは、プロのヒーローとして活動しはじめてから、一緒に暮らしはじめた。はや数ヶ月たつ。
どちらも多忙極まりないが、久しぶりに重なった二人の休日は、随分と穏やかに終わりを告げようとしている。呼び出しがなかったのが、その証拠。
平和なのは、いいことだね、うん。
ヒーローが休めるということは、どこかの誰かが救けを求めていないということだ。
何度も頷きながら、若手プロヒーロー・デクこと緑谷出久は、身体を預けていたソファから立ち上がる。そうして、小さく唸りながら背伸びする。同じ姿勢でいたせいか、身体がすっかり固まってしまっている。
軽くストレッチをしていると、窓が視界に飛び込んでくる。
この家は、高層マンションの上部に位置しているため、出久のいる位置から町並みはみえない。
わかるのは、沈みゆく太陽がみせる赤さ。そこにたなびく複雑な色合いをみせる雲。あえかに瞬きはじめている星。
その色彩が、出久の記憶を擽る。
人の記憶とは、匂いや色が加わると、とたんに鮮明に蘇ってくるという。
出久の思い出の蓋が、ひらく。そのまま、身体を動かすことを忘れ、ぼうっとあふれてくる「やさしいもの」に浸った。
――ひっく……えぅ、かっちゃん……かっちゃん……ひぐっ……かっちゃぁぁん……
思い出の中の自分は、あてどもなく、夕焼けの中を歩いている。
とぼとぼ、とぼとぼ、と。一人、寂しく。そうしながら、幼馴染の名を、無心に呼ぶ。
ふと、風が動き、長い影が足元に届く。涙で滲む夕焼け色の視界に、それはよく映えた。赤い世界に訪れた、救い。
顔をあげれば、金の髪を夕日で輝かせた幼馴染がたっていた。
――いずく?
――かっちゃん!
当然のように駆け寄ってきてくれる彼に、出久は手を伸ばした。
それが振り払われることなんて、微塵も考えていなかった。
――ないてんじゃねーよ、いずく
ぼろぼろと涙を零して泣いていた出久を、勝己は当たり前のように、精一杯抱きしめてくれた。
そのときは安心できるような大きさだったけれど、今思えば随分と小さかったように思う。
でも、それはそうだろう。
だって。彼だって、自分だって、あの頃はなにも疑うことなく、なににも絶望することなく、なにを蔑むでもなく、ただキラキラした毎日を過ごすだけの、幼子だったのだから。
しかし、あのときの自分にとっては、彼が、彼こそが、ヒーローだった。いや、その頃からずっと、ヒーローか――出久は、声を漏らして笑う。
追いかけて、追い越したかった力強い背中は、学生時代の目標だった。
自分の生き方と、在りようを教えてくれたオールマイトとはまた違う。
勝己に向けていたのは、原始の憧れ。
まあ、お互いいろいろとこじらせた結果、関係がよいとは言えない時期もあったけれど、それはもう懐かしく語れる、昔話だ。
「……そういえば、僕、どうして泣いていたんだっけ……」
出久は、当事者でありながら、小さく唸って頭を捻る。だめだ。思い出せない。
原因を思い出せないのに、抱きしめてもらったことだけは、やけに鮮明に覚えているのだから、記憶とは不思議なものだ。まあ、嫌なことよりも幸せな思い出のほうが、残ってくれたほうがいいのだけれど。
ふふ、と出久は口元を緩ませる。
お母さんの真似だったのかなぁ。小さなあったかい手で、背中を優しく何度も撫でてくれたっけ……優しかったなぁ、かっちゃん。
そのあと泣き止んだ出久は、勝己に手をひかれて家路についた。その頃にはもう、二人でなんでもないことを笑いあっていた。お互い可愛かった。
思い出せば、自然と頬が緩む。懐かしい思い出は愛おしく、心を温めてくれる。
ふんわりとしたおぼろげな記憶をもう一度思い返していると、リビングのドアが開いた。
反射的にそちらへと顔を向けると、黒のタンクトップにジャージという格好の勝己が、タオルで頭を拭きつつはいってくるところであった。
出久をみて、ぴくり、と勝己の眉が跳ねる。
「あ? きもちわりぃな、なに笑ってんだよ」
「えっ、僕、そんなに笑ってる?」
驚いた出久は、ぱっと口元を両手で覆う。確かにちょっと笑っていたとは思うけど、指摘されるほどではないと思っていた。
アイランド型キッチンの向こうにある冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを引っ張りだしつつ、勝己が言う。
「ああ、クソナードらしくにやにやといやらしくな」
「もう……」
出久は呆れまじりに目を細め、不満げに唇を尖らせる。まったくひどい口の悪さである。
長年の付き合いだから慣れている出久はいいけれど、彼に憧れる子供達が真似したらどうするのだろう。どうにかしてもらいたい。
でも、もし、万が一奇跡がおきて、口の悪さがなおったら? それはもはや、勝己じゃないような気がする。複雑である。
むう~……、と腕を組んで悩んでいた出久は、ふと思いついたまま、勝己に話しかける。
「ねえ、僕が泣いてたらさ、かっちゃんはどうする?」
ぐっと喉をさらしながら水を飲んでいた勝己は、数回喉仏を上下させてから、出久に顔をむけた。手の甲で口元を拭う様が、嫌味なくらいに格好いい。
「あ? 知るかよクソが。いつものことじゃねーか、勝手に泣いてろや」
「だよねえ……」
ずるずるとソファへ再び身を沈めて、自他共に認める泣き虫の出久は笑う。やはり、勝己はこうでなくては。
こんな成長をとげた彼が、あの優しさをみせてくれるとは、到底思えない。わかっていたのに、聞いてしまったのは浅はかだった。
あの可愛い彼は、どこに置き去りにされたんだろう? できることなら取り戻したいけれど、時間をさかのぼるような個性は、出久はもちあわせておらず、世界中をみまわしても発見されたためしは無い。考えるだけ無駄だ。
祈るように胸に手を当て、ゆっくりと瞼を下げる。
さよなら、僕の思い出のかっちゃん――
君の可愛さは永遠だよ……と、出久はその面影の尊さに思いを馳せる。
と。
ふ、と影がさしたことに気づく。何かが光を遮ったことが、瞼越しに感じられる。
ぱち、と瞳を開けば、すぐそこに勝己の顔があった。不機嫌そうな苛立ちのこもった赤い瞳でこちらを睨みつけ――ては、いない。
そこに浮かんでいるのは静かな光。こちらの心を探るような、肌を撫でて確かめるような視線に、出久は標本になった蝶のように縫いとめられる。針に似た勝己の瞳に刺された出久の心臓が、早鐘をうつ。
「なんだよ、別に泣いてねーじゃねえか、クソが」
「かっちゃ……」
最後までいわせるつもりがなかったようで、彼に声ごと食べられる。
「んぅ……!」
さきほどまでの素っ気無さからは想像もできないような情熱的な貪り方に、呼吸が追いつかない。鼻からの酸素だけでは脳が正常にまわらない。
音をたてて吸われる舌先から、じんとした痺れが走り、身体を侵していく。
勝己の熱を有無を言わさず与えてくるような、その個性そのものを体現したような口づけは、思った以上に長く――出久の脳内で危険信号が明滅した。
「……っ、ぁああああ!」
「!」
彼岸がみえかけた出久は、ワン・フォー・オールを惜しみなく発揮した。
壁にぶちあたってもいいと思うくらいの力をこめて押しやったものの、相手は若手有望ヒーローの中でも筆頭格の、爆豪勝己である。そんなことにはならなかった。
小規模の爆破を起こして空中で体勢を整えると素早く身を捻り、壁へと一度足をつけ跳び上がり――なんなく床へと降り立つ。肩にかけていたタオルは、その動きについてこれずに、ふわりと空中をさ迷って落ちた。
勝己の爆破という個性対策に、床も壁も天井も特別仕様に分厚く頑丈に改装したマンションでよかった。ほんとうによかった。
出久が、自分の状況から現実逃避のために、そんなことを思ったのもつかの間。
怒りにあたりの空気を歪ませながら、勝己が立ち上がる。
整った顔の眉間には皺。こめかみには青筋。紅玉のような瞳は、ぎらぎらと剣呑に光っている。口元は、凶悪に歪んでいた。ほんとうにヒーローなのかと真顔で問いかけたくなるような表情である。
ひぃ、と長年染み付いた恐怖から、出久は身体を竦ませる。鋭く息を吸い込んだ唇は、二人の唾液で濡れていて、風がとおると少し冷たかった。
一歩、また一歩と、勝己が近づいてくる。
「おいコラてめぇ……俺がせっかくかまってやったってーのによォ……! どーいうつもりだ、コラ!」
「かっちゃんが僕を殺しにくるからでしょ?!」
身の危険を感じた出久は、素早くソファから離れると、ダイニングテーブルの向こう側へと逃げた。
「おー、おー! 酸欠で殺してやっからこっちこいや!」
「いやだよ?! わかってていくわけないでしょ?!」
出久が逃げた。この他愛の無い当然の結果が、勝己の怒りを頂点までおしあげたらしい。掌が、小規模の爆発を繰り返す。
「逃げんじゃねェよ! デクのくせに!」
「意味わかんないからね?!」
命の危機を覚えれば、誰だって逃げるに決まっている。デクのくせに、などといわれる筋合いはない。中学生あたりの出久なら、それでも身を竦めて立ち尽くし、勝己に捕まるのを待っていただろうが、今は違う。経験も度胸もこれまでに培ってきたのだ。足をとめることなんてない。
どたばたと二人は追いかけっこ繰り返す。勝己がテーブルを飛び越えてくれば、出久はすかさずテーブルの下をもぐりこんで再び相対する。
そんなことをしているうちに、苛々を大爆発させて勝己が叫ぶ。
「だー! どうしろってんだよ!」
「優しくしてよ!」
「これ以上なくやさしかっただろうが!」
「あれで?!」
ぎゃあぎゃあと言い合い、ダイニングテーブルをはさんでぐるぐると逃げ回る。
「もー……昔は可愛かったのに……!」
「あ?」
「かっちゃんは覚えてないだろうけどね……!」
出久は、思い出し笑いしていた内容を、若干の嫌味をこめて語ってやった。もちろん、逃げながらだ。
語り終わったあと、嫌そうな顔をするかと思いきや、勝己はきょとんと目を瞬かせて足を止めた。さきほどまで凶悪であった顔が、一瞬にしてあどけなさを帯びる。
ちょっと可愛い――そんなことを口にしたらそれこそ爆破殺されそうなので、いわないけれども。
すると、おもむろに勝己が腕をひろげた。
「ん」
意味がわからず、出久は間の抜けた顔で固まる。
「へぁ?」
数拍おいて、ようやくそれだけ声にして、小さく首を傾げると。
「こいや」
顎をしゃくって勝己が命じてきた。やさしくしてほしーんだろうが、と勝己が言う。
「え、ええっと~……」
腕をひろげて待つ勝己を無視し続けると、部屋自体がふっとびそうだ。いやむしろ、この部屋があるワンフロアが崩壊する。
そんな心配もあるけれど――赤い部屋と勝己から伸びてくる黒い影のコントラストが、尊い思い出に重なって、出久はなんともいえない気持ちになる。
「……爆破、しないでね」
出久は覚悟を決めて、そろそろと近づき、恐る恐ると勝己に寄り添った。
ん、と頷いた勝己が、子供の頃よりずっと逞しくなった腕で、ひどくやさしく出久を包む。
う、わぁ……――出久は、思わずそんな声をあげそうになって、慌てて飲み込んだ。
出久の背中に触れる大きなてのひら。あたたかな温度を伝えてくるそれが、ゆるゆると上下する。あのときのように。
普段の勝己しか知らないものがみたならば、卒倒するような慈しみ方に、出久の顔へ血がのぼってくる。
こみあげる感情を、なんとか分析しようとするが、次から次へと沸きあがってきて追いつかない。
嬉しい。好き。あったかい。もっとして。優しい。大好き――やばい。まずい。今、僕、そうとうみっともない顔してる。どうしようもなく、嬉しいから。そう、自覚したら、もうだめだった。
せりあがってくる気持ちに押し上げられるように、目から涙が溢れた。呼吸がしづらい。ひう、と喉の奥を引きつらせると、縋っている逞しい身体が揺れた。
「なんもしてねーのになんで泣くんだよ、意味わかんね」
さっきは泣いてなかったくせに、と、勝己がぼやく。
「なんでだろう、ね……うん、どうしてかな……」
いい歳になった男が、しゃくりあげて泣くなんてみっともない。でも、そのみっともなさを、この幼馴染で愛しい恋人は、当然のように受け止めてくれる。いままでに、散々みっともないところをみせてきたのだから、これくらいたいしたことはないのだろう。自分のすべてをみせられる、人。
出久は、勝己の肩へと頬を寄せる。彼からはいつも、甘い香りがする。これが汗だというから不思議だ。すん、と鼻を鳴らして、出久は笑う。
「きっと、かっちゃんが大好きだから、だよ」
そんな答えを導き出せば、皮膚の厚い大きな手が、出久の頬を撫でで顎を掬った。
されるがままに顔をあげれば、にや、と歯を見せて勝己が笑う。そこに爽やかさなど微塵も無い。
やっぱり悪役がよく似合いそうな笑みである。子供が泣く。いや、今泣いているのは自分だけど。
「ハッ、こうするたびに泣かれるんじゃたまったもんじゃねーなァ。ったく、ひでぇ顔しやがって、ブサイクが」
わりと心動かされる場面と台詞だったと思うのだが、勝己は勝己であった。
「……ほんとひどいよ……」
わずかに反抗の言葉をはいて、出久は唇を引き結ぶ。顔が動かせないので、出久は視線だけ逸らした。
出久の抵抗なんて、勝己にはそよ風程度の障害なのだろう。躊躇なく寄せられる顔。なにをしようとしているのかなんて、考えるまでもない。
ぜっっったい、こたえてなんてやるもんか! という気合をこめて、出久は唇に力をこめる。が。
「――ないてんじゃねーよ、いずく」
あのときとおなじ言葉を、ひどく優しく囁くから。
あっさりと、出久の決意は木っ端微塵に吹き飛んだ。
涙が滲む目を大きく見開く。ぼろり、とまた雫が落ちていった。それをみて、勝己は笑っている。
ああ、なんて、僕のヒーローは、ずるくて、格好いいんだろう。世界一だ。
魅入られて視界が閉じられぬままでいる出久に、勝己の唇が押し付けられる。
「……ん」
さっきのような命の危険を感じるようなものではない。ただ重ねるだけの、児戯に等しい口付けだ。
口を開けばひどいことばかりいうし、態度だって乱暴極まりない。なのに、嫌いになれないのは、こうして伝えてくれるものに偽りがないからだ。彼の熱が、愛しいと教えてくれるからだ。
眠りにまどろむように、自然と瞼が下がる。
奪うのではなくただただ与えてくれるそれに溺れるように、出久はみずから唇をひらいた。