ホウ、と夜のしじまを密やかに泳ぐように、鳥の声が聞こえる。それに応えるように、ほう、と優しい鳴き声がまた響いた。
自然豊かなセルフィアにあっては、恋を囁き合う梟たちはさして珍しくもない。ただ、ああこの季節になったかと感慨深く思うのみ。
薄く開いた窓から滑り込む風には、ほのかな花の香り。冬の厳しさから解き放たれ、やわらかにまどろむ春の夜は、眠るにはなんとも心地よい。
春眠暁を覚えずと、遠い東の国ではいうらしい。
明日の朝、すやすやと眠る我が子を起こすのはしのびないなぁ、なんて。幸せな未来を思い描くことで、脳の片隅を現実逃避させながら、フレイは目の前の難敵をひたと見据えた。
切れ長の、天河石色の瞳が、同じように見返してくる。頑なな意志が、美しい色の底で輝いているようにみえた。否、強い想いが、確かにそこにあるのだ。
負けじと、フレイも瞳に力をこめる。
「「……」」
じりじりと、沈黙のままお互いに一定の距離を保ってにらみ合うのは、結婚して数年、すでに子もいる夫婦である。
妻の名は、もちろんフレイ。そして、夫の名はレオンという。
セルフィア住民のなかでもいろいろと有名な二人は、普段から仲睦まじい。
なので、今宵のことは、彼らを知るものからすれば青天の霹靂ともいうような事態である。
ちなみに二人の愛の結晶である子――ノエルは、少し離れた位置にある寝台で眠っている。
つまりは夜更け。あまり大きな声はだせないこの状況。
視線は強く絡み合い、互いの身体が発せられる気合は、拮抗して押しあっている。たわめられる空気が、みえるかのよう。
かたや、古から神竜に仕えた神官。かたや、ルーンに愛された大地の申し子アースマイト。
その実力は申し分なかった。
一瞬でも気を抜けば負ける。わずかでも隙を見せれば、押切られる。
だが、今日こそは、今日こそは、絶対に「わかった」といわせてみせる!
開戦の口火を切ったのは、悲愴な決意を胸に秘めた妻ことフレイのほうだった。
「レオンさん! どうしてそんなに嫌なんですか!?」
ご近所迷惑にならず、かつ、ノエルの安眠を妨げない精一杯の声量で、フレイは問いただす。
いつもは深い知性を宿した少しだけ悪戯っぽいレオンの瞳が、険しく吊り上った。
「なにが問題なんだ! 俺が使っていて、迷惑をかけたことがあるのか! 配慮して自分で洗っているだろう!」
すぐさま反論してくるあたり、フレイの言葉は想定の範囲内だったのだろう。こちらもまた、夜半に許されるぎりぎりの声だ。
「迷惑をかけたとかじゃないです! 洗うのだって私は嫌じゃないですから! 今度から普通にだしてもらって大丈夫ですよ!」
そうじゃない、と拳を握りしめて力説すると、レオンの表情がとろけた。
「フレイ……!」」
なぜだか頬を薔薇色に染め、感極まった声を出している夫が可愛くみえる。
どうやら、思春期の娘のような心境で、フレイが洗濯を一緒にしたくないと主張していると思っていたようだ。
ほっとしたその嬉しそうな表情に、一瞬ほだされかけたフレイは、はっと我を取り戻すと頭を振った。
「って、そうじゃなくて! 私は、ノエルがこれから大きくなって真似をしたいって言いだしたら、どうするんですかって、いってるんです!」
「別にいいだろう。好きにさせたらいい」
それまでの表情を一変して曇らせたレオンが、ぷいっと横を向く。まるで子供のようなその仕草。
「どうしてですか!」
フレイは絶叫した。もちろんこの時間帯に、できる範囲で。
「私は! ノエルにふんどし系男子に成長して欲しくないんですー!」
フレイの魂の叫びが、静かにささやかに、我が家の中へと響いていく。ただ、内容がおかしいことに突っ込む第三者は、残念ながらここにはいなかった。
「ふんどし系男子?!」
なんだそれは?! と、古代と現代の文明差に驚きの声をあげるレオンはさておき。フレイは手をひらめかせた。
「とにかく、こっちの下着を使ってください!」
ババッ、と雷が闇を切り裂くような素早さで、フレイが広げたのは男のものの下着である。ごくごく普通の、どこにでもある、誰だって履いていてもおかしくない、男物下着だ。どこで買ってきたとかはきかないでほしい。
いくら母親とはいえ、まだ年若い女性であるフレイがやるには、いささかはしたない行動かもしれないが、なりふりかまっていられない。両手を前につきだして、それをみせつける。
ぷいっと、先ほどとは逆の方向へ、レオンが横を向く。まるで、そんなもの目にもしたくないというかのように。
「断る!」
「もー!」
にべもない「お断りだ!」に、フレイは地団駄を踏みたくなった。
つかつかと部屋の片隅に歩いていったレオンが、自分の服をしまっているクローゼットをおもむろにひらき、勢いよく何を引っ張り出す。それは、知らないものにしてみれば一枚の布にしかみえないもの――言い争いの原因たる「ふんどし」である。
「この機能性と素晴らしさがわからんとは、なげかわしい!」
芝居がかった仕草と口調が胡散臭さを二割増くらいしているのだが、レオンに自覚はないようである。
「ああ、もう……」
そのまま、勢い込んで、付け心地やら通気性やら、開放感が……などと、女のフレイには理解のし辛い力説をはじめるレオンをみていると、道のりが激しく険しすぎて気が遠くなってくる。
これはもはや、長年信じている宗教を改宗させる行為に似ている気がした。
ことの発端は、遠い昔に遡る。
もともと、古代の人間の下着といえば、ふんどしであった。
とどのつまり、セルザへルーンを送るために守り人となり、気が遠くなるような眠りについたレオンは、元来ふんどし派なのである。
というか、下着といえば、ふんどし、な図式しか頭にない。それ以外の選択肢としては、下着を身に着けないということになるのだろう。
フレイの手によって守り人の任を終えてから、彼にとっての遥か未来で暮らし始めてからも、レオンはふんどしを愛用し続けていたらしい。
一方のフレイといえは、現代に生きる人間であり、かつ女の子であるために、男の下着にはあまり接点がない。当然である。
しかしながら、ふんどしといわれるものが、今現在において一般的な男性の下着として普及しているか否かくらいは、わかる。
だが、どこの誰がどんな下着を使っているかなんて、話題にのぼるわけもない。
結果として、付き合っていても、レオンがふんどし愛好家とは知らなかったのである。
それをフレイが知ったのは、結婚してからのことであった。
恋人になっても、思うところがあったらしいレオンと、夜をともにしたことなどなかったのだ。知るわけない。
その事実に直面したのは、結婚してはじめて二人だけで過ごす夜であった。
皆に祝福されて幸福に満たされながら、胸を高鳴らせて迎えた初夜は――なかなかなに衝撃的だった。
内心驚き、身をかたくするフレイを幸せそうに、寝台へと組み敷いたレオン。だがふんどしだ。
その夜は、そのままレオンと結ばれて、幸せだった。それは間違いない。
だが、しかし。
フレイはふと、思ったのだ。
もし、ノエルが成長して、自分たちのように世界でたった一人だけの人を選んだとき、その相手にみせる無防備な姿がふんどし姿って……。
受け入れられないものではないが、それなりに衝撃を受けることは、フレイには容易に想像できた。だって、やられた張本人ですし。
素敵な初夜の思い出に、見事なふんどしスタイルの彩がそえられてしまったのである。レオンと添い遂げると誓ったことを後悔なんてするわけないけど、それってちょっとどうなんだろう。
レオンは、均整のとれた身体をしていて見苦しいところなんてなかったから、別に悪いわけではないけれど、乙女の夢としてはなんていうかこう……なんだか違う気がするのだ。
そして、フレイはレオンの下着改革に乗り出したのである。
とにかく、ノエルがふんどし系男子になったら後々困ることになりかねない。ただその一心で、母は難敵に幾度も幾度も挑んでいるのである。今宵で何度目かなどと数えきれないくらいに。
フレイはレオンを愛していたし、いまだってもちろん愛しているから、下着がふんどしのみであろうとなかろうとさして問題ではない。ただし、それはあくまでフレイの場合だ。
ノエルにも、ノエルのすべてを愛してくれる、たったひとりのひとが現れてくれればいい。いつもそう願っている。だけれど、その娘がふんどしの衝撃を受け止めてくれるという確証はない。どこにもない。
そう、何度も話してみたのだが、慣れ親しんだ下着の使用感をレオンは手放すつもりはないらしい。
母になったからこその、子の将来を憂うこの気持ちを、どうしてわかってくれないのだろう。
悠々とふんどしに対する持論をぶちかまし、晴れやかな表情で一息ついているレオンになんといったらよいものか。フレイが言葉を懸命に探していると。
「……ん、ん~……ママ? パパ?」
「「!」」
舌足らずな可愛らしい声に、二人は同時に寝台へと視線を向けた。
そこには、シーツを掛布のあいまから、ちょこんと顔をのぞかせ、こちらを見ている愛しい子。
「ご、ごめんねノエル、おこしちゃった?」
フレイは、あわてて駆け寄って、白い手を伸ばした。ふわふわとした柔らかな髪が落ちた額を、そっと撫でてやる。
「んー……」
対峙していた二人の姿と漂う不穏当な雰囲気を察したのか、ノエルの眉が、へにょりと下がった。悲しそうなその顔は、見るものの心を強く揺さぶる。
もちろん、父と母には効果覿面である。
「……ケンカ、してるの……?」
フレイとレオンは、即座に頭をふった。
ゆっくりと近づいてきたレオンが、寝台の縁に腰掛けてノエルを優しく覗き込む。心音と同じくらいの速度で、レオンの手がノエルをなだめるように、何度も触れる。掛布越しであっても、その優しさは伝わるのだろう。
「それは違うぞノエル。パパとママはいつだって仲がいいだろう? だからそんなことはしてないんだ。安心しろ」
「うん……」
母とはまた違う、大きな手がもたらすものに安堵したのか、ノエルの表情がやわらぐ。
フレイもまた、レオンの言葉を肯定するように笑って頷いた。
まあ、実際のところ、内容が内容なだけにノエルに事実を伝えることなんてできないわけだが。
「さ、そろそろ寝なさい。明日はセルザとお出かけするんでしょう?」
「うん……せるばちゃんと、あそぶの……」
大好きな両親に見守られて、とろりと幼子の目蓋が落ちていく。むにゃむにゃと、なかなかききとれない言葉を発するさまは、可愛くてたまらない。
夫婦そろって目元口元を緩めていると。
「……あ、それ……」
寝台に腰掛けたレオンの片方の手に握られているものに、ノエルが気づいた。
「「!」」
ぴくっと夫婦の両肩がそろって跳ねた。
慌てて隠すようなことをすれば、余計におかしく思われるだろう。レオンもそう考えたのたか、すっかり固まってしまっている。
両親が焦って言葉に詰まっていることなど露知らず、息子は天使の笑顔を浮かべていう。
「えへへ、ぱぱのぱんつ、かっこいい、よね……」
「……!」
それは、みんなと違っててすごいねー! くらいの、ごくごく単純な子供の考えだったのだろう。しかし、父親が万の力を得るには十分すぎるものであった。
そうして、すやぁ、と眠りの世界に旅立つノエル。一瞬呆けたあと、頬を染めてきらきらと顔を輝かせるレオン。対してフレイは、苦悩の表情で頭を抱えた。
お願いだから「どうだ!」っていう顔でこっちみないでください、レオンさん――
そう言葉にする気力もなく、フレイは手にしたままの下着を、タンスの中へしまう決定をくだした。
完敗である。白旗を振るしかない。
今日はもうこれ以上どうにもならない。否、これからもどうにもらないことがよーくわかった。
ああ、世の中ってままならない。
どうか、ノエルのお嫁さんはふんどし好きな女の子でありますように――フレイはそう願わずにはいられない。
はたからみればじつにくだらない悩みを抱えた、幸せな家庭の奥様の春の夜は、こうして更けていったのだった。