誰も知らぬ祝福を、愛し君に捧ぐ

Caution!!
レオンとフレイのお話です。しかし、恋人であったり夫婦であったりはしません。
かつて恋人同士でしたが、今は違います。フレイは別の婿候補のいずれかと結婚しています。おまけに妊娠してたりしてます。
レオフレじゃないとだめです、そういうのは無理ですっていう方は、ここで引き返されたほうがよろしいかと思います。レオンがあまり幸せなお話ではありません。
読後の苦情は一切お受けいたしかねます。

 

 

 彼女を泣かせたのが、遠い昔のことのように思い返される。
 自分がもともと生まれた時代のことを思えば、瞬きひとつほどの昔でしかないというのに、不思議なものだ。
 しかし、ひとたびその記憶を呼び戻せば、まるで、いま目の前で泣かれているように、胸が痛む。人より幾分も機能の良い耳に、引き攣った鳴き声がこだまする。
 思えば、彼女が声をあげて泣いたのをみたのは、あれが最初だった。そして最後になった。
 春の風に吹かれ、柔らかな陽光降り注ぐ湖のほとりで、なにするでもなく立ち尽くしていたレオンは、ゆっくりと瞳を開いた。
 深く広がる青い湖は、命芽吹き、花開く季節にふさわしく、きらきらと水面を輝かせている。この風景は、遠い遠い過去となんらかわりはない。
 しかし、確実に人の身の上で、時間は流れていっている。
 生まれた時代もそうだったが、こうして守り人の任を解かれてから、ことさらそれを思い知った。
 深い眠りから覚めれば、街は変わり、人も変わり――レオンを知るものも、神竜である友だけとなっていた。
 時の狭間に縫いとめられて、眠る前となにひとつ変わらずにいたレオンの目の前には、見知らぬ世界が広がっていたのだ。覚悟はしていたが、戸惑わなかったわけがない。
 だが、ここに住む人々の優しさは昔と同じだった。友も、かつてとなにもかわらず接してくれた。
 そしてなによりも、自分をこの世界へと半ば強引に連れ戻した彼女――フレイがいたから、レオンはこの街で生きてけると確信した。
 アースマイトであるということを差し引いても、彼女のまっすぐな魂は強く美しく、なによりも輝いて見えた。あの異空間で、泣き笑っていた彼女は、鮮やかにレオンの記憶に痕を残していたのだ。
 そんなフレイに惹かれていったのは、さしておかしなことでもなかった。
 レオンにも、なにくれとなく声をかけてくれた。出会ったときから気になっていたこともあって、フレイを目で追えば、なるほどと納得するほどの魅力に溢れていた。
 この街にいる年頃の男たちにとって、彼女は羨望の的だった。口にせずとも、恋い焦がれていた男たちは大勢いただろう。レオンもまた、そのうちの一人だったにすぎないのだ。
 しかし、レオンは胸のうちに宿ってしまった恋という炎に、すべて身を任せることはできなかった。
 果たせなかった約束が、レオンを縛り付けていた。一歩踏み出すこともままならず、だけれど、フレイを愛しいと想うことは止められず。
 フレイが何も知らず近くへ寄ってきたときに、戯れを装って手を伸ばし、からかうように気持ちを隠すような言の葉を口に乗せるだけだった。好きだ、と、伝えることは決してなかった。
 だが、彼女が選んだのは――どうしてか、レオンであった。
 あれも、春の日であった。
 アーサーからの依頼で、翻訳の仕事のために部屋にいたときだ。
 訪ねてきたフレイが、「好きです」と、いってくれた。
 そのときの心情は、長く時間を経たいまでも言葉にあらわしようがない。ありとあらゆる「よろこび」がレオンを支配した。
 すぐさまその柔らかな身体を抱きしめてキスをして、「俺もだ」と言いたかった。だけれど、やはりそのときにも、あの日あの時の、幼馴染の顔が脳裏を過った。それは「おそれ」となって、レオンの心に冷や水を浴びせた。
 伸ばしかけた手は宙でとまり、結局、レオンはなにもできなかった。
 返事をするまでに一日の猶予をもらい、翌日、城の前で待ち合わせてレオンは自分の気持ちを伝えた。
 怒るか泣くか、それとも呆れられるか。レオンは、フレイがみせるだろう態度を、あらかじめ予想していた。だが、思ってもみなかった反応を、フレイはみせた。
 なんでもないような顔をして、将来の約束などできない男と、それでも恋人にはなれるのだと、いってのけた。
 その大きな瞳の奥が、痛々しいほどに揺れていた。結婚はできずとも、ともにありたいと願う必死な色が綺麗だと思った。
 純真なフレイの恋心を傷つけるという自覚はあった。だが、それがみえぬふりをして、レオンはフレイと付き合うことにした。
 それが、かりそめでも、いつかは失われるとわかっていても、この一瞬だけフレイを自分のものにしたかった。レオンは、己の欲望に負けたのだ。
 これが、かつて風の竜神を救うために身を捧げる献身的な神官と讃えられた男が、恋にまどったゆえの末路であった。
 それからしばらくは、夢のような日々が続いた。
 フレイはレオンだけをみていて、レオンもまたフレイだけをみていればよかった。
 互いの欠けた時間と記憶を埋めるように、その代わりとなるように、セルフィアの街を二人で歩いた。どこにいっても、なにをしても、フレイと一緒にいるだけで、楽園にいるような幸福感を覚えていた。
 幸せ、だった。
 そう。『だった』のだ。
 今、レオンの傍らには、あのぬくもりはない。
 フレイとの幸せを重ねれば重ねるほど、世界の底へと沈むような罪悪感に苛まれていた。笑いかけられるたびにたまらなく嬉しくて、それとおなじくらいに息苦しくて、胸を掻き毟りたかった。泣き叫ぶことができたなら、どんなにか楽だったことだろう。
 しかしそれもできず、レオンは悩んだ果てに、付き合いはじめてから季節が一回りした頃、これ以上はともにいる意味がないと、別れを切り出した。
 逃げたのだといわれればそうだろう。レオンは、背負うものの押しつぶされたのだから。
 あの日も、今日のようにセレッソの花が舞っていた。
 はらはらと、いずこからともなく降る薄紅よりもなお鮮やかに顔を染め、大きな緑の瞳からは大粒の涙を零し、か細い声でフレイは何度も、何度も繰り返した。

 いやです――
 いっしょにいてください――
 私、なんでもします、なんでもできます――
 レオンさんのためなら、なんだって――
 だからお願いです――
 私を、はなさないで――

 きっと、フレイはわかっていたのだろうと思う。
 レオンが、過去のなにかに囚われていること。それを吹っ切ることができないこと。
 一度たりともフレイにその過去を話したことはない。だがそれでも、感じるものはあっただろう。
 ききたいけれど、きくのがこわい。そんな顔をして、フレイがレオンの様子をうかがっていることを知っていた。きっと、すべて話してくれる日を、フレイは待っていてくれたのだ。
 どうかしたか、と空惚けてきいてやれば、不安そうな顔をわずかにみせた次の瞬間に、フレイは花開くように笑っていた。
 なんでもありません! そう元気よくこたえてくれるフレイに、レオンはずっと甘え続けていた。そうか、とその柔らかな髪ごと頭を撫でて、誤魔化していた。
 だが、わかっていた。それは、レオンが得るべきではない安らぎという名の、ぬるま湯であったこと。
 それは、やがて冷める温かさ。そこに居続けたならば、いつかは体温が奪われていく。そうして死ぬ勇気を、レオンは持てなかった。フレイとともに、沈んでいくことはどうしてもできなかった。道連れにすることは、できなかった。愛しているから、そんな道をフレイに与えることはできなかった。
 だからこそ。レオンは別れるべきときを、みずから決めた。
 思い出はずっと綺麗なままで、時を重ねるごとに大切なものになる。だから、生きている人は、死んだ人に勝てない。その人は、優しい思い出だけに彩られているから――そういっていたのは、誰だったか。
 幼馴染との思い出は、確かに優しい。だが、終わりは優しくなんてなかった。
 泣きじゃくるフレイに、それでも別れようと――どうか幸せになってほしいと、そう伝えたときのように、決して優しくはなかった。
 そうして、レオンとフレイが別れてから数年後に、フレイはひとり青年と付き合いを始め、その一年後に結婚した。
 さらにその翌年には、フレイが新たな命を授かったという知らせが、セルフィアの街を駆け巡った。
 それを、レオンはただ見守っていた。誰かの恋人となり、妻となり、母となったフレイをただひたすらに、見守っていた。
 愚かだ。こんなにも後悔するくらいなら、なぜあんなことをしたのかと自問せずにはいられないくらいに、愚かだと思う。
 ふ、と水面を滑るように渡ってきた風を吸い込むように、深呼吸をする。
 この清らかな風が、すこしでもこの感情をさらってくれればと思ったが、そう簡単に事は運ばなかった。
 土が、靴底に踏まれる鈍い音が、レオンの耳に届く。
 ここは街の人々にとっても憩いの場所である。誰かがきたのだろう。
 物思いに耽りすぎていたレオンは、そちらを見遣って、目を瞠った。
「レオンさん?」
 まるで、レオンの記憶と恋慕から紡ぎだされた幻のように、フレイがすぐそこに立っていた。
「……フレイ?」
「こんにちは、レオンさん」
 夢か現か、たちの悪い幻術か、とも思ったフレイは、まごうことなき本物であった。
 にこり、とかつてのような笑みが浮かべる彼女の、いくぶんかふっくらとして目立ちはじめた腹が、現実であることをレオンに突き付けている。
「……いいのか? 妊婦がふらふら出歩いて」
「ナンシーさんには、少しくらい運動してもいいのよって言われてますから、お散歩です」
「そうか」
 一瞬にして乾いた口の中を誤魔化すように、茶化した言葉を紡いだレオンに向かって、フレイはなおも笑った。
 そのままゆっくりと、フレイはレオンの隣に立った。こうして、ふたりきりで肩をならべるのも、久しいことのように思う。
 ゆらり、と羽扇をゆらめかせながら、レオンは唇の端を持ち上げた。
「旦那には言ってきたのか?」
「いいえ。定期健診をうけて、そのままここにきましたから」
「なら、今頃心配して探してるんじゃないか?」
「そうかもしれませんね」
「これはこれは、悪い奥方だ」
「あははっ」
 ころころと、フレイが笑い転げる。きっと、彼女の脳内には慌てふためく夫の姿でも、描き出されているのだろう。
 そうして、他愛もない言葉を交わす。
 今日の天気のこと。ここ最近の畑での仕事のこと。出荷した野菜のこと。レオンの翻訳した本が高い評価を得たこと。そのおかげでここ最近、仕事が順調であること――そして、フレイの子供のこと。
「無事に産まれてくることを、いつも祈っている」
「わあ! 神官のレオンさんにそういってもらえると、安心できますね!」
「もと、だがな」
 少女のように頬を薔薇色にそめて、嬉しそうにするフレイに言い聞かせるように付け加える。
「大丈夫です! 竜の神官ってお役目はたしかにもうないですけど……レオンさんは、立派な神官ですよ」
「……」
 しかし、フレイはにっこりと笑ってそういった。
 それがまるで、レオンは神官だから手の届かない存在なのだと、いわれているような気がした。もしかしたら、そういう風に納得することで、フレイは自分との関係に区切りをつけたのかもしれないと、思った。
 ふいに、たまらなくなった。そうじゃないのだと、いいたかった。
 自分はアンタに惚れた、ただの男だと伝えたかった。
 でも。
「なあ、フレイ」
「なんですか?」
 穏やかなフレイの声に、唇が震える。
 はらはらと降る花びら。美しいはずのこの春の景色が、ひどく物悲しい。どうしていつも、いつも――自分の心の欠片を置き去りにするのは、この季節なのだろう。
「俺は――」
 レオンは、ゆっくりと一度息を押し留めた。いいたいことは腹の底へ、いうべきことは唇へ、引き攣る苦しい喉でレオンの想いは別たれていく。

「アンタが、好き……――だった」

 過去の想いだと口にしたのは、これから母となる恋しい女への、せめてものはなむけ。
「――はい。私も、」
 フレイが、微笑む。セレッソの花びら舞う世界で、それは涙を堪えなければいけないくらいの、貴い笑みだった。
 少女から女へ、そして母となる強さを秘めて、フレイが美しい笑みを可憐な顔に刻む。

「レオンさんが好きでした」

 そこに、レオンが抱くような後悔や口惜しさは、欠片もなかった。
 ただ、ただ――輝かしい。
 かつて、長の眠りから覚めたとき、一瞬でレオンの心を吸いつけたときと同じ。否、それよりもずっと素晴らしい。
 そんな彼女に、すべてさらけ出すことができたなら。
 いま、そのすべてを手にしていたのはもしかしたら、自分だったのだろうか。
 華奢な身体から溢れ零れるくらいの愛を受けとるのは自分だったのだろうか。
 その胎内に宿る子は自分の――そこまで考えそうになった自分を、レオンは鼻で笑った。
 自分は過去にとらわれていた。頑なすぎた。
 あのころにはもどれない。レオンが生まれた時代に、懐かしいかの国に、もどれないのと同じように。
 先日、レオンカルナクでみつけた最後の手紙――すっかり住処となった小鈴の部屋の机の上に置いてきた、古からの手紙をおもう。

 レオンが、マリアの想いと願いを手にするのは、遅すぎた。

 もしもフレイと恋人であるときに、彼女からの手紙を目にする機会があったなら。
 彼女が誰かと幸せに生き、過去の人となっていたことを知ることがあったなら。
 そうして、フレイにこの心のすべてを預けることができていたなら。
 未来はきっと、違うものになっていただろうに。
 だが、そんなこと考えても意味はない。自分の未来は、こういう結末を迎えた事実に、かわりはないのだから。
「フレイ」
「?」
 きょとん、と目を瞬かせる幼げな仕草に淡い笑みを引き出されながら、レオンは手を伸ばした。
 かつて、抱きしめた身体。いくども梳いた長い髪。なんども撫でた小さな頭。なにもかも懐かしく、それでいてまだこんなにも愛おしい。
 愚かで素直な己の心に従えば、この穏やかな関係は終わりを告げる。そうしたくもあり、かといってそうすることもできない。意気地がない。
 フレイが思っている以上に、レオンという人間は弱く、脆かった。
 そうして、レオンは不思議そうな顔したまま、じっとしているフレイの髪にひっかかったセレッソの花びらをひとつ、そっととりあげた。
 ぱあ、とフレイの顔が輝く。
「とってくれたんですね。ありがとうございます」
「どういたしまして」
 笑顔で丁寧に礼を述べる律儀なフレイに対し、レオンもまた笑いながら言葉を返す。
 この距離が、自分たちに与えられた現実。自分が選んだ選択肢が紡いだ未来。
 それを思い知りながら、レオンは手をひいた。せつなさに、心が引きずられる。さびしさに、魂が悲鳴をあげる。
 でも、フレイのためをおもうなら。
 レオンができることなど、もう、なにもないだろう――ああ、でもひとつだけ、ある。
 そう思い至ったとき。

「――……、――!」

 遠くから、フレイを呼ぶ声が聞こえてきた。
 その音の持ち主が誰かすぐわかったのだろう。
「あっ……!」
 幸せそうに顔を綻ばせたフレイが、そちらへと向かって歩き出す。
 身をひるがえすフレイの髪が、レオンの前で綺麗な半円を描く。レオンを置き去りにするその髪を、その細い手を。薄い肩を、柔らかな身体を。とらえてきつく抱きしめたくなる衝動を、レオンは奥歯を噛みしめて耐えた。
 そんな資格も覚悟も、レオンは眼を背けて捨ててしまった。
 捨てたものが、その手にもどることはない。己の意思で、手放したものであればなおのこと。
 フレイの背を、レオンは静かに見送る。
 が、ふいに遠ざかる姿が立ち止まった。
 くるり、前髪をそよがせて振り返ったフレイが、わらう。
「じゃあ、また! レオンさん!」
「……!」
 蝶が舞うように振られる白い手袋に包まれた手に、レオンは己が手をあげて応える。強張ってしまっていた顔を、むりやりに融かした。
「……ああ、またな」
「はい!」
 そうして、フレイは去っていく。
 迎えにきた、愛しい夫のもとへと一目散に駆けていく。
 走ると危ないと、慌てて諌める夫の声が、レオンのもとへと風にのって届いてくる。
 ころころと笑いながら、心配性だとからかうフレイが、その腕に己の細い腕をからめた。
 仲睦まじくよりそって、ふたつの影はセルフィアの街に向かって小さくなっていく。
「――――――」
 ゆっくりとレオンは唇を動かした。

 ――ふたつの星が離れることなく、高き空を巡りつづけるように。
   いまも、これからも、とこしえに、夜となく昼となく輝き続けるように。
   汝らに、幾千、幾万の幸運あれ。永遠を司る竜の加護が、あらんことを――

 いまはもう誰も知ることのない古の言葉で、これからもう誰にも贈ることのない祝福を言霊にする。
 ごう、と風が吹く。その祈りを、世界にあまねく届けるように。
 レオンの足元にうずくまっていた花びらが、遥か上空を目指して吹き上がってゆく。
 視界を覆っていく、優しい色をした闇のような花吹雪に身を浸し、重ねて祈る。
 それが、いまのレオンに許された、ただひとつの行い。
 かすむ視界のなか、愛しい女の姿が消える。
 手放さなかった、フレイの髪に触れていた幸運な花びらに口づけて――そっと風に乗せる。
 想いを断ち切れないとわかりながら、レオンは静かに瞳を閉じた。