嵐のおわりに射しいる光(大往生編)

 自分の生涯のうち、こんなにも最低で最悪な朝は、後にも先にもきっとない。
 勝己はひどく落ちついた頭でそんなことを考えながら、あらためてこの状況を見回した。
 散らかっていることが我慢ならない勝己の家だけあって、整理整頓と掃除が行き届いている。余計なものはないシンプル内装だ。
 そこを満たす空気はひんやりとして冷たい。勝己以外の誰かの生命活動の名残りはなく、ぶるりと身体が勝手に震えた。
 いましがた目を覚ましたとき、ベッドの中にいるべきものはいなかった。
 では、家の中にいるのかというと、そうではない。みてのとおりもぬけの殻である。一番ありえるだろうトイレにも風呂にも、人の気配はない。
 出ていったのか――と、静かな表情を崩すことなく、勝己は現状を正しく理解した。
 どうやら、昨晩優しくしてやったのが間違いであったようだ。
「足腰たたねェくらいにしてやりゃあよかった」
 ぽつりと零した物騒な内容に、反応するものも誰も居ない。虚しい。たまらなく不愉快だ。いらつく。
 気落ちしているところをまったくみせず、いつもどおりに振舞っていた幼馴染――緑谷出久を、こういうときくらいはと柄にもなく慮って優しくしてやったというのに。こんなことをしでかすのならば、妙な仏心などださなければよかった。
 ふらり、洗面所へ向かう。出かけるにしても身支度ぐらい整えねばなるまい。
 シャワーを浴びて髭を剃った。下着を履き、ジーンズに脚を通す。そのあたりにあったシャツを身につけ、適当にセーターをその上に重ねた。あとはこの上になにかひっかければ、外にでても問題ないだろう。
 家の鍵を手に取り、念のためにダイニングテーブルの上を確認する。
 いつも、なにかあったら残されているはずのメモも、やはりない。勝己は下唇をわずかに突き出した。
 やっぱり、むかつく。
 暗黙とはいえ、これまで続けてきた習慣さえ無視されて、腹が立たないわけがない。
 テーブルにあるのは、ともに暮らし始めてからたびたびおこしている喧嘩でできた、大きな傷だけだ。
 そこをなんとはなしに一撫でした後、勝己は一言もなく出て行った出久の部屋を、念のために確認する。
 ベッドはない。あるのは、都内にあるマンションからこの家に引っ越してくる際、どうしてもこれだけはと厳選されたオールマイトを筆頭にした各種ヒーローグッズだ。それらには、動かされた形跡はない。クローゼットの服も減ってはいないようだ。いつも使っているリュックも残されたまま。
 だが、出久もいい大人だ。プロヒーローをやってきた以上、経済力だってそのあたりのモブどもより数段上だろう。貯蓄額などはさすがに知らないが、残りの人生をのんびり送るくらいはあるはずだ。
 つまり、このままふらりとどこかへいってしまっても、出久が困ることはきっとない。
 だが、出久はここに帰ってこなければならない。どこかにいくことなど許さない。なにもいわず、なにものこさず、ひとりで出て行ったのならば、ふたりで帰ってくればいい。
 行く場所ならば、見当がつく。
 勝己は、ジャケットを羽織り、マフラーを巻いた。財布と携帯電話をポケットに突っ込む。
 玄関から外に出れば、もう間もなく夜明けを迎えることを知らせるように、東の空が鮮やかな色彩に染まり始めていた。
 頬をうつ風は冷たいが、今、噴火する直前の火山が蓄える溶岩のごとき怒りに燃える勝己には、さほど気にならない。
 何にも言わずにいなくなりやがって。みつけたらまずブッ飛ばす――そう心に決めて、アスファルトを力強く踏みしめた。

 緑谷出久が無個性であったことは、彼と中学時代までを共にした地元の者であれば、誰しもが知っていることだ。
 なんにもできない無個性であるにもかかわらず、ヒーローに憧れ続ける身の程知らずの愚か者。
 子供とは、とかく残酷な一面をもちあわせているもので、そんな評価が一度下されれば、よほどのことがなければ認識をあらためない。いや、大人になってもそれはいえることであるのだが。
 しかし、緑谷出久はそれを見事に覆してみせた。あの難関高校である雄英に合格したとなれば、当然のことだったろう。
 誰も彼も、増強系の個性が奇跡的に発現したのだと、そう、信じている。滑稽なことに、疑うことさえしていない。
 それはひとえに、出久がヒーローとしてそれにふさわしい働きをしている賞賛からくるものだ。オールマイトを継ぐ、平和の象徴。
 誰しもが絶望に染められ諦めるような状況であっても、笑顔を忘れず、人々を必ず救ける彼のひたむきな姿を、敵でもなければ咎めることはないだろう。
 しかし、そうした活躍ができるのも、無個性だった出久に与えられた個性ゆえのことだ。
 それが譲り受けたものであると勝己が知ったのは、高校生活最初の戦闘訓練後、鮮やかな夕暮れでのことだ。
 懸命に勝己に向かって言葉を紡ぐ目の前の存在が、理解できなかった。馬鹿にしやがってと、憤るしかなかった。
 だが、そのときの話が真実であったと突きつけられる日が、突然に訪れた。
 勝己が憧れ続けた最高のヒーローが、その力のすべてを燃やし宿敵との死闘に勝ったあの瞬間、すべてわかってしまった。
 大勢の誰かへ、ではなく。たったひとり、出久へと送られた言葉。何かに慄くように、何かへと奮い立つように泣く出久。その身に宿った唐突な「個性」。なにかにつけて、目をかけられている現実。
 ばらばらに認識していたものが、実はひとつの糸で繋がっていたのだと理解した。
 しかし、誰がそんなものを信じると思う? 個性はう生まれながらのものであり、その人間を形作る重要なものだ。譲りうけることができることなどありえない。
 だが、目の当たりにしては信じるほかなかった。
 納得のいかないまま理解すると同時に、その力はやがて誰かに託さなければならない ものであると思い至った。
 いつの日にか、その身に宿した力を、継承するべき人間に託す日がくる。そして、無個性に戻る。
 それは、本来のありようにもどるだけだ。叶うはずのない夢をかなえた男が、生まれたときのそのままに、もどるだけだ。
 だが、その喪失はいかばかりだろうか。
 たとえば、勝己が自分の個性を使えなくなったら?
 爆破という個性は、爆豪勝己そのものだ。いまさらなかったことにはできない。考えることさえ脳が拒否反応を示す。遺伝子情報から刻み込まれた自分の在り方なのだから、仕方がない。
 では出久は?
 どう感じているのだろうか。どう思っているのだろうか。どう考えているのだろうか。
 それは勝己にとってはおよびもつかないことだ。今も一人でどこかに立ち尽くす出久にしかわかるまい。
 とはいえ、勝己が出久の心境を知りたいと言葉にすることは、決してない。これまでも、これからも。
 ただ、あいつがきいてほしいというのなら――それは、別の話だ。

 

 

 

 

 朝焼けにきらめく水面が美しい。光を躍らせる波はおだやかに、美しい砂浜に幾度も押し寄せ、そしてゆったりと引いていく。
 冬の海岸はさすがに寒く、勝己は首に巻いたマフラーに鼻先を潜り込ませて眉根をよせた。
 こんなところにわざわざきやがってクソが、と思うが、十年近く前の汚れた海岸では  ないだけ、マシというものだろう。
 勝己の記憶において、かつてここはゴミだらけだった。それがいつの間にか綺麗に片付けられて、観光スポットにさえなっている。どこの誰が奉仕活動したのかと思っていたが、いつのときだったか、出久がやったということを知った。
 オールマイト出会ってから身体を鍛え始めた出久の、トレーニングのひとつが海岸清掃だったらしい。
 そういった経緯もあるためか、ずいぶんと思い入れのある地のようで、出久はなにかにつけてここに足を運ぶ。
 思い返せば雄英高校の講師を引き受けて、この町に戻ってから、天気がよければ週に  一度は出向いているだろう。
 なんでこんなところに、とは思っていたが、日に日に目覚しい成長を遂げる生徒――ワン・フォー・オールの後継者を指導する出久には、思うところがあったのかもしれない。
 勝己は、きょろりとあたりを見回した。
 強い朝の光に色濃い影を従えて立ち尽くす後姿がすぐに目につく。海を見晴らす展望 施設だ。
 もうここまできたら逃げ出されたところで捕まえるのは簡単だ。勝己は視線を出久の 後姿に注いだまま、ゆっくりとした足取りでそちらへ向かった。
 じゃり、と砂を踏みしめる音がきこえたらしく、出久があと十歩もないところで振り返った。そもそも、誰かがきたことくらい、気配でわかるだろう。
 光を照り返す出久の丸い頬がみえた瞬間、勝己は素早く踏み込んで爽やかな朝をぶち 壊すように叫んだ。
「死ね!」
「うわっ?!」
 間の抜けた声をあげた出久が、鮮やかに身を翻してその拳を避けた。個性を譲渡したからとて、身体能力やこれまでの経験が失われるわけではない。
「チッ」
 ある程度予想していたとはいえ、なんなくかわされると腹が立つというものだ。舌打ちをする勝己に、出久は心底驚いたとでもいわんばかりに服のうえから心臓の真上に手を当てている。
「か、かかか、かっちゃん! なにするんだよ、危ないだろ!」
「殴るつもりでしかけたんだから危なくていいんだよ」
「通り魔かよ君は! 僕だったからいいようなものの、普通なら通報ものだからな!」
「てめえが勝手にいなくなるからだろうが」
 わめく出久を睨みつけながらそういえば、急激に勢いをなくして萎んだ後、目を泳がせる。
「そ、それは、……ごめん。急にここに来たくなっちゃって……」
 勝己は黙ったまま、その隣に立つ。勝己が視線をむけてこないことに気づいたのか、さきほどと同じように、出久が海へと向き直る気配がした。
 そうして肩を並べながら、幾度、波の歌を聴いただろう。
 繰り返すこの調べは、母の胎内によく似ているという。心を落ち着けるには、よい場所なのかもしれない。
 出久がここにきた理由が、なんとなくわかった気がした。
 やがて、太陽が完全に水平線から姿を現した頃、出久が身じろぎした。
「……かっちゃん、あのね、……」
 そこから先が言葉にならない。なにかを迷っていることだけが、伝わってくる。
 勝己は、ゆっくりと目を閉じた。
 瞼越しにも感じる光に、ゆっくりと息を吐き出す。
 ほんとうに美しい夜明けだ。今日という一日を生きる誰しもに、わけ隔てなく降る光。それは、明日への道筋さえも照らすもの。
 だが、昨日この男はヒーローとして落日の日を迎えたのだ。もう、この太陽のように輝いて中空にあがっていくことはない。ゆっくりとその熱を失いながら、それでも最後まで全力で光を放ちながら人の世界の記憶という地平線のむこうへとおちていく。
 長い間をおいて、出久がいう。
「……僕、緑谷出久になったよ」
 波の音にまぎれてしまいそうな小さな声だった。風に邪魔されたせいか、やけに震えているようにも聞こえた。朝日が眩しいのか、鼻を啜るような音がする。
 もとからそうだろうが、などと無粋なことを言葉にする必要はないだろう。
 勝己はなにもわからないような顔をして、僅かに目を伏せた。幾千幾億の光の粒に似た思い出が、脳裏に鮮やかに広がる。
「そうだな。デクじゃ、なくなったな」
 それは、勝己がつけた侮蔑交じりにつけたあだ名の意味ではない。雄英高校で学ぶうちに、出久みずから名乗るときめたヒーロー名のことだ。
 否定せず、穏やかに肯定した勝己は、目を開いて隣を見遣った。
 いい歳をしているのに、まだまろい頬を濡らす涙が、光の中で行く筋もの軌跡を描いている。
 大きな瞳が歪んで、ぼろりと大粒の涙がさらに溢れた。ぎゅっと引き結ばれた唇の下、顎の先から零れ落ちていく雫は、まるで太陽を前に輝きを失う星屑のよう。
 鼻水は出ているし、顔は真っ赤だ。いますぐ声をあげ泣き喚いてもおかしくない。
 だが、最後の一線をこえてなるものかと踏ん張る様子が、なんとも格好悪く無様で、それでいて、……――心に浮かんだ単語を瞬き一つで握りつぶし、勝己はむき出しのままぶらさがる出久の手をとった。手袋越しだからわからないが、きっと氷のように冷たいのだろう。
「もういいだろ。話なら家できいてやってもいい」
「……」
 そういって傷だらけの手をひっぱるが、ぐ、と足に力をこめた出久それを拒む。
 みれば、困ったような泣き出しそうな目で、出久が勝己をみつめていた。かっと思考が沸騰する。
 ここまで来させておいて、なおこんな真似をする出久に、腹がたって仕方がない。
「……かっちゃ、」
「俺はな、てめぇのそういうところが気にくわねえ!」
 なにか言いかけるのを遮って、勝己は吠えた。出久が、大きな瞳を見開く。
「いつまでも借り宿気分でいやがって!」
 そうだ。勝手に海外なぞにいき、日本にようやく連れ戻してからずっと――ずっとだ!
「おまえが帰るところは、ひとつだろうが!」
 この先をさらにいわせようものなら、本格的に吹っ飛ばしてやろうと思う勝己の前で、出久が丸くしていた目をゆっくりと伏せて、視線をさげた。
 嫌なのか、違うのか、そう問いただしてやりたいが、掴んでいた手が応えるように勝己の指先に絡んできたので、追撃はやめることにする。
「……いいのかな」
「いいも悪いもあるか、ボケ」
 出久がなにをここまで躊躇うのかわからない。
 もう、自分達は一蓮托生だ。かつて囁いた呪いの言葉を、勝己は忘れたことなどない。こうなったら、出久を自分の墓場に引きずり込んでやるまでだ。
「でていこうとか、考えてんのかよ」
 ここで、イエスと返答があれば、いますぐにも殺す。そんな勝己の心を知ってか知らずか、出久が頭を振る。おどおどと怯えるように目を泳がせるその姿は、第一線を駆け抜けるヒーローらしからぬ。
「だって、僕、なにもなくなっちゃったから、さ」
「……」
 馬鹿だ阿呆だクソだと思ってはいたが、まさかここまでとは思わなかった。
 勝己は青に塗り変わっていく空を見上げて、苛立ちを少しでも紛らわせようと深い息を吐いた。何勘違いしてやがる、と小さく零せば、出久の肩が震えた。
「最初から、てめえにはなにもなかっただろうが。それでも、ここまでやってきただろうが」
 びくりと跳ねた手が、そのまま遠いどこかへ逃げださないように、強く握りなおす。  高い天の先を見つめていた赤い瞳を、地にかえす。朝の光を背負い立ち尽くす、出久の泣きはらした緑の瞳を真正面から見据えた。
「俺は、俺だけが――そういう緑谷出久を、知ってんだろうが」
 静かにそう告げた瞬間、どこか茫洋としていた出久の瞳に、いつもの生意気な光が戻ってきた気がした。
「てめえは、相変わらずクソむかつくてめえのままでいりゃあいいんだ」
 ぶわり、と出久の瞳に新しい涙が浮かぶ。このままでは、目が溶けてなくなってしまいそうだ。
 いい加減にしろ、といってやろうと思ったら、へらりと出久は光にほどけてしまいそうなくらい儚く笑った。たえきれなくなった涙が、ぽろぽろと零れ落ちてきらめいた。
「でも僕、たまには実家に帰りたいなあ。かっちゃんのご飯も好きだけど、お母さんの  ご飯も美味しいからさ」
 それくらいは当然だろう。この男は、自分の心の広さを過小評価しすぎではないだろうか。
「ここでそういうこといってんじゃねえ」
「ふへへ」
 馬鹿にしやがってと零しながら手を伸ばす。泣きながら笑う出久の頭を、くしゃくしゃとかき混ぜるように乱暴に撫でてやれば、癖っ毛があちこちに飛び跳ねた。最後に後ろに髪をなでつけてやる。
「お疲れさん」
 それは、勝己が出久に贈る、心からの労いだった。
「……っ!」
 一言告げた瞬間、急に出久が飛びついてきた。
 きつく抱きつかれて、その顔はみえない。しかし、身体の内を満たす感情を吐き出す  すべがない子供のごとく、火がついたように出久が泣き出したから、表情など、だいたいわかるというものだ。
 ようやくすべてを委ねてきた出久に、口の端をゆるやかに持ち上げて、勝己はその身体を抱きしめた。
「かっちゃ、かっちゃん……! ぼ、僕っ、僕ねっ」
「おう」
 必死に縋るものの手を振り払うほど、勝己はもう若くはない。相槌をうつと、出久がさらにきつく抱きついてきた。
「ちゃんと、ヒーローになれたんだ!」
「知っとるわ」
 ぽん、とあやすように背をひとつたたく。わぁぁぁん、と声が一段階大きくなった。
「夢を叶えたんだ!」
「諦めろっつったのにな」
 何度も何度も、無個性のくせに何を言っているんだといってやった記憶が蘇る。何の力もないくせに、自分のことを省みないその馬鹿さ加減に、ほんとうに苛々した。
 でも、出久は頑固だった。勝己のいうことなど、きいているようでひとつもきいちゃいなかった。
 木偶の坊になにができると思っていたが、高校にはいってからの数々の出来事を経て、それは改めざるをえなかった。
 悔しいが、腹ただしいが、出久の努力は、認めざるをえないものだった。

 出久は――頑張ったのだ。

 これまでの年月で重ねてきた思い出に、勝己は小さく微笑む。こんな穏やかな気持ちで、出久との記憶に思い馳せる日がこようとは。歳をとったのだと、実感した。
「ああ、デクにしちゃあ、上出来だった」
 勝己は、出久に負けないほどに腕の中のものをきつく抱きしめる。
「~~っ! あり、ありがとっ、かっちゃ、ん、に……、ひっく、そ、そういってもらえるなんて、おも、おもっで、ながっだ……!」
 感極まった声は、一部はもう言葉になっていない。嗚咽交じりの雄叫びのようだ。
「おい、鼻水つけるんじゃねえぞ」
 ぐりぐりと顔を押し付けられる。あまりの泣きっぷりに、さきほどの色んな水分に塗れた顔を思い出し、勝己は少々げんなりする。だが、まあ、今回くらいは見逃してやってもいいだろう。
 泣くとわかりながらも、出久の頭に頬を擦り付ける。よくやったと、寄り添いあう動物が相手を労わるように、肌を摺り寄せた。
「だっで、だっでぇぇぇぇ!」
「ほんと泣き虫、治んねえのな。いい加減どうにかしろや」
 幼い頃から、どんなに突き放しても、どれほど怒鳴ろうとも、大きな瞳を潤ませて追いかけてきた出久の顔が脳裏を過ぎった。
「ふ、ぐ、ぅ……! うぅ~! それ、前も、いわれたこと、ある……」
 どうやらこれは、出久に対して皆が抱く感想らしい。く、と勝己は喉の奥を鳴らした。
「はっ、教師がこれじゃあ、先が思いやられるなァ?」
「……うえぇ……」
 受け持ちの生徒のことを思い出したのか、出久が困ったようなうめき声をあげた。
 勝己は、男女ともに妙に人気のある緑谷先生をゆっくりと離した。
 拒むかと思ったが、そうでもなく、出久は同じように身をひいていく。懸念していた鼻水は、とくににこびり付いてもいなかった。
「しゃきっとしろや。天下の雄英高校教師だろうが。平和の象徴サマだろうが」
 いつものように、無駄に元気に前を向け、と叱咤した。だが、出久は、笑って頭を振った。
「ちがうよ、元、だよ。これからは、あの子たちが平和を守っていくんだ。もちろん、かっちゃんが先頭だからね! 僕も、これからできることやってくから、」
 晴れ晴れとした笑顔が眩しくて、目を細める。
「ただの、緑谷出久として!」
「ん」
 伸ばされた指先をすくうように、絡めとる。
 傷だらけの、優しい手だ。遠い昔には、そこに宿る傲慢と狂気を、恐れたけれど。

「ただいま、かっちゃん」

 そういって、出久が子供の頃のように屈託なく笑うものだから。

「――おかえり、出久」

 つられて微笑んだあげく、勝己はそんな言葉を口にしていた。
「……」
 思わぬ自分の言動に、一瞬だけ勝己は怯む。
 なにをいっとるんだ、と思いつつ。出久に動揺するさまなどみせたくはないので、平静を装った。うなれ、俺のポーカーフェイス。
 だが、出久にしてみれば思ってもみない落し物だったに違いない。
 出久の大きな瞳が、驚きに瞬く。ぽかりとあいた口。それをひどい間抜け面だと思い  ながら鼻を鳴らした勝己は、出久の手をはなして背を向けた。
 これ以上、ここにいる理由もないとばかりに歩き出す。出久は、数秒の後、慌てたように勝己に追いついてきた。
「ちょ、かっちゃん、かっちゃん! 待って、今の何?! 君、ほんとうにかっちゃんだよね?! もう一回! ねえってば、もう一回!」
「死ね」
 横から飛び出してきて、こちらを覗き込もうとするのが憎たらしい。勝己は、緩んだ笑みを浮べる顔面へ、ためらうことなく威嚇の爆破をお見舞いした。
「熱っ! 爆破するなよ!」
 ぎゅっと顔をしかめて皮膚の熱気を指先で払う出久を、勝己は怒鳴りつける。
「うざいんだよ! クソナード!」
「ひどいなあ、もう……!」
 ぶつぶつと零しながら、拗ねたように唇を尖らせた出久が、残っていた涙を手で拭う。
 すると、ぐうぅ、という盛大な音が聞こえた。思わず足を止めて出久をみつめる。
 出久も、思わぬその大きい音にびっくりしたのか、腹を押さえて目を瞬かせている。人間、安心するとそれまで忘れていた生命活動に注意が戻ってくるものだ。
 そして、出久が勢いよく勝己に顔を向けてきた。嫌な予感がした。
「ねえ、かっちゃん、お腹へった」
「コンビニでも寄ってけ、馬鹿が」
 家までの帰り道にあるところで、勝手に食料調達すればいいだろう。出久の発言をさらりとかわして、勝己は歩き出そうとする。
 すると、勝己の手を出久が掴んだ。前進しようとする勝己と、引きとめようとする出久。
 個性を使えば話は別だが、鍛えた身体の能力にそこまで差はない。力を拮抗させて、お互いにぶるぶる震えながら出久が叫ぶ。その視線は、勝己の尻に向けられている。正確にはポケットに突っ込んできた財布に、である。
「僕お金持ってきてないんだよ! かっちゃんお財布もってるじゃん!」
「たかるんじゃねーよこのクソが! 社会人として恥じ入って死ね!」
「ほんとひどくない?!」
 朝の爽やかな海岸に、いい歳をした男たちのみっともない喧騒が響く。
 それは、彼らが帰路を辿るたびに遠ざかっていき――最後に、海岸はいつもの朝の静けさを取り戻していた。
 波は幾重にも、ずっとずっと歌い続ける。彼らのこれからの歩みを祝福するように。

 

 

 ――ああ、ああ。
 思い返しても、なんともくだらない日々だった。そして、なんとも楽しい日々だった。
 辛いことがなかったわけじゃない。歯を食いしばり立ち向かったことだって、たくさんあった。死にかけたことだって、たくさんあった。
 だけど、思い返しても何一つ悔いのない、素晴らしい人生だった。
 朝焼けの中、ようやく帰ってきた幼馴染の笑顔を、どうしてだか夢にみた勝己は、薄く瞼をもちあげた。
 ゆっくりと瞬きを繰り返す。
 開けられた窓にかかった白いカーテンを揺らす心地よい風が、頬を撫でる。不規則に  踊る白い布の向こうには、青空と手入れの行き届いた庭がみえる。
 燦燦と降り注ぐ太陽の光が、あの日を思い起こさせた。
 どうやら、勝己はいつのまにか、午睡していたらしい。時間をみれば、もうすぐ巡回の看護士が来る頃合だった。
 曖昧になっていた意識と記憶を整理して、歳をとって細くなった息を、ゆるゆると吐き出す。
 ふと、視線を巡らせた瞬間、なにかがいることに気づいた。
「……あ?」
 みれば、さっきまで誰もいなかった窓辺に、誰かがいる。
 否、誰かなんてわかっている。その色を、その佇まいを、その空気を、忘れたことなどない。
 懸命に目を凝らす。ぼんやりとしていたものが、数度の瞬きの間に形をとった。
 灰色のブレザーに着られている、といったような幼げな顔立ちの少年がひとり、立っている。知的な光を宿す大きな瞳に、まろい頬にはいくつものそばかす。
 懐かしいその姿に、ゆるりと口の端が持ち上がる。
 まっすぐな視線が向けられていることに、数秒を経てようやく気づいたらしい。それまで肩を落とし、下を向き、どこか憂いを帯びていた面が、驚きに彩られる。
「……かっちゃん?」
「……よう、デク」
 懐かしい声で、この世でもうそう呼ぶ人間などいない勝己の愛称を、幻のように現れた少年が――緑谷出久が、呆然と囁いた。
 いつかの幼い光景が鮮明に蘇ってくる。ああ、まだそんな幼い頃のことも思い出せるのかと、少しばかり嬉しくなった。
 気管の細くなった喉が、急な精神の高揚に耐えられなかったのか、一瞬呼吸がつまった。
 情けなくも咳き込めば、出久がきゅっと眉をさげた。駆け寄り伸ばされる瑞々しい皮膚に覆われた手。
「大丈夫?!」
 だが、出久に情けをかけられるなど、冗談ではない。勝己は、なけなしの力を振り絞り、問答無用でその手をはらった。
「クソが。なんだそのふざけた格好は」
「しょうがないだろ。あの世じゃ、自分が一番輝いてたときの姿になるらしいんだから」
 へえ、と勝己は小さく声を漏らした。
 ということは、自分もこいつと同じ、高校生くらいの姿になるのだろうか。とはいえ、それなりにいい歳のとりかたをしてきたつもりであるので、大人の姿も捨てがたい。
「そーかよ。つーか、来るの遅ェ」
「いたっ! もう、なにするんだよ……」
 勝手にベッドに腰掛けた出久の手を、勝己はあらためて叩いた。ぴゃっと引っ込んだ 傷だらけの手を、ぼんやりと眺める。感触があることに驚いた。
「触れるな」
「そりゃまあ……、かっちゃん、もう死んじゃうし……」
 己の手の甲を撫でていた出久が、悲しそうに寂しそうに、そんなことをいう。
 海外には死を告げる天使がいるというが、まさかこんなふざけたものが自分のもとにくるとは。
 しかし、己の終わりを示唆されたというのに、勝己は動揺しなかった。
 やっとか、という気持ちさえあった。
 ようやく、ようやくだ。ああ、長かった。胸中に浮かぶのは安堵だけだった。
「迎えがテメェとか天国っつーのはどうなっとんだ」
「えっ、かっちゃん天国いくつもりなの?」
 心底びっくりだよ、というような腹の立つ顔をした出久を殴ってやりたいが、体がついていかない。
「地獄に落ちろってか」
「そんなこといってないだろ。そうやってすぐ僕の発言を曲解するの、結局なおらなかったね」
「テメェが俺をイラつかせるからだろうが」
「はいはい」
 しょうがないなあといわんばかりの顔をして、出久が上半身を倒してくる。勝己の胸元へと緑のもっさり髪に覆われた頭が乗るが、重さはまったく感じない。
「でも、かっちゃんが天国いっちゃったら、僕、一人だなあ」
「ンだよ、最高のヒーロー様は天国いってねーんかよ」
 まるで残り僅かな心臓の音を聞き届けるように、耳を押し当てている出久の頭を撫でる。
 揺れる癖毛の感触が――ああ、ああ、なつかしい。
 目頭が熱くなるが、泣くなどみっともなくてできやしない。勝己の高いプライドは、  死ぬまで変わらぬものだった。
 んー……、と、なんとも煮え切らない声を零した出久が、勝己を見上げて笑った。
「うん、まあ」
「それなら、しゃあねぇから付き合ってやる」
「え、いいよ、別に。かっちゃんは天国にどうぞ」
 へらりとした顔を一転させ、真面目な表情をみせる出久の髪を、苛立ちをまぎれに軽くひっぱる。
「殺すぞ、クソが」
「僕、もう死んでるよ」
「そうだったわ」
「ふふっ」
 くすくすと視線を絡めて笑いあう。内容的には、とても笑えたものじゃないはずだったが、出久とならばそれもよかった。
「なあ、デク」
「なに、かっちゃん」
 ごろごろと喉を鳴らして飼い主に甘える猫のように、ぺったりとくっついて離れない 出久の頭を、何度も撫でる。ああ、ずっと、こうしたかった。
 生きているうちには決して言葉にしなかったものが、こみ上げてくる。ぽろぽろと心と身体の境界をこえて溢れるものが、勝手に口から飛び出した。

「俺、てめぇのこと嫌いじゃねーわ」

 ぽかん、と目を見開いた出久が、数秒の後、はじかれたように笑い出した。
「ほんと、かっちゃんはかっちゃんだね! あはははっ」
「うるせえ」
 ひーひー、と涙を滲ませながら笑われて、昔のように不機嫌さをあらわすように下唇を突き出しながら睨めば、また笑われた。どうやら、今はなにをしても面白おかしくとらえられてしまうようだ。
 む、と口を引き結んで睨み続けていると、ようやく笑いの衝動がおさまったらしく、出久がシーツの上に投げ出されていた勝己の手をとった。
 血管の浮いた皺だらけの年寄りらしい手だ。老化のせいで、勝己を最強と呼ばれるにふさわしいヒーローへと押し上げた個性も、もう、ほとんど使えない。爆破の個性に耐えられない。そんな手を、さも大切なものだというように、出久の指先が辿っていく。

「いろいろとあったけどさ――僕、かっちゃんといられて、幸せだった」

 よせてはかえす小波によく似た、耳の奥に残る響きに、勝己は目を細める。
 この男は、こんな風に愛しげな色をのせてしゃべる奴だったろうか。もしかしたら、生きているうちもそうだったのかもしれない。
 それに気づけなかっただけならば、惜しいことをしたと、勝己は思った。
「……そうか」
 言葉少なくそうかえせば、繋いだ手に自然と力がこもる。
 世間一般が決めた常識からみれば、眉を潜め訝しく思われても仕方がないような間柄だった。幼馴染というには、優しい親しみなどはなく。恋人というには、温かな愛情がなかった。捩れて拗れた独占と執着だけが、二人にとってなによりも確かなものだった。
 かといって、そこから育つものがないわけではない。はじまりはどうであれ、長い年月をともにすごせば、人の間には情が育つものだ。どんなに形容しがたかろうとも。
 芽吹きは当人達ですら気づかぬほどの小ささで、しかし気づけば摘み取るには大きすぎるものとなっていた。勝己がそれを目の当たりにしたのは、出久が死んだあとだったが。
「これで、一緒にお墓にはいれるね。あの言葉が実現するなんて、すごいや」
「俺が嘘つくわけねえだろうが」
「うん。かっちゃんは、有言実行の男だもんね」
 生涯独身であった二人が、本来ならば叶えることなどできない約束だ。だが、出久は遺言で、ヒーローが葬られる墓地に埋葬されることを望んだ。
 そこは、数十年前に起きた有名ヒーローの墓荒し事件以後、勝己が中心となって国にかけあい、つくった墓地だ。
 社会的にみれば、生前に命がけで人々を救ったヒーローたちの死後の安寧を願ったものとされているが、実質、自分たちのためだったといってもいい。
 出久はあまりの行動力に呆れていたが、勝己はもとよりそういうことを考えていたのだから、仕方がない。
 たまたま、有名ヒーローの遺骨を悪用する敵が現れて、世間やヒーローたちとの利害が一致しただけのこと。
 勝己の遺言もまた同じようになっている。あとはすべて、遺言を預かる弁護士がやってくれる手筈だ。たとえ、自分達の遺骨が同じ墓にはいったことで、どうこういわれようとも知ったことではない。あの世にいった自分達に、この世で噂される言葉など、どうでもいいのだ。大事なことは、あの言葉を現実のものとする――この一点のみ。
「十年か」
「あっという間だったなあ。死んでるせいもあると思うけどさ」
 出久が自分より先に旅立ってからの年月をしみじみと呟けは、出久が気の抜けた笑顔をみせる。
「笑えねえな」
「いや、別に冗談のつもりじゃないからね」
 大きな瞳の瞼が、ゆったりと下がる。枯れ果てた自分とは違う瑞々しい唇が、わずかに迷うように上下したあと、その想いをつづる。
「……かっちゃん、もっと長生きしてくれてもよかったのに」
「ハッ……こっちはなあ、テメェがいないと、つまらねえんだよ」
 これ以上の人生は必要ないといわんばかりに、勝己は目を細めた。
 十年。十年だ。
 出久が勝己を置いて、先に逝ってしまってからの年月は、言葉にすれば短いものだ。だが、勝己にはどうしようもなく、長いものだった。
 老いゆくほどに、時の流れは速くなるなんて、どこの馬鹿がいったのかと理不尽な八つ当たりもしていた。
 目をやればすぐにでもとらえられた姿はどこにもなく、耳を澄ませてもあの声はどこからも聞こえない。それを、十年。
 ひどく退屈な日々だった。ひどく隣が寒かった。
 どうして置いていきやがったと、ひどく責めた。
 だが、巡ってきた季節のやわらかな風に揺れるカーテンのむこうに。芽吹いて伸びゆく新緑を讃えた枝の狭間に。澄んだ青い空にたちのぼる大きな雲をみあげたときの傍らに。鮮やかな色彩で大地を包む落ち葉のうえに。穢れを知らない純白に覆われた静謐な庭に ――なにかを、いつも感じていた。
 自分はひとりではなかった。だから、この年月を生きられた。
 なあ、と勝己は出久に呼びかける。
「てめェ、いつもそばにいただろ」
「……!」
 まどろむように勝己に身を預けていた出久が、ぱっと顔をあげた。泣きそうだったのか、いや、泣いていたのか、緑の大きな瞳がゆらゆらと水面の下で輝く宝石のようにきらめいた。
「すごいね、かっちゃん。そういう方面も才能マンなの?」
「んなわけあるか」
 知らなかったと感心するばかりの出久を馬鹿にするように、大きく息を吐き出す。
「てめえのことなら、なんとなくわかるっていうだけだろ」
「そ、そっか……えへへ……」
「なに照れてんだ、キメェ」
「気づいていてくれたのが、嬉しいだけだろ」
 そうかよ、と囁いて出久と視線を交わらせる。腹が立つし、生意気だし、たてついてくるし、こっちのいうことなどききやしないし、気持ちさえも慮らない。そのくせ、手放すことなどできない存在。
「あの世まで、てめえが道案内とか不安しかねえな」
「うん、そうかもしれないけど……。ねえ、かっちゃん。僕でいい?」
 心細そうに不安げに、自信なく尋ねてくる出久は、幼少期の頃のように眉をさげている。
 く、と勝己は喉の奥を震わせた。
「妥協してやる。身体も相当ガタがきてんだよ。ほかの迎えなんて、待ってられるか」
「……そっか」
 雪解けに綻ぶ新芽のような印象のやわらかい笑みを浮かべた出久が、勝己の答えを得て上半身を起こした。
 ゆっくりと身を寄せてくる出久は、そこにいるとわかるのに、なぜだか現実味が薄い。重さがまったく感じられないからだろうか。
 だが、上から降るように落とされた口づけには、不思議とあたたかな感触があった。
 とたん、鉛に押さえつけられていたような重い身体が、なぜだか楽になった。いや、老いた器と魂の繋がりがほどけていくような、そんな感覚だ。この世に置いていくべきものをここに残し、新たなどこかへ旅立つための最小限のなにかが、離れていく。
 勝己は、いまにも泣きだしそうに笑う出久の頬を両手で包み、引き寄せた。
 鼻先が触れあう。ほろりと勝手にこぼれた涙をどうしようもないと見送って、勝己は言う。
「これからも、」
「うん」
 胸の奥から、出久に向かって流れ出した想いは、もう失ってひさしいはずの、張りのある声だった。それは、若かりし頃のそれと、同じだった。
「ずっと、いっしょにいろ」
「うん」
 出久の頬の形をなぞる指先も、そこから続く手も、若々しい肌に包まれている。
 鏡を見ずとも、自分と意識するものが出久と同じように、少年であった頃と寸分たが  わぬものになっているのだろうと感じた。
 おわりだ。
 この世でなく、あの世にいくための準備が整った。心は穏やかで、悔いはどこにもない。
「ね、かっちゃん」
「んだよ、デク」
 応える声は優しくて、勝己は自然と笑っていた。自分がこんな声をだせるとは、思っていなかった。
 なにかを慈しむような響きを紡ぐことができる自分が、おかしかった。
「僕もわかったことがあるんだ。かっちゃんとは違って、死んでからだったけどさ」
「ほんとノロマだな、てめえは」
「そういわないでよ」
 出久が申し訳なさそうな顔をするので、今回ばかりは許してやることにする。
 さっさと言えと、続きを促すように顎をしゃくれば、出久がそっと内緒話をするように口元に手を添えて、勝己へと近づいてきた。
「この気持ちは、きっとね――」
 二つの音で作られる言葉が、勝己の耳元でひそやかに花開いて消えていく。
 勝己は、出久がいなくなってから忘れていた笑みを浮かべる。
 本当の身体の機能はもう止まっているだろうに、その声が聴覚の奥をくすぐり、心の奥まで満たしていく。幾重にも幾重にも、広がっていく。
 それが勝己に吸い込まれて消えたとき、部屋の扉がひらかれた。
「爆豪さん、失礼しますね――」
 そう声をかけたものの、勝己からの応えがないことに息を呑み、慌ててナースコールをする看護士の呼びかけが、遠ざかる。
 世話になったと、もはや生者には聞こえぬ声で、勝己は囁いた。
 これから、自分の後始末のために騒がしく大変なことになるのだろう。
 だがもう、気にすることはない。あとは、いまと、これからを生きていくものたちにすべて任せる。遺言を守り、あとは適当にやってくれれば、それでいい。
 勝己は、にやりと笑った。そして、振り返ることなく、繋いだ手に力をこめる。
「おら、いくぞデク」
「うん!」
 かつてみた、あの夜明けの日のように、出久が光の中で笑っている。
 もう、離れることはないのだろう。それだけで、よかった。
 さあ、聞きたいこともきけたことだし、とっととこの先にいくとしよう。
 何の未練もないこの世に別れを告げることもなく、勝己は遠いどこかへ旅立った。

 

 

 爆豪勝己。
 享年、九十歳。
 彼が育てた大勢のヒーローたちに惜しまれながらも他界。
 その遺骨は、彼が望んだとおりに――最高のヒーローの隣へと、おさめられたという。