幼馴染カウントダウン

 僕たちはいつの間に、枠からはみ出してしまっていたのだろう。

 最初からだろうか。重ねた時間の合間だろうか。それとも最近だろうか。

 確かな記憶はなく、心当たりもない。

 ただ、二人の間に零れ落ちたものが、絡みあい、混ざりあい、熱く溶けあうことを知ったあの日からずっと。

 僕の心には、終焉までの時を刻む、針の音が響いている。

 

 

 さむい。
 顔を顰めながら抱いた感想にひきずられるようにして、意識が覚醒していく。
 夢の底で、泥のようにまどろんでいた自分が浮き上がる。わずかな光を頼りにして、現実という名の水面へと向かっていく。
 そうして訪れる目覚めは、いつも一瞬のことだ。夢と現の境界を越えて、瞼を震わせる。ふ、と開いた視界が、ほの暗く淡い、オレンジ色に満たされた。
 広いベッドに、うつ伏せに横たわっていた青年――緑谷出久は、初めて翅をはばたかせる蝶のような、ゆったりとした瞬きを繰り返す。
 ベッドの近くに灯された、洒落たランプの明かりの下で、手があどけなく彷徨う。
 そこにあるぬくもりは、一人分だけ。昨晩、あれだけ交しあった熱は、もうどこにもない。
 ほとんど無意識に、冷えたシーツを撫でた出久は、己の未練がましさに顔を曇らせた。
 どうしようもなく一人なのだと実感して、たまらなくなる。胸が、重く沈んでいく。
 またひとつ、心の虚に寂しさをつめこんだ出久は、ゆっくりと身を起こした。
 部屋は全体が薄暗い。カーテンの向こうも、まだ明るいとはいえない。どうやら、夜明け前のようだ。
 正確な時刻を知るために、出久はベッドサイドのテーブルにおかれた時計に目を遣って、わずかに眉根を寄せた。
 持ち主の趣向に沿う、洗練された直線で出来たそれは、もう帰らなければいけない時刻をとうに過ぎていることを示していた。つまり、寝坊だ。
「……帰らなきゃ」
 ぽつり、誰も居ない部屋で、一人そう呟く。いっそう増した虚しさを振りきって、出久はベッドの上を移動する。
 昨晩も、散々無理をさせられたはずなのに、動くことに不都合はない。いいのか悪いのか、身体が慣れてしまっているのだ。はじめてのときは、指の一本を動かすこともままならず、しばらくベッドの上で蹲っていたというのに。
 そんなことを思いだしながら、出久はベッドを降りた。
 剥がされたまま床に散らばっている衣服を拾い集め、身に着けていく。軽く身支度を整え、部屋を見回すが、リュックがみつからない。
 そういえば、ジャケットと一緒にリビングに置いたような気がする。身軽になったとたん、背後から抱きすくめられ、寝室へと連れ込まれた、はず。
 どうやらまだ、意識がはっきりとしていないようだ。自分の記憶に確信がもてない。出久は頭を軽く振って、寝室のドアに手を伸ばす。
 今日は夜勤だから、帰ってゆっくりとお風呂にはいって、体を休めよう。これから、どうやって時間を過ごすか脳裏に描きながら、出久は何の気負いもなく寝室の扉を開く。
 そして、息を飲んだ。
 白い明かりのつけられたリビングには、一夜をともにした相手――爆豪勝己がいた。
 新聞を広げ、ソファでコーヒーを飲んでいる。豊かで芳しい香りに包まれ、わずかに睫毛を伏せて文字を追う姿は、悔しく思うことさえ馬鹿らしくなるくらい、さまになっていた。
「おは、よう……かっちゃん……」
 いつもなら出くわすことがない相手がいることに、動揺してしまう。心臓が早鐘をうつ。
 掠れ声で発したぎこちない挨拶に返ってきたのは、冷たい視線だった。
「……おう」
 面倒くさいという気持ちが伝わってくるような素っ気のなさに、泣きたくなる。つん、と鼻の奥が痛んで、目頭が熱くなったが、絶対ここで泣いてなどやるもんかと、涙を堪えた。
 勝己は、出久の様子になど興味がないのか、赤い瞳をすぐに紙面へと戻す。形のよい唇が、気だるげな息を吐きだす。
「起きたんならさっさと帰れ。ゴミどもに見つかるとかヘマしたら殺すぞ」
「……わかってるよ」
 肌をあわせた相手に対してあんまりな台詞だろうが、これが勝己である。
 優しい言葉のひとつも、期待してはいけない。だが、その憎らしいまでの潔さに、救われているところも多いにある。
 もし、勝己に優しくされたらと思うと、身震いしてしまう。妙な期待をさせられないだけ、マシというものだ。
 出久は、ダイニングテーブルの椅子にかけてあった上着と鞄を手に取る。中身を確かめ、背負う。緊急連絡がはいっていなくてよかったと胸をなでおろしながら、仕事用の携帯電話を、ポケットに突っ込んだ。
 そして、リビングの扉に手をかけて―― 一度、唇を噛み締める。
 意を決して振り返っても、勝己はこちらをみてなどいなかった。安堵しつつも、寂しさを覚える。矛盾した自分の気持ちが、得体の知れない怪物となって胸の奥で、蠢き吠えた。
「ねえ、かっちゃん、あの……僕たち、さ……」
 ききたいこと、きけないこと。さまざまな想いが、出久の喉で鎌首をもたげる。
「あ?」
 ようやく、勝己が出久をみた。紅玉で出来たような瞳が、心の脆い部分を容赦なく射抜く。形になりかけていた言葉が、殺される。
 不自然に言葉をきったまま黙り込む出久に、勝己が怪訝そうな顔をする。形のよい唇が、ゆっくりと開いていく。
 へら、と出久は顔をほころばせた。なにかを言いかける勝己を牽制するように、わらった。きっと、すごく不恰好だろうけれども、それでも精一杯に、わらってみせた。
「なんでもない。帰るね」
 前を向き、歩き出した出久に見送りなどない。惜しむような言葉もない。
 オートロックの玄関から出ると、すぐさまジャケットのフードを目深に被った。
 冬の朝は遅い。だが、出勤の時間などは、季節によって変わることなどない。
 今日はいつもより遅く勝己のマンションを出たのだ。他の住人に顔をみられるようなことは、避けなければいけない。
 あとは、マンションの出入り口に張っているかもしれないパパラッチ。人気ヒーローともなると、私生活がつけねらわれて、あることないこと、面白おかしく記事にされてしまう。
 ヘマをするな――さきほど、リビングで言われた言葉を思い出して噛み締める。自分たちのスキャンダルなど洒落にならないことぐらい、わかっている。
 出久は、あたりの気配を確認しながら、エレベーターホールで下降のボタンを押した。
 ほどなくして、招き入れるように扉が左右に開く。乗り込むと、ポケットから出した鍵を翳して一階のボタンを押した。
 登録された情報と出久の指紋を一瞬で照会したエレベーターは、わずかに重力の揺らぎを感じさせたあと、すべるように動き出した。
 到着を知らせる、やわらかな音色のベルに促されて、出久はエントランスホールへと足を進める。
 瑞々しい花が生けられた大きな花瓶。海外の有名家具ブランド製のソファセット。まるでどこかのホテルのようだと、はじめて訪れたときに思ったものだ。
 出久は、そのきらびやかな空間を、足早に横切っていく。
 二十四時間体制が敷かれているこのマンションのコンシェルジュが、カウンターのむこうにいるが、出口へと歩いていく出久を咎めることはない。
 エレベーターを使えるということは、住人であるか、住人が正規の手続きを踏んで招いた者だけであるからだ。教育が徹底しているので、プライバシーが漏らされることもない。
 やわらかな笑顔と美しい一礼を視界の隅で確認しながら、出久はマンションの自動ドアを二回潜り抜ける。そして、慎重に周囲をみまわす。
 不審な車両はない。人影も、気配もない。さすがに、守衛もいるこのマンション付近で、寝ずに人気ヒーローの動向を探ることはできないらしい。
 そういうことに長けた個性でもあれば、また別の話なのだろうが、一般人の個性の使用は原則禁止だ。もし個性を使わなければわからない事実を記事にすれば、このご時勢、出版社のほうが叩かれることだってある。
 ましてや相手があの爆豪勝己ともなれば、容赦なく打ちのめされることうけあいだ。
「……ふう」
 出久は緊張を緩めると、リュックを担ぎ直し、夜の香りが残る道を歩き出す。
 すこし視線をあげれば、空の暗い色が鮮やかに塗り替えられていくのがみえた。深い青や紫、橙色が交じり合う、昼と夜の隙間。たなびく雲は眩く金色に輝いて、一日のはじまりを美しく告げている。
 一秒ごとに表情を変えていく空の下に広がる町は、対照的にひどく静かだ。まるで、この世界に自分ひとりしかいないような錯覚に、陥りそうになるくらいに。
 いや、もしかしたら、出久がそう思いたいだけなのかもしれない。すべて忘れて、ひとりになりたいという願いが、そんな妄想を引き寄せる。
 他者を救うことをよしとするヒーローが、なんて情けない。自嘲気味に口の端をわずかに持ち上げて歩くうちに、人の姿が増えてきた。さすがに駅周辺ともなれば、当然だろう。
 目深に被ったフードのおかげか、まさかヒーローデクがこんな時間にこんなところにいるとは思わないのか、誰にも正体を悟られることなく、出久は電車に乗った。
 ドアの付近に立ち、流れてゆく景色をぼんやりと眺める。
 無秩序に建てられたビルの群れ。肩を寄せ合うように建てられた住宅。そこには、欧州の古い街並みのような、目を見張るような美しさがあるわけではない。
 しかし、たくさんの人が、それぞれの事情と思いを抱え、懸命に生きている尊さがある。
 だからこそ、出久をはじめとしたヒーローたちは、時に命を懸けてこの町の平和を守っているのだ。
 とはいえ、今の自分が背負っているような理由で思い悩む人は、零とは言い切れないが、あまりいないだろう。
 出久は、冷たい風に頬を撫でられながら、苦くわらった。
 勝己と熱を分け合うように過ごす日々を、もう、どれだけ重ねたことだろう。
 最初のうちこそ、カレンダーの日付に印をつけて数えていたような気もするが、一年以上、勝己の家に出入りを繰り返すうち、いつの間にかやめてしまった。あんなにも楽しく胸躍らせていたというのに。
 呼びだされて、勝己のマンションを訪れ、言葉少なく性行為に及ぶ。それがどんなに異常なことなのか、恋愛経験の乏しい出久にも、わかっている。
 同性であることを考慮しても、勝己が求めてくれているからと、浮かれていた自分を殴りつけてやりたい。
 うぬぼれるな、勘違いするなと、過去の自分に忠告することができたならいいのに。そうしたら、気持ちが伴っていないことに気づいたとき、足元が崩れていくような想いを味わうこともなかっただろう。
 でも、あの酷い幼馴染に求められると、認めたくはないけれど、腹の底で歓喜が渦巻く。
 それは、決して綺麗なものではない。どこか薄汚れていて、少女のように胸をときめかせられるような、そんなものでは決してない。
 だが間違いなく、よろこびなのだ。ぞくぞくと背骨が震え、腹の奥底から胸にまで溶岩に似た、熱くどろりとしたなにかがこみあげる。しかし同時に、虚しくなる。

 僕は――かっちゃんと、どうなりたい?

 幾度も繰り返したものの、答えをみつけることができず、心の奥底に沈めていた疑問を、久しぶりに覗き込む。
 深遠のむこう。考えようとする出久を嘲笑うように諌めるように、ひょこり、別の自分が顔を覗かせる。悲しそうにわらって、頭を振っている。
 考えるだけ無駄だ。どうにもならない。もう諦めよう? ――そう、訴えている。
 でも、鼓動が速くなっていくのが止められない。顔が熱くなっていく。伝えられない言葉が、脳裏で幾重にも輪のような波紋を描いている。
 心の動揺が伝わったかのように、電車が大きく揺れた。そして、短いトンネルにはいっていく。外の景色が、黒に染まる。
 鏡のようになった窓に映る出久の顔は、迷子の子供のように、ひどいありさまだ。
 乾いた笑いがこみあげてくる。
 出久の愚かさを映した鏡は、瞬きの後、朝焼けに彩られた風景に戻っていた。
 ああ、こんなにも世界は美しくて、綺麗で、素晴らしいのに。
 くしゃり、顔を歪めて、こみあげる嗚咽を噛み殺す。肩が、ぶるりと震えた。
 出久はもう、おしこめてしまった自分がどこにいるのか、わからなくなっていた。気持ちのありかも、どこをみて前に進めばいいのかも、もう、わからない。
「バカヤロー……」
 それは誰に対しての言葉か。
 呟いた出久は、わずかに身体を折りながら、傷だらけの手で顔を覆う。
 その隙間から、ひとつ、透明な雫が落ちていった。

 

 

 

 緑谷出久と爆豪勝己は、幼馴染である。
 いつ出会ったのかという記憶もあいまいなくらい、幼い頃から二人はずっと一緒だった。いつも、いつも。
 手を繋いで遠くまで遊びにいったし、近所であるお互いの家を行き来しては、おもちゃで遊んだ。一冊の絵本を二人で読んで、疲れたら並んで昼寝をした。
 それは、二人にとってきわめて自然なことであり、形のないこのつながりが途切れるなど、考えたこともなかった。
 だがそれは、生をうけて数年の間のみ許された、幸福だった。
 この世界が、公平を謳いながら不公平で出来ていると知るまでのことだった。
 齢四歳にして知った残酷な現実に出久がうちのめされたころから、二人の関係は少しずつ変わっていった。
 爆破という個性を有する勝己と、なにも持たない無個性の出久。
 仲が良かった時間を嘲笑うかのように、同じヒーローというものを目指す二人は、対照的な位置におかれることになった。
 それでも、出久は勝己への憧れをずっと抱いていた。あからさまに邪険な扱いを受けても、勝ち続けるその背をずっとみていた。ニュースに映し出される、数多のヒーローたちの姿を書きとめるのと同じように、勝己のことをノートに綴った。
 少しずつ関係が捻じれ拗れて、無邪気だったあの頃のように笑いあえなくなってから月日は流れ――中学生になっていた出久は、当時ナンバーワンヒーローであったオールマイトと運命的な出会いを果たし、その個性を授かった。
 そして、著名なヒーローの登竜門と名高い雄英高校のヒーロー科に、合格を果たしたのである。
 もちろん、頭脳も身体能力もトップクラスであった勝己が合格しないわけもなく、二人の因果は高校でも続くこととなった。
 勝己とは、中学生の頃とは違い、何度も怒鳴りあったし殴りあった。授業と校則の範疇であったけれど、そんな風に衝突することなんて日常茶飯事だった。さもなければ、お互いに避け、近寄らなかった。
 しかし、さまざまな事件を経験した末に、互いにむき出しの心でぶつかりあうことを成しえたのも、この頃だった。遠ざかっていた心が少しだけ、近くなった気がしたものだ。
 一言では言い表せないような、濃密な高校生活だった。ひとつ選択を間違えれば、命すら危うかったと今なら思う。
 そうした激流のような三年間を経て、プロヒーローという大海原に二人が辿りついたとき、お互い多少丸くなっていたのは自然の摂理だったろう。
 険しい山からうまれた荒削りの岩石が、川を下るにしたがって、角がとれていくのと同じことだ。でもまあそれは、当事者同士にしかわからないくらいの、ささやかさだったけれど。
 でも、出久はそれでよかった。
 幼いころから憧れた、誰でも笑顔で救けるヒーローへの出発点に辿りつけた。勝己も、何があっても勝ち続けるヒーローになれた。
 それ以上、なにを求めることがあるだろう。
 なので、プロとして活躍するようになってから、自分たちの関係に改善がみられずとも、さして気にしていなかった。
 このままずっと、どちらかが死ぬまで、これは変わらないものなのだろうと、出久は半ば諦め、半ば悟りのような境地で、勝己と微妙な距離を保っていた。
 しかし、それは出久の予想に反し、あっさりと壊れた。
 不変と信じていた距離と壁を、その激しい個性のようにぶち壊したのは、勝己だった。
 とあるヒーローが主催したパーティで一緒になった勝己と出久は、どうしてだかその夜、一線をこえてしまったのである。今思い出しても、どうしてそういうことになったのか理解できない。
 口当たりのよい酒に騙されて、べろんべろんに酔った出久を、勝己は会場だったホテルの上階にとった部屋へと連れ込んだのである。
 そして、前後不覚のうちに身体を暴かれてしまった。まことに情けない話であるが、出久にはその際の記憶がまったくない。
 だが、いくらなんでもそんな無体を働かれれば、出久は懸命に抵抗しただろう。
 しかし翌朝、ベッドから動けぬまま呆然と見遣った勝己の顔に、傷などはひとつもなく。そのかわりとでもいうように、逞しい背を覆う白い肌に、幾筋もの赤い爪痕が走っていた。
 それが、覚えはなくとも自ら勝己を受け入れた証のように見えて、出久の口からは文句のひとつも飛び出さなかったのである。はじめての行為に疲れ果てていた、というのも多大にあったのだが。
 そして、あまりの事態に、顔色悪く震える出久を残し、勝己は何事もなかったかのように身支度を整えて去っていった。あんまりである。
 こんなこと、これきりのことだ、気の迷いだ、単なる事故だ、獰猛な犬に噛まれたようなものだ――そう自分に言い聞かせ、チェックアウトぎりぎりの時間になって、ようやく重い体を動かせるようになった出久はホテルを出た。
 なんとか我が家であるマンションに帰りついた出久であったが、勝己とのことがどうにも忘れられなかった。
 そして、身体を休めるために横たわったベッドで、胎児のように丸くなりながら、羞恥と後悔に一日ひたすら耐えるはめとなった。
 ときおり思い出しては、爆発するか穴を掘って埋まりたくなる心境に陥りつつ、なんとか一週間を過ごしたころ、出久が個人的に使っている携帯電話の画面が光った。
 仕事中に何気なく確認した出久は、跳びあがった。驚いたという表現すらなまぬるかった。心臓がとまるかと思った。
 だってそこには、元クラスメイトたちと連絡先を交換した際、なし崩しに登録されていた勝己の名前が、浮かび上がっていたのだから。
 おそるおそるアプリをひらけば、日時と場所が記された簡素な文面が目に飛び込んできた。どうやら現在、勝己が住んでいる場所らしいと、出久はあたりをつけた。
 意を決した出久は、指定の日時をきっちり守って、マンションを訪ねることにした。
 謝罪か、もしくは事情説明でもあるのだろう思ったのだ。
 余計なことなどしない勝己が、ああした行動にでた理由が、必ずあるはずだ。何の意味もなく男を抱くなどするはずがない。
 しかし、出久が思い描いたようなことはなにひとつなく、素面の出久をつかまえた勝己は、当然のように組み敷いてきたのである。
 最初は、驚きからくる悲鳴じみた声をあげ、出久は勝己から逃れようと身を捩った。
 だが、綺麗な指で肌に触れられるたび、あの罵倒しか寄越さなかった低い声が「デク」と熱っぽく囁くたび、苛烈な赤い瞳が自分だけを映しているのがわかるたび、抵抗は形だけのものとなっていった。
 気持ちがよいのはもちろんのことだが、あの勝己が自分のために時間を割き、躊躇うことなく手を伸ばしてくる高揚感が、出久の意識を酩酊させた。
 きっとあの夜も、そうだったのだと、そのときに悟った。
 出久が酔っていないにも関わらず、あらためて身体を許したことに気をよくしたのか――勝己は、それ以降、出久を呼びつけるようになった。そして、その度ごとに、出久は律儀に応じた。
 頭の片隅では、こんなこと駄目だと訴える自分が、常に居た。でも、どうしてもやめられなかった。こんなことをする勝己の真意が、いつかわかるのではないかという希望に縋ってしまった。
 だが、そんなのは、ただの浅はかな願いでしかなかった。勝己の心は、いつまでたってもわからなかった。なにも、いってはくれなかったから。
 この行為のどこにも、かっちゃんの心はない――出久がそう思い至ったときには、募っていく虚しさを詰め込むための穴が、ぽっかりと胸に空いていた。それは一向に塞がる気配はない。むしろ広がっていくばかり。
 だがこんなこと、長く続けていられるはずがない。それだけは理解している。いつか必ず、終わりはやってくる。
 だって、生まれながらに優秀な個性を有した勝己の時間を、生まれながらに無個性の出久が食いつぶせるはずがない。そんなこと許されない。
 結婚することをひそかに諦めている出久と違って、周囲が勝己をほうっておかないだろう。彼にふさわしい人が、きっと現れる。
 それがいつなのか。その前に勝己が飽きて、ほうりだされるのか。
 自分が情けなくなるくらい臆病者であること思い知った出久は、訊ねることが出来ぬまま、甘く苦しい快楽に溺れ続けている。
 もがいてのばした指先が、すくわれることがないと知りながら。

 

 

 

 取り出した携帯電話の液晶画面には、いつもの文面。
 時間だけが指定されていて、添えられているのは「こい」という一言だけ。
 朝焼けがいろんな意味で沁みたあの日から一週間もたっていない今日、出久は、再び勝己に呼び出されていた。
「……はぁ」
 簡素すぎる連絡内容をみつめていた出久は、それに間違いがないことを確認すると、溜息をついた。
 ポケットへと乱雑に携帯電話を突っ込むと、重い足取りで勝己のマンションへと向かう。
 連絡を受け取ったのが出先であったので、家に一度戻るよりいいだろうと、そのまま来たから思った以上に早く到着してしまった。しかし、遅れて文句をいわれるよりましだろう。
 反対側のポケットに手をいれると、硬く冷たい感触が指先に伝わってくる。
 勝己の家にくるようになってから、いつのまにかポケットに捻じ込まれていたもの。
 意味がわからず、「これなに?」と尋ねた出久に、「いちいちドアを開けるのが面倒くせぇ。これ使って勝手にはいってこいや」という言葉とともに投げつけられた合鍵である。
 ほんとうなら、もっと大切にできる誰かに渡すべきものだろうに。
 見慣れたマンションのエントランスを横切っていく。誰も、出久のことを止めはしない。招かれざる客は、入り口でそもそもはじかれる仕組みになっているのだ。
 いつものようにエレベーターに乗り込み、目当ての上層へと移動する。清掃の行き届いた廊下を通り、勝己の部屋の玄関扉をあけ――足を踏み出そうとした出久は、はた、と動きを止めた。
 勝己の生真面目で潔癖なところを示唆するような、砂一つなく掃き清められている玄関。
 そこに、これまでに一度もみたことがないものが、鎮座している。
 心臓が嫌な鼓動を刻みだす。呼吸が浅くなって、息がしづらい。出久はドアノブをきつく握り締めて、泣き出しそうになるのを必死になって堪えた。
 地味で目を惹く彩りなどもたない出久と違って、視線を引きつける華やかさをもつもの。
 春を一足先につれてきたような、綺麗な桜色をしたパンプスが、美しく揃えられて出久を出迎えている。
 何度もみたことがある勝己の大きな靴に寄り添うように置かれているそれが、拗れて冷え固まった自分の想いへの、痛烈な皮肉にみえてしょうがない。
 背後から頭を強く殴りつけられたような衝撃と、こみあげてくる気持ちの悪さに、出久は後退した。手が、扉から離れる。
 入ろうとしていた景色が、ゆるやかに狭まっていく。ああ、靴だけでもお似合いだなあ、なんて――そんな他愛もないことを考えているうちに、それは閉ざされた。
 カチリ、と施錠の音が虚しく悲しく、出久の鼓膜をうつ。
 見えない何かに拒まれた出久は、呆然と廊下に立ち尽くした。もう一度、扉に触れる気力も湧いてこない。
「……なんだ……やっぱり、そうなんじゃないか」
 別に、僕なんかじゃなくたって。いいんじゃないか――感情の色がどこにも宿らぬ乾いた声が、自然とそんな言葉を紡いでいた。
 それは、ふいに零れた涙と共に、床に砕け散っていく。廊下を次から次へと濡らしていくものを、ぼんやりと眺めながら考える。
 わざわざ今日呼びつけたのは、わからせたかったのかもしれない。あの日、もの言いたげにしてしまったから、聡い勝己は出久の迷いに気づいたのだ。だからきっと、身の程を知れと言いたいのだ。
「わかってるよ、そんなこと……!」
 出久は、ぎっと奥歯を噛み締め、目元を強くこすった。
 このくらいがなんだ。死んでしまうほどのことじゃない。現実を、目の当たりにしただけのこと。何度も何度も体験したことと、同じだ。おなじ、はずだ。
「僕がいつまでも、かっちゃんの言うこときくと思ったら大間違いだからな……!」
 聞かせたい相手はいないのに、虚勢を張る自分が滑稽だと思いながら、出久は震える手をポケットに突っ込み、踵を返した。
 ぐす、ずび、と鼻を啜りながら、出久はエレベーターの待つ間に、携帯電話を取り出して電源を落とした。
 事務所からの緊急連絡用は別にある。こっちは個人的なものだから、連絡がとれなくても困ることはほとんどない。いまは、独りでいたかった。
 音もなくやってきたエレベーターに飛び乗り、一階まで一直線に降りると、みっともない泣き顔を誰かに見られる前に素早くマンションから脱出した。
 そこからは、どこをどう走ったのか、わからない。覚えていない。
 息があがり、頭の中は真っ白で、顔を濡らすものが汗なのか涙なのか、もう判然としない。
 気づけば、あたりは夕闇が忍びより、町並みの影が一段と色濃くなっていた。朝焼けとは違う、深く眠っていくような空気が、世界を満たしていく。
 誰そ彼、そう問わねば誰ともわからぬ刻限に、見知らぬ小さな公園にたどり着いた出久は、古びたベンチに崩れるように腰掛けた。
 息を整えながら、顔を覆う。肺へと滑り込む、夜気をわずかに孕んだ冬の空気が、刺さるように痛い。
 でも、もっと、もっと――胸の奥底が、いたい。
「かっちゃん……かっちゃん……」
 その名を呼べばもっと鋭い痛みが増すとわかりながらも、声に出さずにはいられない。
 ぽろぽろと零れていくものを止めることもできず、泣きながらその名を呼んだ。
 迷子の子供が、母親を求めるように、ただひたすら呼んだ。応えてくれる者など、どこにもいないというのに。
 散々に泣いた出久がようやく顔をあげて空をみあげれば、ひときわ明るい星がみえた。
 幼い頃、勝己とともに指差しながら帰った星。あの頃は、よかった。
 思えば最初から、恋など生まれるはずもなかったのだ。ならば、愛などもってのほかだろう。
 自分達は男で、幼馴染で。いつしか、いじめっ子といじめられっ子になっていて。
 それ以上、どうにかなるわけがなかったのだ。もしなるとしたならば、より悪い方向へと転がっていくしかない。
 そう、こんなふうに、いつの間にか望みもないのに好きになってしまっていたような――それくらいひどい状況に、なるしかなかった。
 散々酷い目にあわされた。自殺教唆だってされた。殴られたし、罵られたし、目指した夢を幾度も諦めろといわれた。
 でも、それでも、あの勝ち続けようとする姿に、どうしようもないくらい憧れていた。
 ヒーローとしての自分を形作るもののひとつとなるくらいに、ずっと追いかけていた。
 そんな複雑に絡み合った心に整理をつけられないでいるうちに、身体をつなげてしまったから、あの熱を知ってしまったから、ベッドの中で勝己に求められ応える悦びを教えられてしまったから――おちてしまった。
 いや違う。勝己が悪いわけじゃない。
 踏みとどまる機会ならいくらでもあった。それに目を背けて、ここまで我が身をおとしたのは自分だ。出久は、自分の馬鹿さ加減に吐き気を覚えて口元を押さえた。
 ひゅう、と乾いた冬の風が、出久をからかうように吹いた。その冷たさは、広いベッドで目覚めたときの、あの感覚によく似ていた。
 一人で目覚める朝に、寂しさを感じるようになったのは、いつからだったろう。
「かっちゃん……」
 ほろりとひときわ大きな涙をこぼし、出久は逃れるように、目を閉じた。

 

 

 

 元クラスメイトや、他のヒーローたちのいきつけとなっているとある居酒屋の個室。
 掘りごたつに足を突っ込んだまま、出久は元気いっぱいに右腕を突き上げた。自由の女神よろしく、己が自由を誇るようにビールジョッキを掲げる。
「かんぱあぁぁぁい!」
「ん、乾杯」
 誰にともなくそう叫べば、右隣に座っている轟が律儀に応えてくれた。
 出久は気分よく、ジョッキに入ったビールを一気にあおる。
「おいおい緑谷~、それ何回目だよ」
 おとなしそうな見た目とは裏腹に、豪快に飲み続ける出久を、最初は面白そうにみていた左隣の上鳴が、少し顔を引き攣らせながら肩を叩いてきた。
 なにもなくても乾杯し続けるという事態に、さすがに異常を察したようだ。
「いーのっ! 何回でもしたいのっ! ね、轟くん!」
「緑谷がしたいのなら、俺は別にかまわない」
「やったー、轟くん、やっさしいなぁ~!」
 けたけたと出久は笑う。轟を巻き込んで、なんどガラスを打ち鳴らしたのか、もう覚えてなどいない。
 ただ、やりたいからやるだけだ。意味はないが、楽しいのだからよいではないか。だって轟もかまわないと男前にいってくれているのだし。ねえ?
 飲酒後のふわふわとした意識でそんなことを思いつつ、出久は豪快に喉を鳴らす。
 冷たく喉を滑り落ちていく感触と、苦みと泡の共演を存分に味わっていると、トイレから戻ってきた切島が呆れたように眉を下げた。
「おいおい、緑谷もう出来上がってんじゃねーか。誰だよ、こんなに飲ませたの」
 その言葉に、テーブルを挟んで斜め右前にいる飯田もまた、出久の様子を心配そうに覗き込んできた。
「む、そのようだな……。緑谷くん、ピッチがはやすぎるのではないか?」
「へーき、へーき!」
 男気溢れ面倒見のよい切島と、真面目で堅実な飯田に手を振って、出久はこれっぽっちも問題ないと笑ってみせた。
「たのしーから! 僕、へいき!」
 うふふふふ、あはははは、と笑う出久。その隣で、黙々と酒を飲む轟。声をかけた切島と飯田に、なにをいっても無駄だと上鳴が肩を竦めた。
 だって、皆には申し訳ないが、こうでもしないとやっていられない。誰にもいえやしないけれど、酒の力を借りなければ気が晴れない理由が、出久にはあるのだ。

 勝己の呼び出しをすっぽかしたあの日から、はや一ヶ月。
 出久の個人的な携帯電話の電源は、ずっと落としっぱなしだ。それでも、とくに困ることはない。
 連絡がとれないからと、事務所までわざわざ様子を見に来てくれた心優しい友人もいたが、そのときには「うっかり壊してしまって修理に出した。戻ってくるまで時間がかかる」と、誤魔化した。
 勝己からの連絡を気にせずにすむ時間は、すこぶる快適だったといえるだろう。そして、たまらなく寂しかったともいえる。
 でも、くじけるわけにはいかなかった。なけなしのプライドと、未来への憂いを払拭するのは、ここが踏ん張りどきなのだと、出久は頑張った。
 ただ、ヒーローとして事件現場に赴けば、勝己と顔をあわせることは避けられない。その時には、先輩や警察の知人、おなじく現場に駆け付けた友人たちにうまく庇ってもらった。時には盾に、さらには生け贄になってもらいながら、接触を極力避けてきた。
 そうこうしているうちに、時は流れ、新年を迎えていた。
 年末年始は、仕事がたて込んでいて帰省もできなかったが――否、地元でうっかり勝己と鉢合わせするのが怖くて、わざと仕事をいれたのだが、次の土日は母に顔をみせにいこうと思っている。
 そして、今日は上鳴に誘われての、少人数による新年会だ。勝己がこないことは、事前に確認済み。夜勤だか出張だか、曖昧なことをいっていたが、こないのならばそれでいい。
 彼らになら、みっともないところを見せても許されるという気の緩みから、出久は浴びるように酒を飲んでいく。
 いまこのひとときだけでいい。昨年までの辛い日々を、忘れたかった。

「……ん、」
 そうして気づけば、出久はいつの間にかテーブルに突っ伏していた。
 頭の中が、ぽやぽやとする。現実と、それを認識する意識の間に、曇った硝子が一枚挟み込まれているような、奇妙な感覚だ。身に覚えが多々ある。
 相当飲んじゃったなあ……と、ぼんやりと考える出久の耳に、酒を飲んでいても変わらぬ凛とした飯田の声が耳に届く。
「で、だ。俺は今年の目標として、敵犯罪被害者のケア活動を、事務所全体で行っていこうと思っているんだ」
「ボランティアか。なあ、俺も新年の抱負とか、いったほうがいいのか?」
「うむ。仕事でも私事でもいい。一年で達成するべきことを考えるのは、悪くないはずだ」
「そういうのすげえ飯田らしいと思うぜ! うーん、目標か……俺はどうすっかな~」
「切島なら、新しいトレーニングを取り入れるとか、検挙率あげるとかいいんじゃねえの? そういうのだと結果が判りやすいしさ。でも俺は仕事より可愛いが彼女ほしい! 独り身はつれぇ!」
 そう。そうだ。上鳴くんのいうとおりだ。それはなんて素晴らしい目標だろう!
「僕っ!」
 天啓を受けたような心地で、出久は勢いよく顔をあげた。うつ伏せていたせいか、あたりがぼんやりとしか見えない。しかし、何度か瞬きすれば、鮮明になっていく。気を取り直した出久は、四人の視線を一身に受けながら、笑顔で拳を握り締めた。
「うおっ、緑谷起きたのかよ!」
「び、びっくりした……!」
「うん! あのね、僕もね、目標決めた!」
 心底驚いた様子の切島と上鳴にみせつけるように、へろへろと拳を掲げる。
「ふむ、緑谷くんの新年の抱負か。ぜひ聞かせてほしいものだな」
「そうだな。俺も聞きたい。でもその前に緑谷、水飲め」
「ん、ありがと~」
 目を輝かせる飯田と世話を焼いてくれる轟に心底感謝しながら、出久はのっそりと上体を起こすと喉をそらし、冷たい水を一気飲みした。
 ほのかにレモンの風味が漂う水の清涼感が、いくぶんか意識の透明度をあげてくれた気がする。
 出久は、気分よくグラスをテーブルに下ろして、満面の笑みを浮べた。
 四人の顔を見回して、宣する。
「僕! 彼女つくります!」
 そのとたん、盛り上がっていた部屋の暑いくらいの室温が、すっと下がった。
 しかし、出久は気にせずもたつく舌先で懸命に言葉を綴る。
「可愛い女の子のいっぱいの合コンいく! 恋人つくる! それで、それでっ……!」
 それでもって、勝己のことを綺麗さっぱり忘れるのだ――そんなことを言いたいけれど、言うことはできなくて、出久は昂った感情を涙に変えてぼろぼろと落としていく。
 でも、そんなことを考えただけでもこんなに胸が痛いのに、できるのだろうか? 自分の言葉が、冷たい刃になって返ってきたようだ。
 彼を求めるこの心を置き去りにして、他の誰かのところにいけたなら、どれほどよかっただろう。
 ぎゅっと唇を噛み締め、顔をくしゃくしゃにして肩を震わせる自分の姿には、達成すべき目標を掲げた者がもつ、未来への希望なんてものは欠片も見出せないだろう。
 馬鹿みたいだ、と思いながら拳を下し身体の力を抜くと、大きくて温かい手が肩に触れた。
 涙で歪んだ視線を向ければ、緋と白の髪を揺らし、轟が顔を覗き込んできた。
「おい、よくわかんねえけど大丈夫か、緑谷」
「う、うえっ……! だいじょうぶじゃないぃぃ~!」
 わっと子供のように声をあげて泣きながら、出久は轟に縋りついた。
 細身ながらよく鍛えられた身体は、出久を受け止めてびくともしない。優男風にみられることもある轟だが、実際はこんなにも頼もしい。
 ぽんぽんと、と背中をあやすように優しく叩かれて、ますます涙が零れてくる。出久は、ずびっと鼻をすすりながら顔をあげた。
「轟くん、そういえばおねーさんいたよね! 紹介して!」
 いつぞや、轟の家に遊びにいったときに見かけた眼鏡をかけた女性。小学校の先生らしい柔らかな物腰で、挨拶してくれたひと。綺麗で、包容力がありそうで。年上の女性はかくも素晴らしい。
 そんな出久の申し出に、轟が小首を傾げた。
「姉さんか? 悪い。この前同僚の先生と婚約した」
「え、そうなの?! そっかー! おめでとう~!」
 衝撃のおめでたい事実に、出久は目を輝かせて轟から離れる。
 そして、ばんざーい、と諸手をあげて祝福する。よかったね~、と何度も伝えれば、ん、と轟が嬉しそうに頷いた。
「緑谷がそう言ってたって、姉さんに伝えとく」
「うん!」
 よろしくお伝え下さい! と、何故か丁寧に会釈をしあった後、出久は飯田へと顔を向けた。
「じゃあ、飯田くん! 事務所の子、紹介して!」
 ぺしぺしと机を叩いて催促する出久に対し、飯田は腕を組んで難しそうな表情を浮べた。
「女性もいたのだが、年末に寿退社してしまってな……。つまり、今うちの事務所は男所帯なんだ。緑谷くんの希望にはそえないだろう。男性でもいいのなら俺はかまわないが」
「ああ、そうなんだ……いや……男の人は、ちょっと、いいや……」
 勝己で懲りました。とは、さすがにいえず、出久は笑って頭を振った。
 よし、次だ次! とばかりに、テーブルの隅でそっぽを向いている切島に矛先をむける。
「じゃあ切島くん! 交遊関係広いでしょ?! 誰か女の子紹介して!」
「おまっ……、怖いこというなよ! 絶対無理だ! できるわけねーって! 俺はまだ死にたくねえ!」
 ぶんぶんと、切島が顔色を悪くして素早く頭を振る。
 見えないなにかに恐れ慄くように、頭を抱えてしまったその姿は、必死で哀れみを誘う。男らしいことを常とする切島がこんなに取り乱すなんて、よほどの事情があるに違いない。
 むう、と出久は唇を尖らせた。そして、左隣にいる最後の希望へと顔を向ける。彼ならば、きっと!
「じゃあ……」
「緑谷、わりィ! 俺もパス! 勘弁してくれ!」
 命乞いをするかのように手を合わせ、先手を打ってきた上鳴の姿に、酒のせいでいくぶんか脆くなっていた思考のどこかが、プツンと切れた。
「もー! なんでっ! 誰も手伝ってくれないんだよぉ!」
 ドン! と拳を振り下ろす。強化型個性を有する現役トップヒーローの攻撃に耐えられるわけもなく、机がミシミシと悲鳴をあげる。ひっと、上鳴が悲鳴をあげた。
「僕、寂しいよおぉ……!」
 うええええん、と天を仰いで泣きはじめた出久に、そっと轟が何かを差し出す。
「泣くな緑谷。酒飲むか? なかなかうめえぞ」
「うん……」
 轟くんはほんとうに優しいなあ、誰かさんとは大違い――そんなこと思いながら、透明な日本酒が注がれたお猪口を受け取り、一気に飲み干した。
 すっきりとした味わい。でも、ふわりと鼻をとおる香りはふくよかで、普通に美味しい。でも、一度心を覆った寂寥感を拭うには至らない。
「はぁ……さびしい、なあ……」
 しん、と場が静まり返る。皆、なんと声をかけていいのかわからないのかもしれない。
 ああ、情けない。こんな楽しい場所をしんみりとさせてしまうなんて、社会人として駄目だろう。
 僕、泣き上戸だったのかなあ――と申し訳なく思いながら、ほろほろと泣いていると。
 すらっと襖が開く音がした。店の人が、瓶やジョッキを下げにきたのだろう。出久は気にも留めない。だって、大の男が日本酒を飲みながら泣いているなんて、居酒屋にしてみればよくある風景、日常茶飯事だろう。
「へえ、そーかよ。さみしいんかよ、クソったれ」
 しかし、さきほどから配膳などに来ていた女性とはまったく違う低い声が、狭い個室内に恐ろしく響いた。
「!?」
 ばっ、と出久は顔をそちら向ける。聞き覚えがありすぎて、身体が自然と臨戦態勢をとる。
 ぶれる視線をなんとか束ねて見遣った先には、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ、勝己がいた。不機嫌さ丸出しだ。断じて、愛想のよい店員さんなどではない。
 出久は、慌ててクラスメイトたちを見回した。
 だって、「誘ってみたけど、仕事ですげなく断られた。あいつはこねえよ」――そういっていたじゃないか!
 しれっと静かな顔をして日本酒を飲み続ける轟。どこか気まずそうに、顔を背ける飯田。ごめん! とばかりに両手をあわせて頭をさげる申し訳なさそうな切島。悪びれた様子なく、へらっと笑う上鳴。
 一瞬でなにがあったのか悟った出久は、酒のせいだけでなく、顔を真っ赤にした。
「はかったなああああ!」
 彼らは、出久を酔わせて勝己に譲り渡すつもりだったのだ。
 勝己が言い出したことなのか、散々現場で勝己から逃れるためのだしにされた四人の計画なのかは知らないが、罠にはめられたことは理解した。
 出久は、掘りごたつから飛び出す。背後に置いてあった鞄をひっつかみつつ、個室からの離脱を試みる。
 しかし、唯一の出入り口は勝己がしっかりとおさえている。素面のときならいざ知らず、したたかに酔った出久に、あの凶悪な門番を突破することは難しいだろう。
 ちら、視線をおくった背後は壁。窓ひとつないここから逃げるためには、そこを力任せにぶち抜くほかない。
 中学生の頃ならいざ知らず、いまの出久に、それはできないことではない。しかし、現役ヒーローが店を破壊して逃走など、許されるわけがない。
 くそう、だからこの店の、この個室を選んだんだな! 
 出久は恨めしげに、友人達をねめつけた。
「逃げんじゃねえ、この酔っ払い」
 観念したとみてとったのか、勝己が大股で近寄ってきて、出久の手首を掴みあげた。そこにこめられた力に、勝己の本気がみてとれる。
「うえっ、うううっ……! 皆のこと、信じてたのに……!」
 どうしてこんなことをしたの、と言外に責めたてると、飯田が悲しそうに気遣わしそうに、表情を歪めた。
「黙っていてすまなかった、緑谷くん。だが、昨年末あたりから君たちはおかしいぞ。なにがあったのかは知らないが、また高校のときのように仲違いするべきではないと俺は思う」
「ううっ、」
 真っ直ぐにこちらを心配しているその視線が、心に突き刺さる。出久は、思わず胸をおさえた。
 だって、理由が理由なのだ。純粋なところのある飯田には、とてもいえやしない理由が。
 そうこうしているうちに、勝己が出久を捕まえたまま上着の内ポケットからなにかを取り出し、上鳴に差し出した。
「じゃあな。これ使えや」
「うおー! バクゴー太っ腹!」
 飲み会に参加していないというのに、一人当たりの参加費以上の金額を気前よく手渡してきたことに、上鳴が歓喜の声をあげている。
 ぐ、と手首を引かれる。個室から連れ出されそうになり、出久は咄嗟に足に力を込めた。ちっ、と鋭い舌打ちが響く。
「オラ、いくぞ。店に迷惑かけるとか、ヒーローデクはしねぇよなあ?」
 散歩から帰るのを嫌がる犬のように、足を突っ張り緩く頭を振る出久に、勝己が意地悪くわらった。
 敵も真っ青なその表情に、ぞぞぞ、と背筋が凍っていく。
「ひっく、ゆ、ゆうかい、とか、シャレになってないよ……、かっちゃん……!」
 なけなしの気力を振り絞っての非難だったが、勝己はなんの痛痒も感じないらしい。
「じゃあ、てめぇの意思でついてこい。俺を敵にしたくなきゃあな」
「……ずるいよ、そんなの……」
 そういわれたら、ついていくしかない。
 ぐすぐす、と涙と鼻水で顔を濡らし、出久は友人たちに「迷惑かけてごめんね、心配してくれてありがとう」と告げ、勝己と一緒に個室をあとにする。
 店の外は冬らしい寒さで、火照った出久の頬を包んでくれた。体内に籠ったいろんな熱がすこし落ち着くような気がして、ぼんやりと呆けてしまった出久の手を、勝己が当たり前のように引いて歩き出す。
 いつもからはありえないその優しさに、ころりころりと涙が落ちていく。
 しゃくりあげながら泣く成人男性を連れて、人通り多い道を歩くなんて、なんの罰ゲームだろう。しかし、それを眉一つ動かさず成し遂げる勝己の男前さに惚れそうだ。否、惚れているんだけど。
 ふと、そんなことを思った出久は、羞恥で顔を赤らめ、唇を噛みしめた。ああ、くやしい。

 やっぱり僕は、かっちゃんが――そう、好きなのだ。どうしようもなく、好きなのだ。

 力の宿らぬ手で最後の抵抗とばかりに、勝己の手を何度も叩いてみる。
 でも、勝己は怒ることもなければ、出久の手を放しもしない。そんなもの、なんの妨げにもならないとばかりに、勝己は突き進んでいく。
 幼い頃から憧れていたままの、強く在り続けるたくましく眩しい背中。出久は、今も昔もついていくのに精一杯だ。
 やがて、広い通りにでたところで勝己がつかまえたタクシーへと、出久は放り込まれた。
 当然のように隣に乗り込んできた勝己の、端正な横顔を熱く苦しい想いで眺め――出久は、すうっと眠りに落ちていった。

 

 

 出久がゆっくりと目蓋を開くと、みたことのある天井が、ぼんやりとした視界を満たした。
 数度の瞬きの後、鉛でもつけられてしまったような重さを感じながら、身体を起こす。
 リビングに設えられた大きなソファに横たわっていたようだが、いつの間にここで眠ったのか、定かではない。
 見回した部屋の景色に、出久はくしゃりと顔を歪めた。
「……かっちゃんの、部屋……」
 あれはすべて、自分に都合のいい夢だったのではないかと思ったのに。
 現実を噛みしめるように呟いた自分の言葉に、胸が締め付けられる。
 一ヶ月ほどこなかっただけなのに、景色もにおいも、たまらなく懐かしい。住人の気配が色濃くて、泣きたくなる。
 耐えるように、酒の気配が色濃い溜息をつけば、割とすぐ近くに人の気配を感じた。
「起きたんか」
 夜であるためか、出久が眠っていたからか。照明の光が控え目にされた室内を見回せば、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた勝己を、すぐに見つけることができた。
 男らしい手の中で、クリスタル製のロックグラスがゆるやかに回される。おそらく高級酒なのだろう。綺麗な琥珀色の液体に浮かぶ氷が、かろん、と音をたてた。
 酒を飲んでいる勝己から目を逸らし、出久は額に手をあてた。
「……結局、誘拐だし……ほんと洒落になってないよ、ヒーロー」
 出久の言葉に、ハッ、と小さな嘲笑が返ってくる。
「泥酔した野郎を一人、保護してやっただけだろうが。証人もいるわ」
 そうだね、君と共謀した元クラスメイトが四人もいるよね――などと、憎まれ口をたたきそうになる。だが、そんなことをいうのも馬鹿馬鹿しいと、言葉を呑みこんだ。
「ほんと、みみっちい……」
 しかしながら、そういったところも計算づくであるなど、なんとも勝己らしい。
 出久のごくごく小さい呟きが聞こえたのか、勝己が赤い瞳をことさら剣呑に細めた。
「なんか言ったか?」
「なんでもないよ……」
 はー、と息をはく。だって、ここで言い争ってもどうにもならない。実際のところ、事実だけをみるならば、勝己のいったとおりなのだから。
「ねえ、かっちゃん。お水、もらえる?」
「……」
 珍しく出久の要望に応えてくれるらしく、勝己が立ち上がる。冷蔵庫が開け閉めされる音を聞きながら、出久はソファの背もたれに身を任せた。
「ほらよ」
 近づいてくる勝己から、綺麗な放物線を描いて出久のもとまで飛んでくるペットボトル。
 いくら酒に飲まれかけていたとはいえ、もう大分楽になっている。出久は、それを難なく空中で捉えると、キャップをあけて口を付けた。
 出久が喉を上下させて水分を補給する姿を、勝己がじっとみつめている。ありがたいことに、喉を潤す間くらいは待っていてくれるようだ。
「……っ、ふー」
 まだ何か残っている感じのする胃に、気持ちよくおさまった水の名残を、手の甲で拭う。
 そして、ついでとばかりに左手首の時計をみる。元クラスメイトたちと別れてから、はや数時間経っていた。
 まだ少々頭がぼんやりしているが、最後のほうは水も飲んでいたおかげで、何も考えられないほどではない。
 出久は頭を巡らせる。
 終電はもうないが、タクシーを呼べばいい。高くつくが諦めよう。とにかく、ここに長くとどまりたくなかった。
 帰宅しようと、出久はソファから身を起こす。
 だが、目の前には、勝己が立っている。やるべきことが、残っているのだ。
 腹を括らなければ。どんなに辛くても、悲しいことが起こるとわかっていても。
 いまここが、拗れ捩れた幼馴染の終着点となる。
 一度きつく目を閉じて唇を噛みしめたあと、出久は目に力を込め、勝己と真正面から相対した。
「で?」
「あ?」
 出久の決意が、二人の間の空気を変えたことを感じ取ったらしい。勝己が、ことさら眉間に皺をよせて顎をあげた。
 赤い瞳に見下ろされると、どうしても「こわい」という気持ちがこみ上げる。幼少期から何年にも渡って刷り込まれた感覚だ。だが、それがなんだと、出久は自分を奮い立たせる。
「なんなの? わざわざ切島くんたちまで巻き込んでさ……なにか用?」
「そりゃこっちの台詞だわ、クソが。あの日、なんで来なかった。連絡しようにも携帯電話の電源落としてやがるだろ、てめぇ。あげくにみっともなく逃げ回りやがって」
 怯えることなく言いかえしてくる出久につられたように、勝己がわずかに口調を荒くした。
「……あの日には、来たよ。あっちの携帯電話は、壊れたから修理に出してるだけ」
 そこを突かれると痛い。一方的な連絡でも、あのときの自分たちには、あれは約束に近いものだったから。それを反故にしたという後ろめたさに、出久はわずかに視線を揺らした。
 それを好機とみてとったのか、勝己が一歩前に出て、距離を詰めてくる。
「嘘ついてんじゃねえよ!」
「来たっていってるだろ!」
 叫び返した出久は、震える両の手を握りしめた。
「……ただ、玄関で帰った。呼ばれたからって、かっちゃんに会わなきゃいけないってわけじゃないだろ」
 ああ、なんてくだらない幼稚な言い訳だろう。こんなもの、勝己に通用するわけがない。
 案の定、勝己から伝わってくる苛立ちがさらに濃くなった。
「くだらねえ言葉遊びすんじゃねえよ。……何時ごろだ?」
「四時くらい、だったかな……。もういいだろ? 僕、嘘つかないよ」
 時間まで聞かれるとは思っていなかったが、そこを誤魔化す意味などないだろう。素直に答えて息をはく。
 どうか、もう、ほうっておいて。
 好きだとようやく認めたこの恋心が、報われることなどないのなら、そのままいつか枯れ果てるまで、そっとしておいて。
 そう訴えたい気持ちを押さえつけ、出久は言葉を重ねる。
「疑うなら、マンションのセキュリティに頼んで防犯カメラの録画でもみせてもらったら? エントランスに入る僕も、エレベーターを使っている僕も、映っていると思うよ」
 そういいながら、出久はポケットを漁った。
 取り出したのは、鍵の束。自宅にしているマンションとこの部屋の鍵が、オールマイトのマスコットと一緒にぶらさがっている。
 重量なんてさほどないのに、ひたすらに重かったもの。出久をここに繋いでいた、鎖と枷。これで、身軽になれる。
 出久は、泣きだしそうな笑いだしそうな顔をして、それをとりはずした。
 不思議なものだ。この鍵たちは同じ温度で隣にあるというのに、持ち主たちの心はこんなにも遠い。
「皆を巻き込んで、だまし討ちみたいな真似をされるとはさすがに思ってなかったけど……ちょうどよかったよ。これ、返すね」
 合鍵を、ローテーブルの上にそっと置く。かちり、とガラスと触れ合う硬質な音が響いた。
「かっちゃんが、僕のポケットにいれてたやつ……、もう、いいから」
「もういいってなんだよ」
 それくらいわかってよ、と出久は勝己を睨み付けた。
「僕を呼びつけるの、やめてほしい」
 勝己を真正面からみつめて、出久は続ける。
「身の程ならわきまえてる。僕の惨めな姿なら、もうたくさんみただろ? いい加減飽きただろ? もう、やめよう……僕、疲れた……」
 虚しくなってきた出久は、ゆるゆると俯いて、口の端を歪に持ち上げる。
「家に来る彼女だっているんだろ? 男を連れ込むなんてやめなよ、失礼だよ。……ああ、僕が勝手に来ているだけだから、違うのかな?」
 自嘲気味に小さく笑い声を転がすと、勝己が獣のような唸り声をあげた後、舌打ちをした。
「この前来ていたのはたしかに女だが、そういうんじゃねえ。気色悪いこというな」
 ふぅん、と出久は興味なさそうに鼻を鳴らす。
「その人がなんであれ、僕にはどうでもいいことだよ。……帰るね」
 一歩踏み出す。崩れ落ちてしまうかもしれないと思った足は、ちゃんと出久のいうことをきいてくれた。もう少しだけ、がんばって。この部屋をでたなら、蹲っても構わないから。
 立ち尽くす勝己の横を、すり抜ける。

「――さようなら、かっちゃん」

 これで、全部おわりだ。なかったことにはならないが、すべて過去のことになる。
 別れの涙が一粒溢れ、出久の頬を滑り落ちていく。
 そうして、わずかにふらつきながら、玄関に向かう出久の手を、熱いものが捕らえた。
 皮膚が焼け焦げそうな感覚に、驚いて振り返る。
 傷だらけの出久の手を、一切の迷いなく掴んだ勝己が、赤い瞳を不機嫌そうに眇めていた。
 くしゃり、と出久は顔を歪める。
 なんでこんなときにこんなことをするんだと、怒鳴り散らしそうになる。引き止めたことなんて、これまで一度もなかったくせに!
「どこいきやがる。話、おわってねぇぞ」
「……これ以上、なにがあるんだよ」
 爆発しそうな感情を殺すように奥歯を噛みしめる。
 きつい視線を向けているはずの瞳が熱をもつ。こみ上げてきたものに、視界が歪んでいく。涙もろい自分の性質が、ただただ恨めしい。
「ババアだ」
「は?」
 いわれたことが一瞬わからず、間の抜けた声をあげた出久に、勝己が目を吊り上げた。
「来てたのはババアだっていってんだ!」
 勝己がババア呼ばわりする女性といえば、さまざまな人がいると思うが―― 一番に、彼の母親の顔が脳裏に浮かんだ。
 いつまでも若々しく美しいかの女性と勝己は、性別は違えと、親子という血の絆が確かにわかるほど、よく似ている。子供の頃からなにかにつけ、優しくしてくれた思い出が蘇り、出久はやんわりと笑った。
「そっか。おばさんきてたんだ? 元気?」
 出久がうろたえず、穏やかにそう問うてきたのが予想外だったのか、勝己の眉がぴくりと跳ねた。
 しかしすぐに気を取り直したらしい。ふん、と面白くなさそうに鼻をならして、もう片方の手を無遠慮に伸ばしてきた。
「妙な勘違いしてたってわかったか、あ? ――クソが」
 顎に指がかけられる。掴まれたままの手がひかれる。ふらりと前に出た出久に向かって、勝己の端正な顔が少し角度をつけて寄せられる。
「やめろよ!」
 あやうくキスをされそうになった出久は、反射的に個性を使って勝己の手を振りほどいた。なにをするんだと非難がましく、素早く後ろに下がって逃げる。
 自分の思い通りにいかないことに、勝己の苛立ちは頂点に達したようだ。
 目に見えて、勝己の表情が凶悪なものになる。ヒーローにあるまじき殺気じみた迫力だが、ここで負けるわけにはいかない。
 折れる気配のない出久に、勝己が怒鳴る。
「何拗ねてんだ! 鬱陶しい!」
「拗ねてなんかない! やめようっていってるだけだろ!」
「女じゃねえっていってんじゃねーか!」
「そんなの関係ないんだよ! 僕たち、幼馴染だろ!」
「はあ?!」
 いまさらなにいってんだ、と勝己がことさら面倒くさそうな顔をする。
 出久は顔を歪め、歯の間から苦悶に満ちたうめき声を漏らした。
 胸が苦しくて、そこに詰まった感情をどうにかしたくて、出久は服の上から爪をたてた。これを泥のように掻きだせたなら、どんなにいいか。
「ねえ、僕たちって、何……? どこに、きちゃったの……?」
 どうしてこんなことになってしまったのか。それはずっとききたくて、でもできなかった――出久の、心からの問いかけであった。
 ただの幼馴染でいられたなら、叶わない恋だと気付いたあとでも、きっとなんとかやっていけただろう。
 墓場に持っていく生涯ただひとつの秘密を胸にしまったまま、多少歪であったとしても、笑っていられただろう。
 苦しくても、辛くても、悲しくても、泣きたくても! そのほうが、ずっとよかった!
 ぐすぐすと泣く出久を前に、二人の関係を強引に変えてしまった主犯は、あきれたように息を吐く。
「爆豪勝己と緑谷出久だろうが。それ以外のなにがあるってんだ」
「……そこからきいてるわけじゃないよ……」
 単純明快な勝己の言葉に、あやうく脱力してその場にへたりこみそうになる。
「じゃあ、逆から考えろ」
「え?」
 思わぬ言葉に目を瞬かせると、勝己がさらに言葉を重ねてきた。
「この関係が何かわからねえってんなら、現状から遡れ。そもそも前提をそこに置くんじゃねえよ。妙なところは目ざとい癖に、なんでそういう固定観念にとらわれるんだてめえは」
「……は、」
 幼馴染という関係を一度取り払うなどと、出久はこれまで考えたことがなかった。だって、それだけが頼りだったから。それがなくなってしまったら、友人とも言い難い自分たちには、元クラスメイトというくらいの接点しかなくなってしまう。
 眉を下げて困り果てる出久に、勝己が近づいてくる。
 思わず身構えるが、手を伸ばしてもぎりぎり届かないところで勝己は止まった。
「ヤることヤってる関係ってなんだよ、あ?」
 比較的穏やかな口調で問いかけられて、出久は慌てた。まだ考えきれていなかったのに、急に答えを求められると焦ってしまう。
「セ、セフレ……?」
 上品な言葉ではない。口に出すのも恥ずかしい。しかしながら、それ以上に相応しい言葉も見当たらない。
 ぶわり、と勝己の身体から殺気が膨れ上がる。きっと、彼に相対する敵はこんな気持ちになるのだろうな、と出久は現実逃避気味にそう思った。
「――殺すぞ」
 投げつけられたその言葉だけで、爆発してしまいそうなくらいの怒りが感じられる。
 出久は、緊張から喉を鳴らした。
 さきほどの答えは、違うらしい。勝己の心と合致しない、ということだ。
 じゃあ、じゃあ? ――あまりにも都合のいい単語が、あわてふためく脳裏に浮かんだ。
 違う。そんなはずない。こんなの、ただの僕の醜い願望だ。相手のことを何も考えずに、自分の気持ちだけを押し付ける、我侭だ。でも、でも!
 出久は震える唇をひらく。だってもう、考えつくことは、それしかない。
「こい、びと……?」
 おそるおそると四つの音で紡がれる甘い関係を示す単語を口にすると、勝己の殺気が霧散した。一回り大きくなってみえていた身体が、少しだけ小さくなった気がした。
「じゃあ、それだろ」
 疑問系にしてるのが気に入らねえが、と勝己が零す。
 ぽかん、と出久は目を見開き、口を開けた。まさか、肯定されるなんて。
 数秒その意味を考えた後、柔らかになった空気に反抗するように、出久は眦をつり上げた。
「嘘だ。そんなわけない……!」
「あ?」
 色濃い怒りを顔から消していた勝己が、頬を引きつらせる。そんな顔をしたいのはこちらのほうだと、出久は思った。
「だって、かっちゃんは僕のこと嫌いだろ!?」
 だからそんなこと、天地がひっくり返ったとしてもあるはずがないのだと、出久は悲鳴に近い叫びをあげる。
「デク」
「……!」
 思わぬ静かな声に、肩が震えた。紅玉のような赤い瞳が、穏やかに出久を映しこんでいる。息が、詰まる。

「わかれや」

 たったそれだけ? そうくる? この期に及んで、一方的な理解を求めるとかなに考えてるの? ――出久は、勝己に負けぬくらいに頬を引きつらせ、唇を戦慄かせた。ぐらぐらと意識が沸騰していくような感覚に、出久は肩を揺らす。
 何も考えられないくらい、頭が真っ白になっていく。いつの間にか握り締めていた両の拳が、ぎちっと音をたてた。
「わかるわけないだろ! いっつも怒鳴って! 好き勝手して!」
 一息で距離をつめた出久は、勝己の胸倉を掴みあげ、かつてないほどに声を荒げる。
 すると、勝己が頭突きでもするくらいの勢いで顔をよせてきて、吠えた。
「ンなもん、ガキの頃からそうだったろうが! じゃあ、なんでてめぇはノコノコ来やがるんだよ! 好き勝手されるってわかってんだろうが!」
「かっちゃんが来いっていうからだろ?!」
「じゃあ俺が死ねっていったら死ぬんか、コラ! 死ね!」
「そんなことするわけないだろ! 子供みたいなこというなよ! とにかく! こんなことただの幼馴染はしない!」
「ふざけんな! 浮気してんのか、てめぇ!」
「何でそうなるの?! 話きいてた?!」
 浮気などと、まるでこちらが悪いような言い方はやめてほしい。というか、そんな単語をぶつけられるような間柄ではないはずだ。恋人、という答えが勝己にとっての正解であったとしても、出久はまだ認められない。
 勝己の目が激情にゆらりと輝く。小学生じみた口喧嘩の終わりは、まったくみえない。

「てめぇは俺のモンだろうが!」
「いつから?! 僕知らないし! 好きっていわれたこともない! デートだってしたことないじゃんか!」
「態度で察せよ! 観察は得意なんだろうが、クソナード! あとデートとかいってんじゃねえ! 気色悪ィんだよ夢見る童貞が!」
「悪かったね! デートとかいって! ああそうか、かっちゃんにそんな繊細なことできるわけなかったよね?! っていうかさ、わかると思うの?! あれで?! 普通の感覚だったら、嫌われているとしか思わないよ! あと童貞関係ないから!」
「ハアアアアアァァァ?! デートぐらいできるわ、し殺すわ! 馬鹿にすんじゃねえ!」
「デートし殺されるとか物騒にもほどがあるよ?! そもそも僕たち恋人じゃないんだからそんなことするわけないだろ! 言葉のあやだよ! それに気持ちを確かめ合ってないのに恋人だと思うなんて頭のおかしいひとのすることだからね! ストーカーだよ!」
「ああそうかよ! じゃあいってやるわ! 二度は言わねえ! よく聞け! 恋人になれや、このクソデク!」
「嫌だ!」
「死ね!」
 互いに荒い吐息と唾を飛ばしあいながらの口喧嘩は、もう売り言葉に買い言葉だ。
 聞き逃してはいけないものも中にはあったと思うが、受け止められるほどの冷静さと余裕が、出久にはなかった。
「この俺が合鍵渡しただけでも、涙流してありがたがる状況だろうが!」
「その上から目線やめろよ! ふざけんな! っ、わわっ……!」
 感情と力任せに、出久は勝己を向こう側へと遠のけるように押した。しかし、服を掴まれていたせいで、一緒にフローリングの上へと倒れ込む。
 勝己の長い腕が伸びてきて、するりと出久の首に巻きつく。抑え込まれた出久のこめかみに、勝己の拳が押し当てられる。ひっ、と短い悲鳴が出久の口から飛び出す。
「このクソが! いったいどうなってんだこの頑固頭はよ!」
「いたっ、いたいいたい! ~~っ、このっ!」
 ぐりぐりと力いっぱい押しこまれて、普通に痛い。悲鳴をあげながら、勝己の腕を叩くがびくともしない。
 小学生どころか幼稚園児なみのとっくみあいだ。だが、やられっぱなしではいられない。出久は懸命に反撃を試みるが、泥酔した影響もあって、たやすく床に沈められてしまった。
 フローリングに転がされマウントをとられたまま、上がった息を整える出久の頬から首に勝己の手が絡む。
「ホントにわかんねーのかよ……」
「……っ、はぁ……ずるいよ、その顔、やめてよ……」
 みているほうが苦しくなるような、そんな切ない表情で、まっすぐに見つめないで。
 この美しい男が、自分に執着していると思うとたまらなくなる。すべて許してしまいそうになる。優しい感情など欠片もないくせに。わかっていても、抗えなくなる。
 出久は喘ぐように顎をあげて、泣きそうになるのをなんとか堪えた。
 そうするのに精一杯で、近づいてくる勝己を払うこともできない。
 出久は、ン、と鼻を鳴らして口づけを受け入れた。
 唇を重ね触れ合うだけの幼いキスが、角度と場所をかえながら、何度も繰り返される。
 劣情とは違う。情熱とも違う。この行為に宿るものの優しさに、身体の力が抜けていく。
 抑え込まれていたはずの出久の手は、いつの間にか自由になっていて、自然と勝己の背へと回っていく。
「――なあ、俺たちは何だって?」
 唇を軽く触れあわせたまま、勝己が問う。
「だからセフレ……あいたっ!」
 がぶり、と唇を噛まれた。
 あまりの痛さに顔をしかめた出久に、不機嫌さを隠しもせず勝己が言う。
「マジで殺すぞ。セフレなんて爛れた関係に、この俺が甘んじると思ってんのか」
「……あ……真面目……」
 そうだった。あの素敵なご両親の教育の賜物か、勝己は妙に潔癖なところがある。
 まさか、派手な魅力で誰でもより取り見取りだろう勝己が、いい歳になってまでそうした貞操観念を律儀に守っているなど、思っていなかった。
「あ?」
「なんでもない」
 深く追求されても困るので、出久はさっさとその話を切り上げる。
「じゃあ、さ、……恋人……、で、いいの、かな……?」
 まんざらでもなさそうに、勝己は鼻を鳴らした。そしてまた、口づけを与えてくる。
 だが、それだけだ。肯定する言葉を、今度はくれなかった。自信のなさからくる不安が、出久の身体の内に暗雲のように立ち込めていく。
「でも……それだと、幼馴染じゃなくなっちゃう……」
 後戻りも、できなくなる。キスの合間にそう囁けば、勝己が深く呆れたような息を吐く。
「幼馴染ってことが、変わるわけじゃねーだろ。ただ、今までの積み重ねてきた曖昧な状況から、一歩、前に出るだけだ。別の段階に踏み出すだけだ。すべてがなくなるわけじゃねえ。この腐れ縁が、そう簡単に切れるわけねえだろうが」
「……ずっと?」
 出久の懸念などくだらないものだと一蹴するように、勝己は不敵に笑う。
「てめえが切るっていっても、俺が切らせねえわ。おまえひとりが楽になることを、許すと思うのかよ――ここまで、一緒にきておいて」
 そうだ。苦しくても、自分たちは結局、離れられなかった。心を騙しながら、ともにここに至った。手を振り払うこともできたはずなのに、しなかった。だからこれは、二人で重ねた罪だ。出久は、孤独な被害者でも加害者でもない。
 勝己が、そっと額を触れあわせてくる。
「俺はな、とうの昔にごちゃごちゃ考える時期は終わらせてんだよ。だからあの夜、おまえに手を出した。欲しかったから、何度も呼んだ。俺をあんだけ受けいれておいて、いまさら離れるとか、許さねえ」
「だって、そんなの知らないし。っていうか、かっちゃんさ、僕にたいしてあぐらかきすぎじゃない……? ……ふ、ぶふっ……」
 それなら、勝己の考えと覚悟をわかりやすい言葉でくれればよかったのだ。でも、勝己がそうと言える性格だろうかと思うと、難しいだろう。
 好きだの愛だの囁く勝己を想像して、そのあまりの似合わなさに、出久は思わず噴出す。
 笑う出久を咎めるように、きつく勝己が抱きしめてくる。
 逃げることなく、目を伏せて勝己の身体に耳をよせれば、血潮の流れる音が鼓膜を揺らす。速いその鼓動が、出久のものと重なっていく。自分と同じ速度。同じ、きもち。
 だったら、いいや――出久は、唐突にそう思った。
「かっちゃん」
「あ?」
 背中を叩いて離れるように促すと、勝己がわずかに腕の力を緩めて顔をあげた。
 白い肌に覆われた頬に、うっすらと刷かれた紅の珍しさに目を細める。
「ばーか」
 ふはっと噴きだしながら、出久は気の抜けた笑顔でそういってやる。
 結局肝心なことをいわない、ずるい男。馬鹿だ。でも、それは自分もだ。結局、こうして絆される。わかっていておちていく。もう、逃げられない。逃げるつもりもなくなった。
 出久をずっと追い詰めていた針の音は、もう聞こえない。あれはきっと、終わりではなく始まりのカウントダウン。
 一人納得して、けたけたと笑う出久をみて、一瞬呆けた勝己が、すぐに口の端を持ち上げた。いつものあの、不敵な笑顔。出久が好きな、勝己だ。
「ほんと殺すわ―― 一生かけてな」
 物騒なことを楽しげにいう勝己を、出久はきつく抱きしめた。

 

 

 

「うわ、広い! 高い! 眺めいい! さすがかっちゃん! すごいよ!」
 これから住むマンションを下見がてらはじめて訪れた出久は、みつけてきてくれた勝己を手放しで褒め称える。
 セキュリティは最新で、ヒーローである自分たちも安心できる厳重さ。建設されたばかりのタワー型マンションの高層にあるので、もちろん眺望よし。今、勝己が住んでいるところと同等、いやそれ以上だろう。
「ったりめーだ、俺が探したんだからな」
 ふ、と勝己の目元がわずかに緩む。一見すれば不機嫌そうだけれど、これは勝己が嬉しいときの顔だ。
 あいかわらず、二人の間には甘い言葉など、ひとつもない。だがあの日以来、出久は勝己が喜んでいると気づけるようになった。寂しいも、悲しいも、言葉にされずとも、なんとなく、わかるようになった。
 幼馴染という関係から、恋人という関係に至ったゆえの進歩なのかもしれない。しかし、どうにも照れくさいのでそういうのはいわないことにしている。
 それに、言ったが最後、問答無用で爆破されそうなので、身の安全のためにも内緒なのだ。
 でも、みえなかったものがみえるようになったのは、嬉しい。おかげで出久のほうまで、くすぐったい気持ちになってくる。
 出久は次々に花開くような気持ちに、はしゃぐのを止められない。
「もうすぐここで同居かぁ。なんか、新生活って感じがするね! 楽しみだなあ!」
 リビングダイニング、トイレ、寝室、お風呂、トイレ――ありとあらゆるところを、子供のように冒険してきた出久は、窓辺に立って外を眺めている勝己の隣に立つ。
 興奮気味に目を輝かせて勝己に同意を求めれば、呆れたような赤い視線が向けられた。
「ばーか、ちげえ」
「え」
 てっきりそうだと思っていたのだが、違う? では、勝己はここに住まないのか? 自分ひとりだけがここに? いや、もしかしてここは勝己の別荘? そんな馬鹿な。
 それまで浮かれたような表情をしていた出久が、一転して思い悩むように眉を顰めたのをみて、勝己がつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「同棲だろうが」
 僕たち、男と女じゃないよ、とか。そんなこといって、後悔しないの? とか。
 いろいろと、出久の胸に浮かぶ言葉はあった。
 でも、勝己がそういってくれるのなら、それがいいと、出久は思う。
「……うん」
 ふにゃりと笑み崩れる一歩手前の顔で、出久はわずかに顔を伏せて頷いた。
 じんわりと熱を持つ耳が恥ずかしくて、わざとらしくないように手で覆う。でも、勝己にはお見通しだったようで、そっと手が掴まれる。
 引き剥がされた手の下にある出久の耳に、勝己の唇が寄せられる。
 彼にしては思いのほか優しく囁かれた言葉は、誰にもいわない自分達だけの秘密。
 出久が蕩けるように微笑めば、頬に大きな手が添えられた。まだ恥ずかしい気持ちはあるけれど、そうされて応えない理由などない。
 そっと震える睫を伏せて――あ、と出久は声を漏らしそうになった。
 顔を傾け口づけようとしてくる勝己の髪に、薄紅色をした桜の花びらがついている。
 ここにくるときに通った道で花を咲いていた大樹からの、可憐な春の落し物。
 ふふ、と笑った出久は勝己の首に腕を回しながら、そっと指先を伸ばす。
 重なった熱に浮かされたように、真新しい部屋にひとつ、桜の花びらが舞う。
 あたたかいなぁ、と出久は笑った。