かたん、と小さな音がした。
ポコリーヌキッチンの厨房で、料理の練習をしようと準備をしていたディラスは、ぴくりと耳を動かした。
野菜を洗っていた手をとめて、水気を払うと手を拭いて厨房からでる。
すると、がたん、とまた音がした。
「……?」
どうやら、交易をおこなっているアーサーの執務室からのようだ。
だが、おかしい。今日は、アーサーは隣の町まで飛行船で出掛けてしまった。たしか、新しい交易路を開くための、商談にいったはずである。
アーサーを訪ねて客があったときには、その旨を伝えてほしいといわれていたことを思い出し、ディラスは腰のエプロンをはずした。それを適当に畳んで、手近なテーブルの上におき、長い足をそちらへと向ける。ついでとばかりに、料理のためにくくっていた髪をほどく。
あまり親しくない人間と話をするのを好まないディラスであるが、世話になっているアーサーの頼みならば話は別である。
が。
どんな人間がきたのかと、少し緊張していたディラスは、目の前にあらわれた光景に眉をさげた。意識が、ほっと緩む。強張っていた身体の芯が、とける。
はたしてそこにいたのは――頭の両側の高い位置で結った長く美しい髪をもつ、この街で姫と慕われる少女であり、ディラスを救ってくれた愛しく可愛い恋人の、フレイであった。
なにをやっているのかと、よくよくみてみれば、アーサーの執務机の後方にある本棚の一番上の段に、本を戻そうとしているようである。あまり背の高くないフレイにとって、そこは届きそうで届かない場所であるらしい。
つま先立ちをして、一生懸命に手を伸ばす後姿に、ディラスは口元を緩めた。可愛いと、素直に思えば、ふわりと胸の奥があたたかくなる。
愛しいという感情を、フレイはディラスに教えてくれた。感謝してもしたりないくらいである。おかげで、世界は優しいもので溢れていると知ったし、美しく離れがたいものであることにも気付けたのだから。
ああそういえば、とディラスは声にはださずに納得する。
フレイはアーサーやキールに本をよく借りている。数日前にも、本を借りていた。今日、読み終わったそれを返しに来たものの、アーサーがいないので、なんとか自力で本棚にもどそうとしている――そんなところか。
おおよその見当をつけたディラスは、ゆっくりとフレイの背後にまわった。
「これをここに戻せばいいんだな?」
「ひゃっ?!」
左手を本棚について、右手でフレイの手から本をとりあげたディラスは、空いている隙間にそれを押し込んだ。
これで間違いないか? と、確かめてもらおうと見下ろせば、ひどくびっくりした顔をしたフレイがディラスを見上げていた。
「フレイ?」
「……っ! ……あ、あの、あ、ディラ、ス……!」
めずらしく狼狽えた様子をみせて、フレイが顔を赤くしていく。
「どうした?」
「あ、あの、ちょ、ちょっとおどろいちゃって、」
そうして、フレイはゆるゆると俯いてしまった。さらりと、前髪がその表情を覆う。
「ああそうか、悪い。先に声をかければよかったな」
「き、気にしない……で」
もじ、と俯いたフレイが、スカートを握りしめるのを、ディラスは不思議な思いでみつめた。なぜこんな反応をされるのか、よくわからない。
妙に居心地の悪い空気に、ディラスは息苦しさを覚えた。静寂は好きではあるが、フレイとの沈黙――とくにこういう雰囲気には、まだ慣れていないのだ。無神経な自分が、何かしてしまったのだろうかと不安になる。
「ディ、ディラスって背、高いね……身体も、おっきいし……」
唐突に、消え入りそうな小ささの震える声で、フレイがそんなことをいう。
「ああ?」
何をいまさら、とディラスは眉をひそめ――あ、と間の抜けた声を漏らす。
本棚と自分の身体にはさまれて、フレイを追い込んだ形になっていることに、いまさらながらに気付いた。
もしかして――フレイは、怖かったのだろうか。
やってしまった!
そう思い至った瞬間、ざあっとディラスから血の気が引いた。
恋人同士になって、よい関係をすこしずつ築いてきたところであるというのに。自分の乱暴な振る舞いで、フレイに恐ろしい思いをさせるなんて。
もしもこれで愛想を尽かされたりでもしたら、ディラスは一生立ち直れない。釣りのできる静かな湖畔のほとりで一生引きこもるだろう。そんなのはごめんだ。
ばっと、ディラスは弾かれたように飛び退いた。
「え? ディラス?」
いきなり距離をあけたディラスに、顔をあげたフレイがきょとんと瞳を瞬かせる。
「悪い! お、俺、別にお前を怖がらせるつもりはなくて、だな……! ただ、手伝おうって、そう思っただけで……!」
「……ふふっ」
いきなりしどろもどろに言い訳を始めたディラスに、ぽかんとした顔をみせたフレイが、小さく笑った。
予想していた反応と違う。
頭の上に疑問符を並べはじめるディラスの前で、フレイがさらに顔を赤らめた。ぎゅっと小さな手が重ねられて握りしめられる。
「ごめんね、そうじゃなくて。後ろからディラスの手が伸びてきたとき、すごくびっくりしたのは間違いないんだけど」
あのね、とフレイが続ける。
「本棚についたディラスの手が大きくて、私が届かないあんな高いところにも、簡単に手が届いちゃって……振り向いたらディラスの身体で向こうもみえなくて……」
そこで、すう、とフレイは息をすって、深く吐き出した。そっと、胸に手があてられる。そこは、彼女が生きている証を刻む心臓の真上。
「あのね、すごく、どきどき、しちゃって。だから、ディラスが悪いわけじゃないんだ……私が、格好いいなって思っちゃっただけ、だから」
言っているうちに恥ずかしさが募ってきたのか、ゆっくりとフレイの瞳が伏せられていく。小刻みに震える長い睫とその言葉の内容に、ディラスもまた、フレイに負けず劣らず頬を紅潮させた。
「お、おま……! そういう、ことを……」
かああ、と自分の意思とかかわりなく熱をもっていく頬を隠すように、ディラスは手で顔を隠した。
「ご、ごめんねっ! 気にしないで! ――あっ、!?」
「!」
居た堪れなくなったらしいフレイが、ディラスの右側から執務机を回り込もうとした瞬間。
フレイの小さな手が、棚の上に置かれたアーサーの眼鏡入れをひっかけた。
かしゃん、とそこに納められていた凝った意匠の眼鏡が、床へと落ちた。そのまま、滑るようにして椅子の足の間をとおり、机の下へと消えていく。
「わわっ?!」
慌ててしゃがみこんで、眼鏡を拾おうと膝をつくフレイは、アーサーの大切なものを傷つけてしまったのではないかと危惧しているのだろう。
シャオパイならば日常茶飯事だろうが、フレイはこんなことをめったにしでかさない。つまりそれほど、動揺させてしまっているのだ。ほかでもない、この自分が。
責任を感じたディラスは、フレイのそばに同じようにしゃがみこむと、奥を覗き込む。
「ディラス?! いいよ、私が……! っ、」
「いや、俺が悪い――っ!」
二人揃って腕をのばし―― 一足さきに眼鏡を拾い上げたフレイの手ごと、ディラスはそれを掴んだ。
びくん、とフレイが震える。おなじように、ディラスも身体を震わせる。
「「……」」
数秒、かたまったあと。
双方無言のまま、ディラスはフレイの手ごと、自分の手をひきもどす。
互いに熟れ落ちそうな果実ほど顔を赤くしたまま、ふたりそろってへたりと床に腰を下ろした。
その間、フレイは何も言わず。ディラスも、何も言えなかった。
緊張と焦燥のせいで、口と喉が砂漠にでもなったかのように、水分が消え去っていく。これでは声を出すのもままならないと、ディラスはなんとかわずかに残った唾液を飲み込んだ。
せめて手を離そう。そうして、名を呼んで、謝って――そう、動きの鈍い思考回路で、とるべき行動を必死に思い描く。
と。
「ディラス……どうしよう」
フレイが震える声で、呼びかけてきた。惹きつけられるように視線を向ければ、どこかほうけたような表情で、フレイがゆっくりとディラスをみた。その大きな瞳には、甘く揺れる光が宿っている。
花びらのような可憐な唇が、ふるえた。
「心臓、こわれちゃいそう……」
眩しいくらいに輝いていて、誰にでも明るい笑顔を向けるフレイが、自分ではどうしようもない感情に揺さぶられて、瞳を潤ませている。
この、ひどくうるさく鳴り響いているディラスの鼓動と同じように、フレイもまた胸を高鳴らせている。
しかもそれが、自分への恋心からきている。
その事実に、眩暈を覚えるくらいの幸福を見出したとき、ディラスの理性を支える柱がひとつ、崩れた。
「フレイ……!」
「!」
たまらなくなって、ディラスは繋いでいた手を強引に引き寄せて、フレイの細い体を掻き抱く。
ここが、世話になっている青年の大切な仕事場で、しかも、彼が懸命に仕事を行っている机の陰であるという事実に、後ろめたさを感じないわけではない。いまだって、まだフレイはアーサーの眼鏡をもったままだ。
きっと、次にアーサーと顔をあわせたとき、自分はひどい心苦しさを覚えるだろうと、ディラスは思う。
だけど、止められない。フレイへの愛しさが、そんな未来に味わうだろう後悔や羞恥など、たいしたものではないと切り捨てる。
今、ディラスはフレイに触れたくて、どうしようもなかった。
「ディラ、ス……」
すき、と。生まれて初めて覚えた言葉を繰り返す幼子のように、フレイがディラスの胸元で甘く囁く。
こんないじらしいことをされれば、決定打だ。
「ああ、知ってる。俺も……」
すぐそこにある小さな可愛らしい耳に、ディラスもまた「すきだ」と、吐息とともに吹き込んだ。
ぴくん、と震えたフレイの肩を掴んで、そっと引き剥がせば、いままで重なっていた胸元に、フレイの手が添えられた。
真っ赤で、今にも泣きだしそうな顔をして。恥ずかしさを堪えた健気なフレイの目蓋が、帳のように降ろされていく。触れてほしいと、無言のままに願われて、応えない男がいるものか。
ディラスは顔を傾け、フレイへ顔を寄せる。
ふわり、フレイから漂う香りに陶然としながら目を閉じたディラスの唇が、世界で一番愛しい唇に触れるまで、あと、一秒――
翌日、ディラスとフレイが、いつもどおり爽やかに挨拶をしてくるアーサーに対し、顔を真っ赤にして挨拶を返したのは、いうまでもない。