月に願いを

 妻の様子がおかしい。
 体調が悪い、素行が悪い、態度が悪い――そういった類のことではない。まったくない。妻に限ってはそれはありえない。
 だが、確実におかしいのである。
 日常生活の延長線上の行動だといわれればそうだろうが、かといってあれは目に余るほどだ。
 なにかしてしまっただろうか?
 それとも、これからなにかあるのだろうか?
 記念日を控えている、というわけでもないはずだ。
 脳内にある情報の棚をすべてこじ開け、夫であるディラスは眉を潜めながらウェイター業務をこなしていく。
 深く悩みながらも、料理を作ったそばから己の口に運ぼうとするポコリーヌとの攻防は、ほとんど無意識にこなしていたりする。人間の適応力は、生きるための最強の武器であるとはよくいったものである。
 さて、こうして今日も、絶妙な連携を発揮するディラスとマーガレットの手により、ポコリーヌキッチンの名誉は守られ、来客の食欲は満たされていく。
 そんなこんなで仕事をこなし、昼の客をさばき終わった直後。
「ちょっとディラス」
「……?」
 同じ戦場を駆け巡る同士であるマーガレットが、どこか疲れた声で声をかけてきた。その美しい面にはどこか困ったような、諦めているような表情が浮かんでいる。エルフ特有の尖った耳が、心なしか下がっている気がした。
「なんだ、マーガレット」
 少々思考に没頭したことは認めるが、仕事は間違いなくこなした。すべての料理を、すべてのお客に届けてみせた。注意されるような失敗はしていないと思うのだが。
 マーガレットが、左手を腰にあて、右手の人差し指をぴっと立てて、いう。
「なんだ、じゃないよ。その眉間の皺、なんとかならないの? お客さんたち怖がってたよ」
「!」
 しまった! とばかりに、慌てて指先を眉間に押し当てる。
 考え込んでいるうちに、いつしか、ここで働き始めた当初のような仏頂面になっていたらしい。
 せっかく、フレイと関わるようになってから表情が柔らかくなったと、よかったと、恥ずかしながら褒めてもらえるようになっていたというのに。
「そんなに皺、寄ってたか」
「くっきりとね」
 誤魔化していわれるより、はっきりと告げられたほうがいい。
 すまない、気をつける、と言葉少なに謝れば、マーガレットの表情が緩んだ。
 見た目は同い年ぐらいだが、実際のところエルフであるマーガレットのほうがディラスの何倍も生きている。そういうところは、妙に年上のお姉さんくさくて、ついつい言うことを素直にきいてしまう。まあ、年齢のことは禁句だが。
「どうしたの? フレイさんのこと?」
「う、ぐ……なんでわかんだよ……」
 声を喉に絡ませながら肯定すれば、ころころとした笑い声が返ってきた。
 生業が音楽家であるためか、それすらもなにかの歌の一節のように華やかだ。もしくは、美しい音色の、楽器をかき鳴らしたような。
 エルフとは皆、このような生き物なのだろうか――と思ったものの、花屋の主が脳裏をかすめ、ディラスは考えることをやめた。
 ひとしきり笑ったマーガレットの瞳が、からかうように煌めく。
「だって、ディラスが悩むことなんて、フレイさんのこと以外であるの?」
「……」
 さも当たり前のようにそんなことをいわれて、ディラスは撃沈した。顔がどうしようもなく赤くなっていく。
 ふい、と視線を落としたところで、それが照れくさいからだということくらい、マーガレットにはすべてお見通しだろう。
「で、なにがあったのかな? 相談くらい乗るよ?」
 お客のいなくなったテーブルを視線で示されたディラスは、わずかに考える。
 女性であるならばもしかしたら、フレイの行動の意味が、推察できるかもしれない、そう思った。
 ディラスはマーガレットを促し、椅子をひいて座ってもらうと、対面するように真向かいの椅子へと腰掛けた。
 なんと伝えればよいか、言葉を選んでみたものの、フレイがやっていることは単純なので、端的な説明しかできそうにない。
「――実はな、フレイが掃除をしているんだ」
 きょとん、とマーガレットが大きな瞳を瞬かせた。当然の反応だろう。告げたディラスですら、特段おかしいことだとは思えない。逆の立場だったら、ディラスは顔を顰めているに違いない。
「それってなにもおかしいことじゃないと思うんだけど……掃除……掃除だよね?」
 だが、生真面目なところのあるマーガレットは、腕組みをし、その内容を言葉にして繰り返して確かめている。まるで、自分の常識がもしかしておかしいのではないかと、照らし合わせるように。
 だが、と一呼吸おいて、ディラスは続けた。
「普通の掃除っていうより大掃除っていう感じでな……もう一人、俺たちの家に住めるようなるくらいの勢いで、荷物の整理をしているんだ。おかげで、家のなかが、なんていうか――がらんとしてきた」
 ええ、とマーガレットが驚きの声をあげて、首をひねった。
「うーん? それはたしかにおかしいね。どうしたんだろう? 別に大掃除するような季節じゃないし」
「そうだよな。年末でもあるまいし、大掃除をするような理由がみあたらない。だから、不思議に思っていたところなんだ」
 同じように首を捻りながら、ディラスは心当たりがないかとマーガレットに訊ねてみたものの、ふるりと頭を振られるだけだった。
「でもまあ、フレイさんのことだし、理由はちゃんとあると思うよ? たとえば――ほら、模様替えしたいとか、新しい家具をいれてみたいとかさ」
 ああ、なるほど、とディラスは思った。
 結婚して一年ほどになる。そろそろ見慣れた我が家の風景を、一新してみたい気持ちになったのかもしれない。そのためにいらないものを処分しているのかもしれない。ちょっと度を越している気が、しないでもないが。
「そんなに気になるならきいてみたらいいんじゃないのかな? だって、ディラスとフレイさんはさ、夫婦なんだから」
 明確な答えはだせていないけれど、マーガレットがまるで自分のことを自慢するように笑いながら、そんなことをいう。
 たしかに、マーガレットにいわれるまでもなく、フレイとは夫婦としてここまでなんとかやってきた。ひそやかにではあるが、ディラスには夫としての自信もついていたきたところである。
 悩みも苦しみも、喜びも幸せも。なにもかもわかちあって生きていこうと決めたのだから、ひとりで思い悩むよりも、きちんと話し合うべきだ。それが夫婦という関係の正しい在り方だろうと、改めて考え至る。
「そう、だな。フレイに、きいてみるか」
 それがいいよ、と笑ったマーガレットが、一転、きりりと表情を引き締めて、小さな拳を振り上げた。
「じゃあこれで悩みはひとまず横においておけるね! なら、午後からはもっとにこやかにいこう! はい、ディラス、笑顔!」
「お、おう!」
 急な指導につられて頷き、ディラスは笑った。にか、と。
 僅かな沈黙の後、勢い込んでいたマーガレットの腕がゆるりと下がる。まっすぐに向けられていた視線が、すっと下げられた。
「……うん、ごめん。いつものとおりでいいから。眉間の皺さえ気をつけてもらえればいいから」
 このやろう。
 ひきつったぎこちない笑顔を崩さぬまま、ディラスは心の中で毒づいた。

 

 

「……満月か」
 ポコリーヌに別れを告げ、ディラスがポコリーヌ邸から一歩でると、道が青白く輝いていた。見上げれば、思わず呟いたとおりの真円。夏の風に包まれて流れる雲の向こう、白く淡く輝いている。
 月光に彩られた石畳の上を歩いていく。影がくっきりとわかるくらいの皓皓とした灯りが、夜道を歩く者としてはありがたい。
 夏の暑さがなりを潜めたセルフィアの街を、心地よく靴音を鳴らしながら、ゆっくりとくだっていく。
 こんな静かな帰り道、思うは、愛しいフレイのことばかり。
 きっと今頃、食事の準備をして待ってくれているのだろう。疲れているはずの足は、そう考えるだけで軽くなる。心はゆるやかに、逢える期待に浮上する。
 告げられぬまま、密かに想っていたときもそうだった。恋人になっても同じ。夫婦になってからも、変わらない。
 自分の心の景色を鮮やかに塗り替えていくのは、フレイだけだ。これからも、きっとそう。
 二人で暮らす大切な我が家に近づくにつれ、身体がフレイへの想いでいっぱいになっていく。溢れだして零れてしまう前に、フレイを抱きしめて伝えたくてたまらなくなる。
 古びた扉に手をかける。窓の奥で揺れる温かな光に安堵しながら、開け放つ。
「ただいま」
 そういえる場所があることの幸せを実感できる言葉を発したものの――いつもならすぐに帰ってくるはずの出迎えの声が、ない。
「フレイ?」
 不審に思いながら、家へとはいる。広い室内に、フレイの姿はない。
 テーブルの上には料理が並べられている。いつでも食事ができる用意がしてあるということは、フレイがいないはずはないのだが。
 増築した別の部屋も覗いてみるが、そこは綺麗に整理整頓された部屋があるばかり。
 どこかにいっているのだろうか。もしかして、マーガレットの家で開催されるパジャマパーティにでも誘われたのだろうか。しかし、それならば朝にフレイから一言があるはずだし、昼間にマーガレットがなにもいわないわけがない。
 テーブルの上に書置きがあるかも、と部屋にもどったとき。
 夜の匂いをはらんだ風が、ディラスの頬をなで、髪の合間を通り抜けていった。
 みれば、城の裏庭にある畑に続く扉が、少しだけあいている。扉の蝶番を軋ませながら、開く。
 そこから臨むことができるのは、月下のもと、淡く光り輝く畑。育てている者の愛情によって、活き活きと実る野菜や果実が、朝を待ちながら静かに眠っている。
 その手前に、細い人影がひとつ。ふたつに結わえられた長い髪が、揺れている。
 手袋をした手を胸元で組み、月に向かって祈るその姿は、まるで女神像のようだ。真摯にひたむきに、何かを一心に想うその姿は、人の身ながら神々しい。
 ほう、とついた溜息が届いたのか。
 閉じられていた目蓋が、ゆっくりとあげられていく。やわらかな唇が、忘れていた呼吸を思い出したように、薄くひらいた。
 夢の世界にいたような、どこか憂いを秘めたぼんやりとした表情で、フレイが振り返る。大きな瞳でディラスの姿をとらえ、まるで網膜に焼き付けるように二度三度と瞬きをくりかえす。それは、羽化したばかりの蝶の羽ばたきに似た、もどかしさだった。
 と。
 ふわ、と彫像めいていた美貌が、愛くるしく綻んだ。遠い世界から何かが乗り移っていたような非現実的な空気が、一気に引きはがされて、夜に融けた。
「ディラス!」
 弾けるように駈け出したフレイが、一直線に飛び込んでくる。ディラスは揺らぐことなくその身体を受け止める。
「おかえりなさい!」
「あ、ああ……ただいま」
 幻に惑わされていたような心地から、一気に現実に引き戻してくれる、フレイの熱を抱きしめる。よかった、となぜだかほっとする。知らない女をみていたような、妙な感覚が消えていく。
 こちらをみあげ、フレイがわずかに首を傾ける。
「いつ帰ってきたの?」
「ついさっきだ」
「そっか。ごはんの用意できてるよ、一緒にたべよう?」
「ああ」
 さきほどまで頭からつま先までかぶっていた神秘性など欠片もみせず、フレイがいつものように微笑みながら、ディラスに腕を絡めてくる。
 くしゃり、とそんなフレイの頭を撫でると、きゃあ、と楽しそうな笑い声があがった。
 家への扉をくぐりながら、ディラスは問う。
「畑で、なにをしていたんだ?」
「ん? 畑っていうか……んーと……」
 少し考えるそぶりをみせたフレイが、上目使いで悪戯っぽく笑った。誤魔化そうという意図は感じられない。でも、なにか企んでいるとわかる、そんな顔だ。
「ひみつ!」
 そういって、ぎゅっとディラスの腕をきつく抱きしめ、フレイは楽しそう笑っている。
「すぐにわかるよ。さ、ごはんにしよ。お腹減っちゃった!」
「お、おい、フレイ……!」
 ぐいぐいと腕をひかれながら、ディラスはフレイに一歩遅れて我が家へと入る。
 まあ、なんだかすごく嬉しそうだから――いいか。
 ディラスは淡く口元を緩める。我ながら、たいがいフレイには甘いと思うが、しかたがない。
 フレイが自分に嘘をつくことはない。隠し事をすることもない。それは、絶対の自信だった。世界が終わるまで、崩れることのないだろうそれは、確かな信頼でもある。
 きっと、言っていた通りにすぐにわかるのだろうから、焦る必要はない。
 いい匂いがただようテーブルに向かいながら、ディラスは小さく笑った。

 この日から、フレイの大掃除はすっかりとおさまり――結果として、その理由を問いただす機会は失われてしまった。
 そして、ディラスがそのことを気にしなくなって数日のちの、とある夜。

 そろそろ寝るか。
 時計の針は、いつもの就寝時間を過ぎている。
 ガウンに着替えたディラスが、フレイに声をかけるべく振り返ろうとした、その時。背後に、気配を感じた。
「どうした、フレ――っ?!」
 その名を呼びきる前に、ぴったりと背にはりつかれ、我ながら情けないくらいにディラスは体を揺らしてしまう。薄布越しのやわらかさが、隙間なく寄り添っている。
「ディラス……」
 は、と吐息交じりに呼び掛けられて、ぞくりと肌が粟立った。時折、フレイがきかせてくれる誘う声を聞き漏らさないよう、耳が自然と跳ねる。ぐり、と甘えるように額をこすりつけられて、骨が痺れた。
 これは、これは――これまでの経験から、期待が募る。夜のめくるめくひとときが脳裏を駆け巡って、身体が熱を帯びていく。思わず、喉を鳴らしてしまった。
「あ、あのね……、今日、その……しよ?」
 もじもじと口ごもりながらフレイから告げられたものは、予想通り、夫婦の営みへのお誘いだった。
 ここで断る男がいたらみてみたい。
 むしろそういってもらえるのはこの世界でフレイの夫である自分しかいないわけでもちろん断るわけがなかった。
「あ、ああ、い、いいぞ」
「!」
 平静を装いながら、首をひねって背後をみやる。ほっとしたように顔をあげたフレイと視線が絡む。その潤んだ瞳にゆっくりと、しかし確かに血のめぐりが速くなっていく。
 自分の身体に回されたフレイの腕を外して、改めて向き直る。
 夫婦としての月日を重ねてはきたけれど、何度やっても気恥ずかしい。ディラスは羞恥による勢いのまま、フレイを引き寄せ唇を重ねた。
 やわらかくてあまいくちびるは、どれだけ食んでも、飽きることはないだろう。
 はふ、と待ち望んでいたものを与えられた幸福に酔うフレイを、ディラスは軽々と抱き上げた。
 綺麗に整えられた寝台へとフレイを丁寧に降ろす。おろされた長い髪を梳いて、もう一度口づける。ちゅ、という軽い音のあと、ディラスは言う。
「窓をしめてくるから、少しだけ、待っててくれ」
「あ……うん、ありがとう」
 いつも寝る直前まで風を取り入れている窓を、しめにいく。
 そこからみえた外は、暗く深い夜の色に染まっていた。
 そういえば、とディラスは思った。
 今日は新月だった。夜空に輝くは、星ばかりの日。愛し合うものたちの囁きを聴くのは、小さきものだけ。隠したいものを暴くような白い光は、遠い日のむこう。
 なんとなく、秘め事をするにはふさわしい日のような、そんな気がしてむず痒くなる。
 手早く窓をしめ、はやる鼓動に急かされて、寝台の上で待っているフレイのもとへと戻る。
 まだ乱れてはいないのに、どこか妖しく、しどけない空気を滲ませて座るフレイに、吸い寄せられるように手を伸ばす。
 丸い肩にかかる寝間着の紐を、するりと落とす。白い肌を手のひら全体で味わいながら、何度でも口付ける。
「……ん」
「フレイ……」
 頬に額に、唇を触れさせる。愛しいひとのかたちを確かめていく。溺れるように夢中になりながら、でも壊したりはしないように。
 ディラスは、なけなしの理性を繋ぎつつ、フレイを押し倒そうとして――自分の胸に、ひたりとあてられたものに気づいた。
 それはフレイの手だった。躊躇うことなく、ディラスの身体をたどって下りていき、ガウンの腰紐を解いた。
「……!」
 フレイよりはやく肌を晒す格好になったディラスが僅かに身を離すと、フレイは熱の籠った瞳を潤ませて、じっとこちらをみていた。
 いつにない欲を漂わせるフレイに、手が止まってしまう。求められる嬉しさに、ディラスの中心に血が集まっていく。
 固まってしまったディラスの前で、フレイがするすると寝間着を脱いでいく。あらわになる美しい裸体に、目が離せない。
「ね、ディラスは知ってる?」
「……あ、え、な、なにをだ?」
 ディラスに圧し掛かるように手を伸ばしながら、フレイがいう。
 ああ、このままでは、と思ったがもう遅い。
 いつもとは逆に寝台へと押し倒されたディラスは、いい匂いがする寝具に背を預け、どこか間の抜けた顔でフレイを見上げた。
 フレイは、慈愛に満ちた顔で、ディラスの胸から腹に指を這わせている。うっとりとした眼差しの中に、ほんの少しの恥じらい。それがかえって、いやらしい。
「新月の日はね、何かをはじめたり……お願いごとをするといいんだって」
「ねがい、ごと……?」
 フレイの言葉の中、そこが強調されていた気がして、ディラスはうわごとのように繰り返した。
 うん、と頷いたフレイが、ディラスに腹に跨った。その重み。やわらかさ。熱。
 ぐらり、と意識が傾ぐ。瑞々しい果実のような二つの乳房が、そんなディラスをさらに煽るように、ふるりと揺れた。
 フレイが主導になることは、滅多にないことだ。そうされるのも、別に嫌なわけじゃない。
 ディラスは、腹をくくると、フレイの腹に手をあてた。いつまでも狼狽えていては、男としていかがなものか。
 左手でフレイの美しい曲線を描く腰回りから臍を撫でなつつ、右手を上半身へとのばして、その頂に触れる。
 ぴく、と身体を跳ねさせ、きゅっと悩ましげに眉を寄せたフレイが、いう。
「ぁ、ん……でも、そのためには『空け』ておかなきゃいけないの」
「……どういうことだ?」
 徐々に息を荒げながら、フレイの肢体を愛撫する。最初は優しくぎこちなく。だけれど次第に大胆に。フレイが、身をくねらせながら、ディラスの胸に倒れ込んでくる。
「あ、ぅ……ん……あのね、人がもつものには、限りがあるからなんだって……、あ、ディラスぅ……」
 胸と胸をあわせながら、フレイが口づけてくる。それを受け止めながら、ディラスはフレイのしなやかな背を、指先で上へとなぞりあげた。
 痺れたように細かく肌を震わせて、フレイがディラスを覗き込む。
「だから、お願いしたものがやってくる場所を、あけてあけおいてあげるんだ――満月の日に……」
「……この前から掃除をしていたのは、それだったのか……ん……」
 小さなフレイの頭を片手でとらえて引き寄せて、たっぷりを唇を重ねる。小さな舌を吸い上げるディラスの、心のどこかにあった曇りが晴れていく。
 フレイの言葉は一本の糸となり、ばらばらに認識していた事実を結んでいく。ディラスの疑問に答える形を成す。
 ああ、あれは、月への祈りではなく、月への知らせだったのか。
 私のもとには、これだけの『空き』があります。だから、どうか、願いを叶えて。待ち望むものが、どうか、私のもとへ来ますように――
 そんなフレイの、懸命な心がみえるような気がした。
 舌を絡みあわせていた口づけをほどき、唇の端に乗る甘い液を舌先でなめとりながら、問う。
「それで?」
「ん、ぁ……ん……なぁに?」
 そっちから話をふっておいて、それはないだろう。
 ディラスは、すっかり蕩けたフレイの耳に、唇を寄せて囁く。
 ここまできて、願いの内容は秘密といわれても、納得できるわけがない。
「フレイは、なにが欲しいんだ?」
 もしそれが、自分の手でかなえられることならば、こっそりとばれないように努力してみよう。そう思ったのだ。
 が。
 はく、と空気を食べるような息をしたフレイが、濡れた唇をわななかせる。

「――あかちゃん」

 そうして願い乞われたものは、あまりにも、予想外。
 身体が、一瞬確かに、石になった。思考停止、呼吸停止、心臓停止。だが、ディラスはまだ死んではいない。死ぬわけにはいかなかった。
 身体機能の停止は、フレイが再び身を起こしたときに、あっさりととけていく。
 どっと汗が噴き出す。せき止められていた熱い血潮が、喜び勇んで全身を駆け巡り、ディラスの身のうちを焼いていく。
 つ、とディラスの胸に指を這わせ、心臓の上に手のひらを押し付けたフレイが、いう。
「ディラスとの赤ちゃんが、ほしいんだ……」
 だからお願い、と囁くその姿は、願いを伝えるだけのか弱い存在ではなく、むしろ願いを叶えるためになんでもするという力強さに満ち溢れていた。
 反射するような強い光源は、この部屋のどこにもないはずなのに。フレイの緑の瞳が、底光りしている。本気なのだと、それだけでわかるような。
 ああ、もうだめだ。完全に落ちてしまった。落とされてしまった。
 理性の糸を手放して、まだ自ら動こうとするフレイを引き寄せる。腕の中に閉じ込める。噛みつくように口づけた。
 そのまま位置を入れ替えて、フレイの身体を押し開く。
 のけぞる喉に、唇を押し当てて、その芳しい匂いを胸に吸い込みながら、目を閉じる。
 ぐるぐると、目蓋の裏に星と月がめぐる。
 言葉なく絡まりあい、お互いがお互いに熱く沈み込みながら――願い叶うよう、強く強く、抱きしめあった。