二人で重ねた秘密の味は

 今日も暑い。
 夏なのだから当然のことだけれど、暑いものは暑い。愚痴りたくなるのが、人というものだ。
 雄英高校は冷暖房が完備された有難い学校であるが、さすがに日差しを防ぐまでにはいたらない。
 窓から射しこみ廊下を満たす光は強く眩く、いくら空気が涼しくとも、浴びれば暑さを感じる。
 それが、間もなく夕暮れになるだろう西日ならば、なおのこと。
「ふう……、寮にいくまでが暑そう……」
 オールマイトに、思案中のトレーニングメニューの確認と助言をもらった帰り道。
 なるべく廊下の隅、光の当たらない場所を選びつつ歩いていた緑谷出久は、薄っすらと滲んだ汗のせいで額に貼り付く髪をかきあげつつ、そうひとりごちた。
 寮に帰ったら、指摘のあった点を組み直して、明日の授業の予習もしなければ。
 それから、今日のまとめも。友人たちの素晴らしい個性の新たな可能性を垣間見たのだ。忘れないうちにノートに記しておきたい。
 あとは、幼いころからの日課、ヒーローニュースのチェック。
 やることがたくさんあるから、効率よくやらなきゃ――そんなことを考えつつ、足早に廊下を歩いていると、ふと窓の向こう側に見知った人影がみえた。
 尖った赤い髪が特徴的な切島鋭児郎と、この季節、向日葵を連想させる髪色の上鳴電気の二名だ。
 どうやら、あちらも出久に気付いたようで、揃って笑顔を浮かべ、手を振ってきた。
 緑まばゆい梢を、夏の風に揺らす木々の植えられた中庭は、いくら木陰があるといっても暑いだろうに、元気いっぱいだ。
 彼らの幼子のような屈託のない様子に、出久は笑いながら足を止めて、手を振り返す。
 しかし、そうじゃねえと言わんばかりに手が左右に振られる。
 そして、こっちにこいと伝えるように手招きされた。出久は首をかしげた。
 彼らがいる場所は、ここから少しいった先の扉からはいることができる場所だ。
 夏ともなると、さすがに人は少なくなるが、お昼を食べたり、生徒がくつろいでいたりと、いろんなことに使われている。
 どう考えても暑いだろうが、このように一生懸命に誘われては、断る理由はないだろう。
 出久は頬を緩めたまま、寮に帰るための足をそちらに向けることにした。
 待たせるわけにもいくまい。
 小走りに校舎から飛びだすと、むわっとした湿気を孕んだ熱気が、出久の身体を包み込む。喧しいほどの蝉の鳴き声が、鼓膜を揺らす。
 青い空から降り注ぐ眩い日光に、景色全体が白んで見えた。
 出久は目を細めながら、中庭を横切っていく。
「おー! 緑谷きたきた!」
「今から帰るとこだったのか?」
「うん!」
 出久を中庭へと呼び込んだ二人は、嬉しそうに出久を迎え入れてくれた。
 中学生のころまで、同級生達とは距離のあった出久にとって、こういったことは素直に嬉しい。
 彼らの傍へと歩み寄りながら、出久も笑って問いに答える。
「やっぱり外は暑いね。それで、どうしたの?」
「これこれ!」
 なにかあった? と尋ねれば、切島が手にしていたものを見せてくれた。
 それは、瓶がふたつくっついたような形状をした、出久もよく知っているものだった。
 ぱっと、出久は顔を輝かせた。
「わ、パピコだ!」
 しかも夏季限定のホワイトサワー味。
 パピコは、色々な味が楽しめるアイスだが、出久はこれが一等好きだ。
 売店に売っているのを知ってはいたが、食べる機会がなかったものと、ここで出会うとは。
 そんな出久の反応にほほを緩ませた切島が、パピコを左右にとりわけて一方を差し出してきた。
「ほら、緑谷。食べるだろ?」
「いいの?」
 パピコと切島の顔を見比べる出久に、切島は笑顔で頷いた。
「おう、もちろんだぜ! これは、誰かと半分こするのがうめえんだからな!」
 出久は気色満面で、パピコを受けとる。
「わあぁぁ、ありがとう!」
 向けられた厚意は、ありがたく頂戴しよう。
 ひんやりとした冷たさが、指先に心地よくて、ほうと息が漏れる。。
「暑いときに食うアイスは最高だよな~」
 そんなことをしみじみ呟きながら、上鳴が花壇の縁に腰掛けて、手にしたガリガリくんソーダ味を袋から取り出す。
「ほんとだよな! 緑谷も座れよ」
「うん、お邪魔します」
 切島が上鳴の隣に座ったのをみて、出久はその横に腰を落ち着けた。
 ほう、と息が漏れる。
 暑いことは暑いけれど、背後にある木の伸びやかな枝ぶりに日差しが遮られていて、そこまで暑さを感じない。
 木漏れ日の美しい煌めきが、足元で丸く踊っているのも、綺麗で楽しい。
 アイスを食べるにはいいところだなと思いながら、出久はありがたくパピコの封を切って口をつけた。
 中身を押しつぶしながら、じゅ、と吸い上げる。
 ああ、おいしい。
 口いっぱいに広がる、冷たくて、なめらかな食感。ホワイトサーの爽やかさに、目が勝手に細くなる。
 夏の風物詩を堪能しつつ、出久は隣に座った切島の顔をよくよく眺め、目を瞬かせた。
「切島くん」
「ん?」
「このあたり、なんか白いね?」
 じっとみつめた切島の顔は、輪郭と頬から鼻あたりがうっすらと白い。
 出久は、わかりやすいように、自分の顎回りと左頬から右頬へと指先を移動させる。
 出久からの指摘に、不思議そうな表情をみせた切島であったが、すぐになにかに思い当ったらしい。
 顔を綻ばせ、その部分を撫でた。その仕草が、なんだか男らしい。
「ああ、日焼けだろ」
「あ、なるほど。コスチューム焼けだね」
 ふむふむ、と出久は頷く。
 ここ最近、野外での訓練が多かった。なるほど納得。
 納得した出久へと、上鳴がひょこりと顔を覗かせる。
「緑谷は、日焼けとかあんまり関係なさそうだよな~。そのぶん暑そうだけどさ」
 そんな言葉に、出久はやんわりと頭を振った。
「いやそれがね、そうでもないんだ。ほら」
 そういいながら、ぺろっと右肘につけたサポーターをめくる。
「ぶはははは!」
「すげーな、緑谷!」
 次の瞬間、二人が大きく声をあげた。
 そんなに笑わなくても、と出久は唇を尖らせ、眉を下げる。
 とはいえ、彼らがそうなるのもわからないではない。
 思っていたよりも、くっきりとした日焼けが出来ていて、ちょっと自分でも驚いたのだから。
「僕、日焼けしやすいんだけど、油断してて」
「緑谷はコス焼けしねえけど、制服焼けしちまうのか」
 それはそれで大変だな、と切島が笑う。
「僕のコスチューム、露出するとこあんまりないから」
 緑色のジャンプスーツに顔の半分以上を覆うマスク。それらをしっかりと着込めば、ほとんど日光にあたることはない。
「うちのクラスで悲惨なコス焼けしそうなのっていうと……、女子なら八百万とか? ああ、爆豪あたりもか?」
 うーん、と視線を上にあげつつ、アイスを齧りつつそういった上鳴に、切島が頷く。
「おー、そうかもな。肩でてるしマスクもしてるし」
「あれで日焼けしたら面白そうだよなー!」
 勝己のそんな姿を想像してしまったのだろう、二人は揃って軽やかに笑い声をあげる。
 その様子に出久は眼を瞬かせたあと、笑った。
「ああ、かっちゃんは大丈夫だよ」
 そんなことにはならないと思うよ、と軽く頭を振る。
 パピコを吸い上げて、やっぱりこの味は美味しいと頬を緩ませていると、二人が不思議そうに首を傾げた。
「は?」
「なんで?」
 ええっと、と声を漏らしながら、出久も同じようにわずかに首を倒す。
「昔からそうだったから?」
 疑問形で答えてしまった自分に笑いながら、出久は続ける。
「夏に公園で遊んでても、プールについていっても、僕とか他の子は日焼けしていたけどさ、かっちゃんはうっすら赤くなるくらいだったし。だからコス焼けもしないんじゃないかなって」
 同年代の女子のように、勝己が日焼け止めを塗っているところなど、幼いころからみたことがない。
 母親が処置していたという可能性もあるだろうが、あの勝己が母親におとなしく塗られるだろうか?
 だから、勝己のあれはもともとそういう体質なのだろうと、出久は考察している。
 おばさんも肌が白くて綺麗だしね――と、ぼんやりそんなことを思っていた出久は、上鳴と切島に凝視されていることに気付き、肩を震わせた。
「ど、どうしたの?」
 四つの目から熱い視線を向けられる心当たりがない以上、慄くのは仕方がないだろう。
 怯えたように身を竦める出久をみて、ゆっくりと二人は顔を見合わせる。
「いやー。だって、なあ?」
「……おう」
 彼らのいわんとするところがわからず、出久の脳内に疑問符ばかりが浮かんで消える。
 そんな出久に向かって、上鳴が笑った。
「悪い、悪い。普通の幼馴染っぽいエピソードが緑谷の口からでてきたからさ、びっくりしたんだって」
 うんうん、と切島が心からの同意を示すように何度も頷く。
「えええ、なにそれ……」
 そんなに驚かれるような話だったろうか? 
 出久は、思わず眉根を寄せた。
「だっていつもはさあ、爆豪は緑谷のことあんな扱いしてるだろ? だから、なあ?」
 あんな扱い。
 自分と勝己の関係は、その単語ひとつに集約されるような可愛いものではないのだが、子細を述べる必要もないだろう。
 出久は、なんとも言えない気持ちで苦笑した。
「それは、かっちゃんの性格がああだから……。僕が、かっちゃんを怒らせちゃうのもダメなんだけど」
 見ていれば睨まれる。
 言葉を発すれば「黙れ」と言われる。
 関わりあいを持とうとしても、どうしても、うまくいかない。
 そんな、拗れた幼馴染。
 だけど少しだけ、進展はあったのだ。
 出久は、遠いどこかに思い馳せるように、目を細めた。
 拳を交わしながら、はじめて本音をぶつけたあの夜のことは、いつでも鮮やか思い起こすことができる。
 これからも、決して忘れることのないだろう、この記憶は、自分たちの新たなはじまり。
「でも、少しマシになっただろ」
 あっけらかんとした、思わぬ切島の言葉に、出久は肩を震わせ息を飲んだ。
 だが、呼吸を止めて硬直したのは、わずかなこと。
「え、っと……?」
 どうしてそう思うのか。何か、勝己が切島に話したのか。
 言葉少なく視線を泳がせる出久にかわり、「えーっ」と上鳴が大きな声をあげて、おおげさに仰け反った。
「そうかぁ? なにも変わってねえと思うけど?」
「いやいや! ぜってぇ、前より雰囲気いいって! な、お前らさ、喧嘩してすっきりしたんだろ? 拳で語る男の友情って感じで、俺ァ好きだぜ、そういうの!」
 太陽を連想させるような明るい笑顔でそういわれ、出久は曖昧に微笑んだ。
「……あ、うん……」
 どうやら、秘密を知っているわけではないらしい。内心、ほっとする。まあ、勝己が喋るわけなどない。
 彼と共有した秘密が、脳裏をよぎる。
 オールマイトのこと。受け継がれてきた個性のこと。出久が、その継承者であること。
 あの重い真実を知る数少ない人のうち一人が、勝己でよかったと出久は思っている。
 どんなに乱暴にみえても、横暴にふるまっていても、彼には誰にも侵せない彼の信念がある。
 出久がずっと憧れてきた、決して折れることのない、強烈な輝きをはなつものが。
 だから、勝己なら大丈夫なのだ。
 二人には曖昧に笑って誤魔化しつつ、出久がパピコに口をつけようとした、そのとき。
「おい!」
「「「!」」」
 唐突に飛んできた鋭く不機嫌極まりない声に、三人そろって肩を跳ねさせた。
 聞きなれた声。感じ慣れた派手な気配。ちりり、と大気が焼け焦げるような音さえ聞こえそう。
 ぱっと視線をむければ、いかにも苛々してます! といった雰囲気をまとった少年―爆豪勝己が、陽炎を従えて立っていた。
 魔王の登場かよ。心の中でツッコミながら、出久は胸をおさえた。
 いましがた、脳裏に思い描いていた人物の急な登場に、速い鼓動を刻み始めた心臓が痛い。
「てめえら、こんなとこにいたんかよ」
「おー、爆豪! どうした? 顔怖いぞ!」
「うげー、爆ギレ何秒前……?」
 足取り荒く近寄ってくる勝己を、けろりとした顔で出迎える切島と、頬を引きつらせている上鳴は対照的だ。
 そんな彼らを殺すような視線で一瞥したあと、勝己が舌打ちした。
「言いたい放題じゃねえか……まあいいわ。相澤先生が探してたぞ。てめェら何しやがった」
 出久はその発言に目を丸くした。
 どうやら、勝己は二人を探していたらしい。
 もしかしたら、先生に言われたからかもしれないが、幼い頃から勝己をみていた出久にとっては衝撃だった。
 昔なら、そんな面倒くさいこと断っていただろうに。
「あ! やべ! 課題!」
「忘れてた……! じゃあな、緑谷!」
 勝己の成長に硬直している出久のことには気づかぬまま、切島と上鳴が顔色を悪くして立ち上がった。
 残っていたアイスを平らげ、あたふたと駆けだした二人に、はっと我を取り戻した出久は声をかける。
「あ、うん! これ、ありがとう!」
 おう、じゃーなー、と力いっぱい手を振って、切島と上鳴は校舎へと吸い込まれていった。
 残されたのは、半分ほど残ったパピコと持った出久と勝己。そして夏の日差し。
 ざあ、と暑い風が吹く。
 ちらり、視線を勝己に向けると、恐ろしいことに、出久のほうをみていた。
 慌てて視線を逸らして、パピコを揉んだ。さっさと食べてしまえば、ここから離脱できる。
「なんの話してやがったんだ、あ?」
「パ、パピコもらったんだよ」
 ほらこれ、とみせれば、勝己は目を細めた。
「……ふん」
 気のない返事をした勝己が、出久の隣に腰掛ける。
 そして、持参していたとおぼしきペットボトルの蓋を無造作に開ける。どうやら水のようだ。余分なものを好まない、勝己らしい。
 出久は、緊張しながらも小さく微笑んだ。
 こうして並んで座ることも、入学当時には考えられなかった。
 切島がいうとおり、複雑だった自分たちの関係は、少しだけよいものになったのかもしれない。
 ペットボトルを傾け、水を飲む勝己の喉が晒される。
 鮮やかな色彩に満たされる夏という季節の中で、その白さはひときわ目に焼きつく。
 ああ、きれいだなあ。
 視線をはなすことができず、ぼうっとそんなことを思っていると、喉を潤した勝己が睨み付けてきた。
「なに見てやがる」
「え? ……あ、ごめん……」
 その白さに見惚れていましたとか、気持ち悪すぎていえるわけがない。
 というか――かっちゃんは、なんでここにいるんだろう。
 探していたのだろう切島と上鳴は、すでにいない。ならばどうして、自分の隣で水など飲んでいるのか?
 睨んでくるぐらいならば、さっさとどこかへいけばいい。
 そのほうが、勝己の心は穏やかになるはずだ。
 そうしないということは、なにか思うところがあるということだろう。
 それは、一体なんだろう。
 ぐるぐると出久の頭の中を回り始めた疑問に、答えはでない。
 何かしゃべらなければいけないという焦りばかりが、募っていく。
「……えと、暑いね」
 結果、口から零れた言葉は、ひどくありきたりで、あたりさわりのないものだった。
 チッ、と鋭い舌打ちが返ってくる。
「ンなもん、夏だし当然だろうが」
「それは……そうだね……」
 むにゃり、と出久は口ごもった。
 会話は、やはり続かない。勝己が望んでいることも、わからない。
 とはいえ、雰囲気は悪くはないような気がしてきた。
 ちらりとみれば、赤い瞳と視線が絡んだ。
 そこに宿る苛烈さは変わらない。だけど、少しだけ、ほんの少しだけ。出久の言葉を待つ、余裕があるような気がした。
「あいつらと、まだなんか話してただろ」
「え?」
「日焼けがどーだの、クソくっだらねえこと」
「なんだ、聞いてたんだ……」
 それならば天気の話なんて、井戸端会議のスタートのようなことを言い出さなかったのに。
 出久は小さく笑った。もう、あの会話を隠す理由もない。
「だって、かっちゃんはいつも色白いだろ。すごいねって話だよ」
「なんか馬鹿にされてる気がするんだがなァ?」
 ああん? と敵のようにすごまれても困る。出久は思ったことを素直に話しているだけなのに。
 話していても埒が明かない。出久は、ずいっと勝己と距離を詰めると、自分のみっともない日焼けをしている腕を差し出した。
「だってほら、僕はちょっと日の光にあたっただけでこうなるのに……」
 剥き出しの勝己の腕と、自分の腕を並べて比べる。
 白い肌が覆うしなやかな筋肉のついた勝己の腕は、出久よりも太くて、どれだけのトレーニングを課しているか、伝わってくるようだ。
 制服の袖が、どこまでの長さなのかを教えてくれる、日に焼けた浅黒い己の肌を隣に並べているのが、急に恥ずかしくなってくる。
 それに、こんないきなり距離をつめてしまったら、勝己が怒って爆破してきそうではないか?
 まだ距離感をつかみきれていない自分が、間抜けだ。これだから、勝己が鬱陶しがるのだ。
「あっ、ご、ごめ……」
 ちらりと機嫌を伺うように勝己に視線を向けて―出久は、ン、と息を飲みこんだ。
 頭上から零れ落ちてくる光を、明るい色の髪の上で遊ばせながら、勝己が笑っている。
 これまでに見たことがない、その穏やかさに呼吸を忘れた。
「く……ンだよ、そのマヌケな日焼け」
 いつもの調子のその言葉に、ようやく目の前にいるのは幼馴染の勝己であると認識できるくらいに、出久の意識は遠ざかっていた。
 目を逸らしたいような、逸らしたくないような気持ちを抱え、わずかに視線を揺らす。
「だ、だって、かっちゃんと違って、日焼けしやすいからしかたないだろ」
「女共みてえに、日焼け止めでも塗っとけや」
「ええ……それはちょっとヤダなあ……」
「その日焼けのほうが、みっともねえだろうが」
「そんなにひどい?」
「ひでえわ」
「もう」
 出久は、くしゃりと顔を崩すように微笑む。
 二人の間に横たわっていた、見えない空気にあった角が、ほろりと落ちた気がする。
 なんだか嬉しくて、笑わずにはいられなかった。
 今ならばもう少し、かっちゃんと話しをすることができるかもしれない。
 そう思ったときにはもう、出久の口から言葉が飛び出していた。
「そういえば、今日の授業で轟くんと常闇くんが模擬戦闘してただろ? 実はさ、ちょっと気になるところがあって」
「ああ……半分野郎の炎に対する、ダークシャドウの動きか」
「そう! そのことなんだけどね!」
 そうして、戦闘から得た情報からの考察を一方的にしゃべると、勝己はときに頷き、ときに彼なりの考えを伝えてくれた。
 滑らかとは言い難いが、きちんと言葉は二人の間を行き来していく。
 幼子同士のキャッチボールのようなあやうさがあるが、なんとか会話になっている。
 なにこれ、僕たちすごい進歩してる。感動ものだ。
 こんなふうに勝己と時間を過ごせることが嬉しくて、出久が満面の笑み浮かべたとき。
 それを待っていたかのように、ぶわり、と大きな風が吹いた。
「わ、ぷ……!」
「!」
 風が下から巻き上げてくる。咄嗟に出久は顔を手で覆った。
 つむじ風のような暴風が去ったあと、勝己が馬鹿にするように口の端を持ち上げた。
 ひどく楽しそう笑われて、うぐ、と出久は唸った。
「ハッ、すげー頭」
「え、あ、わわっ……?!」
 今の風に乱れた自分の頭を笑っているのだと、すぐにわかった。
 なんでかっちゃんの髪は変わらないんだろうと思いながら、出久は髪を手で整えていく。鏡がない以上、勘でどうにかするしかない。
「ついてんぞ」
「え、え? なにが……?」
 指摘されているところがよくわからないまま、出久は自分の頭を撫でまわす。
 だが、なんの感触も得られず、困ったように勝己をみれば盛大な溜息がこぼされた。
「そこじゃねえ。ったくトロくせぇな、てめぇは。昔からなんも変わりゃしねえ」
「う……」
 帰す言葉もなく黙り込んだ出久に向かって、勝己の長く節だった白い指が無造作に伸びてくる。
 出久はもう、その手に怯えることはない。身を竦めることもない。
 これもまた、進歩だろう。
 出久の頭から、すぐに離れていった勝己の指先には、明るい緑の葉っぱがひとつ。
「ありがとう、かっちゃん」
 そう礼を述べて、微笑んだ出久は、ふいに気づいた。
 勝己の眉間に、皺がない。
 めずらしいなぁ、とじっとみつめれば、もうひとつ気付いたことがあった。
 穏やかな湖面のように凪いだ端正な顔が、すぐ近くにあるのだ。
 ちかい。否、ちかづいてくる。まるでこちらに重力があるみたいに、逆らうことなく落ちてきている。
 あ、と間の抜けた声を漏らしたとき―ふにゅ、と唇に柔らかなものが触れた。
 それが勝己の唇であると理解するのに、時間はそういらなかった。
「っ、うわあああ?!」
「ッ、アァァァァ?!」
 重なっていた唇が、わずかに離れた瞬間。
 ほぼ同時に悲鳴じみた大声あげながら、出久と勝己は仰け反って距離をとった。
 出久は、性的接触を誰かとしたことがない。考えたことがないわけではないが、まさかそれを幼馴染とだなんて、思うわけがない。
 出久は顔を真っ赤にして、口元をガシゴシと拭う。
「な、なに、なん、いまのっ、なにっ、がっ?!」
「大声だすな、うるっせぇわクソデク!」
「かっちゃんこそ声大きいだろ?!」
 ひりつくほどの強さと勢いで手を動かし、唇に残る感触を追いだそうとするが、どうにも離れてくれない。
 出久は恨みがましく勝己を睨み付けた。
 まさかこんな嫌がらせをされるなんて。少し関係が穏やかになったかもと喜んだ自分が馬鹿みたいだ。
「なにしてんだよ……!」
 返答次第ではただではすまさない。
 そんな思いをこめた言葉に、ぐっと悔しそうに勝己が顔を歪めた。
 みるみるうちに、その頬が赤くなっていく。白く、滑らかな肌に覆われた頬が、鮮やかに染まっていく。
 思わぬ反応に、は? と声をあげるしかできない。
 チッといつもより冴えのない舌打ちが響く。
「てめェが間抜け面してっからだ、クソが!」
「なにそれ、意味わからないよ……」
 出久は頭を抱えた。
 気が抜けた顔してたら、誰にでもこんなことするの、君。
 いや、違うだろう。勝己はそんなことをするような男ではない。では。どうして。
 そっと、出久はまだ柔らかさの残る己が唇に触れる。これは、なにを伝えようとしているのか。
 思考の渦に落ちかけた出久をみて、くわっと勝己が吊り上った目をさらに吊り上げて叫ぶ。
「なにさわっとんじゃゴラァ! つか、思い出してんじゃねぇ!」
「だ、だって!」
 仕掛けてきたのはそちらのくせに、怒鳴られるなんて理不尽だ!
「やわらかかった!」
 率直な感想を叫び返せば、勝己がわずかにみじろぎして頬を引きつらせた。
「……きもちわる……」
「……な……! き、君がしたんだろ?!」
 ドン引きする権利など、勝己にはないはずだ。
「かっちゃんはどうだったんだよ?!」
 頭を掻きむしりたい衝動を堪えながら、焦燥と羞恥に震える手を握りしめつつ詰め寄れば、勝己が緩慢な動作で天を仰いだ。
「……しるか、クソが……」
「マジか、かっちゃん……」
 どうやら、勝己のほうは、あまりの事態にそこまで感じる余裕がなかったらしい。
 しばらく自分の行いを思い返すように空をみつめていた勝己が、ゆるりと視線をさげた。
「……」
「……」
 かちり。音をたてて、そうあるべきものが組み合うように、視線が絡む。
「…………」
「…………」
 出久の目蓋が落ちていく。まるで何かを待つように。なにかを求めるように。欲するように。
 そうして、明るい闇に満たされた視界のむこう。
 蕩けるような熱をもって、再度触れた柔らかなものは、ひどく生々しくて。
 夏の暑さなど、これに比べたら、たいしたものではないように思えた。
 遠ざかっていく熱に、追い縋るように目を開ければ、勝己がなんともいえない顔をしていた。
 絶望したような、熱に浮かされたような。ありえるはずがないことをしでかしたのだから、当然か。
 今までみたことのないその表情をじっとみつめると、ふっと顔を逸らされた。
「ホワイトサワー……」
「ぶふっ」
 噴出さずにはいられなかった出久を、勝己が睨む。笑わせてきたくせになぜ怒るのか。
「笑ってんじゃねぇよ。つか、誰かにいったら殺す」
「こんなこと、いえるわけないだろ」
 誰もいない夏の学校の中庭で、幼馴染とキスをした、なんて。
 状況だけをみれば、少女漫画のよう。男と女ならば、もう少し絵になっただろうか。
 たが実態は、少年同士で、汗の匂い混じりの、かつホワイトサワー風味のファーストキス。
 夢も憧れもあったものではない。
 でも、どうしてだか、別にいいかなと思ってしまうのだから、困ったものだ。
 勝己への憧れは自覚しているけれど、こうなってもさして混乱しない自分に呆れるしかない。
 はあ、と出久は息を漏らした。
「また、秘密できちゃったね」
「あ?」
 出久は、何言ってんだといわんばかりの表情の勝己を睨みつつ、すっかり溶けてしまったパピコを指先で弄ぶ。
「しかも、オールマイトにも言えないようなやつ」
 そういってやれば、僅かに目を見開いたあと、勝己がわらった。
 吊り上った目元を、紅色にほんのりと色づかせて、好戦的かつ挑発的な表情で、言う。
「――ハッ、ぜってぇ言うなよ。クソナード」
 本人はそんなつもりはないのかもしれないが、その瞳がなんだかとても楽しそうだったから。
 やっぱりまあいいかと、わずかに唇を尖らせていた出久は、パピコに吸いついた。

 

 不思議な夏の思い出。
 新しい、二人の秘密。
 ここからはじまる、何かの予感。
 それは夏の熱い風に攫われて、遥か彼方の上空まで運ばれ、消えていった。